後編
僕とソフィアは黙ったまま、湖のほとりの木々の間に細く延びる坂道をしばらく上って行った。
湖を臨む場所にある十字架と、長方形の白い石碑の前で膝を折ると、ソフィアは石碑の中央にそっと彼女の作った花冠を置いた。
「ベルナルド様。最近は、会いに行けてもおりませんわ…」
すすり泣く彼女の細かく震える肩を、僕はそっと抱いた。
ぽたぽたと、彼女の涙が兄さんの名前を刻んだ石碑の上に落ちる。
そう。今日は兄さんの命日だった。
5年前、この湖で溺れた僕を助けるために、亡くなった兄さんの。
***
あの日、兄さんと僕は、別荘近くの湖で泳いでいた。ソフィアは湖のほとりでウッドチェアに腰掛けていた。
僕は、互いを思いやって笑い合う、兄さんとソフィアが…いや、ソフィアと婚約している兄さんが羨ましかった。彼女の緑がかった澄んだ碧眼に兄さんが映るのを見ていると、胸がちりちりと焼けつくようだった。将来は義理の姉になるはずの彼女を、僕はお姉様とでも呼ぶべきだったのかもしれない。でも、僕は彼女のことを、あえてソフィアと呼び捨てにした。
生まれつき身体が弱いソフィアは、自らも痛みを抱えているからか、人一倍繊細で優しく、思いやり深かった。兄さんだけでなく、僕のことも意外と見ていて、細やかな気遣いをしてくれるソフィアに、僕は仄かな憧れを抱くようになっていた。
そんな気持ちもあって、ソフィアに少しでもいいところを見せたいと思った僕は、少年らしい浅はかさで、湖の水深が一気に増すところまで勢いよく泳いでいった。その日は天気が良くて風もなく、何も問題ないように思われたけれど、急に僕の足がつり、身体が湖面の下に沈んだ。
慌てて兄さんが僕を助けに泳いで来たけれど、僕は岸から大分離れたところまで泳ぎ出ていて、随分と水を飲み、何度も水面下に顔を沈めていた。ソフィアは短い叫び声を上げ、助けを呼びに走って行った。
その時、不思議な感覚があった。
僕は湖の上から、溺れている僕自身を眺めていた。客観的に、まるで自分の魂が身体から離れたように、中空から、自分が湖に沈む様子が他人事のように見えた。…ああ、僕は死ぬんだな。そう思った。
そこまでで意識は途切れ、僕が目を開いた時には、僕はなぜかベッドの上で生きていて、兄さんの方が僕を助けて力尽きていた。起こったことが信じられず、世界が突然ひっくり返り、真っ暗になったようだった。
それは、ソフィアも同じだったようだ。兄さんが亡くなった日、呆けたような表情で、服のまま湖に入って行った彼女は、慌てて止められて事なきを得た。誰も気付かなかったら、きっとそのまま兄さんの後を追っていただろう。元々身体が弱かった彼女はそのまま高熱を出し、何日か意識が戻らなかった。
ソフィアの意識が戻ったと聞いて、急いで彼女を見舞いに行った時、彼女はまだ熱に浮かされていたようだった。
彼女は僕の姿を見つけると、その大きな両目をじっと見開いて、声を震わせながら、少し上擦った声で僕に言ったのだ。
「ベルナルド様に、会ったの」と。
彼女の言葉に耳を傾けると、どうやら、彼女は意識をなくして寝込んでいる間、川のようなところを下る夢を見ていたらしい。水の流れる先に温かな光が見えて、そちらに進んで行こうとしたら、彼女を遮る人影があって、それが兄さんだったのだという。
兄さんに手を伸ばしたけれど、手を取って貰えなかった、と彼女は悲しそうだった。
僕は彼女の言葉を否定せずに、ただ聞いていた。変わった夢でも見たのだろうというのが本音だったけれど、彼女の言葉が真実だったと程なく知ることになる。それは、兄さんが僕に会いに来たからだ。
誰かがいる気配を感じて振り返ると、そこに兄さんがいた。驚いたけれど、怖くはなかった。後ろの景色が兄さんを通して透ける中、兄さんは僕に微笑み掛けた。
僕が言葉を失っていると、兄さんは口を開くなり、こう言った。
「ソフィアは、泣いてはいなかった?彼女が僕のところに来たんだ」と。
兄さんから聞いた話は、ソフィアから聞いた光景と重なるものだった。
どうやら、ソフィアが向かおうとしていた光の先は、この世の向こう側に繋がっているらしい。兄さんは、慌ててソフィアを止めたのだという。
「ソフィアは、兄さんのところに行きたがってた…」
思わず僕が呟くと、兄さんは寂しそうに首を横に振った。そして、そのまま僕の前から姿を消した。
…僕は、兄さんにお礼も何も言うことができなかった。
ソフィアは、僕が彼女の言うことを信じたからか、僕だけには兄さんのことを話してくれた。
そして、僕は彼女から兄さんのことを聞く度、背筋が冷えた。なぜなら、彼女は、どうやら死を間近に臨んだ時に兄さんを見るようだったからだ。
ソフィアは、会いに行く度に兄さんが冷たくなると、目を潤ませていた。ソフィアが兄さんのことを話している時に、兄さんがすぐ脇に現れたこともあったけれど、どうやら僕にだけ兄さんが見えているようだった。僕は、思い付く限りの言葉でソフィアを慰めたけれど、どの言葉も彼女には届かなかった。
その後、また兄さんが姿を見せた。彼の瞳は不安に揺れて、僕の記憶の中にある兄さんよりもやつれて見えた。
「ルイス、お願いがあるんだ。…ソフィアを、この世界に引き留めてくれ。そのために、お前が彼女を支えてやってくれ。このままでは、俺は彼女を止め切れない」
確かにソフィアは、死に掛けるような行動を平気で…あるいはわざとのように…することがあった。その度に、兄さんが水際で彼女を追い返しているようだった。
あれほど愛し慈しんでいたソフィアに対して、心の底では微塵も思ってなどいない、彼女に嫌われるための言葉ばかりを口に出すことは、元来優しい兄さんにとってどれほど苦痛だったことだろう。
兄さんの姿はかなり薄くなっていて、景色に溶けてしまいそうだった。
この夏が、多分最後だろう。
僕は何となく、そんな気がした。
***
兄さんの5年目の命日の夜、僕はソフィアを誘い、庭に寝転んで2人で夜空を見上げていた。
それは、兄さんが亡くなる前日に、兄さんとソフィアと僕の3人で寝転がって見ていた夜空とよく似ていた。…真っ黒なキャンバスに星屑を無遠慮にまぶしたような、見渡す限り満天の輝くような星空だった。
ソフィアが徐に口を開いた。
「5年前の、ベルナルド様が亡くなった日の前日。同じような夜空を見ていたこと、覚えてる?」
「…ああ、覚えてるよ」
ソフィアも同じことを考えていたようだ。
「あの日見たベルナルド様の顔が忘れられないの。私が横を向いた時、目が合って。本当に美しかったわ。私のことを見て、優しく微笑んでいた」
「…うん」
僕が夜空を見上げたまま頷くと、夜空を一筋の流れ星が通り過ぎて行った。
「これも、あの日と同じね。…流れ星」
ソフィアが呟くように言った。
僕は、重い口をようやく開いた。
「僕は、あの時流れ星に願ったことを、心の底から後悔してるんだ」
「…どういうこと?」
僕は少し声が震えたけれど、そのまま続けた。
「僕は、あの時もう既に、ソフィアに惹かれていた。君の側にいて、将来は君を手にする兄さんが、ひどく羨ましかった。
僕は、こんな浅ましいことを願ったんだ。…ソフィアと僕だけの時間が、思い出が欲しい、って」
ソフィアは黙っていた。彼女の表情はわからなかった。
「それが、翌日にあんなことになって、僕の願い事は、叶ってしまった。あんな形で叶えたかった訳じゃ、決してなかったはずなのに。僕は自分のことを呪いたくなった。…僕があんなことを考えたせいで、兄さんは僕の代わりにいなくなったんじゃないかって。
…ソフィアだって、僕じゃなくて、兄さんが生きていた方が良かったでしょう?」
ソフィアは驚いたように僕を見つめると、ゆっくりと首を横に振った。
「…もちろん、ベルナルド様が生きてきてくれたら、とは何度も何度も、思ったけれど。
ルイス、あなたも私にとって大切な存在よ。あなたがいなくなって、代わりにベルナルド様が生きていたら、なんて、考えたこともなかったわ。
…あの夜に、ね」
彼女は夜空に視線を戻し、軽く溜息を吐いた。
「あの時、私も流れ星に願い事をしたの」
「…流れ星がすぐに消えて、願い事が間に合わなかった、って言ってなかった?」
「よく覚えてるわね」
彼女が微かに笑った。
「恥ずかしくて、言えなくて誤魔化しただけで、私もあの時、星に願っていたの。
…私は、ベルナルド様とは想い合っていると感じていたわ。でも、私たちは婚約はしていたけれど、彼は一度もそれを口に出してくれたことはなかったし、私もあれほど彼を愛していたのに、それを言葉にしたことはなかった。
…私は、彼に好きだと言ってもらいたかった、愛情を示して口付けて欲しかった。私も彼を好きだと、そう伝えたかった。
でも、私の気持ちすら伝えられないままに、彼はいなくなってしまった」
彼女の頬には、涙が伝っていた。
「それから、あなたには何度も聞いてもらったけれど。私が遠い意識の中で、ベルナルド様とお会いする時。彼はいつも、凄く私に冷たいの。でも、私にはわかる。彼は、本物のベルナルド様だって。
…彼は、本当は、私を好きなんかじゃなかったのかしら?婚約者だったから親切にしてくれていただけで、本当は疎ましく思っていたのかしら?
…私には…わからないの」
僕は震える手で、彼女の髪をそっと撫でた。
嗚咽を漏らす彼女に、僕の言葉が慰めにならないことはわかっていた。
「さっきの流れ星には、何か願った?」
ようやく僕はソフィアにそれだけを聞いた。
そしてその時、僕の横に微かな、しかし確かな気配を感じた。
泣きながら、彼女は切れ切れに、少し掠れた声で答えた。
「あと一度だけでいいから、ベルナルド様の笑う姿が見たい。ベルナルド様に触れたい。それだけを祈ったわ。
…彼がいなくなってから、どうにかして彼に会いに行っても、どちらか一つだって叶わないの」
その時、僕は兄さんの声を聞いた。
「ルイス、お前の身体を借りるぞ」
その声はなぜかソフィアにも聞こえたみたいで、彼女は驚いた様子で、兄さんの声に耳を澄ましていた。
***
どこからか確かに聞こえた、ベルナルド様の声。私が聞き間違えるはずもない。
彼の声を少しでも耳に留めておきたくて、必死に耳を澄ました。
…いつも遠い夢の中で聞くベルナルド様の冷たい声よりも、ずっと穏やかな、懐かしい声だった。
「ソフィア」
私の隣にいたはずのルイスから、ベルナルド様の声が聞こえる。
上半身を持ち上げ、私を覗き込んだ彼の顔には、星明かりの中、澄んだアイスブルーの瞳が輝いていた。
私は目を瞠る。…5年前のあの日と同じ、私が思わず見惚れたのと同じ姿で、ベルナルド様が確かにそこにいた。
彼は、私がベルナルド様の存在を確かめるのを待ってから、そっと私を抱き寄せた。
「愛しているよ、ソフィア。君のことを、心から。態度には出していたつもりだったけれど、…照れ臭くて、口に出せないままになってしまった」
「ベルナルド様…!」
私も、ベルナルド様に回した震える両手にぎゅっと力を込めた。
「私、も…。ずっと、ずっと、ベルナルド様が大好きでした…」
彼は、懐かしい優しい手付きで私の髪を撫でてから、私の顎を持ち上げて、私の目をじっと見つめた。
…忘れようもない、何度も思い返したベルナルド様の美しい顔が、そのアイスブルーの瞳が私を見ている。
私の目元をその指先でそっと拭ってから、彼は優しく私の唇に彼の唇を重ねた。
私は目を閉じて、一瞬にも永遠にも感じられる今を心に刻もうとした。
どのくらい、そうしていただろうか。
彼の唇が私から離れた時、彼がもうここから去ろうとしていることを感じた。
私は彼の身体に、思わずぎゅっとしがみ付いた。
「ベルナルド様…!どうか私も一緒に、連れて行ってください…!」
「…それは、できない」
苦しそうな顔で、ベルナルド様は言う。
「君がこの世を去った僕に会いに来た時、冷たい言葉を吐き、突き放すような態度を取ってしまって、本当にすまなかった。ああでもして、君に僕を嫌いになってもらわなければ、君に帰ってはもらえないと思ったんだ。
…もし君が、無理矢理に君の運命を曲げ、僕についてきてしまったら。君が見た、あの光の先は、道が2つに分たれているんだ。そうしたら、僕と君とは別の道を進むことになり、永遠に会えなくなってしまう。
あちら側の世界に比べれば、この世などはほんの一瞬だ。…だから。
僕は、1つ、君に約束しよう。君がこの世界で天寿を全うしたその時には、僕が必ず君を迎えに行くから。だから、どうかその時まで僕を待っていておくれ。
君のこの世での幸せを、心から願っているよ」
ベルナルド様は愛おしむように私に笑いかけてから、淡く輝いて、ルイスの身体からすうっと分かれ出た。
ルイスも驚いたようにベルナルド様を見つめてから、少し頬を染め、涙でくしゃりと顔を歪めた。
「兄さん。ずっと、兄さんに伝えたかった。
…あの時、僕を助けてくれて、ありがとう」
ベルナルド様はふわりと微笑んだ。
「ルイス、ソフィアを頼んだぞ。ソフィアも、ルイスをよろしく頼む」
少し戸惑いを浮かべたルイスの耳元に、ベルナルド様が何かを囁いた。
「…お前が思うよりももっと、ソフィアの心はもうお前のところにあるよ」
私の耳には彼の言葉は届かなかったけれど、ルイスがはっとしたように目を見開いたのがわかった。
私は、ルイスと一緒に、ベルナルド様が天に昇っていく姿を、ただじっと見つめていた。
***
その後も献身的にソフィアを支え続けたルイスは、ソフィアの心を溶かし、彼らはやがて結婚する。
多くの子や孫に恵まれて、幸せな人生を送った彼らだったけれど、先にルイスが旅立った。家族皆に囲まれて、満ち足りた表情で。
そして、ソフィアが旅立つ時。子や孫たちに看取られながら、彼女は穏やかに息を引き取った。
息を引き取る直前、彼女は両手を上に伸ばすような仕草を見せて、幸せそうに微笑んだ。
彼女を囲んでいた幾人かは見たそうだ。そこには、それぞれ彼女の右手と左手を取る2人の美しい天使のような男性がいて、1人はアイスブルーの瞳、もう1人は菫色の瞳に、それぞれ温かな色を湛えていたという。
彼が私を突き放す理由 瑪々子 @memeco
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