第5章 好きは辛い

第31話 スプーンを返せ

「ただいま──」

「あっ、帰ってきたわ」


 家に帰るや奥からおかあのそんな声がした。何事かと様子を窺うと台所の奥からおかあがひょっこり顔を出して「真知、あんた」と言い出した。


「誠ちゃんとこにカレー持っていった、入れ物とスプーンは?」


「へ?」



 たしかに忘れて帰ってきたんはそうみたいやけど。それでも普通実家というもんは食品保存容器やカレー用スプーンなんてなんでこんなに? と不思議に思うくらいに余分にあるもんで、ひとつやふたつ無くなったところでなんの問題もないのでは────ということに気がついたのはじつに残念やけど電車から病院直通のバスに乗り換えてからのことやった。


 おかあ……。え、私、嵌められたん? にやりと笑うおかあ二人の顔が浮かんでまた憤る。


 気づくのが遅すぎた。もう病院は目の前。さすがにここからは引き返せん。


 会うのはかなり、気まずい。原因は紛れもなくミクさん。ついさっきあんなこと言われたばかりでは……。


 時刻は面会時間ギリギリの夕刻やった。白い蛍光灯に照らされる院内はひっそりと静か。病室にも人の気配はない。


 寝よるんかな……? 廊下から中を覗きながらそう思った瞬間やった。


「なんしよる」「っわ!」


 突然背後から声を掛けられて心臓が跳ねた。反射的に振り向いた先に、予期せぬ顔があって今度は体ごと飛び跳ねることとなった。


「誠司っ……びっくりしたぁ」


「院内はお静かに」


 相手は人差し指をその鼻先に立てながらそう返してにっと笑った。


「なんや、もう恋しゅうなって会いに来たんか」

「アホ……やの、相変わらず」


 返しにキレがないんは自覚しよる。ということは、相手にもたぶん伝わってしまいよる。私の様子がおかしいことが。


 トイレにでも行ってきたらしい相手に「歩けるんや?」と訊ねると「まあな」と言いながら「あ」と急にお腹を押さえるからまた驚いた。


「痛い。痛、いたたた……」

「え……ちょと、大丈夫? ……え?」


 どんどん傾くその大きな身体を困惑しながらもなんとか支える。支え切れんくて壁にもたれながら、なんとか踏ん張った。


「か、看護師さん呼ぼか? 誠司、ちょっ」


 支える、というかもはや完全に抱き留めるような格好になって身動きが取れんようになった。ほんまに痛いんか苦しそうに歪むその顔。どうしよ、助け呼んだ方がええ、そう思った瞬間。ぞくり────。


 背筋に寒気が走った。いや背筋、と違って…………おしり。


「胸はちいこいのにな。相変わらずのデカケツ。ぶふっ」


「ぎぃやあっ!」


 バッチン! バッチン! と手当り次第に叩きまくってやった。背中、肩、頭も。怪我人? 知らんわ! どこがよ!?


「痛!」

「なんしよるん!」

「おまえこそなんしよる、怪我人に」

「はあもう、最低! 痴漢! 変態!」

「院内はお静かに」


 歯ぎしりをして先に室内に向かった。乱雑に荷物を置いていると後ろから来た自称怪我人が「ベッド戻るん手伝って」と白々しく申すから仕方なく雑に手伝ってやる。


「か。痛いわ、下手やの」

「文句言われる筋合いない」

「なら何しに来たんじゃ」

「……スプーン返してもらいに来ただけよ」


 なんとなく顔を見られんくて、相手の手や布団をじっと見て答えた。


「はあ?」


「だから、スプーン。あと入れ物」

「そんなもん何本でもあるじゃろ。急いで取りに来んくても」


 自分がたどり着くまで時間のかかった答えを即座に出されてまた腹が立つ。


「洗わんと放っとくと容器に匂いが付くよって!」


 苦し紛れにそう答えると、相手はは「ほーん」と冷めた目をして見下ろしてくる。


「素直に『会いに来た』ち言えばええのに」

「そんなわけないでしょ?」

「ははん。ミクからなんか聞いたんじゃろ」

「えっ……!」


 相変わらず、勘のええやつ。誠司は「あーあ」とため息をついてベッドに寝そべりながら天井を見上げた。


「勘違いすんなよ? 俺はおまえとは付き合わん」


 そこからゆるりと視線をこちらにやってにやりと笑う。


「……こっちこそお断りよ」

 昔から、それだけは有り得ん話じゃったもん。


「ばらしてごめん、ちて、ミクさんが」


「ほんま敵わんな、あの子には」


 ぼやくように言うと、「しゃーないなあ」と独り言を呟いてから改めてこちらを見て話し始めた。


「そうや。ほんまはあの時、おまえの夢、見よった」


 その目が思いのほかまっすぐで、少しだけどきりとした。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る