一上銅華の導火線

女良 息子

第1話 八月第四週(問題編)

 八月第四週。

 私立生糸高校しりつなまいとこうこうは夏休みが終わり、新学期を迎えていた。

 とはいえ、今日の予定は始業式だけであり、授業が開始されるのは明日からだ。なので、午後になると生徒たちは解放され、各々の放課後を過ごしていた。

 日光が容赦なく降り注ぐグラウンドでは二十面体の球体を蹴飛ばす集団や、牛から剥いだ皮で作った手袋で片手を覆った集団が汗を流して活動している。敷地内の隅に位置する武道場からは、個人用サウナとしか思えない衣服を着用した集団が奇妙な叫び声を上げているのが聞こえた。

 あんなに暑くて辛そうなのに、よくやるものだ。流した汗の量を競うゲームでもやっているのだろうか? 

 教室棟から出て外を歩いていた私は、太陽から逃げるようにして一棟の校舎に這入る。理系の授業で使う教室が集められた特別教室棟だ。

 名前に『特別』なんて単語が入っているけども、そこの気温は普通に暑い。いや、まあ、屋内なのだから当然、外と比べると少しは涼しいのだけど、所詮は『少し』だ。体感的にはまだ暑い。

 私は頬を伝う嫌な汗を手の甲で拭いながら、生物室のすぐ横にある階段を上った。

 一歩、二歩と歩くだけで途轍もない体力を消費してしまう。足の動きはいつもより0.75倍くらいの速度だった。一気に五十歳くらい年を取ってしまったんじゃあないかと思うくらい体が重い。

 階段を登るだけでこれほどまでの疲労を感じるのだから、明日以降から始まる本格的な授業をやっていけるのか甚だ疑問だ。そもそも、こんなに暑いのに新学期が始まるだなんて、学校の運営陣は何を考えているんだ? たしか、夏休みがある理由は、暑すぎて学校生活に支障を来すから……じゃあ、なかったっけ? だとしたら、我が校の現状は夏休みの理念に反していることになる。それは大変だ。この由々しき事態を喧伝し、みんなと力を合わせて今の教育界に蔓延る問題を──


「あー、やめやめ」


 あまりの暑さに脳内の回路がオーバーヒートを起こしかけたので、思考を中断する。

 こういう時に『思考の中断』という選択肢を取り、実行できるのは我ながら中々の長所だと思っている。というより、出来損ないの私の長所と言えるところなんて、そのくらいしかない。

 ここでようやく二階に到着する。

 目当ての部屋があるのは三階なので、あともう一セット階段を登らなくてはならない。私は湿った額を拭いながら、気合を入れて足を進めた。

 先ほど熱中症を起こしかけた頭脳に休暇を取らせたばかりだけど、だからといって頭がすっきりするのかというと、そんなことはなく、相も変わらずに私を取り囲む熱気によって、じわじわと温められていた。カマドに入れられたピザはこんな気分なんだろう。

 髪を伸ばしていなくて本当に良かった。もしも私のヘアスタイルがショートではなくロングだったら、感じる蒸し暑さは今の比ではなかっただろう。髪型はロングなのに脳がショートしてしまう。想像するだけでぞっとした──いや、この場合は『むわっとした』になるのか?

 私の肉体の司令塔を苛むのは、気温だけではない。蝉の声は鼓膜を無遠慮に叩くし、皮膚に張り付く汗の感覚は不快極まりない。

 こんな環境にずっといたら、頭がおかしくなってしまいそうだ。

 頭がおかしくなって、頭が沸騰して──頭が爆発してしまいそうだ。


「……爆発、か」


 迂闊な言葉を使ってしまったことに気付く。

 爆発──今の私にとってそれは、あまり使いたくない言葉だ。

 だって不吉だからね。いや、まあ、爆発なんて言葉は誰にとっても不吉で、あまり使いたくないものだと思うけど、私にとっては特に不吉なのである。

 特別不吉なのである。

 と、そこで丁度、私は三階の床を踏んだ。

 それ以上先に続く階段はない。

 いや、正確に言えば、屋上へと繋がる階段があるのだけど、そこは安全の観点から封鎖されていた。階段への出入りを封じているロープは、その気になれば超えられそうだけど、その先にある扉には鍵がかかっている。そもそも学校の風紀を乱してまでそんなことをしようという冒険心を、私は持ち合わせていない。別に屋上から飛び降り自殺をしたいわけでもないしね。

 私はそのまま廊下を進み、ある教室の前で止まった。扉の上に掲げられているプレートには『化学準備室』と書かれている。主に化学の授業で使う機材や薬品の倉庫として使われている部屋だ。

 文系の私にとって、縁のない部屋である──ただし、それは先週までの話だ。

 今の私はこの部屋に、この部屋で待ち受ける人物に用がある。

 別に進んでやりたい用事ではではないし、なんならやりたくないくらいだけど、それでも私がやらなくてはならない、私だけが任された用事だ。


「…………」


 陰鬱な気分になりながら、準備室の扉に手をかける。鍵は当然のように開いていた。


「やあ」


 部屋の奥から声が飛んできた。校内のどこかで奏でられている気だるげなホルンの音では比べ物にならないほどに綺麗な声だった。流れる川のように美しい音色は他者の心に開放的な清澄を齎すことだろう。

 しかしながら、今現在その声を聴いている私が、そんな爽やかで涼しい気分になることはなかった。いや、体感温度が下がりはしたが、それは恐怖によるものである。

 聴覚ではなく、視覚で感じた恐怖によるものだ。

 知っていたし、前に一度見たことさえあったけど、こうして改めて目にしてみると恐怖を感じずにはいられない。

 自分が在籍している学校の片隅に、爆弾がある光景──そんなものを見れば、誰だって肝が冷えるに決まってる。

 化学準備室の奥には金属製の球体があった。サイズはバランスボールくらい。円周部分から四本の円柱が生えており、それらによって床に固定されている。

 そんな奇妙で武骨な物体の横には、対照的に華奢な少女がいた。腰掛けられているパイプ椅子から玉座さながらの風格を感じられるのは、彼女が有する雰囲気による錯覚だろうか?

 闇よりも黒い長髪を持ち、光よりも輝く美貌を持つ少女。

 名を、一上いちじょう銅華どうか

 生糸高校の生徒であり、私と同じ三年D組のメンバーであり。

 そして。

 学校ひとつくらいなら容易く吹き飛ばせる爆弾を作り上げた天才児だ。

 爆弾魔は口元に薄い笑みを浮かべると、


「遅かったですね長瀬さん」


「そりゃね。暑さもあるけど、この部屋に来ようとしたら、どうしても足が遅くなるに決まってるでしょ」


「ふふ。それでも私の顔を見るためにここまでやって来てくれたなんて、嬉しいな。嬉しいですね。嬉しいです。美少女冥利に尽きます」


「違う」


 一上の不愉快な勘違いを否定し、私は続けてこう言った。


「一上さん、私がこの部屋に来たのは、あなたの顔を見るためでなければ、私自身の意思でもない──


 一上の隣に佇む金属製のオブジェクトを見やる。

 こんなものがなければ私はこの部屋に来てないし、爆弾魔と対峙していないのだ。


「ぐすん、酷いなあ長瀬さん。人のことを頭のおかしいヴィランみたいに言うなんて。酷すぎて涙が出ちゃいます」


 私の言葉を受けた一上は悲しそうな顔をした。むろん、それが彼女の生の感情ではない、作られた表情であることは分かっている。

 分かりきってる。

 しかし、それでも思わずどきりとさせられるほどに、迫真の演技だった。

 この女……自分の顔の良さを十全に理解して、十分に利用してやがる。


「──と、まあ、茶番はこのくらいにして」


 私が湧き上がりそうになる罪悪感を必死で食い止めていると、一上はいつの間にか演技をやめていた。

 その美貌には先ほどまであった泣き顔に代わって、蠱惑的な微笑みを浮かべている。

 

「ここに来たということは、手ぶらってことはないんですよね、長瀬さん。は、あなたが化学準備室に来訪することだけじゃあないんですから」


「……もちろん」


 私は近くにあったキャスター付きの椅子を引き寄せ、それに腰掛けた。座るなんていう油断した姿を、一上の前では出来るだけ見せたくなかったけれど、酷暑で疲弊した体が休養を求めていたので仕方のないことだった。

 すっかり体力がなくなっている。陸上をやっていた頃なら、この程度ではくたびれなかったんだけど……もう歳かな。


「『もう歳かな』って、そんなことを言う年じゃあないでしょう。私が見たところ、長瀬さんの肌はもちもちのぷるぷるで若々しさが全開ですよ。白玉みたいで、食べちゃいたいくらいです」


「そんなおじさんみたいな言い方で褒められても気色悪いだけだからやめて」


 そもそも、雪原のように美しい肌をしている一上からそんなことを言われたところで全然嬉しくない。遠回しな自慢か?

 見るだけで目の保養になりそうな美少女とこのまま話していても、精神衛生上良いことがなさそうなので、私はさっさとこの部屋に来た目的を果たすことにした。

 目的。

 それは、私がこの町で見つけた『謎』を献上することだ。

 そして、『謎』を貰った一上は、爆弾の作動スイッチを押すのを一週間延長する。

 そういう契約を、私たちは結んでいる。

 契約の内容はそれだけではない。

 もしも私が持ってきた『謎』が一上に解明不能なものだった場合、彼女の学校爆破計画は永久に凍結することになる。

 つまり、私立生糸高校の存亡は私の双肩にかかっているのだ。


「その前にもう一度確認させてもらうけど、『謎』といっても別に、世間を揺るがす大事件だったり、まだ誰にも知られていない歴史的なミステリーだったりしなくてもいいのよね?」


「はい。この町は全国平均の五倍以上の行方不明者が報告されているベッドタウンでなければ、探偵漫画に出てくる犯罪発生率が驚異的な都市でもないですからね。いくら事実は小説より奇なりと言っても、そう頻繁に大事件は起きませんよ」


 だけど。


「小さな『謎』はあります。べつにこの町に限った話じゃありません。世間にはまだ、よくわからないものや、不確かなものや、奇妙なものや、謎めいたものがいくらでも転がっています」


 一上はそんな『謎』を蒐集し、解き明かすことを趣味としているだ。

 天才児の考えることは理解しがたい。

 しかし、これに付き合わないと、我らが生糸高校は更地に変えられてしまう。そんなことは御免なので、私は仕方なく口火を切った。

 

「これは昨晩、私が買い物から帰っていた時の話なんだけど。私はそこで──」


 話しながら、まるで怪談の出だしみたいだな、と思った。

 その感想はあながち間違いではないのかもしれない。

 だって、これから語られるのは──


「化物を見た」


 怪談みたいな話なのだから。


 ◆


「え?」


 『化物』という突拍子もないワードを聞き、一上はそのように返した。元から大きかった瞳は驚愕で見開かれたことで更に大きくなっている。

 やった──私は心中でガッツポーズをした。

 いつも余裕綽々で全てを見透かしているかのような態度をしている一上を驚かすことが出来たのは、達成感を感じるのに十分な出来事だった。


「どういうことですか長瀬さん? 本当に化物を見た? うそ。それとも、話のインパクトを大きくするための誇張表現として、その言葉を使ったんですか? 『化物(のように怖い大型犬)』みたいな? だとしたら、誠実な説明が求められる話し手としてはあまり褒められない行いですね……」


「学校を爆破しようとしているあなたが他人に誠実さを求めるな」


 それに、私が今しがた話した内容は嘘でなければ、誇張でもない。

 昨晩の帰り道──私は本当に化物を見たのだ。

 この町には町内各所に掲示板が立っており、私の家の周囲にもいくつか存在する。

 普段から見慣れているものなので、通りがかるたびに注視することはない。そもそも掲示板と言っても、そこに貼られているのは町内の地図くらいだ。私が町の外から来た土地勘の薄い観光客か、壊滅的な方向音痴でない限り、そんなものを見ることはない。

 なので、わたしにとって掲示板は、わざわざ注目せずにスルーする対象、言わば日常的な風景となっていた。

 しかし、昨晩──日曜日の夜。

 あの時は違った。

 スルーしていた日常が、スルーしがたい非日常へと変貌していた。


「だって、掲示板の地図──その右下に化物がいたんだから。化物の絵が描かれていたんだから」


「化物の……絵。ははあ、なるほど。そういうことですか。たしかにそれは『化物を見た』と言っても嘘にはなりませんね」


 納得した一上は頷いた。


「それで、具体的にはどんな化物だったんですか? 一つ目の人間? 牙が生えた鬼? 恐ろしい獣?」


「蛇」


 正確には、蛇と人間だ。

 

「たぶんあれは大人の男性かな……、人間の体に蛇が巻き付いて、頭に齧りついている──そんな絵だった」


 その上、作者の画力が非常に、異常に高く、写実的な絵柄だったので、見ていて恐怖心を煽られるものだった。それが鑑賞者に与える衝撃は絶大なものであり、現に私は、目を閉じれば今でもその絵を鮮明に思い出せるくらいである。おまけにイラストはモノクロではなくカラーであり、蛇の口から滴る鮮やかな血は絵の具代わりに本物を使っているんじゃないかと思うくらいにリアルだった。こどもが見たら大泣きすること間違いなしである。

 そんなものと夜道で遭遇した時の私の心境ときたら──心臓が止まるかと思った。

 化物と遭遇して死ぬところだった。


「あはは、それは困りますね。週一で『謎』を届けてくれる人がいなくなったら、私はこの爆弾を泣く泣く起爆するしかなくなるんですから」


 冗談じゃない話を冗談みたいに言う一上。


「ついでに言うと、少し離れた所に他の掲示板がいくつかあったから、それも見てみたんだけど、同じ落書きが描かれていたよ」


 ご丁寧に、描かれている位置まで同じだった。それ以外の掲示板は見ていないけれど、ひょっとすると、町内すべての掲示板にあの化物がいるのかもしれない。

 先ほど一上が言った通り、私たちが住むこの町は、漫画や小説の舞台みたいに治安が酷く悪かったり、エキセントリックなヴィランがいたりするわけではない。精々、学校の爆破を目論む狂人がいるくらいだ。

 しかし、ならば治安がいいのかというとそうではなく、素行があまりよろしくない、不良と言える集団がそれなりにいるのも事実である。

 町を歩いていて少し路地裏に目を向ければ、彼らの仕業であろう落書きが見られるのだ。

 だったら、今回の件も、そういう輩の仕業なのか──と思いそうなるが。

 

「それにしては、今まで街中で見かけた落書きとは何か……雰囲気が違う気がする」


 なんというか──作者の強い思いを感じると言うか……


「メッセージ性って言うのかな、アレは。ただの落書きとは思えない、迫る何かを感じたよ」


「そりゃあ、そうでしょうね。だってそれはただの落書きではないんですから」


 一上はまるで作者の意図を知っているかのように、全てを見透かしているかのように言ってのけた。


「え?」


 次は私が聞き返す番だった。きっと、先ほどの一上以上に間抜けなツラを晒していることだろう。


「どうしてそんなことを言えるの? ──ま、まさか落書きの犯人はあなた? ついに軽犯罪法にも違反してしまったってこと……?」


「違います違います。私が犯す罪は激発物破裂罪だけですよ」


 とんでもないことをさらりと言う一条。


「結構いい『謎』でしたよ、長瀬さん。おかげで、夏バテしそうになっていた脳が活気づけられました。それに免じて、この爆弾を起爆させるのは来週以降にしましょう」


 一上は隣にある爆弾の金属質な表面を愛おしそうに撫でた。


「しかし残念ながら、私の計画を永久に阻止することは出来ませんでしたね。だって、今の話を聞いただけで解けちゃいましたから。落書きの謎が」


 美少女が口にした台詞は衝撃的だった──爆発みたいに。

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