雨の中、傘の下
空をどんよりと雲が立ちこめ、しとどに夕暮れの世界を塗りつぶしている。
星川市はあちこちに高台や丘がある、つまり田舎だ。梓真が越してきたのは四歳の時。生まれは東京だが、都会を恋しいとも田舎を嫌だとも思わない。都会に憧れる生徒は多いが、自分にはこんな田舎が好ましい。人混みで暮らすなどまっぴらゴメンだ――そう感じていた。
ただ一点、この田舎の町が国の“生活向上重点都市”に指定されたことを除けば、だったが。
日本の人口は減少を続け、地方では過疎化と少子化が悪化の一途をたどり、深刻な社会問題となっていた。この地域も例外ではない。
政府は対策に乗り出す。
まず行われたのが人と箱物のスリム化だった。四つの町と村を合併し、中央に役場や病院などの施設を集約して最小限の人材を確保する。住宅や商店はその周りに配された。それにより生活インフラの密度を上げ、質の向上とともに低コストと省力化を実現する。21世紀初めに提唱されたコンパクトシティ計画だ。
合理化に効率化、過疎に対応した人造の街。人と物を同列にする扱いに、暖かみは感じられない。けれど、そうしなくてはならないほど、この町は人が不足していた。
こうして新たに星川市が誕生する。それでも、いったん始まった過疎化の波は収まる気配をみせず、市は次に、政府が募集した人口減少対策のモデル都市に志願する。
生活向上重点都市――その計画の要となるのが“オルター”の大々的な導入だった。
(おっと……)
靴に水が染み込んで、梓真は慌てて飛び越す。路側帯の陰に水たまりができていた。
華やかなネオンで色づく駅前の商店街。まばらな人影は雨のせいなのだろうか? 主婦やサラリーマンの姿はない。目に付くのは帰宅途中の学生と、それから――
「キャンペーンをやっています。ぜひご来店ください」
突然の声に梓真はたじろぐ。
傘の下から差し出されたのはポケットティッシュ。コンタクトレンズの広告だった。
またしても、例の動悸が始まる。
「……あ、あいにく、目はいい方、なんだ」
「そうですか。大変失礼いたしました」
一歩下がる梓真に、頭を下げる店員。その口調には、感情に似せた別の何かがあった。
梓真は少し離れてようやく一息吐く。
「やれやれ……」
情けない。自分でもわかっていた。
人を演じる機械――オルター。
試験的にまず少数が導入された彼らは、機能と制度の刷新を繰り返しながら、徐々に数と活動の場を広げていった。オフィス、工場、工事現場、医療施設に役所、飲食店、さらには民家まで。町のあらゆるところに彼らが溢れていく。
物心つく頃から暮らしてきた梓真は、その変化を肌に感じながら成長した。
すべて順調だったわけではない。
街に異物が入り込むのだ。人々には当然、不安や反発も生まれる。離れていく住人も少なからずいた。しかし混乱の中、生活の負担が改善のきざしを見せ始めると、不満の声は薄れていった。
評判や物珍しさから流入する者も増え、十年で人口増と出生率の向上を果たす。すると政府は、星川市をオルター導入の成功ケースとして取り上げ、そのノウハウを全国に広めていく。
存続すら危ぶまれたこの町がついに生き延びたのは、彼ら、オルターのおかげだった。
けれど――
この商店街を通るたび、梓真は取り残された気分にとらわれる。
彼はオルターを嫌っていた。いつからか、なぜそうなったのかは覚えていない。記憶を辿ると、導入当初はむしろ好意的だったはず。
(なんでおまえらは平気なんだ……)
雨の中、一ブロック先で何かの工事が行われていた。効率よく、阿吽の呼吸で荷物を運び出す作業服姿の二人組。一人は人間、一方はオルターだ。
ファミレスの窓に映るオルターは、ウェイトレスの姿で客のグラスにワインを注いでいる。若いカップルは最後まで笑顔を崩すことはなかった。
どちらのオルターも動きに機械的な不自然さはない。完全な人の動作のコピーだ。
(どこもかしこもオルター、オルターかよ……)
この距離で彼らの正体を見抜くことができるのは、きっと梓真だけだろう。それだけオルターに敏感だった。
ロボットでもアンドロイドでもない、“オルター”と呼ばれることには理由があった。外見や動作だけではなく、その肌の感触までも人に似せていたからだ。
暖かさ、やわらかさ、皺の寄り方まで、人の模倣。
それが街と人々の間に違和感なく溶け込むための措置である――として、とある企業が、より身近に、より人間らしくをコンセプトに売り出したのが“ALTER”だ。一部の国でバイクをホンダと呼ぶように、その商品名はいまや自動人形の代名詞として世界で使用されていた。
梓真にとっては、そのコンセプトこそが生理的嫌悪の理由であるにもかかわらず。
(今日は散々だったな……)
動物的感でオルターを避ける梓真が、一日に三度も接触を持つことは珍しい。夕乃に馬鹿にされ、真琴に小言を言われ、さらに朝には……。
通学路の、文字通り避けては通れない駅前通りから外れて、梓真はようやく緊張を解く。
そこは人影のない閑静な住宅街だった。
鮮やかな看板とショーウィンドーも消えて、辺りを照らすのは街路灯だけ。蛍火のような窓の明かりがなければ、人がいることすら疑いそうなほどだ。
(さすがに、もう何もねえだろ)
そう思うと雨音や暗がりすら楽しく、足取りも弾んだ。
その先に本日最後の、そして最悪の災厄が待ち受けているとも知らずに――
それは唐突に訪れる。
「触わらないでって言ってるでしょ!」
(なんだ……?)
暗闇に声が響いた。間を置いてふたたび、
「余計なお世話よ!」
厄介ごとは避ける
(くだらねえ。痴話喧嘩かよ……)
とも、言い切れない。男はスーツ姿のビジネスマン風で、女は学生服、しかも東稜高の制服を身につけていた。
それとも倫理上問題のあるカップルなのか。
梓真は野次馬的好奇心に負け、建物に隠れてこっそりと目を凝らした。
「来ないでよ!」
近寄ろうとする男を少女が追い払う。
少女は全身がずぶ濡れだ。彼女の物か、地面には傘が捨て置かれている。
梓真が目を戻す、その一瞬、偶然視線が少女と交錯した。
炎のような意志を感じる強い眼光。それには見覚えがあった。
(あいつか!)
昼休みに部室をのぞいていた、あの
梓真は一も二もなく飛び出した。
飛び出してから、後悔する。
「ああ!? なんだ、お前……!」
(うわ……)
しゃがれた声のサラリーマンは、遠目で見るより肉付きが良かった。一方の梓真は腕力にまるで自信がない。もとより、力づくでこの場を収めるつもりなどさらさらなかった。
男が赤ら顔の千鳥足で近づく。
「あのなあ、言っとくけど、俺ぁなあ、別にいいー……ヒック……」
(ああそうですか……ってくせえな!)
酔っぱらいのナンパほど始末に困るものはない。理屈も通じないだろう。
迷った挙げ句に出した結論は「殴られて、男に気分良く退散してもらうこと」だった。
(……どうせ最悪の日だ、派手に終わらせてやろう)
梓真はドラマに出てくるチンピラ風に言い放った。
「よお、何してんだ、テメエ」
身長では梓真に劣るものの、
(
「おおいノッポ! だからぁ、俺ぁただ、あの子にだな……」
「ああ!?」
凄みを利かせ背を屈め、目線を合わせる。
(ほれ、ここ。今ならいい感じに入るぞ)
梓真は額をミリ単位まで寄せ、挑発するように顔を横に傾げる。一方で歯を食いしばることも忘れなかった。
「やっ……あの……」
「んー?」
しかし――
覚悟も虚しく、男は「ひっ!」と顔を引き攣らせ、よろけながら暗がりに消えてしまう。
住宅街に静けさが戻った。
そこに清涼な声が響く。
「ヤンキーって絶滅したんだと思ってたわ」
「……ふん」
恩に着せるつもりはなかったが、その言いように腹を立てる。しかし少女は続けて、
「わたしを助けたのよね?」
と、まじまじとした視線を送ってきた。
(ん? 助けた?)
梓真は狐に
「アイツ、なんで逃げ出したんだ?」
「何言ってるの?」
「いやだって――」
「あんなの、わたし一人でどうにでもできたのに」
「……」
梓真は理解していなかった。自分の仏頂面のアップに、たいていの人間が耐えられないことを。
「そうかい」
「でも、一応礼は言っとくわ。見返りは期待しないでほしいけど」
なんだか面倒そうな女だった。だが一瞬見せた笑顔が、梓真の心を奪う。
「……」
気恥ずかしく、言葉も出ない。
梓真は一度、去ろうとしたが、彼女は濡れに塗れている。
だから地面の傘に手を伸ばした。
それが大きな過ちとも知らず。
「これ、おまえのじゃ――」
「触わらないで!」
ぴしゃり、と少女が一言。
「だっておまえ、びしょ濡れ――」
「いいから!!」
傘を拾う――それだけだ。何がダメなのだろう。捨て猫でもいる?
確認のため梓真はしゃがみ、開いたままの傘の下に顔を寄せた。
途端、腰が抜ける。
水たまりに尻餅をつき、買ったばかりの傘を放り出した。
驚異と恐怖を知覚したのはそのあとだ。
「なっ!! ……おっ!!」
闇に潜む、ちぎれた頭。白い目が、恨みがましく宙を睨んでいる。
頭だけではない。傘からはみ出た腰と足が、夜の雨に晒されていた。
「おっおま、なん、でっ……」
「……」
少女は無表情、微動だにしない。死体を目の前にして、どうして平静を保っていられる?
(ひょっとして……)
蒸れた雨土の臭いに、それは紛れ込んでいた。
呼吸を整えて目を凝らす。と、周囲の水たまりにキラキラと輝く何かがある。人の血とは明らかに違う。
(……オイル、か)
恐る恐る傘の下をのぞくと、首と胴体は太いコードで繋がっていた。
「オルター……」
「そう」
「……」
「……どうしたの?」
その声は梓真の耳に届いていない。へたり込み、ただ呆然と壊れたオルターを見つめていた。
オルター。梓真の恐怖の象徴。だが梓真は、壊れた機械に哀れみを感じた。
ふと、雨が止む。見上げると、少女が彼の傘で雨から守っていた。
もう片方の手を梓真に差し伸べながら。
「ほら」
「……いや」
「いいから」
少女は泥塗みれの梓真の手を躊躇なく握り、力強く引き上げる。
「ねえ……」
「あ……ああ、わりい……」
「じゃなくて、あなたの?」
少女の見つめる先に携帯端末が落ちている。梓真は急いで水たまりから救い出すが、画面は大きくひび割れていた。
「……」
電源も入らない。
(買い換えコースだな、こりゃ……)
軽く息を吐き、そのままポケットに押し込む。端末は汚れていたが、それ以上にスラックスも泥塗れだ。
「……で、ここで何してんだ?」
少女の支える傘の下、梓真は自分のヘマをごまかすように尋ねてみた。
「警察を待ってるのよ」
「そうか」
「ええ」
「……」
会話が途切れ、傘を叩く雨粒だけが耳に付く。
(大きめの買っといて正解だったな。……いやいや、それならいっしょにタオルも買っときゃ良かったか)
少女の髪も服もべったりと張り付いて、袖からは水滴が落ちている。
聞きたいことはいくらでもあったが、なぜか口にできなかった。
何があったのか。
あのオルターとの関係。
濡れネズミになってまで、どうして関わるのか。
(いや……)
本当に知りたいのは少女の正体だった。
(なんで俺を――)
「ねえ……」
沈黙は、少女が破った。
「あなたこそ、いつまでこうしてるつもり? 帰ればいいのに」
と傘を差し出し、自分を雨に晒した。
梓真はそれを受け取ると、彼女をふたたび傘に入れる。
「おまえも、警察を待つ意味なんかねえだろ」
「通報者の義務よ。知ってることを話さないと」
「何があったか知らねえが、んなもん、こいつの――」
梓真の視線が雨の地面に横たわるオルターを指す。
「ストレージに記録されてるよ、一部始終」
そもそも、オルター自体が街の治安を守る“歩く防犯システム”のような存在だ。緊急時にその情報は警察とディーラーへ転送される。
これほど破損することはまれだが、他の誰かの通報は必要としない。
「AIが……」
「あ?」
「よく見てみなさいよ」
そう言って、少女は梓真から傘を奪い取る。
梓真はむしろ目を逸らそうとした。さっきは勢いで済ませたが、オルターなど見たくもない。しかしそれを彼女に気づかれるのも恥ずかしく、気を取り直し、もう一度壊れたオルターへと歩み寄る。
地面の傘を恐る恐る摘み照明に晒すと、胴体はうつ伏せで、受付で見るような制服を身につけていた。顔はややふっくらとしてほどほどにかわいい。オルターの最近の流行だ。
だがその後頭部は――
黒髪ごとカバーがぱっくりと開き、中が空洞となっていた。
AIが、なくなっている。
なるほど、これでは通報も不可能だし、もちろん記録もない。
そんなオルターの不幸とは別に、梓真はなぜかほっとしていた。
(良かった。そんなに怖くねえ……)
自分でもわからない。けれど普段見るオルターほどの恐怖はなかった。
梓真の心理は複雑だ。彼の恐れるものは人の振る舞いをする機械で、壊れた、物言わぬオルターはただの機械に過ぎないのかもしれない。
例えるなら“ゾンビ”だろうか? 動かないゾンビはただの死体、恐怖の対象とはなりえない。
「……でも、なんでだ」
梓真は立ち上がって言った。
「わたしが知りたいわよ」
すると何者かは、犯行を隠すためにAIを奪い去ったのか? それとも、奪うための破壊?
そもそも異常な事件だ。
人の力でオルターをあのように破壊することはできない。
では、他のオルターによる仕業なのだろうか?
それもおかしい。オルターは法律を厳守する。人の命令であっても他のオルターを壊したりはできず、自分の意志で行うことはさらにありえないことだ。
改造も容易ではない。
AIは“倫理機構”という強力な外壁に守られ、幾重にもなるプログラムは専用のAIによって構築される。その複雑に連なる全容を人が把握することは不可能といっていい。軽々しく手を着ければ、AIはたちまち機能を停止する。
……また、雨音が二人を包んでいた。
殺風景な夜のアスファルトにはぼんやりと、彼女の傘が照らされている。
あの行為になんの意味もない。
あの下にあるのはただのスクラップ。
現場の保存? 地面はすでに水浸しだ。
不運とは思う。けれど、いずれ廃棄され、残骸となるのがオルターの宿命だ。どれほど人に似た振る舞いを見せても、そこに魂は無く、そう感じるのは人の感傷に過ぎない。
(俺、何やってんだろ……)
沈黙に飽き、ひどくつまらないことを口にした。
「……寒くないか?」
「あなたはどうなのよ」
(肩を抱いて、引き寄せてやったら……)
梓真は自分の妄想に苦笑する。
するとポツリ、少女が言った。
「恩田理緒よ」
「……」
梓真もお返しに名乗ろうとする。が、その必要がないことを思い出し、ふたたび口を閉ざした。
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