いつでも側にいるよ

緋那真意

前編 

 何か作ってよ、と陽菜ひなにせがまれた嘉月かづきはやれやれという感じで台所に向かった。

 陽菜は細身な外見に似合わずよく食べる。陽菜の体のどこに食べたものがたくわえられているのかと、嘉月は常々疑問に思っていた。

 嘉月は冷蔵庫の中身を確認した。大したものは入っていないが、昨日炊いた冷ご飯がまず目に入る。あとは薬味用の刻みねぎが少々。それと卵が二つ。

 陽菜が早朝から嘉月の家にお腹を空かせて転がり込んでこなければ、嘉月は近くのコンビニまで買い出しに出かけていただろう。何だったら陽菜を連れて出かけても良かったのだが、陽菜はコンビニのものを食べるくらいだったら嘉月のところに来ていない、と妙な理屈を振りかざして拒否した。

 わがままにも程があるが、しかし嘉月は陽菜の言うことを拒絶はしなかった。腕まくりをして冷蔵庫の中にある食材を出すと調理の準備を始める。葱と卵だけのシンプルなチャーハンくらいしか作れないが、この際はやむを得ない。

 それにしても、大学に入ってから陽菜は少しなまけ癖が付いたんじゃないか、と嘉月は大きくため息をついた。



 日向ひゅうが嘉月が影山かげやま陽菜に出会ったのは小学生の頃の話である。嘉月は父の転勤の都合で転校を繰り返していて、陽菜と出会ったのは六回目の転校の時だった。

 陽菜はその頃からほっそりとした体をしていて、あまり活動的とも言えず陰気な少女であった。嘉月も陽菜のことなどまるで意識せずにいた。

 しかし、ある時嘉月は陽菜がクラスの女子たちからいじめを受けているところを偶然目撃してしまう。下校の間際に女子数人が何やら陽菜に因縁をつけているらしい現場に居合わせたのだ。

 厄介事に巻き込まれたくない嘉月は無視を決め込もうとしていたが、女子たちにはずかしめられて顔を歪めながらも、必死に泣くまいとこらえている陽菜の顔を見て考えを変える。

 嘉月は付近の物陰に隠れると、たまたま家に持ち帰る予定だったリコーダーを取り出して、思い切り下手くそに大きな音を出す。女子たちの気を引いて、ひとまず陽菜から引きはがす作戦だった。

 嘉月の読み通り、女子たちは突然の大きな音に驚いたのか慌てたような足音を立ててその場から離れていく。音の犯人を捜すよりも自分たちの身の安全を確保する方を優先したらしい。

 嘉月が女子たちのいた場所に行くと、陽菜が呆然としたようにその場に立ち尽くしていた。嘉月が近づいても何の反応も示さない。

 嘉月が「大丈夫か?」と声をかけると、陽菜は怯えたように嘉月の方に振り向き、「見たの?」と震える声で話しかけてきた。

 嘉月は嘘であることを承知の上で「何も見てない。ただ、リコーダーを吹いていただけ」と陽菜に告げる。それを聞いた陽菜は、何かがぷつりと切れてしまったようにぽろぽろと大きな涙を流して泣き始める。流石に大声を上げることこそなかったものの突然泣き始めた陽菜に、嘉月はどうしたらよいのかさっぱりわからず、ただひたすら陽菜の頭をなで続けていた。

 しばらくして泣き止んだ陽菜は改めて嘉月の方に向き直ると「ありがとう」と頭を下げて礼を言った。嘉月は何だか照れ臭くなり「俺はリコーダーを吹いていただけだよ」と素っ気なく答える。

 しかし陽菜は「助けてくれたことに変わりはないよ」と、小さく微笑みを浮かべて嘉月に伝えた。



 その日以降、嘉月と陽菜の関係は一変した。

 陽菜は翌日からまるで別人のように明るい性格に変わり、何かにつけて嘉月と一緒にいるようになった。そのあからさまな変わりように、陽菜をいじめていた女子たちも自分たちの邪魔をしたのが嘉月であることに気が付いたが、嘉月は女子たちの視線など歯牙にもかけずに無視を決め込んだ。男子側から陽菜との関係を尋ねられた時も「影山がそうしたいだけ」と言って受け流している。

 実際、あまり他人に関心を持っている方ではなく、クラスメイトに対しても寡黙かもくで不愛想な人間で通していた嘉月にしてみれば、陽菜に付きまとわれるのは面倒ではあったが、こうして自分が盾になってやらないと陽菜はまた女子たちのいじめに遭いかねない。

 ならば、しばらくの間は陽菜の好きにさせてやればいい。小学校を卒業したら陽菜ともお別れだろう。

 嘉月はそんな風に考えて、特に目くじらを立てることも無く、陽菜のちょっかいを軽くいなしながら、残りの小学校生活を何事もなく過ごした。



 小学校を卒業した後、嘉月は親の意向もあって私立の中高一貫校に進んだのであるが、何故か学校の入学式に陽菜の姿もあった。

 陽菜は驚く嘉月をよそに「同じ学校になれて良かったね」と笑顔で話しかけてくる。

 陽菜が話すには元々自分はいじめられっ子であったので、いじめから脱するために密かにこの学校を目指して勉強を重ねていたのだという。

 嘉月は陽菜が思いのほか頭が良いことを知ってなおさら驚いたが、すぐに平静を取り戻す。幸いにして陽菜とは別のクラスである。陽菜も出会った頃に比べて明るく開放的な性格に変わってきているし、小学校の頃のように自分にべったりということもないだろうと考えた。

 実際、中学校の頃の陽菜は彼女なりに自分自身の在り方を模索していたようなところがあり、部活こそ嘉月と同じ野球部に入ってマネージャーとなったが、部活中以外では嘉月と積極的に絡むようなことも無く、新しくできた友人たちとの時間を大切にしているように嘉月には見えた。

 嘉月もそんな陽菜の様子を見て少しほっとしていたが、心の奥底に何か落ち着かない感情が芽生えていたことにその時は気付けなかった。



 中学の卒業式の後、嘉月は陽菜と二人きりで下校する機会に恵まれた。

 部活を引退してからは二人とも進級テスト対策で忙しく、テストが終わったら終わったで細々とやることがあって、こうやって二人きりになるのも久しぶりだった。


「お疲れ嘉月くん。これで私たちも来月から高校生だね」

「そうだな。ここに入ったときはもっと楽に進級できるかと思っていたけどな」

「まあ、超一流進学校だし、仕方ないんじゃない?」

「それもそうだな」


 陽菜の言葉に嘉月はあまり乗り気じゃないような調子で応じる。心の中ではもっと積極的になりたいという気持ちもあるのだが、普段の自分を崩したくないという妙な意地がそれを抑えていた。


「嘉月くんはさ、高校に入ったらやっぱりまた野球部に入るの」

「ん……そうだな。元々高校までは続けるつもりだったし」

「嘉月くんもかなり上手いと思うんだけど、結局最後の大会はベンチスタートになっちゃったよね」

「いや、実力が足りないからそうなっただけだ。影山にも結構応援してもらっていたのに、情けないよな」


 嘉月が自嘲気味にそう話すと、陽菜は優しく微笑みながら、嘉月の肩を労わるようにぽんぽんと軽く叩く。


「気にしない気にしない。レギュラーであろうとなかろうと、私はマネージャーで、部員の皆を支えてあげるのが仕事なんだからさ」


 陽菜は真っ直ぐにそう言い切る。気の迷いなど全く感じられなかった。

 陽菜の力強い様子に嘉月は一瞬気圧されてしまい、内心の動揺を押し隠すように話題を変える。


「影山は、……高校でも野球部のマネージャーになるつもりなのか?」

「勿論やるつもり。マネージャーの仕事って結構面白いし」

「そっか……」


 いつもと同じような調子で返事を返したつもりだったが、心のどこかがずきりと痛み、嘉月は自分で自分の心の中が分からなくなる。

 陽菜はそんな嘉月の心中などお構いなしに気楽そうな表情で話を続ける。


「また嘉月くんと一緒になれると思うとワクワクするなあ」

「ハハ……お手柔らかに頼むぜ、影山」

「何言ってるのよ嘉月くん。高校に入ったら今度こそ目指せレギュラー、で頑張らなきゃ!」


 陽菜はひとりですっかりやる気になっている。そんな陽菜の姿を見ていると、嘉月もいつしかやる気のようなものがいてくる。


(……俺はこういうことではこいつに勝てないかもしれないな……)


 嘉月が陽菜の芯の強さを認めたのは、この時が初めてだった。

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