第29話 深みがない

 ……さて。

 一転して静まり返る病室。虚しく取り残された私は仕方なくそのドアを開いた。静かに奥まで歩みを進めて、カーテンのそばの壁を小さくノックする。


「こんばんは……」


 ちろり、とその淡い黄緑のカーテンをめくると緩やかに起こしたベッドにいた相手は少し驚いたような顔をしてからすぐにいつもの余裕ぶった顔になって「おう」と短く返してきた。


「ちょうどよかった。それ、取ってくれ」


 いきなりなんや、とその指す方を見ると付き添いの椅子の上に水着姿の巨乳美女が表紙を飾るいかにも男子が好きそうな雑誌があってさっそく憤る。


 はいはい、と乱暴に拾って投げるように渡すと「おい、大事にせえよ」とほざく。たぶんさっきの生徒たちからの差し入れなんやろう。はあ、くだらん。


「……これ、カレー。持って来たげたから。食べて。ほなね」


 淡白に伝えつつ誠司おかあの顔を思い浮かべて「おばちゃんごめん、こいつの介助とか私には無理よ」と内心で謝る。近くの台にカレーと白ご飯の食品保存容器とスプーンを置いて立ち去ろうとすると「おい待て」と呼ばれた。


「怪我人放置するんか」


「元気そうやん」

「あっほか! めっちゃ痛いんやぞ!? おまえそれそんなとこ置かれても取れん、いうんじゃ」


 そんだけ怒鳴る元気があってよう言う。「はい、はい」と容器をベッドの近くへと移動させた。


「こんなとこ置くな、布団に付くじゃろが」


「もう、文句ばっか」

「食わして」


「……は?」

 耳を疑った。だってあんた、そんなこと……私が?


「布団や服汚したくないし、ほれ、『あー』」


 いい大人が恥ずかしげもなくよくもまあそんなことする。けどこうなればもう拒否することは難しい。


「はよ、腹減った」

「……」


 仕方なく、ほんまに、仕方なく、その口にスプーンを運んでやった。ぱくり。人にものを食べさせるなんて、ほぼ初めてのことかもしれん。


 もぐもぐとして、なんか言うんかと思ったらまたすぐ「あー」と口を開いた。


「自分でやんなよ」


 なおも抵抗してみたけどやっぱり無駄やった。


「はよ。こういうんはテンポや」

「……」


 なんで私がこんなことを。そう思いながらも、ぱくぱくと食べてくれる誠司を見るのは悪い気はせんかった。白ご飯と交互に、容器の中身はどんどん消えてゆく。


「……おいしい?」


 途中でそう訊ねてみた。すると相手は、ふん、とか、はん、とか短くそんな返事をしただけやった。


 そうして、あっという間に完食。結構あったのに……というか、私の分もあったんと違うんか? 今更気づいた私もアホやけど。


 誠司は「ふー」と息をついて満足そうな顔をしていた。幸せもんが。


「うー。腹いっぱい。病院の晩メシやるわ」


「はあ……?」


 それはありがたいけど。……それはともかく、私は誠司に聞きたいことがあった。


「……味、どやった?」


 まずくはないんは味見したし知っとる。それに完食してくれたんを見てもわかった。けど肝心なんは『おかあのカレー』との違い。


「まあまあ」


「……なんそれ」


「普通や」

「普通……」


「はん。作り手の性格が投影されるな」

「は……」


 やっぱりばれよった。味の違いのせい? それともわかりやすく私の顔に出とったんかも?


「……おかあのカレーと、やっぱり違う?」


 答えがわかった上で、訊ねた。もちろん相手もそれを察しよる。だからちゃんと答えてはくれん。


「深みがないな。やっぱ恋愛のひとつも知らんやつには、深みは出せん」


「はあ?」


「その点で俺は深いで。今もばっちり恋しよるしな」


 構わず帰り支度を始めた。時間の無駄や。バスの発車時刻はどないやったか──「ミクを落としたいち思とる」


 無視が……できん。もう!


「ミクさんはあかんに決まっとるでしょ!?」


 堪らず噴火してそう噛み付くと、相手は「おお」と少し驚いてからふん、としたり顔になった。ああもう、鬱陶しい。


「なんで。美人やし面倒見もええし」

「既婚者! お母さん!」

「好きなったらあかん法律でもあるん」

「あるわ! ……たぶん」

 知らんけど。ちうか法律云々やない!


「ほんま……人間性疑うわ」


「我ながら波乱の人生と思う」

「アホ!」

 思いっきり睨んでやった。


「とにかくミクさんを巻き込まんとってよ。私の大事な友達やもん」


「はん? 関係ないじゃろ」

「関係ある!」


「おまえに俺の恋愛を邪魔する権利はない」

「友達守る権利はあるわ!」


「……刺されて気絶した状態から目覚ました時、最初にミクが目に飛び込んで来た。朝日に照らされて、むっちゃくちゃ綺麗に見えて。ほんまに女神か、ち思たもんな。……いや、惚れたね」


「気色悪い」

「そらどうも」


 相手は宙を眺めながらなおも気色悪く薄ら笑いを浮かべながら言う。


「しっかしミクはムズいで。中高ん時もミクだけは無理やったもんな。まあその方がこっちとしても燃えるけど」


 なあそれ、なんで私に言うん? 気い悪いに決まりよるやんな。わざと? 私が怒るんが、面白いん? なあ。


 ……最低。


「……帰るわ」


 低く言って、立ち上がった。もう我慢できんやった。顔も見たくない、そう思った。


「飯くわんの?」

「いらん!」


 誰があんた用のご飯なんか食べるか!


「ほなね」


 乱暴に言い放ってカバンを掴んだ。「真知」と呼ばれて一瞬だけ振り向くと、相手は何食わぬ顔で「カレーごちそーさん」などと言うてくる。


 もう、なんなんよ。調子が狂う。

 返事はせずに、そのまま早足で病室を出た。


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