第160話 上機嫌

千歳にすべてを打ち明け、合宿最終日を迎えたんだけど、英雄さんから「念のため休め」と言われてしまい、朝のロードワークには行かず、千歳と薫の手伝いばかり。


荷物を車に積んだ後、中田ジムの面々にお礼を言うと、光君が笑顔で切り出してきた。


「奏介、足、ちゃんと治しとけよ」


返事をした後、バスに乗り込んだんだけど、千歳は桜さんの車に乗り込んでしまい、話すことはできないまま。


昨晩、唇を重ねている途中で、桜さんに殴られ、追い出されてしまい、肝心なことは言えないままだった。



合宿を終えた後、自宅に帰ると、親父からメールが来ていた。


普段と変わりない、帰国日の連絡だったんだけど、メールを読んでいる途中でカズさんからラインが入り、光君のラインを教えてくれた。


着実に、確実に『プロボクサー』に近づいているような気がしていたんだけど、捻挫した足にいきなり負担がかからないよう、様子を見ながらストレッチをするだけに止めていた。



週末の土曜になると、親父が一時帰国したんだけど、すぐにじいちゃんの家に行くため、二人で食事をとっただけ。


日曜の昼過ぎにはジムに行き、汗を流していたんだけど、英雄さんは妙に機嫌が良い。


凌とベンチに並んで座り、英雄さんを眺めていたんだけど、気持ち悪いくらいに機嫌がよく、終始鼻歌を歌っている。


「なんか機嫌よくね?」


小声で凌に聞くと、凌は首をかしげながら答えていた。


「なんだろうな? あ! もしかして4人目できたとか!?」


「それ絶対無理だろ?」


「じゃあ孫? カズさん辺りだったら有り得なくなくね? ちょっと聞いてくるわ!」


『絶対違う』


そう思いながらも凌を見送ると、凌は英雄さんに向かって元気に切りだした。


「英雄さん! 千歳に孫ができたんですか!?」


「はぁ!? お前何言ってんだ?」


「え? だって機嫌いいじゃないっすか!」


「子供すらいないのに、どうして孫ができるんだよ!!」


「あれ? 奏介なんだっけ?」


『アホだ…』


凌は俺に駆け寄りながら聞いてきたんだけど、凌のアホさ加減に完全に呆れかえっていた。


すると、英雄さんが歩み寄り、真顔で俺に切り出してくる。


「凌のアホは何言ってんだ?」


「今日機嫌いいからどうしたのかなって思ったんすよ」


「普通だろ? それより、光から専属の話が来て了承したんだって? トレーニング内容は光と相談して決めてる最中だから、もう少し今までのトレーニング内容で続けてくれな」


「わかりました」


返事をした後、ジムのドアが開き、千歳が中に入ってきたんだけど、千歳は英雄さんと話をしただけで、ジムを駆け出してしまった。


千歳がジムを後にすると、英雄さんの機嫌はさらに良くなり、終始笑顔で陸人と学の指導をし始める。


すると凌がいきなり大声を上げ始めた。


「わかった! 千歳に子供ができたんだ!!」


「はぁ!? お前何言ってんの!?」


「だって奏介、合宿の時にテーピング替えに行ったきり、千歳の部屋から帰ってこなかったじゃん!!」


「ば!! 帰ったつーの!!」


慌てて本当のことを言った直後、背後から英雄さんの声が聞こえ、恐る恐る視線を向けると、怒りに満ちた表情の英雄さんが、ゆっくり過ぎるくらいゆっくりと歩み寄ってくる。


『あ、これ、絶対やばい奴だ』


さりげなく、ゆっくりとその場を後にしようとすると、英雄さんの低い声が響き渡る。


「…合宿の時、千歳の部屋から帰らなかっただと?」


「ち、違います! テーピング貼ってもらいながら話してたら、盛り上がっちゃって…」


慌てて本当のことを言おうとすると、凌が付け足すように小声で告げてくる。


「押し倒しちゃいました」


上機嫌だった英雄さんは、一気に不機嫌になってしまい、怒鳴りつけてきた。


「凌! リング上がれ!!」


「え? 俺??」


「お前はヨシに毒されすぎだ!!」


英雄さんの言葉に、納得しかできないまま、逃げ出すようにサンドバックを殴り始めていた。

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