通りすぎる婦人
久賀広一
バカみたいだと思った。
今日、子宮肉腫の定期検診で、再発が見つかった。
”はい、5年目の経過が良好ですので、もう安心ですね”と医師に微笑まれるはずの通院だった。
……それで ”自分はもう助かる可能性がごくわずかになった” と知って、衝動買いしたバッグが2万5千円。
30年のシングルマザー歴は、命がかかってもこの程度のものしか買えないのかと、虚しくて涙も出なかった。
「母さん……あとは家でゆっくりすればいいよ。これまでまともな休暇なんて、取ったことがなかったじゃない」
そんな言葉をかけてくれる娘と息子がいるが、やっぱり私の人生は、たいして価値があったとは思えないものだった。
「……」
……おそらく、
「まあ……。子供を二人もニートにさせず、ちゃんと社会に送り出したんだもの。胸を張っていいと思うわよ?」
今の時代なら、そんな答えでも返ってくるだろうか。
効きもしない抗がん剤治療で吐き気と闘い、髪をなくして自宅で
「なあ、姉貴・・・。母さんのことだけど、どっかおかしいんじゃないのかな」
「別に・・・あの人は昔からあんな風じゃなかったっけ? 妙に社会に対して、責任感と欲があるっていうか・・・」
そんなボソボソと台所から聞こえてくる会話が耳に入るが、私にはどこ吹く風だ。
娘よ、息子よ・・・。すでに死んだ、父の
私にはたぶん、この世で成さねばならない、もっと大きなことがあったのだ。
貧しい一家の
そんな思いを抱いたまま、私は死ぬことになった。
まああれだけどね。
遺書はちゃんと書いたし、貧乏だったけど最後に保険金で子供たちにお金を遺せたし、それはそれで悪くなかったんじゃないかと思うよ。
でもなあーーやっぱり私って、「他の誰でもやれた」一生しか送れなかったんだよねえ……。
それって、私が生きた意味なんか、ほとんどないってことなんだよねえ……。
悲しいなあ……
情けないなあ……
ーーーーー
母が死んだ。
看護師をしている私の勤める病院から、終末医療のために家に帰し、半年後のことだった。
今は病気の痛みのケアもすごく進歩しているので、最後までほとんど苦しむことなく旅立てたのは、弟とともに、ホッとしている所だった。
「なんか、他界する寸前まで、起業でもしそうな願望をノートに書いてたねえ……」
弟は、母の日記を読みながら、ビールをすすっている。
そういえば、いつだったか父の遺骨ともよく乾杯してたなコイツは……
友達がいないのだろうか。
まあそれはともかく、私も一応、そこは心残りだったのだ。
ずっと「何か大きなことをしなければ」と願っていた母。
まだ30代のころ、父が心臓病で倒れ、
当然、好きに生きる選択肢なんて、彼女には存在しなかったのだ。
「でもねえ……。母さんは知ってたのかなあ」
……ん?
弟の声に、私はふり向く。
「ほら、あれだよ。ちょうど通夜の晩に、テレビでやってたじゃないか。『進化補完の法則』」
「ああ……」
私はため息をつくように頷いていた。
あれか。確かに、母に見せたかった。
どうやら生物の革命的な進歩には、特別な存在など必要ない、というような内容だったと思う。
遠く離れた場所に生息しているにもかかわらず、どんな偶然なのか、同時期におなじ習性を持つようになる動物。
例えば『電話の特許』の取り合いみたいに、グラハム=ベルが500以上の似たような発明の訴訟を抱えることになる現象。
2時間遅れでイライシャ=グレイ、さらにそれ以前にエジソンが書類の不備で特許申請に落ちていた、という話まである。
「母さん……」
私は、そんなことを母が知っていれば、もう少し穏やかに余生を送れたのではないかと思うのだ。
「特別なこと」なんてしなくてもいい。
そんなものは、ちょっと時間が違うだけで、他の誰かがやってくれることなんだよ。
……それより、私が母をかけがえのない存在として思うようになったのは、やっぱり他愛のないことでなんだ。
「ーーあの時、どういうことを思ってたの?」
「このテレビ、面白いよ。見てごらんよ」
そんな何でもない話を、私は、エジソンでもなく、アインシュタインでもなく、母さんともっとしたかったんだよ。
……何で死んじゃったの?
何で、もっとゆっくり話しておかなかったんだろう。
子供を捨てた母親だって、欲望のままに生きられない歳になれば、自然と思うかもしれない。
好きに生きるのもよかったけど、かけがえのないものは、ずっと前にそばにいたんだと。
だから母さん、ちゃんとあなたは、かけがえのない人生を生きたんですよと、私は伝えたかったのだ。
「悲しいねえ……
情けないねえ……」
そんな母の言葉は、今もまだ、風の中に
通りすぎる婦人 久賀広一 @639902
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