第157話 1ラウンド

洗濯物を終えた後、千歳は忙しなく屋上を後にし、俺は部屋に戻ったんだけど、少しすると、みんなが部屋に戻り、智也君に誘われ浴場に向かっていた。


広い湯船に浸かっていると、智也君が切り出してきた。


「ちー、やっぱ強いな…」


「動きまくってて、どこを狙っていいかわかんないんすよね…」


「あれは直感を信じて殴るしかないよな。 9割外れるけど… カズさんとヨシもそうだけど、世界チャンプが手塩にかけて育てただけあるよ。 うちのジムの中でも、あの3人の格闘センスはズバ抜けてる。 お前も大概だけどな」


「俺っすか?」


「だってあのカズさんを動かしたんだぜ? カズさんって滅多にリングに上がらないし、やる気なさそうにしてるけど、実はうちのジムで一番強い。 自分から進んでリングに上がったのは、奏介が初めてだよ」


「なんでリングに上がらないんすかね?」


「目立つのが嫌なんだよ。 ちーと一緒。 『能ある鷹は爪を隠す』っていうじゃん? まさにあんな感じ」


智也君の言葉に、妙に納得をしながら浴場を後にしていた。



部屋に戻り、ミーティングを終えた後、誰よりも早く就寝していたんだけど、いきなり頭を叩かれ、目を覚ますと、真っ暗な部屋の中で、桜さんが俺の顔を覗き込んでいた。


桜さんは人差し指を口に当て、俺の事をじっと見た後、黙ったまま手招きをしてくる。


足音を立てないように、桜さんの後を追いかけ、2階に上がると、桜さんが囁いてきた。


「3分1ラウンド。 行ってこい」


桜さんはそれだけ言うと1階に行ってしまい、心臓が激しく暴れまわる。


音を立てないようにドアを開けると、テーブルを挟み、二つ並んだベッドの片方で、ドアのほうに背を向け、千歳が寝息を立てていた。


月明かりに照らされた千歳は、薄いタオルケットを胸元までかけ、キャミソールの肩紐は、だらしなくずれ落ちている。


薄いタオルケットをかけているせいか、ボディラインがくっきりと浮かび上がり、肩にははっきりとした日焼け跡が残っている。


吸い込まれるようにベッドの横に座り、千歳の短い髪に指を滑らせると、前髪が千歳の顔をくすぐり、千歳はポリポリと顔を掻きはじめる。


力なく顔の前に手を置いたまま、寝息を立てている千歳の手に、自分の手を重ねると、千歳は俺の手をギュッと掴んできた。


手と同時に、胸の奥をギュッと締め付けられ、千歳の手を握りしめ返すと、千歳はゆっくりと目を開け、寝返りを打って俺を見てくる。


「ん? 奏介?」


「ごめん。 起こした」


「どうしたの?」


「桜さんに1ラウンド貰った」


「…今何時?」


「もうすぐ1時。 寝てな」


ゆっくりと時間が過ぎる中、千歳は今にも閉じてしまいそうな目を、必死に開け閉めし続けるだけ。


不思議と、下心が起きることはなく、手を握り合い、睡魔と戦う千歳を見つめていた。


少しするとドアが開き、桜さんが顎で『出ろ』と合図してくる。


千歳の頭をそっと撫で、部屋を後にしていたんだけど、1階に降りると、食堂のほうから物音が聞こえてきた。


何気なく食堂を覗き込むと、カズさんと光君が二人で酒を飲んでいたんだけど、光君は俺に気が付くなり、切り出してきた。


「寝れないのか?」


「いえ、ちょっと…」


「まぁ座れよ」


光君に切り出され、カズさんの隣に座ったんだけど、カズさんは俺が座った途端、切り出してきた。


「光君のマンツーどうだ?」


「勉強になります」


「光君が休みの日に、週1で専属として付いてもらえよ。 ノーギャラでいいって言ってるんだしさ」


「週1で専属? …つーか何の話っすか?」


「週1しか来れないけど、専属トレーナーになって、鍛えてやりたいんだって」


カズさんが言いかけると、光君がカズさんを止めに入る。


「カズ、いいって。 いきなり言われてもビビるし、考える時間も必要だろ?」


「奏介にはメリットしかないんだし、考える時間なんて必要ないよ」


はっきりとそう言い切るカズさんの言葉に、不安に思いながら聞いてみた。


「週1って、いつまでの予定ですか?」


「世界チャンプになるまで。 俺と英雄さんで、第二の中田英雄を育て上げてやる」


はっきりとそう言い切る光君の目は、自信に満ち溢れている。


自信に満ち溢れたその目を見た途端、自分の中にあった迷いや、何もかもを吹き飛ばし、『この人についていきたい』という気持ちを芽生えさせていた。


「週1専属トレーナー、お願いしていいっすか?」


「決断早いな。 こっちこそよろしくな」


光君は右手を差し出し、俺の手をしっかりと握りしめていた。

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