水
照明が瞬いて異変を知らせる。
「……なんだ……?」
続いて、微震。
さらに轟音が降りかかった。
「てめえ、何をした?」
すぐさま、粘着質の声が答える。
『なに、給水システムにちょっとね』
「仕掛けはなしじゃなかったのかよ!」
『この階には、な』
「……っ!」
振動はすでに地響きと化している。なるほど、ニュクスが逃げるわけだ。
『上階は水に満たされ、まもなく崩れるだろう。何しろ古い建物だからな。そうなる前にわたしを解放したまえ。それから……』
「……」
オベロンの視線は背後の理緒からスピカへ。さらに――
『それを渡すんだ。早く』
彼女が握るフラッグへと移った。
『……』
『さあ!』
『……イヤ』
静かな拒絶。
『何故かね?』
『あなたにはその資格がありません、教授』
スピカは姿勢を正し、言った。逆にオベロンは大股を広げ、両腕をふらつかせる。
『……なんの資格だね? 徒党を組んだことか? そんなこと、誰だってやってる! おまえたちだってそうだろう!? わたしが一番うまくやれた、それだけだ!! チーム単独で優勝しようなどという愚か者は、神木くらいしかおらんぞ!』
広敷が一気にまくし立てるのを待って、スピカは静かな声を返した。
『違います。わたしは、私怨から申し上げております』
『私怨、だと?』
『……あなたは、シリウスのAIを躊躇なく破壊した。そんな人に、これは渡したくありません』
『馬鹿な! 話にならん! もういい。……梓真くん、きみならわかるだろう。いいかね? もう一度、わたしが直々に――』
「理緒……」
梓真は憮然とした声で広敷の弁舌を遮る。
『いいのね?』
理緒は体を回すオベロンに合わせて、その後ろを取り続けていた。その右手のパイルがオベロンに向かう。
『待て! そうだ、父君の行方を知りたがっていたね。実は、心当たりがあるのだ』
「……」
『試合のあとで教えてあげよう。いや、一緒に探しに行くのもいいな。どうだね?』
その場しのぎの言い逃れ。――にもかかわらず、心が揺らぐ。
けれど結局――
「……理緒!」
何をどう捻ろうとも、この男を信じるだけの材料を自分の中に発見できなかった。
『オロカモノ……ドモ……』
杭を受け、ばったりと崩れ落ちるオベロン。
同時に照明のいくつかが消え、天井の崩落が始まった。流れ込む水は瀑布のようだ。
『こっち!』
スピカを先頭に、脱出に掛かる理緒たち。
だが行く手にも濁流が押し寄せる。水の流入は階段からも起きていた。
『危ない!』
前のめりのスピカの手を理緒が掴んだ。その目の前に何かの機材が落下して、危うく難を逃れる。
『ありがと……』
『急ぎましょう』
辺りはすでに落下物で溢れ、まともな移動すら難かしい。理緒たちは汚泥をかき、障害を踏んで進んだ。
やがて目前に脱出口が現れる。
ところが――
その手前に新たな障害が立ち塞がっていた。
『先輩、どいてください』
『……イ・ヤ!』
六角は声真似に、くくっと嘲笑を続けた。
業を煮やす梓真。マイクを掴む腕が震える。
「俺の勘違いか? リーダー機はオベロンだと思ったんだがな」
『いんや、合ってんぜ』
「じゃあ失格じゃねえか! なんで退かない!?」
『……おめえバカか? だからこそ、だろうが』
「てめえ……」
梓真は悪態をいったん止め、車中を振り返った。だが、肝心の山野目の姿が見あたらない。
(くそっ、こんな時に……)
目に入ったのは別の姿だ。
「待て!」
小声で叫ぶ。輝矢のモニターがチタニアを照準に捉えていた。
ルール上、失格チームへの攻撃は禁則とされている。この状況なら、あるいは適用されない可能性もあるが……。
『おまえらと心中か。……クッ、ウケる』
激しさを増す濁流を背に、チタニアは触手を放射状に広げる。完全な挑発だ。
だが、梓真は決断をためらう。
無理矢理引き剥がすにしても、逆襲を受けては元も子もない。
文字通りの難関。
しかし突如として、チタニアが倒れかかる。
『てめ――』
それが末期の声となった。
側面にいたのはポルックス、カストルは正面から。チタニアめがけ、落下物をカタパルトで浴びせかける。
矢継ぎ早にそれを受け、壁際に埋まり、露出していた左腕もとうとう落ちる。
スピカは冷徹に言った。
『……急ぎましょう』
「よかったのか? へたすりゃ失格になるぞ?」
『……』
しかし遅かった。
大量の水とともに落ちてくる巨大な天井、それは波濤を生んで理緒を飲み込んだ。
抗う理緒。だがかなわず、両足ともが床を離れてしまう。
その体を銀色の巨体が抱き抱える。
『ありがとう、助かったわ』
無言のカストル。うなずきもしない。
けれど水位は上り続け、彼の体も埋めていく。ようやく開いた脱出口も、いまや奔流を生み出す元凶でしかない。
『これじゃあ、脱出は……』
水の勢いは衰えを知らず、すでに身動きさえもままならない。スピカもポルックスに背負われていた。
すると――
『……え? 何?』
驚く理緒。ふいにカストルの両腕が持ち上がったからだ。
スピカはつぶやくように言う。
『あなたから……』
『待って。それ、どういう――』
唐突に、理緒の体が宙を舞った。天井の大穴を通り抜け、上の階へと届く。
『ディアナも、早く乗って』
「まこ……」
「あ、うん……」
他に、脱出の手立てはない――それは誰の目にも明らかだ。
梓真の答えにほっとして、スピカもポルックスの前に回る。
『恩田さん。そこ、動かないで』
理緒を基点にしたようだ。方向を微妙に変えて射出して、ディアナとスピカはぶつかることなく上階に着地した。
『……!』
それを待って理緒が飛び出し、大穴の縁で叫んだ。
『ディアナのワイヤーを! 早く!』
「だめだよ」
『……どうして!?』
「もう、この足場は保たない」
まだ崩壊は終わっていなかった。
地下一階の大部分は抜け、残った床にも至る所に亀裂がある。いまだ続く水の流入はそこをめがけて押し寄せていた。
今も床の一カ所が落ち、階下に巨大な水柱を上げる。
『そんな……だって、それじゃ……』
『ここも危ない。早く行きましょう』
『……』
それが自明なことぐらい、彼女にもわかっているだろう。
ディアナとともに出口へと歩き出す理緒。そのすがら、振り返る。
カストル、ポルックス。両者とも、不動の姿勢でこちらを見つめていた。
いっそう激しい崩落が襲って、階下の灯火は完全に消える。
理緒は走り出した。
ディアナとスピカが追いかけるが、その足取りは重く、梓真にはもどかしい。
追いついたのは上り階段の途中。水もここまでは来ていない。
『恩田さん……』
『……』
小窓の陽が、振り向く理緒を赤く染める。
遮ったのは差し出されたフラッグだ。
皆が求める勝者の証しを、理緒は無言で受け取った。
口にしたのは別のことだ。
『カストルとポルックスは……無事?』
『信号は、途絶したまま』
『……』
返答は残酷だった。梓真は掛ける言葉が見つからない。
容赦のない言葉が続く。
『本当はわかってるんでしょ?』
『……え?』
『オルターに
『……』
『誰かのために作られて、誰かのために……使い捨てられる。だって、ただの機械だから。そこにおかしな感情を持ち込んではダメ。……でなくては、この世界にいられない』
理緒は階下に目を逸らす。波濤は消えて、水面は緩やかに揺れていた。
梓真の心も揺れ動く。
何か――ではない、誰かと言ったのはスピカの優しさだ。
しかし疑問も残る。尋ねたのは輝矢だ。
「じゃあ、さっき言ってた私怨って?」
『矛盾……してる?』
「してる」
『……そうかも』
ふふ、と笑ってスピカは黙る。
沈黙を真琴が嫌った。
「……スピカちゃん、これからどうするの?」
『ここまで一緒だったんだもの。最後までつき合う』
「それは嬉しいなあ」
輝矢の声に疑心があるのを、梓真だけが感じ取る。
「梓真。気合い入れ直して。旗を持ち去るまでが試合だよ」
「わかってるよ」
「先生は――」
「わたしはバッチリ!」
「ですよねー」
『……』
「理緒。城を抜ければ、たぶん優勝だよ」
『……そうね』
「もう少しだけ、頼む……理緒」
『ええ、わかってる。けど梓真……』
「ん?」
『キーキー叫ぶのやめてよね! うっとおしくてしょうがないから!』
いきなりの爆発に、梓真は戸惑う。
「あ……ああ、えっと……」
「ほんとだよ。そんなんでよく出場させようって思ったよね」
「や、そりゃ……」
『輝矢、それはわたしが決めたこと。ソイツの言いなりになったわけじゃないわ』
「ちょっとみんな、あっくんの気持ちも考えてあげてよ。あっくんは、瑞季ちゃんに再会したいだけなんだから」
「……おまえに、そこまで話したっけか?」
「うーん、さすが梓真。お兄ちゃんだねえ」
「……俺は、そんな情の深いヤツじゃねえ。もっと……なんてえか、利己的な理由なんだよ」
「っていうと?」
問い返す輝矢に、梓真は沈黙で答えた。
するとスピカが会話に押し入る。
『何か、興味深いお話ね。わたしも知りたい』
「いやコッチの話なんで、それはちょっと……」
『そう。残念』
『……とにかく!』
理緒の強い語気が梓真の頭蓋に響いた。
『言いたいことは言ったわ。あとはやることをやるだけよ』
戦いは、おそらくこれが最後となる。
念入りな整備を済ませ、三体は、静まり返る地上階へ舞い戻った。
広間には累々とする残骸の山。それを強い西日がを染め上げていた。
そしてその中央――
威圧的な声が轟く。
『……それが、本物のフラッグか』
風に、あの偽のフラッグがはためく。掲げていたのはもちろんテーベ。単機、梓真たちを待ち受けていた。
無数に散らばる熱源の残滓に、光り輝く反応が一つ。
あのチーム・ジュピターが、テーベを残し全滅するなど予想外のことだった。
しかし――
理緒たちは広間の手前で足を止める。
威風堂々。オーラと呼ばれるものか。
全身に走る幾筋もの傷も、王者の風格を損なうことはなかった。
手にしたフェイクに力が籠もる。
『俺たちはいっぱい食わされた、というわけだ』
その行為に梓真をにやりとする。
広敷に騙され、梓真たちに出し抜かれ――
常勝不敗の王者も、怒りに我を忘れるらしい。
へし折れた偽りの旗はジャンクの山に加わって、黒いオルターを覆い隠した。
「あれは……」
「ニュクスだね」
まだ暖かい三つの残骸。テーベが討った……のだろうか?
『どうするの? 梓真』
「……合図をしたら、上に走れ」
『上? ああ……』
よかった。輝矢は冷静だ。
「スピカも、いいな」
『……ええ』
テーベがこちらへ向き直る。
「行け!」
一斉に駆ける理緒たち。
その足下をテーベの銃弾が追撃する。聞き覚えのある重低音はチェーンガン、守備部隊からの滷獲物だ。なんとか階段にまで逃げおおせる。
ディアナの反撃も、ニュクスの体を盾に防ぐ。
『ねえ、どうして上なの?』
理緒の声に、階段を叩く靴音が重なる。
「ニュクスを見たな?」
『……ええ』
「テーベだけの仕業とは思えねえ。……いや、テーベを囮にして倒したんだ」
「上に微弱な反応もあるしねえ」
『そういうこと、か……』
理緒は二階を過ぎ、さらに階段を上ろうとする。しかしその目の前を銃弾が襲った。
足を止めた理緒のお尻にスピカがぶつかる。
『……ごめんなさい』
続けざまに火線が降り注ぐ。理緒は後ろへ引くしかなかった。攻撃は対角、吹き抜けを見晴らす四階からだ。
下を覗いたスピカには、チェーンガンが唸りを上げた。
『どうしよう……』
潜んだ壁から一歩も動けない。
テーベはそこを標的に、銃弾の雨を浴びせ始める。レンガを削り鉄筋をむき出しにして、建物ごと破壊するかのよう。
ディアナの狙撃も、ニュクスの残骸に弾痕を増やすだけだ。
『……無理にでも上るしかない』
『でも……』
そうなると――
「理緒、ディアナは残るよ」
『輝矢……』
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