ユメウツツ

@siriki

第1話

 男はあるバーのカウンターに座っていた。

 良い内装の店だ。仄暗く演出された店内には男とバーテンダー二人しかいない。現実から切り離されたような時間が、ゆったりと流れている。

 こういった場所で飲むのは初めてだ。そして恐らく最後になるだろう。

 店には二つの扉がある。

 男から向かって右にある扉。

 そして向かって左にある扉。

 その二つにさほどの差異はない。ただ、その扉を開けた時どこに出るか。それだけの違いを表すため、若干違う装飾がそれぞれの扉に彫り込まれている。

 バーテンダーは小さな小さなグラスに酒を注ぎ、滑らせるように男の方へ寄越した。勧められるがままに頼んだワインだ。ワインには詳しくはない。だが、どんなに高いワインを頼まされていようが、もう男にはそう関係のない話だった。

 不意に店内に鈴の音が響いた。

 煽ろうと持ち上げたグラスを置き、音がした方に目を向ける。

 向かって左の扉から一人の女が入って来ていた。初老の女で、店の雰囲気に似合わない真っ白な服を着ている。

 扉の上部に取り付けられた来客を告げる鈴が、余韻を残して静寂に戻った。

「いらっしゃい」

 バーテンダーが呟くように言う。

 女は男の隣の椅子を引いた。

「横、よろしいですか?」

「ダメと言っても座るんだろう」

 女は笑って言った。

「そのために、来ましたから」

 男はワインを喉に流し込んだ。わかっている。こんな乱暴な飲み方をする物ではない。だが男は早いところ酔いを回してしまいたかった。

「私にも、同じお酒を」

 女が言った。そしてそのまま、世間話でもするようなトーンで言葉を続ける。

「あなたが私を置いて家を出た日から、もう何年経ったのかしらね」

 そんな言い方しなくても良いだろう。なんて言う権利がないことくらい、男にはわかっていた。

 あの日以来、女には会っていなかった。会えるわけがない。

「やはり、恨んでいるのか」

 男はそう言った後、掠れた声で付け足した。

「夢にまで出てくるくらいだもんな」

 女は驚いたような顔をした。

「夢に見るんですか?私を?」

「ああ、そうだ」

 男が目を閉じる。

「見ない夜はない。あの日からお前は、毎晩毎晩、俺の夢に出てくる。そして低い声で言うんだよ。『お前なんて、死んでしまえばいい』」

 女は笑った。

「それは私じゃないわ。あなたが勝手に見た幻想よ。私はあなたを恨んでなんかいない。あの日あなたがとった選択は正解だった。あなたが選んだあのは若く、未来があったもの」

 男の表情が曇った。

「恨んでいない?」

 そして、ため息をついて言う。

「嘘を吐け。俺は妻であったお前を見捨てたんだ」

「嘘じゃありません」

 女は昔と変わらない、悪戯をするときの無邪気な顔で言った。

「まあ、身を焦がすような痛みはありましたけどね」

 男は何も言えなかった。

「冗談ですよ」

 女が笑う。

「自分でも驚くほど、何も感じなかったんです。あなたが気に病む必要はない」

「なら良いって話じゃないだろう」

 男は贖罪の気持ちを感じていた。後悔はしていない。自分の選択は正しかったと思っている。だが……

 妻を見捨てたのも事実だ。

 女は一転してしおらしくなった。

「私にも非はあるわ。不注意なところを直せって、あなたずっと言っていたものね」

「それでも」

 男は声を張る。

「愛していた。お前をだ」

「分かってますよ」

「だからこそ、本当に申し訳なかったと思っている」

 そんな言葉で許される訳がない。だが言わずにはいられない。

「そう言えば」

 女は出されたワインを指でかき混ぜながら言った。

「由紀は、どう?」

 由紀とは、男と女の間にできた子供の名だった。だがあの日以来、男が一人で育てている。

 男は驚いた。

「お前は遠くから見ていたんじゃないのか?」

「ええそうよ。私は由紀もあなたも、遠目にずっと見ていたわ。でもあなたの目から見てあの子がどう育ったのか、聞きたいのよ」

 男はため息を吐いた。

「父子家庭になってしまって、由紀には迷惑をかけた。だが良い子に育ったよ。連れてきた結婚相手もいい奴だった」

「でも寂しくてお酒いっぱい飲んで肝臓やっちゃった訳だ」

 男は笑った。それは、自分への嘲笑のようにも見えた。

「ああ、そうだ。そしてそのせいで……」

「今日か、明日にでも死ぬんでしょう?分かってるわよ。だからあなたに会いに来たんだから」

 しばらくの間、沈黙が流れた。

 喉にワインの最後の一滴を伝わせ、男がやっと口を開く。

「嬉しいか」

「何がです?」

「俺が死んで、嬉しいか」

 女は少し考えるように唸った。

「んー。嬉しくないかと言われれば嘘になりますけど」

 男の顔に絶望が浮かぶ。

「やっぱり、恨んでるんじゃあないか」

「そういう意味じゃないわ」

 女も自分のグラスを空にした。

「勘違いしないで。私はあなたにお礼を言いに来たのよ」

 なんで。そんな疑問が顔に出ていたのだろう。女は言葉を続けた。

「だってあなた、ずっと私に恨まれてると思っていたんでしょう?そんなままで死んじゃうなんて、悲しいじゃない」

 男はなにも言わなかった。ただ八十も過ぎ、もう乾いてしまったと思っていた涙が、頬を伝ってカウンターに落ちた。

「ねえ、あなた」

 女が男の方を見た。綺麗な顔だ。五十年前となんら変わらない、若く、綺麗な。

「あの日、五十年前のあの日。私の不注意で夜中に台所から火が出てしまった日。私じゃなくてあのを、まだ小さかった由紀を助け出してくれて、ありがとう」

 男の口から嗚咽が漏れる。

「そしてごめんなさい。あなたに罪悪感と言う枷を嵌めてしまった。でも本当に、煙を吸って倒れた私は痛みなんて感じなかったのよ」

 女も、泣いていた。

「あなたが死んで嬉しいのは本当よ。やっと一緒に暮らせるんだもの。でも……」

 女は男から見て右側の扉を指さした。男が最初に入ってきた扉であり、女が入ってきた扉とは真逆の扉だ。

「あなたはまだあっちにやり残したことがある。由紀が病院のベットの横で泣いてるわ。最後に、何か声をかけに行ってあげて」

 男は黙って立ち上がった。女が指した扉へと歩を進める。

「ありがとう、あなた。私はここで待ってるから。お別れが済んだら、二人で向こうに行きましょう」

 男は扉のノブに、手を、かけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユメウツツ @siriki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る