お題『問題が多ければ多いほど、トラブルが大きければ大きいほど、小説は面白くなる』_『世界の終わりと貴腐ワイン』

『世界の終わりと貴腐ワイン』


 世界の終わりを一緒に見ようと約束していたから、私は二人で住んでいた平屋に戻ってきた。

 かつて六年ほど住んだ平屋の庭は、冬の寒さに耐えきれなかった枯れた雑草で埋めつくされている。私は塗装のはげた玄関に近づくと、鍵を取り出した。鍵のあく硬質な音が、冬の空気の中に響く。同居人と喧嘩別れのようになってこの家から飛び出したのに、彼女は鍵を変えないでいてくれたようだった。引き戸を開ける。がたついた戸は以前と変わらず、ずいぶんと開けにくかった。

 埃と、淀みと、停滞の匂いがした。

 もうライフラインは止められているから、明かりも暖房もついていない。暗い廊下の先、女が一人体育座りで座り込んでいた。

「あんたも弾かれたか」

「お互いコロニーに入れるなんて思ってなかったでしょ」

 喧嘩別れしたのが嘘のように、言葉はするりと口から滑り出た。

 久々に見る神崎梓の姿は、ずいぶんと様変わりしていた。彼女は所謂お洒落も私生活も仕事も手を抜かないバリキャリだった。体のラインが出る服装と、艶のあるエナメルのヒールを愛していた。それが今ではダウンコートでもこもこに膨れ、雪だるまになっている。

「寒いでしょ。飲む?」

「酒? 嘘でしょまだ残ってたの」

 クリスマスに飲もうと二人で買って、とっておいた酒だった。梓は酒瓶をふらふらと揺らす。その中身は半分以上減っていて、ちゃぽちゃぽと可愛らしい音を立てた。

 梓が手渡してくる、割れていないワイングラスに金のきらめきをもつ液体がとぽとぽと注がれる。甘い、蜂蜜のような香り。それだけで、その酒が二人のとっておきの貴腐ワインだと分かった。

「ねえ。美世子、世界の終わりの日なんだよ。一番良いワインで、この日を祝おうよ」

 梓の酔いの回ったとろけた口調と、貴腐ワインの香りに脳がくらくらした。

 世界の終わりの日が、こんなロマンティックなものになるとは、思ってもみなかった。


 疫病が流行りだしたのは、私と梓がちょうど貴腐ワインを買った、年初のことだった。

 最初はインフルエンザみたいなものだと思われていた疫病は、今までの医療体制ではどうにもならないほど急速に広まった。政府は打てる手を打って、打ち尽くして、最終的に悪手をとった。健康な人間をせめてコロニー内に隔離しようとしたのだ。

 それは選民として、糾弾をうけ、世界の荒廃を早めた。

 そうして、私たちの知る日常は終わりを告げた。

 政府は結局政策を撤回しなかった。健康な人間は滅菌されたコロニー内へいけたが、もちろん収容人数は限られていた。私と梓はそれにあぶれるだろうと理解していた。私たちは若い頃にちゃちな盗みで前科がついていて、コロニー内には前科のある人間は入れないきまりだったからだ。

 そうしている間にも、たくさんの人が死んで、私たちはある日喧嘩をした。原因は覚えていないから、降り積もった鬱屈が何かのきっかけで吹き出してしまったのだと思う。私と梓は、荒れた都心から喧嘩別れの形でばらばらに逃げ出したのだ。

 当時、そういった行動に走ったのは私たちだけではなかった。急速な変化にパニックになって疎開しようとする人間はたくさんいた。

 結局それが疫病を各地に広めることになるとは、馬鹿な私たちには思いもしないことだった。

 

 今日、大晦日の24時、コロニーと呼ばれる楽園は閉じる。楽園から弾かれた私たちは、これから人の手を失った、滅びるだけのこの街で生きていかなければならない。ワイングラスの中の、黄金の液体を揺らす。ワイングラスの内側に広がる芳香が、現実感を失わせる。

「ねえ。梓」

「なに。美世子」

 会話が懐かしく、どこかがくすぐったかった。

「なんで私とこの日を過ごそうと思ったの」

「なんでって」

 梓は馬鹿を見る目で私を見た。そうして「あんた寂しがりじゃん」とだけ私に告げたのだ。

 その答えがなんだかたまらなく嬉しくて、私の口元は思わず笑みを浮かべていた。

「梓」

「なに」

「乾杯しよ」

 そう言って私はグラスを掲げる。グラスごしの窓に、低い位置の月が見えた。まるでそれはワイングラスを彩る豪勢なデコレーションだった。

「何に乾杯するの」

「世界の終わりと、これから続く人生に」

 これまでの世界は今日の24時に終わるが、それでも私たちは生きなければいけないのだ。

 時計はもう23時59分を指していた。

 チン!と硬質な音が平屋の粉っぽい空気に広がる。

 世界の終わりに飲む貴腐ワインはいけないくらい甘くて、脳がくらくらした。



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