帰路

 一寸先は闇、とはこういうものか――

 梓真の意識は窓の外へ飛んだ。

 空も路面も、そこにあるはずの山肌も闇。目に映るのはヘッドライトに照らされた落石防止のネットだけだ。

 重苦しさはクルマの中にも漂う。

 しかし――

「はあ、なんか疲れちゃったね」

 そのひとことで闇の世界を抜ける。梓真は空気を読まない真琴に感謝しつつ、

「おまえ、昼間寝てたじゃねえか」

「えへへ。……でも、疲れたものは疲れたの!」

「まあなあ……」

「あの広敷教授のご高説、先生はどう思いました?」

「うーん、国語の先生にはちょっと、難しかったか……な」

「いいから、素直な感想を言ってみてくださいよ」

「そおねえ、オルターが神の領域に至るとか、正直思えないのよねえ」

「うんうん」

「あー、輝くん馬鹿にしてるでしょぉ」

「とんでもない。僕も先生に同意ですよ」

「ほんとお?」

「はい。まずですねえ、オルターのAIが人の記憶容量を越えているのは事実です。いずれ魂に似た何かを宿す可能性も捨て切れません」

「……ほんとに?」

「僕はそう思ってます。でもそれが神へ高まることはありえない。……ねっ、梓真」

「いや、オルターに魂とかねえだろ」

「あらら……」

「魂が芽生えるなら神になることだってあるかもだが、アイツの言った神ってのは、崇めたてまつる神様じゃなくて、人知を越えた存在って意味だろ? それならそういう可能性も――」

「いーや、ないね」

「その根拠は?」

「かんたん、物理的限界。彼らは結局人間サイズに納める必要があるから、教授のおっしゃる文字列の海は、大海に変わることはないのさ」

「ほー、人間サイズでなきゃいいのか。じゃあスーパーコンピューターはどうだ? あれには物理的限界がないぞ」

「あっちはねえ、神以前に、知性が現れないというか……」

「なんでだよ?」

「あ、なんとなくわかるぅ」

「……おまえが?」

 梓真は、彼女が教師ということを完全に忘れている。

「ほら、クジラって、脳は人より大きいじゃない? なのに人間のほうが頭いいでしょ」

「あれの脳がデカいのは、デカい体をコントロールするからで――」

「それだけじゃないの。大事なのは手! 手なの!」

「手?」

「そ。脳の発達に不可欠なのは外部からの刺激なんだって。特に大事なのが手!」

「じゃあサルは……」

「そこから進化したのが人間じゃない」

「なるほどな……」

「手も含めて、形態は重要なんだよ。道具を作って町を造って共同生活を送る、なんてこと、クジラにできない。スーパーコンピューターも、あれは計算が速いただの機械さ」

「……」

「なんか、梓真やっぱり疲れてる? なんか冴えないね」

「オルターが神になれるなら……」

「だからなれないって」

「……悪事も犯せるか? たとえば自分と同じオルターを破壊する、とか……」

「それ、オルターキラーのこと言ってるの? あれがオルターの仕業だって」

「……ずっと引っかかってて、な……」

 オルターは、条件次第で人も殺す。相手がオルターなら、さらにハードルは下がるだろう。

「あのねえ、梓真も知ってるだろ? オルターは法律を厳密に守るよう、倫理機構に制御されてるって」

「だから倫理機構を取っ払っちまえば――」

「無理無理。あれ、イメージとしてはAIのアウトプットの制御だけど、実際には基本OSに紛れ込んでて、倫理機構だけを抜き出すなんてことは不可能だよ」

「文字列の海、か……」

「そう。一つ二つ見つけられて消去したとしても、AIは絶えずアップデートされるから、すぐに元通りになっちゃう。だから…………」

「……どうした?」

 その不自然な間に、梓真は後部座席を振り返った。

「……いや、でも、まさか……」

「なんだよ?」

「いやなんでもない。考えすぎ考えすぎ」

「……」

 ぶんぶんと輝矢は首を振り回した。

 ふと、その隣に目を移す。

 虚ろな目は、窓の雨滴を追いかけている。上向きの顔は回復の兆し――そう思っていいのだろうか。

 それにしても――

(スゲエ安全運転だな)

 窓の様子に梓真が苛立つ。ワイパーにはじかれたフロントガラスの水滴は、後ろに流れることもなく、ライトが照らす切り通しもスローモーションのようだ。

「……なあ、なんで自動運転にしてねえんだ?」

「それがね、この辺は地形データの更新が終わってないんですって」

 旧式車の自動運転には、道や信号機に埋め込まれたトランスポンダーの存在が不可欠だ。そして無人の地域に続くこの道の優先順位は当然低い。

 それでも、ゆっくりとだが窓の左に鈍色の空が広がり、やがてクルマは谷間を抜けた。

 道はゆるやかな下り。

 そのはるか先、うねるようなガードレールの向こうに点滅している何かがあった。

「あれもお仲間かな?」

「あは。アレは、さすがに自動じゃないわね」

 梓真もあきれた。

(物好きもいたもんだ。命が惜しく……ねえんだろうなあ……)

 対向車は、カーブの続く崖の道を猛スピードで飛ばしていた。

 どうやら濡れた路面を利用して、ドリフト走行の練習をしているようだ。迫り来るクルマは右に左にライトを振り、道いっぱいに車体を広げてまた戻る。

 その様子に、二人の減らず口も止む。

 彼らだけではない、たぶん全員がいやな予感がしただろう。

 そして、それは見事に的中した。

「きゃ!!」

「って、おい!」

 クラクションを物ともせずに急接近したスポーツカーは、梓真たちをガードレールに押し付けてそのまま走り去っていった。

「……やっちゃった……やっちゃった……やっちゃった……」

「落ち着け! おまえのせいじゃねえから!」

「ポボス、ナンバー撮れてる?」

「バッチリ」

「どどどどうしようあっくん!」

「落ち着けって! こういう時はだな……」

「警察に通報」

「そう! それだ!」

 だが、不吉な軋みに車内は沈黙する。窓の景色があり得ないほど傾き、左の車窓には崖下が待ちかまえていた。

 落下すればどうなるか――

「……まず、降りよっか?」

 輝矢の提案にもちろん異論はない。が、下手に動けば、ガードレールごと転落する可能性もある。

「……いいか、先にマルスたちを一体ずつ降ろして、クルマを支えさせる。で、どうだ?」

 はたしてそれが正しいのか、しかし全員がうなずいた。

「じゃ、やるぞ」

 梓真はゴーグルで作戦を三体に伝えた。

 細かな指示は出さない。この状況なら、きっと彼らの方が的確な判断を下せるだろう。

 ――そう思った矢先にクルマが揺れ、自信も揺らいだ。

 ……今は信じるしかない!

「降りる順番決めとくぞ。まず理緒、輝矢、それからまこ、最後は俺だ」

「ワタシハ?」

「わりい、忘れてた」

「ジャ、最後はワタシ」

「でも、それじゃ……」

「ここは梓真に従おうよ」

「理緒ちゃん。わたしは平気だから」

「……」

 梓真は車内の問答よりも、マルスの視界に目を奪われていた。辺りには根を張る植物は見あたらず、代わりにパイルを路面に打ち込んでいる。メルクリウスのメイスも地面を穿ち、二体とクルマをメルクリウスが支える。

 万全とはいえないが、これ以上できることもなさそうだ。

「準備できた。行け!」

 決断した彼女の行動は早かった。

 右後部のドアを力任せに押し込んで人一人分の隙間を作り、そこに体を滑り込ませる。

 ふたたび車体は揺れて、梓真は恐怖を飲み込んだ。続いて輝矢が這い出たあとに、ようやく一息吐いた。

 その直後、クルマが大きく傾く。

「梓真!」

 ひしゃげた出口から輝矢が叫んだ。

「……大丈夫だ。次、まこ」

「それが、ドア、開かなくて……」

 顔が恐怖と焦りで歪んでいた。輝矢も外から取り付くが、

「……これ、開かない……!」

「そんな!」

「まこ。シートを倒して、後ろから出るんだ」

「……」

「大丈夫だから、がんばれ」

 逸る気持ちは梓真も同じだ。励ましは、自分に対してでもあった。

 ともかく真琴は落ち着きを取り戻し、輝矢と理緒に引きずられ、ようやく脱出に成功する。

 だが同時に車体はさらに大きく揺らいだ。

「梓真! 早く!」

「ああ……わかって……る!」

 ヘッドレストを頼りに頭を突き出すと、体勢が整わないまま輝矢が胸ぐらを掴んだ。

「お手柔らかに……」

「死ぬよりマシでしょ」

 上半身が車外に出ると、理緒も加わり、やっとのことで地面を踏む。

 振り返る余裕ができたのは、崖から遠ざかったあとのことだ。ちゃんとポボスも脱出していた。

 そこで初めて周りの明るさに気づく。オルターのライト三つが梓真たちを照らしていた。

「ふうぅー! マジに死ぬかと思ったあ……」

「ホント。みんな無事で何より」

 笑みを湛える輝矢と真琴。ところがその隣では、理緒がへの字の口と腕組みで、不平を形にしていた。

「まったく……、あんた、何かに祟られてるんじゃないの?」

「んだと! おまえこそ、この雨女!」

「二人トモ、ヤメ!!」

 ポボスが二人の間に割って入った。

「んだよ?」

「クルマガ――」

 最後まで聞き取ることはできなかった。

 光と音――それが突然襲ったからだ。

 目も眩む光を全身に浴びせ、続く警笛に梓真は道の端へと逃れる。

 今度のクルマは後ろから現れた。行く手に事故車がいるとは、予想もしていなかっただろう。急ハンドルが裏目に出て、クルマは横向きのまま迫ってくる。

 梓真はとっさにガードレールを飛び越えた。

 しかし無情にも、衝撃が両手を引き剥がす。

(嘘だろ!)

 外れたガードレールの端が目の前にある。だが手は虚しく宙を掴んだ。

 もはや彼を助けるものは何もない。ただ天を仰ぐ。――真っ暗だ。

 景色が映画の一場面のようにスローモーションで流れていく。 

 遠ざかる崖。

 無数の雨粒。

 共に落ちていく赤いトラック。

 ――いやだ! 死にたくねえ!

 ――そうか、これで終わりか……

 加速する意識に感情が交差する。そこには死を拒み、そして受け入れる二人の梓真がいた。

 ――俺はまだ何もしてねえ!

 ――どうせ、やりたいこともねえし。進路? なんだよそれ。

 ――死ぬもんか! せっかく元の体に戻ったんだ! 絶対生き残ってやる!

 ――今度は無理だろ。あんなリハビリ、死んだ方がマシだ。

 ――俺がいなきゃ母さんは……

 ――そうか、もう何もしなくていいのか。

 ――親父を、瑞希の手がかりを……

 ――もう何もしなくていいんだ。

 崖から二人がのぞき込んでいた。

 ――輝矢! まこ! 助けてくれ!!

 ――良かった、二人とも無事なんだな。

 ……梓真!!

(今の、まさか瑞希……か?)

 ふと我に返る。

(理緒が、理緒がいない! 理緒はどこだ!?)

「梓真!!」

 今度ははっきりとわかる。理緒だ。その声と手が、梓真を死の淵から引き戻す。

 濡れた梓真の左腕に、彼女の右手がぬくもりを伝えていた。

「おまえ……」

「この、ドジ!」

「馬鹿! おまえまで――」

 乗り出した彼女の体も宙に浮き、ついに斜面を滑り落ちていく。

 それでも理緒は放さない。

 だが突然落下は止まり、硬い岩場が二人を叩く。

 その反動で抜けそうになる腕に、理緒の右手が力を込めた。

(い……てえ……。だが、なんで……)

 見上げると、輝矢が理緒の足を掴んでいた。

「じっとして! 今引き上げるから!」

「そんなのおまえに……って、あいつらか!」

「他にいないでしょ!」

 輝矢の体が岩陰に隠れるにつれ、二人の体も斜面を登った。マルスたちが引き上げているのは間違いない。

「……やれやれ、魚になった気分だ」

 無事生還を果たし、梓真の口は軽くなった。少し前にはまな板の鯉だったのに。

「……の、のんきだね、ハァ……僕は、に、二度とゴメンだよ、……ハァ、ハァ……」

「……助かったよ、輝矢。それに……」

 命の恩人を目で順に追った。へたり込んで息も絶え絶えの輝矢、三体のオルター、それに――

「……なんつーか、一生分の借りができた、みてえな……」

「別に、恩に着せるつもりはないわ。忘れてくれて結構よ」

「おまえがそう言うなら、そうするさ」

「……」

 見つめ合う二人。泥だらけの体を雨が洗い流す。

 だがふと、理緒だけが目が反らし、思わず梓真は笑みを浮かべた。

 さっきの、梓真を助けた真剣な面差し――あれを忘れることなどできそうもない。

 つんと横を向いたままの理緒に、梓真は想い送り続ける。

 しかし、それも束の間――

 ここには一人、空気の読めない彼女がいた。

「あっく~ん!!」

「よお、ま……っぐ……」

 柔らかな二つの感触に、梓真は息を詰まらせる。真琴の抱擁はそれほど強烈だった。

「もう!! 死んだかと思ったんだからあ!!」

「……わか……った! わかったから!」

 圧死寸前、くぐもる声で降参を叫び、ようやく梓真は解放される。

「……まあ、さっきよりはマシな死に方だが」

「……ばか」

 涙混じりのその声が、心にずしりと伸し掛かる。

「おまえも、大丈夫みてえだな」

「……うん」

「心配、掛けたな」

「……ホントだよ」

 そんな二人の前に輝矢が訪れる。

「ここの前後にメルクリウスとディアナを立たせたよ」

「……ああ。三回めは御免だからな」

「警察には今、理緒が電話してる。あとは……」

 まだそこには、衝突してきたミニバンがいた。

 傷のない車体の右をマルスのライトが照らしている。大きく開いた窓には運転者の輪郭が浮かび、まるでこちらを窺っているよう。

「……ちょっと、行ってくるよ」

「ああ、頼む」

 それを見計らったように、ミニバンは逃走を開始した。

「おい!!」

 梓真の怒声も届かない。

 クルマは水しぶきを上げながら、見る間に雨の峠へ消えていった。

「くそ、なんだよ……」

「よかったの? 逃がして」

「いいさ。証拠も残ってるし」

 オルターを使って強引に止めることもできたが、しかしそれでは新たな火種を蒔きかねない。

「やっかいごとは、もううんざりだ……」

 梓真は呟きながら、痛む左の手首を押さえた。

「ケガした?」

「……なんでもねえよ。それより……」

 理緒は真琴が手当していた。

「ごめんね、こんなので」

「いえ……」

「救急箱、クルマと一緒に落ちちゃったから」

 理緒の腕に巻かれたハンカチには、赤く血が滲んでいた。

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