ガラスの檻

レオニード貴海

第1話

 駅の構内を行き交う人々の顔。

 見知った顔はない。実際は毎日のように顔を合わせている人だって何人かはいるはずだ。同じ街に住み、同じ改札を通り抜けていく。通勤通学経路を毎日あみだくじで決定する筋金入りの変人ギャンブラーでもない限り、通るルートなんか限られている。でもそういった無数の同胞たちの顔は記憶の引き出しはおろか、意識の小部屋にすら入れてもらえずに、窓の外、寒々しい庭の草陰で、新しい太陽が上るたび朝露のように消えて無くなってしまう。まあ、そういうものかも知れない。


「鶴ヶ島さん、いい加減にしてください!」

 私は消え入りそうな声で、自分に言い聞かせるようにしてぼそりと謝る。またやってしまった。理想と現実はいつだって、天と地の距離を維持している。蝋で固めたひ弱な翼は社会という名の1013ヘクトパスカルの下、無数の視線を浴びて溶け出し、孤独の大地でばらばらになる。おかしいな、高校も大学もこんなじゃなかった。嫌な奴は雲を集めて隠せばよかったし、付け焼き刃の翼なんかなくたってどこへでも行けた、外を出歩くのに疲れたらいつでも帰れる涼しい洞窟があった。岩洞の中には綺麗な小川が幾筋も流れていて、黒く湿った岩盤の坂を川に沿って下っていくと、そこでは音のない湖がぼんやりと青白く輝いていた。少し休めば、心も、体も、すぐに力を取り戻すことができた。

 ここはどこだろう。どうしてこんな場所に来てしまったのだろう。私はいったい何をしているのだろう。


「聞いてます? 人の話!」

 私は大きく目を見開いた。Miss. お局、上山さん、そのうち血管が切れちゃいそう。怒ったときに本当に血管が浮く人をあまり知らない。大学生の頃、男友達のバンド・ボーカルが無理して高音をシャウトするときにステージライトに照らされた眉間の浮き筋を遠目に見たことがあるくらいだ。多分、こんな近くで見るべきものじゃないのだ。怒りが、眩し過ぎて私は目を背ける。

「目を見て聞いてください!」

 顔が近い。私は敬語という論理を忌む。敬語と敬意はJavaとJavaScriptくらい違う。識らない人はググってもらえばすぐに分かると思う。誰でも分かるような例えにしろって? そうですよね、それならこう言える。敬語と敬意は、ときに悪意と善意くらい違う。

 敬語がオブラートに包み守るのは攻撃者の側であって言葉を浴びせられる側ではない。どんなに怒っていても理不尽なことを言っていても非論理的で非科学的で非倫理的でも血管が浮いてその脇に汗が滲んでいても敬語を使ってさえいれば端からはあたかも冷静沈着、理路整然と語っている善良な人間であるかのように見える。いや、それはちょっと言い過ぎだとしても少なくともそれなりにまともなことを言っているようには見える。敬意は常に相手に向けられるものだが、敬語は自分を守るために利用されることがある。いま、目の前の女が無意識にタクティカルにそうしているようにして。

 なんてことを実際に、リアルタイムで考えられるほどの脳の回転も度胸の心臓も持ち合わせていない私は黙ってそっと上山さんの目を見上げる。でも、うん、駄目だ。捕食者の目だ。ライオンとゼブラが互いを慈しみ合いながら共存できるのはディズニー映画のスクリーンか劇団四季だかの舞台上だけだ。少なくとも午前10時半の品川雑居ビル5Fのオープン・オフィスではない。

 私がやむにやまれず再び目を逸らすと彼女の憤怒がまた地底のマグマをいと高きへと導く。熱湯に差し込んだ温度計の赤い灯油がみるみる上昇していくビジュアルが脳裏に浮かび、滅びの歌が聴こえてくる。

「まあまあ、鶴ヶ島さんも反省してますって、な、そうだよね、鶴ちゃん?」

 太田課長の仲裁を経て私はようやく開放される。ものの5分足らずの出来事だったが、たっぷり1時間はやり合っていたような疲労感がある。ここはここだ、現実で、非可換で、私は私で、君は君だ。気を引き締めて一日を乗り切るのだ。けどまたミスをしたら、と考えるとキーボードを打つ手が震え却って余分なミスを起こしそうになる。仕事のテンポが普段以上に遅くなり残業予定表に氏名を入力せざるを得なくなる。もっとも、どちらにせよ上山さんの先を越して悠々と家路につくことのできる革命的思想を有したゲバラ的社員はここには居ないが。

 自分が嫌になる。自分が嫌いだ。結局の所いくら言い訳を並べたところで私は変わらない。私は自分が嫌いだし、自分も私が嫌いだ。いつも自分に裏切られていると思っていたがそれは間違っていたのかも知れない。カエサルはブルータスに裏切られたのではない、もともと愛されていなかったのだ。


 上山さんが帰って一時間後、私もオフィスを後にする。「お疲れさまです」という私の敬語だって保身だけど上山さんとは違い少しは敬意を込めている。課長ははい、お疲れ様、と振り返ることなくわずかに頭を動かして言った。

 ひと月前、仕事をやめたいと両親に相談したがお前は頭がおかしいのかというような反応をされたので二度と話す気はない。終電一時間前の電車は顔のない、あるいは二度と思い出すことのできない顔を持つ人々で溢れていた。かつて入社一日で仕事を辞め家に引きこもる自宅警備員の時事ニュースを見て学友たちと一緒に嘲笑っていたが、いまこの細長い鉄の箱の中に蠢くくたびれたオフィス・カジュアルとビジネス・スーツの見本市が、この社会における正常な姿だと言われてもうまく納得ができない。見切りをつけた彼らこそが懸命だったのかも知れない。私には続けていく自信も逃げ出す勇気もない。SNSで死にたいとつぶやく会ったことのない人々に勝手な同情を感じる。自分が嫌いだ、消えてしまいたい。


 気がつくと私は見知らぬビルの屋上に居た。どうやって侵入したのだろう、記憶が曖昧だ。ああそうだ、路地裏を歩いていたらたまたま空いている扉を見つけたのだ、古いビルで、コンクリートの壁もボロボロだし、非常階段は表面の塗装が半分以上剥がれむき出しになった鉄は錆びついていた。

 フェンスを乗り越える。寒い。私の心の温度が外からも迫ってくるみたいだ。「私」は自分と社会との間に挟まれてもう身動きが取れない。こんなことをしてはいけないし間違っているという感覚があるがオフィスの壁にかかった額の中の下手くそな字の社訓みたいに無意味で、もうあまり役には立たない。鳥が空を飛ぶことを恐れないのと同じように、私は恐怖を感じることなく前に進み足場が消えるときも歩幅を縮めることはなかった。


 おかしいな、まだ、終わらないの?


 いつまで経っても何の衝撃も感じないので、顔面をぴくぴく震わせながら恐る恐る目を開いた。

 はあぁ、という我ながら情けのない気の抜けたような声が漏れ出る。私はまだ屋上近い、パラペットの半メートル外側を、ぎこちなく上下していた。高い。暗さでよく見えないが本能的な恐怖を覚える。背中でなにか大きなものがばさばさと上下している。翼? まるで天使だね。


 死んだのかな、と思うが、風は冷たいし、くしゃみも出るし、夜闇の果てから豊満な白ひげを蓄えたお爺ちゃんが現れて光と杖で導いてくれる系の兆しもないし、なんなんだろうか。




 やかましいロック・ミュージックの音で目を覚ます。スマホの画面をタップしてアラームを停止する。髪を乾かさずに寝てしまったらしく頭がズキズキと痛む。またくしゃみが出る。スマホのロック画面には「土曜日」の文字。目覚ましの曲はアジアン・カンフー・ジェネレーションのアフターダーク。気合が入るので平日用にチョイスしていたが、設定を消し忘れていたらしい。この曲、土曜の朝向きではない。


 カーテンを開けると部屋の中に早朝の光が注いだ。小さな無数の埃が目の前をふわふわと舞っているのが見える。時折角度が合うと、真っ白に輝く。

 私はそんな、清浄とは言い難い部屋の空気を肺いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。埃たちが慌ただしくくるくると踊る。

 目尻から頬を伝って流れる。このままじゃ嫌だ、と思った。私はやっぱり、自分のことが好き。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ガラスの檻 レオニード貴海 @takamileovil

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る