異変

 練習試合から二日後の朝――

 珍しくアラームより先に目を覚めた彼が寝ぼけ眼に見つけたのは、身支度を済ませて靴を履く理緒の姿だった。

「……おはよう」

「……ああ」

 リビングから、母も顔を見せる。

「一口だけでも食べていかない?」

「ごめんね、お母さん。急いでるから」

 理緒は戸口をくぐり、朝日に姿を消す。

「……瑞希ちゃんとケンカでもしたの?」

「いや、そんなんじゃ……」


(俺、態度に出してたか?)

 いつもより早い朝。澄んだ空は見慣れた道を明るく照らしていたが、梓真の心は晴れなかった。

(ん?)

 上り坂に差し掛かる、その手前の大通りに奇妙な二人組が立っていた。ちょうど学校に背中を向けた形だ。

 見渡す限りクルマの気配はない。にもかかわらず、律儀に赤信号を守っている。

 それらは梓真に気づくと、ぺこりと頭を下げた。

 ヴェルとクレイだ。

 普段なら避けて通るところだが、今日はなぜか足が向いた。

「おはようございます、加瀬さん」

「おはようございます」

 鼓動がわずかに速まりはしたが、案外と平気でいられた。

「珍しいな、二人そろって」

「はい! わたし、おつかい初めてです」

 弾む声。胸に両手を握る。彼女はいつものエプロンから解放され、黄色いワンピースに身を包んでいた。

「んで、なんでまた?」

「実は近くの農園の方から、桜の苗木を譲っていただけることになりまして」

「……」

 クレイの答えにモヤっとする何かを感じたが、言葉にするほどの輪郭はない。

「ただ、クルマに積むのを手伝って欲しいそうで、それでわたしたちが」

「なるほどな。けど、なあ……」

「なんです?」

 梓真は一歩引いて、二体のオルターを見比べる。

「なんてえか、ぱっと見、怪しい組み合わせじゃねえか? 職質されそうというか……誘拐案件みてえな」

「加瀬さんひどーい!」

「わたしとしては、姫を守るナイトのつもりなのですが。彼女の着替えも、ほら、ここに」

 と、クレイは手提げの袋を掲げる。

 思わず苦笑を漏らした。いつものジャージからタイなしスーツに着替えようとも、この平凡な顔ではナイトに見えるわけがない。が――

 歩道の信号が点滅から赤へと変わる。

「呼び止めて悪かったな」

 梓真は片手を上げて、その場から退散することにした。

「加瀬さんの卒業までには咲かせてみせますから」

「楽しみにしててくださいねー」

 温暖化が桜の開花時期を早め、東北のこの辺りには、ちょうど卒業シーズンに桜前線がやってくる。直撃すればさぞ華やかな卒業式になるだろう。

 ……しかし、苗木が一年ちょっとで花を咲かせるものだろうか?

(テキトーなこと言いやがって、あいつら……)

 また笑みがこぼれる。きっと悪気はないのだろう。ちょっと、夢を見せただけだ。

 梓真はそれに乗せられて、想像力を働かせた。

 ここからぎりぎり見える正門のその向こう――

 満開の桜の大樹と、舞う花びら。

 手に卒業証書を握り、涙を浮かる真琴をからかい、別れを告げて、校門へと歩を進める。

 隣には輝矢と――

(……!)

 ふいに胸が締め付け、梓真は想像を打ち消す。

(その頃には、あいつはもう、どこかへ……)

 足取りはまた重くなっていた。


 先日のハデな試合、加えて本戦も近い。今日こそフルメンテナンスをすべきでは。

 ――輝矢の話を要約するとこんな感じだ。

 実に当を得た提案だが、梓真は気乗りがしなった。フルメンテナンスともなると時間もかかるし、気も抜けない。今日の梓真にそのテンションはなかった。

 食い下がる輝矢に、梓真は代案をひねり出す。

「実戦練習を兼ねて? 理緒がメインで?」

 戦うだけがSCではない。戦場における補修作業も立派な“実戦”だ。

「そう。で、お前がフォロー。……じゃ、頼んだぞ」

「……」

 納得できない――彼はあからさまな態度に出したが、梓真は素知らぬフリをした。

「わたしがマルスを操って、メルクリウスとディアナを整備すればいいのね?」

「ああ」

 淡々と理緒は準備を進め、それを見た輝矢も不承不承に従った。

 イスに座った理緒が視線を送ると、三体のオルターはそれぞれ動作を開始する。

 作業台に寝そべるメルクリウスとディアナ。マルスは工具と交換部品を取りに向かう。

 戦闘用に限らず、オルターを複数所有している場合の点検・修理は、オルター同士に行わせるのが一般的だ。ただごくまれに、人の目がオルターの見逃しを見つけることもなくはない。

 特に痛み易いのが人工筋肉だ。先日の試合のような肉弾戦を行うと、強い負荷が繊維を痛め、わずかずつ断裂する。放置してもさほどの影響はないが、性能は徐々に落ちてゆく。

 その他、神経に当たる光ファイバー、フレーム、センサーも、明らかな破損は自身が感知・警告するものの、それ未満の「外れそうな」「壊れるかもしれない」程度の異常が、目視で確認できることもある。

 三体いるなら通常、二体で一体の整備を行う。一体がニ体を同時に整備となれば、手数は半分、作業は倍となり、監督役の操縦者は四倍の負担を強いられることになる。

 しかしそれこそが梓真の意図した“本戦を想定した練習”だった。実戦において、稼働できる機体が一体しかない場合も十分ありえる、けれど――

 それをまだ経験の浅い理緒にやらせる理由はどこにもない。本戦で、梓真と輝矢の両方が欠けるような状況はおそらくないだろう。

「まず整備機体にアクセスしないと、内部装甲は開かないよ」

「……わかった」

 輝矢の指示に答える理緒。声に緊張を滲ませていた。

 案の定、マルスの動作が安定していない。通常整備であれば、いくつかある項目を選択するだけなのだが、今回のマニュアルにないやり方に、理緒ばかりか、マルスまでもが戸惑いを見せている。

 輝矢の配慮で、検査は足先から始まった。圧力センサーが集中する足裏は面倒だが、それを終えてしまえばしばらくは楽ができる。それまでに作業に慣れさせて、筋肉の交換させるつもりのようだ。

 両機の脚部点検は順調に進み、理緒は二カ所の補修と人工筋肉を含む五カ所のパーツ交換を無事完了させる。

 けれど、そこまでだった。

「理緒、今のところケーブルが外れてる。もう一度よく見て」

「あ、ごめんなさい」

「それから、さっきお腹の冷却シートが剥がれたままなってた。今直しておかないと忘れちゃうよ」

「……気をつけるわ」

 しおらしく答えて、理緒の口は真一文字に引き結ばれる。

 作業が胴体部に及ぶと、理緒のミスは目に見えて増えていった。当たり前だ。胴部は腕や足に比べ部品の種類が圧倒的に多く、筋肉・配線も複雑に入り組んでいる。初心者の手には余るだろう。

 輝矢の冷ややかな視線が梓真を刺す。

「……潮時じゃない?」

「……」

 彼の言うとおりだった。

 梓真は無言で理緒へ歩み寄る。没頭していた理緒は、正面に来てようやく顔を上げた。

「……ちゃんと、できるから」

「いや……」

 梓真は語尾を濁し、交代の合図にただ左手を差し出した。

 ゆっくりと理緒が吐息をもらす。ゴーグルを外したその顔は、かすかな悔しさを滲ませていた。

 梓真もふう、と一息。そして譲られた席に腰を落ち着ける。

 まだ、胸にもやもやとしたものが渦巻いている。今日の自分は致命的なミスをやらかしかねない――そんな自覚があった。

(ま、輝矢が見てっからな。……ともかく、全部吐き出そう)

 もう一度、今度は深呼吸。それからゴーグルをかぶる。そこには大きく開いたメルクリウスの胸部と、マルスの両手が映し出されていた。

 梓真は思念を送る。

(マルス、それを奥に入れてくれ)

 それ、とはマルスの右手に握られたCCDカメラのことだ。明確な名前を意識しなくてもBMIはそれを伝達してくれるはずだった。

 しかし、マルスは微動だにしない。

 ことの深刻さに、梓真はまだ気づいていなかった。

(その右手のカメラだよ! それをメルクリウスの胸の……)

 思念にいらだちが籠もる。だがやはり、マルスは彫像と化して、凍り付いたまま動かない。

(マルス……)

 気を取り直し、ゴーグルの位置を修正する。だが結果は同じだった。

「マルス!」

 ようやく、前屈みのマルスが振り向く。だがそれは梓真の声に対しての反応だ。

 梓真はゴーグルを外し、

「……壊れたか?」

 と、おどけて見せるも、動揺は隠せない。ついさっきまで理緒の指示に従っていたのだから、器機の不備はありえなかった。

 問題があるとすれば――

「……梓真。脳波がいくつか、規定レベルに達してない」

「……」

「梓真……」

「……聞こえたよ」

 それは梓真にとって最悪の宣告だった。

「診察を受ける、いい機会だよ。小野先生に診てもらったほうがいい」

「……そうだな……それもいいかもな」

 反射的に答えたが、梓真の頭はそれどころではなかった。

 もしこのまま元に戻らなかったら――不安が、恐怖が襲いかかる。

(脳の異常……いや時間をかければ治んだろ! そうに決まってる!! ……問題はSCだ)

 たとえば、輝矢のようにキーボードとスティックでの操作に切り替えれば?

(駄目だ! あれは慣れるまでに時間がかかる。本戦にはとても間に合わねえ!)

 何より気がかりなのは――

(どうしてだ? なぜ突然使えなくなった? 俺のせいなのか? 俺が、マルスを……)

 無意識に力が込もり、両手で持ったゴーグルが目の前で震えていた。

「梓真!」

 はっと顔を上げると、いつからか輝矢がいた。

「とにかく、今日はもう帰ったら? 後始末は僕がやっとくから」

「……」

 迷ったあげく、梓真は彼に従った。

 下駄箱に向かう途中に購買部へ向かったのは、ほんの気まぐれにすぎない。ただなんとなく、ヴェルに会って気を紛らわせたかった。

 ところが――

「……はい、いらっしゃぁい。……って、なんだ、あっくんか」

 気怠そうに体を起こしたのは、なんと真琴だった。しかも訪問者が梓真とわかるや、ふたたびカウンターに突っ伏してしまう。

「店員がそんな態度でいいのかよ?」

「だあってえ、退屈なんだもん。四時には交代が来るって言ったのに。……松本の嘘つき」

 もごもごとグチをこぼしながら、真琴はやっと、顔だけを前に向けた。

「あー、それで、……ヴェルは?」

「出かけたっきり。クレイもね。こんなに遅いなんて、二人で映画でも見てんじゃないの」

「まさか」

「だいたい、こんな時期に苗木とか……」

「なんか問題が?」

「だって樹木の付け替えって、もっと寒い時期にやるのよ。どうせだったら、その頃くれればいいのに」

「ヴェルの代わりにお前が出向いて、そう言ってやりゃあいいだろう?」

「やあよ、めんどくさい」

 真琴は目を背け、今度は頬を台に押しつける。

「ま、元気そうなのは何よりだ」

「え、心配してたの?」

「この前の試合から、なんか授業に身が入ってなかったろ? いろいろと、疲れたんじゃねえかって」

 すると真琴は顔をピョっと上げ、咳払いのあとかしこまり、

「よ、ようこそ加瀬さん。本日は、な、何をご所望ですかぁ?」

 と、可愛らしく小首を傾げてみせる。もしかしてヴェルの物まねだろうか? 似ていないし、似合ってもいない。

 これにはツッコむ気すら起きなかった。

「……じゃ」

「あー! もっといてよー! 一人はいやあー!」

 いつもどおりの真琴の姿に、思わず苦笑がもれる。

「また明日な」


 真琴に加え、外の空気と夕焼けが梓真を少し元気にした。

 輝矢は正しい。いつもそうだ。もし、まだ部室にいたら、うじうじと思い悩んでいただけだろう。

(このままじゃ駄目だな。やっぱり――)

 門扉を境に覚悟を決める。

 そこに届く聞き慣れた声。

「あなた、変よ」

 振り向くと、理緒は伏し目ぎみにこちらを窺っていた。

 梓真は開きかけた口を引き結ぶ。

(変なのはお前だろう)

 いつもと違う帰り道を、彼女は数歩下がって追ってくる。

 黄昏色のプラットホームにたどり着き、梓真は時刻表を確かめながら、ぼそり声を漏らした。

「輝矢に言われたのか?」

「違うわよ」

 透明の屋根の下、吹きさらしのベンチには誰もいない。

 LRTは定刻どおりに到着した。

 乗車口の奥から女性車掌が出迎える。もちろんオルターだ。

「目的の停留所を教えてください」

「小野病院前……」

「小野病院前ですね? わかりました」

 LRTは無人操縦、運転手はいない。他に人影は、後部に座る身綺麗な老婆だけだ。

 梓真が車両の中程に座ると、理緒は通路を挟んだ反対に腰を落ち着けた。なぜかその口元から含み笑いがもれている。

「……なんだよ」

「ちゃんと言えるじゃない、オルター相手に」

「アホか。あれぐらい幼稚園児でも言えるぞ」

「……あなた、やっぱり変よ」

 理緒の笑みは一瞬で消える。

「……わたしに言いたいこと、あるんでしょ?」

「言いたいこと、たって……」

「言いなさいよ」

 梓真はこっそり左の手首を押さえ、その後、膝と体を彼女に向けた。

(ああ、やっぱり……)

 強い活力を宿した目が見つめていた。

「……この前おまえに助けられて、わかった」

「……」

「理緒、おまえ……は……」

 少女は顔を曇らせる。

「……理緒、おまえが……好きだ!」

「……!?」

 理緒の顔から陰りは失せ、目がまん丸に見開いた。

「…………」

「…………」

 梓真が沈黙を我慢できなくなるまでに、そう長くはかからなかった。

「……みたいな?」

 へらっと笑った顔に向け、平手打ちが飛んできた。

「ばばば、ば、馬っ鹿じゃないの!!」

「いっつ……」

「ひ、人がまじめに話してるのに、あ、あんた、なんなの!?」

 真っ赤な顔がそっぽを向いた。

 梓真の頬も真っ赤だろう。

(やれやれ……)

 梓真は自分の失敗を認めながらも、不思議と後悔はなかった。

 とはいえ、どう取りなそう?

「なあ……」

「……」

 腕を組み、外を見つめ続ける理緒。夕焼けより赤い耳がかろうじて目に入る。

 そんな時だった。突然理緒が叫んだ。

「お願い! 止めて!!」

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