第35話 コーヒーの味

「ごめんなさいね、私のことは気にせず。合間見ておいとましますよって」


 いつもの喫茶店の座席でミクさんはそう微笑んだ。


 その隣には私、そしてその正面には、思っていたよりも小柄で、ふわふわした髪とつぶらな瞳をした、スーツを着込んだ小型犬とでも言えそうな『お相手さん』が座っていた。


 そわそわと落ち着かんその様子はかつてのお相手さんの沖野さんとはまた違う印象。つまりはこういういわゆる『お見合い』にとても不慣れなようやった。


 まるで「どうしよう」と書いてあるみたいなその顔に「とにかく、注文を……」と切り出してみる。


 お相手さん、紺野こんのさんは「ああ、はい」とそわそわしながら答えた。やっぱりおそろしく緊張しよるらしい。メニュー表を取る手がぷるぷると震えていた。


「あ、紺野さんコーヒー飲めます? 喫茶店やし、ブレンド頼みましょか、二つ……あ、三つ」


 確認にミクさんを見ると小さく首を振るので「じゃあ二つ」と言い直す。小型犬の紺野さんは「ああ、はい」とまた同じように答えて、震える手でメニュー表を戻した。


「かなり緊張……されてます、ね」


「す、すみません」


 や、謝らんといてください、と慌てた。私だって緊張してないわけやないけど、まあ多少は経験もありますし。


「大丈夫ですよ、面接やそんなんと違いますし、その、メッセージのやりとりしよったみたいに、気楽に話してください。あ、敬語も、なしでもなんでも」


 私がそう言うと、紺野さんは「す、すみません」とまた謝って苦笑いを見せた。


「ほんに、緊張しいで。その、あの、女性と会って話するんも、こういう場にも慣れてないもんで」


 微笑ましく紺野さんを眺めながら私もこのくらい緊張できたら少しは可愛げがあるんかな、なんて思ってしまう自分が悲しい。いつの間に私はこんなに図太くなったんか。


 コーヒーが運ばれてきて、とりあえずひと口。あれ、なんか味変わった? と思いながら相手を見ると「ああ、美味しいですね」と微笑まれて愛想笑いを返した。


「あ、無理せんと、ミルクとかお砂糖使ってくださいね、僕に合わせてもらわんでええんで」


 思わぬ気遣いに驚いた。私の微妙な反応に気がついたんかな……?


「ありがとうございます、なら、遠慮なく」


 ミルクもお砂糖もひとつずつ。よかった、今日はブラックを我慢して飲まずに済んだ。


 カチャカチャとティースプーンで混ぜると、深い色は優しいキャメル色へと変わる。その様子を無言で注目されてなかなかやりづらいけど仕方ない。


 スプーンを置いてカップを持ち上げ、またひと口。なんやろな、飲む仕草、カッブの扱いやとか、飲んだ時の表情やとか、見られて評価されよんかち思うと、味もようわからん気がした。


 ようわからん、言うか、これ……。


「ほんなら私はそろそろ」

 ミクさんがそう言って立ち上がるのと同時に私も勢いよく席を立っていた。


「え、真知ちゃん!?」


 カバンも残してそのままトイレに駆け込んだ。なんとか間に合って惨事は免れた。けど……。


 口内も体調も最悪。席に戻るどころか、立ち上がって歩いてここから出ることすらできるかもわからん状態。


 きもちわるい……。


 目の前がチカチカする気がした。なんやろ、これ、病気……? 突然のことに混乱して不安と心細さで泣きたくなった。


「真知ちゃんー?」


 ぎゅ、と目をつぶっていたらミクさんの声が聞こえた。はっとして「ここです」と弱く答えてなんとか個室の鍵を開ける。


「うわ、顔真っ青よ」



 紺野さんにはミクさんが状況を説明してくれて私の代わりに謝罪までしてくれたらしい。ほんまに、頼りきってしまったなあ、と反省。


 外の風に当たって新鮮な空気を吸うと、だんだんと体調は戻ってきた。


「なに、もともと体調悪かったの?」


 訊ねるミクさんに弱く首を横に振る。


「元気でしたよ。でも……コーヒーの味? かな、なんかおかしくて」


 一体なんやったんか、慣れたようで私もあれで一応緊張しよったということなんかな、などと考えているとミクさんが横から私の顔をじっと覗き込んできた。


「真知ちゃん」


 そこには神妙な表情があった。


「な、なんですか」


「んん……変なこと聞くけど」


 変なこと?



「……妊娠なん、しとらんよね?」



 それは青紫が濃いアジサイが蒸された風に揺れる、夏本番を控えた梅雨のある日のことやった。



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