第116話 素直

自分自身に嫌悪感を抱いていると、ドアの開く音が聞こえ、じんわりとタオルが冷たくなっていくのを感じていた。


「あーきもち~」


ため息交じりに呟くと、クスッと笑う千歳の声が聞こえてきた。


「光君に喧嘩売ろうなんて百年早い。 ノーモーションも出来てなかった。 もっと足を使いなさい」


「はいはい。 わかりましたよ~。 つーかさ、右肘引いたとき、なんで右ストレート打たなかった?」


「右アッパー打たせたかったから。 誘い出したんだよ。 『体勢を低くさせて、左ハイキックの射程範囲内に来たら打つ』って決めてただけ。 まさか綺麗に決まるとは思わなかったよ」


「流石だな…」


「奏介だって流石じゃん。 開始早々、光君の右ストレートをモロに食らって立ったのは、奏介が初めてかも。 カズ兄もビビってた」


「マジで?」


「うん。 光君、スタミナは戻ってないから、1撃で沈めようとしたんだと思う。 けど、立ったから、かなりビビってたよ。 あの打たれ強さは、素直に凄いと思うよ」


初めて千歳に褒められた事が嬉しくて、思わず顔が緩んでしまう。


けど、負けてしまったことを思い出し、ため息をつきながら呟いた。


「どうしても勝ちたかったんだけどなぁ…」


「なんで?」


「千歳の初恋相手だから。 そりゃ勝ちてぇだろ」


「別に… そういうのじゃないし…」


「ホント、素直じゃねぇな…」


正直な気持ちを伝えたのに、千歳は正直に答えてくれない。


思わずため息をついてしまうと、千歳は優しく布団をかけてくれた。


「そろそろ戻るけど、このまま寝ちゃって良いからね」


「ああ。 サンキュ」


千歳に答えた後、部屋の中は静まり返る。


『物音も立てないで出ていったか… 忍者みたいだな。 あいつ…』


ため息をついた瞬間、唇に柔らかい感触がすると同時に胸が締め付けられ、呼吸ができないでいた。


唇はすぐに離れ、何も考えられずにいたんだけど、唇の感触だけは残っていた。


目元に乗っていたタオルを外すと、千歳の姿はなく、部屋の中には一人きり。


『今あいつ… 俺にキスした? 付き合ってるやつとしかしないって言ったよな? もしかして、忘れたとか? まさか… じゃあなんで? もしかして、気持ちが伝わった?』


考えれば考えるほどわからなくなり、ジムの方を見ると、威勢のいい掛け声が聞こえてくるだけ。


千歳が何を考え、なんであんな行動をしたのかもわからないまま、ベッドの上で横になっていた。



そのまま少しだけ眠り、夕方になると同時に、親父から着信が着ていた。


「急遽帰国できるようになったから、今からそっちに行く。 あと5分で着くから、準備しとけ」


急いで荷物を準備した後、家を出ると、親父がジムに入ろうとしている。


親父と二人で中に入り、英雄さんと親父が話しているのを隣で聞いていたんだけど、千歳の姿はなく、英雄さんに切り出した。


「あの、千歳は?」


「ああ。 桜の家に行ったよ。 息抜きも大事だからな」


英雄さんは満足そうに答えた後、親父と話をし始める。


その後、光君とカズさんに挨拶をし、アパートに戻ったんだけど、親父がすぐに切り出した。


「奏介、やっぱり一緒に来ないか?」


「なんで?」


「周りに迷惑かけすぎてるだろ?」


「で、でもさ、向こうに行ったら学校とジムが…」


「そんなのどうとでもなる」


はっきりと言い切る親父の言葉を聞いた瞬間、頭の中に、駆け足飛びをしている千歳の後姿が浮かんできた。



確かに親父の言う通り、親父と一緒に行った方が、周りに迷惑をかけずに済む。


けど、また離れてしまうと、今度はもう探せないような…


もう二度と、会えないような気がしていた。



「…嫌だ。 …絶対嫌だ」


素直な気持ちを言葉にすると、親父はため息をつき、荷物を解き始めていた。

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