第6章 新たな幸せは案外辛い

第39話 後ろめたさと秋の風

 安定期に入るとつわりは治まって仕事も多少は役に立つくらいに出来るようになった。すっかり秋が深まるとお腹は日増しに目立つように。けど周りの助けや気遣いもあってお客さんに妙な噂をされることもなく私は平和にマタニティライフを過ごせていた。


 誠司はあいつなりに誠意を見せよるんか電話もよく寄越すようになったし、月に一、二回は会いに来て私の体調やお腹の子の成長について訊いていった。


 そんな中で、秋風と一緒に新たな風を吹かせるんはいつもこの人。


「真知ちゃん、紺野こんのさんて覚えよる?」


 いつの間にかよちよちと歩くようになった一歳の息子くんの手を引いたミクさんが店先で不意に発したその名前を、私ははじめすっかり忘れていた。


 このキーワードを聞くまでは。


「マッチングアプリの」


「ああ!」と手を打った。

 小型犬の紺野さん。あの日、喫茶店で私が粗相をしたお相手さん。あんな申し訳ないことをしたというのにその存在をすっかり忘れていたのはほんまに申し訳ない。こちらもそれどころやないくらいにいろいろとありまして。


 たしかあの日から何日かあとに体調を心配するメッセージをもらったものの、妊娠発覚でバタバタしていてとりあえず婚活はしばらく休むということだけを伝えてろくに謝罪もせんまま連絡を絶ってしまっていた。


 あれから……もう半年くらいになる。そんなにも時間が経ってから、今更なんやと言うんか。


 するとミクさんはお店の出入口へ視線を移して小さく手招きをした。それに反応したように人の影が動く。その姿を確認すると私は驚きのあまり固まってしまった。


「外からこそこそ覗いてはったもん、連れてきたげたのよ」


 ミクさんは困り笑顔でそう言うと、「すんません……」と恐縮する紺野さんを自分の前に出して「あとはお二人で」と下がってしまった。


 え、ミクさん、どういうつもり? 私としてはもう……会おてもどないしよもないのに。


「す、すんません、お仕事中に」


 相手は相変わらず緊張した様子で今日も子犬のように小さくその手を震わせていた。


「私の方こそ、一方的にお断りしてしもて、ほんにすみませんでした……その、見ての通りで」


 嫌やな。軽蔑されるかな。そう思いながらも大きくなったお腹を仕方なく示した。


 紺野さんは「ああ」とだけ答えて「お元気そうで、安心しました」と意外にもほっとした笑顔を見せた。


「ずっと気になっとったんです、婚活もしばらく休む、ち言うておられたもん、なんや重い病気やないとええけどって。今日は久々に仕事でこの辺りに来たもんで、その、迷惑かと思いながら、やっぱり気になって。外からひと目だけでも確認できればええな、思て」


 なんやろな、沖野さんもそうやったけど、この人も根っからの『いい人』らしい。誠司を見てきたから余計にそう感じるんかもしれんけど。


「ごめんなさい、ほんと。発覚前とはいえ、こんな事情がありながら、マッチングやお会いしましょう、やなんて……」


 恥ずかしい。嫌になる。全部自分が悪いことやけど……。


「いや。いろいろと事情がおありなんやろうし。……とにかくお元気ならええんです。ほんに、安心しました」


「ありがとうございます、気にしていただいて」


 頭を下げると「いやいや!」と恐縮された。そして少し困ったような笑顔をしたかと思うと、思いもせんことを言い出すから驚いた。


「……なんやな、柏木さん、メッセージのやり取りも実際こうして話す印象も、僕としては結構良かったもんで。……うまくいけばな、ちて、や、すんません、勝手にそんなこと思いよったもんで。なんやろな、病気なら支える覚悟もしてきたんやけど……ね。こういう事情やったんなら、仕方ないですね」


 突然の告白に面食らった。思い返せばたしかにメッセージのやりとりは違和感もなく気もそこそこ合って話も弾んだ、とは思う。『お会いしませんか』という誘いが早くに来たんもそういうことやったんかな。


 ほんまのこと、言うべき……?

 私が結婚せん、いうんを知ったら、そしたらこの人は、どうするやろか。


 いや、私は、どうしたいかな。


「ほんなら長居してもご迷惑やし、そろそろおいとまします」


 紺野さんなら、嫌な顔せんといいお父さんになってくれるかな。


 こんな私でも、受け入れてくれるかな。


 お店のことも、一緒に守ってくれるかな。


 この人なら……。

「あの……!」


 誠司への後ろめたい気持ちが全くなかったかといえば、それはたしかに少しはあった。


 けど元はと言えば結婚せんなどと言うあいつが悪いわけで。


 あいつかて自由に恋愛しよるんじゃろ、そう思えばどうということもなかった。



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