第5話

「本当に、うちの先生はお酒を飲むと長くていけない」


 そう口走るのは、竹庵の診療所に入ってきた女で、口ぶりから見るに竹庵の内儀か女(いろ)のようなものであろうと思われた。


 見るからにちゃきちゃきの江戸っ子といった感じの女で、三十路にかかるかかからぬかといった年増ではあるが、年増の色香に乙女のごとき微笑みを浮かべた、上物というにふさわしい女であった。


 ふっくらとした体つきに白い肌。


 どうやら竹庵は、歳の割にはいまだに現役と見える。


「そんなんことはよい、挨拶をせぬかバカ者」


 その女の口ぶりに少し照れたような顔を浮かべながらも、竹庵はそう促す。


「ああ、そうでしたね、これは失礼をいたしました。わたくし、竹庵の家内のようなことをさせていただいておりますもので、お初にお目にかかります」


「ああこれは丁寧に、拙者は……」


 門野がそう言いかけると、その女は悪戯な微笑みを浮かべてその言葉尻を奪った。


「門野様でござんしょ?近頃うちの人がいつも話をするんですよ」


「ははは、いかにも、いかにも門野でござる。で、その、奥方の名はいかに」


「まあ奥方だなんて大仰な、私は……」


 と、言いかけたところで、竹庵が割って入った。


「悪いが門野殿、今宵はこの辺でお開きとしよう」


 竹庵はそう言っていそいそと帰り支度を始めるのだが、これには門野が納得いかない。


「いやいや竹庵殿、確かに家人の迎えがあっては仕方ないが、話の尻のすえどころを教えてもらわねば気になって眠れませんぞ」


「ああ、あれはじゃな。一部始終を見ておった若旦那はその女と離縁し、結局その女は長き時を経て山伏と一緒になったそうじゃよ」


 なんと、このようにあっさりと話されては趣も何もあったものじゃない。


 確かに、このような状況では仕方のないことではあろうが、何とももったいない話の切り上げ方に、門野が残念そうに頭を掻いていると、女がポツリとこぼした。 

 

「またあの話なんですね」


「よかろう?」


「しりません」


 ん?なんだ、奥方もこの話を知っておるのか。


「変なことを聴くようだが、その方もこの話を……」


 言いかけた途端、女は手に持っていた一升徳利を門野に押し付けた。


「門野様はこの酒をたいそう気に入っていらっしゃるようで、これを土産にどうぞ、奥方にもぜひ」


「あ、ああ、まあ、いただこう」


 矢継ぎ早の言葉に、門野は困惑しつつも、しかしありがたい土産であることは変わりなくしっかりとソレを頂戴すると、今度は後ろから急くような声がかかった。


「というわけじゃ、わしとこいつは少しここを片付けねばならんでな、門野殿は今日はお帰り願おう」


「え、あ、はぁまぁ」


 戸惑いながらも、追い出されるように竹庵の診療所を後にした門野は、名残惜しそうにその戸口を眺めるとひとつ「ブルリ」と身震いをして、夜の街を歩き始めた。


 外は真の闇、もう朝が近いようにさえ思える。


「ふう、ずいぶんと遅くなったな」


 まあよいわ、面白き話ではあったし、帰りにくい家にそそくさと帰らずとも済んだ。


 そう心でつぶやいて、門野は妻の顔を思い浮かべる。


 元は名のある武家でその正嫡までなした女であったのだが、その家の主が吉原より花魁を見受けて正妻に据えたため、身一つで追い出された可愛そうな女。その不幸な身の上と、息子を恋しがって泣く姿にほだされて一緒になったのであるが、所帯を持ってもう一年、二人の間に子はない。


 言うまでもないが、妻は一度は子を成した身である。畑に問題はない。あるとすれば。


 種の方だ。


 夫婦仲は良く、夜の営みが耐えることはない。それが夫婦の仲良き睦み合いから、味気ない子を成す作業に変わってからというもの、門野にとってそれは気鬱の種でしかなくなった。


「とはいえ、帰るよりないか」


 そうつぶやいて懐をさすった門野は、そこに紙入れがないことに気付いた。


「しまった、竹庵殿の所か」


 そうつぶやいて引き返す。診療所はまだ目に見える範囲、門野はそそくさとその戸前へと戻った。中から話し声が聞こえる。


 角野はちょっとした悪戯心から、黙って聞き耳を立てることにした。


「もう、先生ったら、すぐあの話をなさるのですから」


「よいではないか、面白き話であろう」


「なんの、あんなもの馬鹿にされているようでいやですわ」


「馬鹿を言え、女とはそういうものじゃ」


 なるほど、どうやら女の方は、あの話はあまりに女を馬鹿にしているようで気に入らないらしい。


 確かに、どことなくそんな風情のある話ではある。


「まあそういうな、な、機嫌を直せ」


 門野が少し考え事をしている間に、竹庵はその女の肩を抱き、女の方もまんざらではないという風情でしなだれかかった。


 いかん、これではなかに入れぬようになる。


 今にも仲良く睦み合いの始まりそうな風情に、門野が急いで声をかけようとしたその時、奥から若い男が現れた。


 そうだ、もう一人おったわ。


 門野がほっとしていると、その若い男は何の気なしにその名を口にした。


「これはこれは、スエ様」


 え?いま、なんと。


「そう言えばすえ様のお酒、もうこちらにはあまり残っていないから一つでも持ってきてほしいって頼んでおいたのですが、お忘れですか?」 


 スエ様の、酒、だと。


「ああ、ごめんよ、あれならさっき門野様にあげちまったよ」


 それを聞いて、門野は恐る恐るその手に提げてある一升徳利を見る。


 竹庵の前で出されるときは当然その口は開いているのだが、よく見ればそこには厳重に封がしてある。


 そこで、門野はハッとした。


 確か竹庵の話では、スエという女は蛇を殺していたという、そして、その手には一升徳利を下げていた。さらに、もともとの話の発端は家に一升徳利がどんどんと増えていく話で、その一升徳利には。


 封がしてあった。


 スエは蛇を殺していた、一升徳利を山伏の元に持ち込んで。


 では、殺したその蛇は。


 


「だれかそこにおるのか」


 震える門野の耳に、突然に竹庵の声が響く。


「ひ、ひぃ」


 門野の口から情けない声が漏れ、それを合図に門野は駆け出した。


 そして、足早に裏路地に至ると、あたりをキョロキョロと見渡して、手にある一升徳利を恐る恐る眺めた。


「ま、まさか、まさか」


 呟きながら封を剥がそうとする、しかし、そこには蝋が垂らしてあっていやに厳重に閉じられてあった。


「くそ、くそっ」


 門野は爪を立てる、しかし、慌てているためか急いでいるためか、それとも恐怖のためなのか、暗い路地裏でその封は一向にはがれる気配はない。爪がむなしくその表面を削るだけだ。


「ええ、ふざけるな!」


 門野は苛立ちまぎれに、とうとうその一升徳利を地面にたたきつけた。


――パシャーン


 激しい音とともに、徳利が割れる。


 そして、かぐわしく、あの特徴ある酒の匂いとともに、その姿が目に入った。


 無残に頭をつぶされた二尺ほどもある。


 蛇の姿が。


 と、同時に、口の中に竹庵の所で飲んだ酒の味がよみがえり、胸に酸(す)いものが湧き上がってくるのを感じた。


「おぉぉ、おぅっ、おげろろろろろろ」


 門野は一気にすべてを吐き出し、そいて息荒く口を拭うと両腕で体を抱え込んだ。


 そして、ふらふらと震えながら歩きはじめる。


「わ、悪い夢だ、これは」


 門野はそうつぶやきながら、よろよろと定まらない足取りで、夜の闇へと、消えた。

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