さよならの朝は月の下
藍内 友紀
第1話 〈1〉
〈1〉
イゴォーン、と腹に響くこもった音が赤錆色に染まった空から降ってくる。ヘレブ社の第四研究棟が吹き飛んだときに似たこの轟音は、この町では誰かの咳払いみたいに日常的な音だ。
緩やかな丘を形成する町の頂上には、この世界を統べる中央教会の大聖堂が聳えている。ボクらを睥睨する石造りの聖堂からは天国にかけ損ねたハシゴじみた三又の尖塔が突き出ていて、そこに吊るされている大きな鐘が順番に一度ずつ――日に三度、町の人たちにこの爆音を注いでいる。
夜明けには生の、昼には時間の、日没には死の女神がそれぞれの鐘を撞いているというのが教会の言い分だ。
もっとも、それを信じているのは、遠路はるばる大聖堂しか見所のないこんな田舎町を訪れるおめでたい巡礼者たちくらいのものだ。
「今日の夕ご飯は紫シチューなんだよ」
ボクの左腕に体重のほとんどをかけながら、隣を歩くシュンが無邪気に笑った。身長はボクの腰までしかないのに、その体重は就学したての少年らしい外見通り、ボクの肩を引き抜こうとしているのかと勘ぐるくらいずっしりとしている。
「それ、誰が作るの?」
「ボクとキヨカさん!」
「あんまり迷惑かけちゃダメだって、いつも言ってるだろ」
「キヨカさんがいいって言ってくれるんだから、いいじゃないか、ツキ姉のケチんぼ」
「ケチって話じゃないよ」ボクは小さくため息をつく。「昨日も一昨日もご馳走になってるんだから」
「でも、その前の前はウチで食べたじゃないか」
「キヨカさんに持たせてもらったハンバーガーを、ね」
「あたし、好き」
ボクの右手を引いて、ホタルが小さく掠れた声で言った。彼女はシュンよりも背が高いけれど、ボクとつないだ手はひどく骨が目立っていてシュンよりも軽そうに見えるし、実際に軽い。
「好きって、キヨカさんが?」
「キヨカさんもお料理も。ママと同じ匂いがするの」
「そう」と曖昧に頷く。
ボクはママという存在が醸し出す匂いを知らない。それでも、なんとなくわかる。ホタルとシュンと三人でいろいろな町を廻るようになって、ぼんやりとわかり始めている。
きっと、キヨカさんの指先や手料理から香るバターみたいなものだろう。甘ったるいその香りの向こうにシュンもホタルも、たぶんボクだって、家族ってものの欠片を見ている。
だからこそ、ボクはキヨカさんたちと囲む食卓に少しの息苦しさを感じるんだ。
「キヨカさん、言ってたよ」シュンは心強い援軍を得たという表情で、さらにボクの腕を引く。「ちゃんと食べないからツキ姉は大きくならないし、ホタルの病気だってよくならないんだって」
「それ、横に大きくって意味だよね?」
「あたし、ちゃんと食べてるよ。ツキ姉のご飯だって、好き」
「それは……どうもありがとう」
少し苦い気分になって顔を歪める。どう考えたってこれ以上ボクの身長が伸びることはないし、どう贔屓目に見たってボクの料理はキヨカさんの足元にも及ばない。
「あたし、お薬だってちゃんと飲んでるよ。先生だって、もう少しがんばればよくなるって言ってくれたもん」
「ああ、あの」
役立たず、と唾棄しかけて、慌てて呑みこんだ。ボクらを覆う尖塔の影の中で誰かが聞き耳を立てている気がしたからだ。
キヨカさんが紹介してくれた『この町で一番いいお医者さま』だから悪くは言えないけれど三ヶ月も通っていればわかる。
つまり、町で一番『人がいい』医者なんだ。笑顔だけが一級品で、決断力とか主張ってものがない。『様子をみましょう、きっと大丈夫ですよ』って言葉を聞くために受ける診察や、到底効いているようにも思えない薬を機械的に出し続ける態度が『いい』だというのだから、人間は意外と丈夫にできているのかもしれない。
それでも別の医者にかからないのは紹介者のキヨカさんに少しばかりの恩を感じているからという理由以上に、ボクが医者の良し悪しを判断できないからだ。
そういえば、二つ前の町でも『様子をみて』というのは医者の常套句だった、と今さら思い出す。高い薬をとっかえひっかえして『大丈夫ですよ』と胡散臭い笑顔で言うのだ。
また、ため息が漏れた。ホタルが小さく肩を震わせたから勘違いさせてしまったのかもしれない。ボクは詫びるように彼女の手を握る力を強める。
けれどホタルは空いているほうの手で斜め掛けにしたピンク色のポシェットの紐を握って、三輪トラックの行き交う道路の向こう側に視線を向けてしまった。
神学校の金刺繍が入ったローブを閃かせた子供たちが坂を駆け下りていくところだ。年頃も髪の長さも足を向ける方向だって同じなのに、ホタルには通うべき学校も健康的に日焼けした肌の色も、坂道を駆け下りる体力すら与えられていない。
「あたしにも『きせき』があればいいのに」
「それは――」
どの『きせき』? と口にしかけて、やめた。ホタルがどれを望んでいたとしても、ボクにはなにもできない。できることなんてただ、つないだ手をもう一度強く握ってやるくらいのものだ。
「キセキなんて」シュンが石畳に吐き捨てる。「あるワケないだろ。神さまだってボクらにはなんもしてくれなかったじゃないか。どんなに祈ったってママは死んじゃったし、教会に隠れてたって見つかっちゃったんだ。きせきなんて、どこにもないんだよ」
「そんなこと」
言葉を断ち切って、ホタルが湿った咳をした。腹の奥がむず痒くなるような水音が混ざっている。ボクの不安を煽るざらついた音だ。そうでなくても今日のボクはお守を家に忘れてきて落ち着かないのに。
ホタルの背中を擦る掌に、ごろごろとした骨の感触が引っ掛かった。坂を駆け上る乾いた砂漠風が、どす黒い教会の影をざわめかせる。
シュンは大股で三歩行き過ごしてから、ボクと手が離れたところで立ち止まった。不満そうに頬を膨らませて視線を逸らすと、靴底で石畳の隙間を蹴り始めた。きっと拗ねたふりで、また自分を責めているのだろう。
ホタルの咳が治まるまでの短い時間、ボクの無意識は鐘の余韻に震える大気と夕日に輝く家々の屋根から立ち昇る仄かな熱の中に彼を探す。いや、正確に表現するならば、彼にかんする記憶の断片をつなぎ合わせて、起こり得なかった彼との未来を妄想する。神さまが気紛れに落としてくれる奇蹟がその辺に転がってやしないだろうか、と夢を見る子供のように。
「ツキ、姉?」
ホタルの掠れ声が紡いだ名前を瞬きの間、でもきっと二人にとっては長過ぎる時間、誰のものなのか理解できなかった。
ボクの名だと思い出した途端、大慌てで「もう大丈夫?」と首を傾げて見せたけれど、口元と喉に手をあてたホタルは眉をハの字にしたまま動かなかった。彼女が「大丈夫」とも「しんどい」とも言わないのはいつものことだけど、頷きさえしないのは珍しい。
「ごめん、ちょっと考えごとをして……」
首が絞まりそうな力でシュンにシャツの裾を引っ張られて、続ける言葉を見失う。
「あの人が、いたの?」
「いないよ」反射的に唇が動いた。「いたら困る」
「本当に?」
「本当だよ。ボクが嘘をついたこと、あった?」
二人は大きな眼を赤茶けた空に向けて沈黙する。きっと、ボクと出会ってからの日々を思い出しているのだろうけれど、待たされるほうはちょっと傷つくくらい長い間だった。
「ない」とようやくホタルが呟く。
「うん。まだ、ない」とシュンも頷いた。
「まだって」
ひどいな、と言うつもりで吸った呼吸を、止めた。
「ツキ姉?」
言葉を途中で放棄したボクを、二人が窺っている。でもそれどころじゃない。ボクの意識は別の方向に向かって研ぎ澄まされていく。
嗅覚が、ソレを認識した。やっぱり、今日はついてない。
中央教会から伸びる緩やかな坂道の下、ちょうど地方から来る巡礼者たちが終わりの見えない上り坂に気力を削がれる辺りに緑色の軒先が見えていた。ボクが働くヒート・ミールのテラス席だ。
二人と片手ずつをつないで一度だけ、ぎゅっと強く握って促す。
「二筋向こうから回って、裏口から入れてもらいな。二階に隠れて、ボクが行くまで絶対に出てこないで。あとでまた、店で会おう。迎えに行く」
「うん」
二人はやっぱり一度だけボクの手を握り返してから、そっと脇道に消えていく。見送ったりはしなかった。そんな心の余裕はない。
ヒート・ミールのテラス席、レンガを噛ませて無理やり水平にした丸テーブルに、防砂コートを着込んだままの軍人たちが着いている。首に吊るされた防砂ゴーグルが、夕焼けよりも血近い色合いの遮光レンズにボクたちを映していた。
ついでに、ボクが世界で三番目に嫌いな生物も行儀よくその足元に伏せている。
ゆっくりと、人の流れに合わせて坂道を下る。上着のポケットに両手を入れて周辺への限りない無関心を装いながら、警戒心だけを最高値に入れる。
バンズの香りが漂ってきた。甘ったるい、夢の匂いだ。
三段ハンバーガーを看板メニューにしているヒート・ミールは、日に三度の鐘に合わせて周囲一ブロックに肉の焼ける香ばしい匂いを漂わせている。
それでもご近所から、洗濯物に臭いが移ったじゃないか! というクレームは聞いたことがない。洗濯の苦労も吹き飛ぶくらいヒート・ミールのハンバーガーが、とりわけ挟まっているパテが、おいしいということだろう。
店に並んでいるいろんな種類の肉をお客の好みに合わせて配合するのは、いつも油と脂にまみれてパテを焼く旦那さん――アツシさんのこだわりだ。オススメはイワクイドリの胸肉とスナモグリの耳を八対二で捏ねたものらしい。スナモグリの耳のこりこりとした食感が病みつきになるらしいけれど、ボクは母星由来のダチョウモドキ一択だ。
因みにパテを挟む優しい甘さのバンズは一種類きりで、そちらは奥さんであるキヨカさんの仕込みである。
それらをきれいに積み重ねてこの町の象徴である中央教会の尖塔を模ったピックで串刺しにするのが、三ヶ月前からのボクの仕事だ。
ボクの仕事、だった。どうやらその仕事も今日でクビになりそうだ。
夕の鐘が鳴ったばかりだから彼ら以外にお客がいないのは不自然じゃないけれど、席に着いている人がいるのにパテを焼く匂いがしないなんてあり得ない。
つまりテラス席の軍人たちは、仕事をしに来ている。
真っ先にボクに気付いたのは軍人たちではなく、彼らの連れた生き物だった。
黒と茶色が斑に混ざった荒い毛並みの軍用探知犬で、尖った耳と湿って艶やかな鼻が震えたと思ったときにはもう唸り声を上げている気の早いヤツだ。筋肉をつけてなお細い脚を突っ張ってボクを睨みつけていた。
どこからバレたんだろう、と袖の上から腕に触れる。心当たりはなかったけれど、気が付かない間に誰かに見られている可能性はあった。
「いらっしゃいませ」ボクは彼らに声が届く距離に入った途端に先手を打つ。「ご注文はお決まりですか?」
色を深める影の中で、四人の軍人たちが肩を強張らせた。彼らが間抜け面で振り向くまでの一秒の間に、彼らのイヌだけが優秀に牙をむいて喉の奥で咆哮を燻らせる。
軍用探知犬が鳴らす鎖の長さを目測しながら、ボクは営業用の笑顔を作った。
イヌを含めた全員がヒート・ミールの常連客だから、彼らが分厚い防砂コートの下に二挺の銃を吊るしているのも知っている。
一番年配の軍人が「やあ」と分厚い唇を解いて笑った。温厚さと狡猾さとが刻まれた笑い皺は、小隊長という彼の地位と同じくらいボクの神経を逆撫でる。
「今日は遅刻か? もう鐘は鳴っているが」
「妹を診療所に連れて行っていたので」
テーブルの脚に結わえていたイヌの鎖を外した若い軍人が、上目にボクを見た。でも言葉はない。視線に含まれた不審だけが、肌に刺さる。
「その妹の姿が見えないが?」
「アパートに置いてきました。しんどそうだったから」
「そういうときこそ、一緒にいてやるべきだろう」
「でも稼がなきゃ。薬だってタダじゃないし」
「教会の援助を受ければいい。病気のときは家族がついててやる」
べきだ、という小隊長の言葉尻を、イヌが遮った。濁音だらけの怒声とともに押し寄せる異臭に顔をしかめる。他のイヌならともかく、軍用探知犬とだけは一生お近付きになりたくない。
「エンヴィー」と若い軍人に諌められたイヌは物凄く不満そうに黙り込んだ。それでもボクを見る眼は苛烈なままだし、筋肉質な脚はいつでも飛びかかれるように緊張を解いていない。まったく、優秀すぎて嫌になる。
「おちおち話もできんな」と小隊長はエンヴィーのできの悪さもひっくるめて、その全てが可愛くて仕方がないといった表情で、エンヴィーの鼻先を突いた。
「犬猿の仲ってやつなんですよ」
ボクはシャツの袖を捲って見せる。肘から手首にかけて、再生したばかりでまだ色の薄いてらてらとした皮膚が二本の線を引いていた。
初めて彼らと出会った日に、エンヴィーに噛まれた傷だ。この状態にするまでにボクが注いだ注意と努力は、ここ最近では一番だろう。
それなのに、小隊長は申し訳ないという顔の一つもしないで苦笑する。
「その傷跡がなけりゃ、とっくに連行してたんだがな」
「軍用犬が一般人を噛んだのに、噛まれたほうが連行されるなんて理不尽ですよ。治療費がなくて、ろくな手当てだってできないのに」
「ろくな手当てをせずに、それか」
「痕が残ったら責任をとってくださいね」
内心でひやりとした。イヌに噛まれた傷がどれくらいの速さで治るものなのか、ボクは知らない。そもそも軍用探知犬なんかに噛まれることが異常事態なんだから。
小隊長は唇を歪めたまま首を振った。ボクの言う責任とやらを否定したわけじゃなさそうだ。その証拠に彼は「
「悪いようにはしない、投降しろ」
「投降? どうして? なにかを盗んだわけでも、誰かを傷付けたわけでもないのに」
「心当たりはない、か」
「ええ、ただ生きているだけです」
小隊長は全然納得していない顔で「そうか」と頷いた。
ボクも作り笑いのまま「そうです」と返す。
エンヴィーまでもがぐるる、と不審気な声を上げた。鎖を引いてそれを鎮めた若い軍人が、エンヴィーの頭を撫でながら呟く。
「石の心臓を知っているくせに」
「おとぎ話でしょう」
「石の心臓があれば」と言葉を引き継いだのは小隊長だ。「不死の人間が造れるらしいな。本当に存在するなら、妹の心臓と取り換えてやりたいと思っているんじゃないか?」
「……思いませんよ」
「マレビトになれば病気なんか関係なくなる」
はっと、嗤いそうになって、呑み込んだ。不自然に歪んだ頬を隠すためにエンヴィーを見下ろすと、ご自慢の牙を唾液でてらてらと乳白色に輝かせていた。
こんなものを連れているくせに、ホタルに石の心臓を与えろと言うのか。
ボクはそっと踵を引いて彼らから距離をとる。石畳を擦ったスニーカーの底が、ジャリと無粋な声でボクの動きを告発した。
教会の紋章をつけた三輪トラックが雨雲色の太った煙を吐きながら坂を下って行く。
荷台で翻る幌の隙間にエンヴィーが一吠えしたけれど、ボクも小隊長も眼を向けなかった。押し込められている囚人たちの視線がボクの上を滑るのがわかる。きっと、軍人と対峙するボクを仲間だと思っているのだろう。
万が一ボクが捕縛されたとしても、彼らと同じ牢に入ることはないのに。
「由月」甘苦い排気ガスの中に、小隊長の生温かい声が漂う。「妹に、病気で苦しむ家族に石の心臓を与えたいと願うことは、責められない。誰だって家族は失いたくないに決まってる。それが年端もいかない子供ならなおさらだ。俺にも子供がいるから気持ちはわからなくもない。だがな、由月、アレは教会の教えに反した禁忌なんだ」
ボクはもう靴一足分の距離を下がっていた。後二歩でエンヴィーの跳躍距離から完全に外れる。
「石の心臓を持っているなら、これからそれを手に入れようとしているなら、今ここで投降しろ」
刹那、項が泡立った。目の前に飛んできたものを、反射的に叩き落とす。塞がっていた噛み傷が熱くなった。「エンヴィー!」と号令にも悲鳴にも聞こえる軍人の声が上がる。
エンヴィーの身体がヒート・ミールのガラス戸を突き破っていた。物凄い音に行きかう人々が足を止める。
軍人たちが一斉にコートの下から銃を抜いて、顔の左半分をガラスでぐちゃぐちゃにしたエンヴィーが血と涎を引きながら立ち上がり、店の奥から飛び出て来たキヨカさんが悲鳴を上げ、稼いだ距離を一歩で戻ったボクは小隊長の首に腕を巻き付けて盾にして、一番階級の低い軍人が発砲した。
そのすべてが、ほとんど同時に起こる。少なくともボクには正しい順序が見えていない。
どうやら先走って跳びかかってきたエンヴィーを、ボクがガラス戸に叩き込んでしまったらしい。
小隊長の首を捕えた腕の中でピシと嫌な音が響いた。重すぎる盾に筋を痛めたらしい。
マズい、と思った途端、小隊長が不規則に跳ねた。崩れ落ちる小隊長を支えきれない。彼を人質にすることは諦めて、その背中を蹴り飛ばす。鉄板みたいな硬さだ。小隊長の陰から腕を伸ばして、手近なテラス席のテーブルをひっくり返した。天板の厚みが心許ないけれど、一時しのぎの遮蔽物としてはじゅうぶんだろう。
それなのに予想していた着弾音は聞こえなかった。理由はわからないけれど好都合だ。素早く踵を返して横道に滑り込む。
ようやく壁に銃弾が跳ねる。でも、遅い。
金属製の大きなダスト・ボックスを踏みつけて、高い建物の外壁に張り付く外階段の踊り場に跳ぶ。手すりをつかんだ腕で無理矢理自分の体を引き上げた。また腕の筋が嫌な音を立てた。
体の不良を無視して、錆だらけの階段を駆け上がる。下を覗いたり振り返ったりなんてバカなまねはしない。
屋上への扉は閉まっていたけれど、初めから目的はそっちじゃないからノブにだって触らなかった。
狙いは、向かいの建物の外階段とこことを隔てる空間に張られたロープだ。下の方にはたくさんの洗濯物がぶら下がっているけれど、屋上に近いここは蜘蛛の巣同然にがらがらだった。
その一本に足を掛ける。張り具合を確認して大きく一歩踏み出した瞬間、耳元に生臭い息がかかった。
避ける。でも、ロープを踏み外した。
体液が眼球に集まるような浮遊感と嘔吐感が身体を駆ける。咄嗟に左腕ですくったロープの衝撃に頭が真っ白にフラッシュした。痛みが右の肘から手首までを引き裂く。腱を痛めたのかもしれない。
左の眼球をぶら下げたエンヴィーが、ボクの右腕に齧りついていた。
落ちても獲物は逃さないってわけだ、とその執念に感動すら覚える。
振り子のように揺れるたびボクの膝や足先に当たるエンヴィーの身体からは、輝くガラスと鮮血が飛び散る。ヒート・ミールのショーケースに並んでいる肉と同じ臭いが鼻を衝いた。とっくに腐ってなきゃおかしいのに、血を抜かれて洗われて気味が悪いくらいに鮮やかな赤を保つ死肉の臭いだ。
エンヴィーごと右腕を吊り上げて、視線を合わせる。
「かわいそうに」痛みに引きつる喉から精一杯の憐れみを贈った。「おとぎ話なら、よかったのに、ね」
ひらひらと空と大地を幾重にも裁断するたくさんの洗濯物がボクらを祝福している。
冬の太陽と同じ温度になったシーツの中で、ボクはエンヴィーの肋骨に触れた。逞しい筋肉の下に潜む頼りない細さだ。バクバクと激しい鼓動がボクの掌を震わせる。
短い体毛で覆われた皮膚に爪を立てる。中指の先が熱くなったけれど、爪が割れた痛みなのかエンヴィーの体温なのかはわからない。
確かめもせず力を込める。指関節の中であがった小さな破裂音が肘まで駆け抜ける。
エンヴィーの顎がミシリと鳴った。彼の牙はもう、ボクの骨にまで届いている。口腔に流れ込んだ血が気道の奥でごふごふと泡立っていた。それでも彼の右眼は苛烈にボクを捉えたままだ。こんな状態なのに恐怖の一欠片だってない。宿っているのは、純粋な殺意だ。
暴れるエンヴィーの体を脚で抱き込んで、「ごめんね」と小さく詫びる。
ボクなんかに出会わなきゃよかったのに。そうすれば、君の大好きな軍人たちが息絶えるまで、一緒にいられたのに。彼らの死を看取っても、次のご主人と巡り会えたかもしれないのに。
ぐぼ、と細い肋骨が窪んだ。硬い筋肉がミチミチとボクの拳を押し返す。ボクを拒んでいた弾力のある皮膚が破れる瞬間だけ、エンヴィーが戦慄いた。ボクの腕を詰めた口から細く悲鳴が上がる。
エンヴィーが、ボクから離れた。風に翻る真っ白なシーツにくるまって、幸せそうに空を仰いで、血を纏った牙と擦り切れた黄色い爪を閃かせて、彼は仰け反る。
ボクの左腕を呑み込んだ胸が引きつれて、それだってすぐに力をなくして洗濯物の海に沈んでいく。最後までボクとつながっていた血と筋肉と太い血管が、パチンと泡玉みたいに弾けた。
痺れた左手の指の間から淡い光がもれている。空気に触れたところを紺碧や紫電や藍白に色を移ろわせながら拍動する、卵大の石だ。本体を失ってなお、エンヴィーだったときの脈動を瞬かせている。
――小隊長が言っていた、石の心臓だ。これが研究者たちの間では滅多に見つからない鉱石だとか、輝きを失わない石だとか、神さまが起こす奇蹟だとかとかけて『
あふれる血とささくれた肉の間から骨が覗く右腕と、エンヴィーの体内を漁ったせいで傷だらけになった左手でロープを手繰る。痛みはなかった。ただ視界だけが白く明滅を繰り返している。
身体を駆け巡る情報量が多すぎて痛覚を処理しきれていないんだろう。無茶をするにはちょうどいいけれど、ロープの感触まで遠退いて危うくボクまで洗濯物の海に溺れるところだった。
なんとか対岸に渡りきったとき、石が左手から転がった。反射的に手を伸ばす。間に合わない。階段のステップを一段ずつ跳ね落ち、最後には踊り場から飛び出してエンヴィーの後を追ってしまった。
どうせ割ってしまうつもりだったから、すっぱりと諦めて立ち上がる。
腕は傷だらけだけど、脚が無事なら逃げ切れるはずだ。
息を整えて外階段から屋上に出ると、屋上から隣の建物に跳び移る。次の建物へも、その次へもボクは筋肉を限界まで酷使して跳ぶ。
ノラネコだって辟易しかねない細道と坂と袋小路がたくさん絡み合うこの町では、これが一番早く移動できる手段なんだ。
高所恐怖症じゃなくてよかった、なんて平和なことを思いながら、ボクはこの町を捨てるためにアパートへと駆け戻る。
背の高い建物をいくつも越えて、民家の屋根を五軒ほど走ったところで足を止める。
穏やかな階段状になっている町の、もう裾に近い辺りだ。身を低くして屋根の端から通りの奥に建つアパートの入口を窺う。
人ひとりいなかった。軍人の姿すらない。
ボクは眼を眩ませる朱色の太陽を振り返る。
もう夕の鐘は鳴っている。町の誰もが一日の終りを意識しながら家路に思いを馳せる時間帯だ。誰もいないってことは、道自体が封鎖されているってことだろう。
五階建てのアパートのちょうど真ん中、三階の窓に眼を凝らす。
ボクらが借りている部屋だ。
カーテンも掛けていないのに、埃と砂で白く濁ったガラスいっぱいに夕日の赤が満ちていて中は窺えなかった。ボクを待ち伏せる誰かのように、教会の尖塔が映り込んでいる。そこに宿るのが神さまなんかじゃないことを、ボクは知っている。
あれはこの惑星に墜落した移民船の成れ果てを模しているんだ。三基の噴射口を空に向けたまま大地に突き刺さった墓標、母星を捨てた裏切り者たちへの戒め、教会が隠匿した負の歴史。
そんなものが、いったい誰を救ってくれると言うんだろう。
屋根の端を蹴って隣の建物の外階段に飛び移る。向かいのアパートから黒ネコが金色の眼を細めてボクの不法侵入を見ていたけれど、咎める気はなさそうだった。自分たちと同じルートで移動する人間が珍しいのかもしれない。
一息に駆け下りて、二階の踊り場からダスト・ボックスの上に飛び降りた。
衝撃を往なすために転がり、路地裏の暗がりに着地する。じんと足の裏が痺れた。
アパートの壁と道の間に斜めに嵌っている鉄格子状のマンホールに手をかけようとして、目に入った自分の腕の惨状に思わず笑ってしまった。
右は肘から手首までの肉がごっそり消えて骨と筋が覗いているし、左手だって爪の剥がれた指が妙な方向に曲がって腫れている。無茶な跳躍に傷付いた四肢の筋肉は熱を帯びて重怠く痛んでいる。
さっさとこの町から逃げだせばいいのに、なんだってこんなにボロボロになってまでアパートに戻ろうとしているんだろう。
ホタルたちを探して軍人たちがすぐにでも追ってくるとわかっているのに、いや、すでに息を殺して潜んでいる可能性だって高いのに、そんな部屋に自ら飛び込んでいくなんて本当にバカだ。そう失笑して、それでもボクは左の手首を格子に絡める。
いろんなものを諦めて逃げていた。手放すことと引き換えに命をつないできた。今だって、もうボクはこの町を捨てると決めている。
それでも、アパートに残してきたアレだけはどうしても諦めたくなかった。アレに付随する過去を、忘れたくなかった。
格子の食い込んだ腱が軋んだ。かまわずアパートの壁に足を突っ張って、全体重を掛けて引く。錆びた外見に似合わずスムーズに持ち上がった。
三日と空けず、万が一の場合の逃走ルートを確認していた成果だ。
生温かく湿った悪臭が噴き上がる下水道のキャットウォークに飛び下りる。黒い水と汚物が禍々しい渦を描きながら流れていた。
闇の中から、真っ白に光る眼がボクを出迎えてくれる。
この下水道を支配するネズミたちだ。血を滴らせているボクは、さしずめ美味しそうな匂いを振りまくご馳走というところだろう。
でも、襲ってくる気はないようだ。貪欲なネズミたちも、ボクを骨にするよりボクの手が彼らを叩き潰すほうが早いとわかっているんだろう。
ネズミの一匹がボクの靴底から逃げ損ねて、ねちょりと内臓をはみ出させた。けれど、破れた腹も腸も、二呼吸もすれば何事もなかったかのように復元されている。僅かな血の跡だけが残酷なボクの足を責めていた。
血液に溶け出した稀石の青がぼんやりと彼ら輪郭を浮き上がらせている。
エンヴィーと同じ臭いがするのに明確な弱点である石の心臓を持たないこの生物が、ボクは世界で二番目に嫌いなんだ。
汚水を見下ろすキャットウォークの交差点にはA‐3やD‐1というプレートが嵌っているけれど、方向を知るうえではほとんど役に立たない。太陽も目印となる建物もないかわりに、頭に叩き込んだ記憶を頼って横穴から間欠的に吹き出す悪臭の白煙を潜る。
三つ目の角を曲がったとき、膝元になにかが飛び込んできた。
予想していなかった衝突を、身体を捻ってなんとか回避する。はずだったのに、使い物にならない右腕にバランスをとられて肩から無様に転んだ。
「ツキ姉、大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ」と投げやりに応じかけて、はっとした。ネズミの取り巻きを連れたシュンが立っていた。
「キヨカさんのところにいろって言っただろ!」
「だって、心配で……」
その後にも言葉が続いていた様子だけど、下水の本流に掻き消されて聞き取れなかった。
思い切り舌打ちをしたい気分を、辛うじて堪える。苛立ちを、ちょっとやそっとじゃ吹き出さないくらい腹の奥深くに沈めて、ボクは端的に訊く。
「ホタルは?」
「お店。危ないから待ってるように言ってきた」
シュンは胸を逸らして言うと、ボクに手を伸ばした。
君が来たって危険度はかわらないんだ。せめて足手まといにならないように店にいてほしかった。だいたい、そのちっぽけな体でなにができる気で、誰を心配して来たって言うの。他にもたくさんの文句がつらつらと浮かんだけれど、ボクは素直にシュンの手を借りて立ち上がる。
「ツキ姉、その手、どうしたの?」
「ちょっと」右腕を体の陰に隠して、爪の剥がれた左手だけをひらひらと振って見せる。「急いでいたらハシゴを踏み外してこのザマだよ」
どうしよう、とボクは闇に吹き出す白い煙を見る。シュンを連れたままじゃ素早い移動はできない。でも、ここにシュンを残して行くのも危険すぎる。
あの軍人たちは、いったいどこまでボクらのことを調べているのだろう。アパートの部屋には踏み込まれているはずだ。
「ツキ姉、早くしないと軍人さんが来ちゃうよ?」
シュンが首を傾げてボクを見上げている。
誰のせいで無駄な時間を食っていると思っているの? と詰りたい気持ちが腹の底でのた打ち回る。
そのとき、聴覚が異常を捉えた。
キャットウォークが軋んでいる。足音は、一人。靴底に鉄板を仕込んだ軍靴特有の甲高い反響だ。軍人が単独行動をしているなんて、ろくな作戦じゃない。
シュンを肩に乗せて、左腕だけで壁の上部に開いた横穴に押し込んだ。地上につながる無数の導水管をいくつもの分岐点でまとめ合わせたそれは、子供一人くらいなら容易に隠してくれるほどの口径を持っている。シュンの小さなスニーカーが踝まで汚泥の中に沈んだ。
「ここで待っていて」
「え、ヤだよ」シュンは折り畳んだ手足の間で体を捩った。「くさいしきたないし、なんだかヌメヌメする」
「一時間して戻らなかったら」
「ツキ姉」
「キヨカさんのところに行って。そこで合流しよう。必ず、迎えに行く」
一方的に言い置いて、注意深く下水道の狭い空間を窺った。なにか言いたげなシュンの呼吸を背後に感じたけれど、それも意識の外に追いやる。
壁の横穴からは思い出したように汚水が噴き出している。本流に落ちる汚物の粘った音に、ほんの少しだけシュンに悪いことをしたかな、と思う。でも銃弾を浴びるよりはマシだろう。少なくとも、悪臭では死なない。
足音が近付いてこないことを確認してから、移動を開始する。
できるだけ息を殺して相手にボクの存在がバレないように、相手の進路を読み損ねてうっかり鉢合わせしてしまわないように、考えながら走る。
ボクの目的はただ一つ、アパートの部屋から『お守』をとって来ることだけだ。
敵を倒してやろう、なんてカッコいいけれど無謀なことは一切考えていない。そもそも、訓練を受けた軍人を倒せるような力がボクにあるはずもない。
ようやくアパートの真下にあるハシゴに辿り着いた。
見上げても真っ暗な穴があるだけだ。天地が逆転してどこまでも落ちていけそうなくらい漆黒の、闇だ。左手首を引っかけて一段ずつ身体を持ち上げる。
ぞろぞろと後をつけてきたネズミたちがここぞとばかりにハシゴの両側に陣取って、壁やステップに飛び散るボクの血を狙っている。
面倒なことを、とエンヴィーではなく、その飼い主たる若い軍人の顔を思い出して舌打ちをした。思ったよりも大きく響いてぎょっとする。
でもそれ以上に、足元から吹き上がった人の気配に驚かされた。
靴の下を、誰かが歩いていた。
シュンが追いかけてきたのかと思ったけれど、すぐに気付く。子供の影じゃない。でも、軍人ほど巨漢でもない。ボクに気付いていないのか、前や後ろを忙しなく振り返りながらすり足でじりじりと移動していた。
そのまま通り過ぎて、と祈る。でも、不信心なボクの祈りはネズミたちにあっけなく叩き落とされた。
ボクの血肉というご馳走を前に我慢がきかなくなったネズミの一匹が、ボクの右腕に飛び付いた。挙句に少しの肉とたくさんの血をお供に自由落下していく。ちょうど人影の真ん前だ。
はっと、そいつが顔を上げた。ほとんど同時にボクはハシゴを放す。空中で体を捻って頸か顎か、せめて顔のどこかに入ればいいと思って足を蹴り出した。
避けられる。
着地と同時に踏み出した足先で、銃弾が跳ねた。パン、と間抜けな炸裂音と一瞬の閃光がボクの感覚を撫でる。本能が体を硬直させた。
「動かないで」そいつが、女の声で言った。「次は、あてる」
薄闇にぼんやりと浮かんでいたのは、栗色の髪を後頭部でまとめた女だった。目元にかかった前髪のせいか、レーザーポインタの赤い光線が小刻みに揺れている。
右目に入ったレーザーが眩しくて、眼を眇めた。次の呼吸でそれは左目に移る。そしてまた右に戻って、次は首から胸に下りた。
ああ、とボクは緩やかに理解する。彼女はボクを狙っているわけじゃない。狙いたいけれど、狙えていないんだ。ゆっくりと膝を伸ばして立ち上がる。
「動かないで」
再びの警告は、小声だった。女が銃を構え直す。片腕で抱えられるくせに十数発もの銃弾を呑み込んでいる型だ。
激しくブレたポインタの行方を、ボクは追わなかった。無造作に、彼女に向けて一歩を踏み出す。
「撃つわよ」
叫ぶ口の大きさで、彼女は囁く。喉のどこかが空気漏れを起こしているような風音が混ざっている。
無視して、もう一歩。
汚水の濁音の中でも、キチリとトリガーの遊びが底をつく音はやけにはっきりと聞こえた。
でも、もう一歩。
きっと喧嘩慣れしている奴なら気が付いたはずだ。ボクの間合いはすぐそこだ。
女が半歩下がった。無意識だろう。彼女は銃から伸びるレーザーポインタに夢中になっている。
近くで見ると、まだ子供だった。といってもシュンやホタルほど幼くはない。大人になりきれないギリギリのところから、必死に背伸びをして大人を装っている不安定さが滲んでいる。
どうして子供という生き物は、こうも生き急ぐんだろう。
そう思ったら急に可笑しくなった。いつ訪れるとも知れない死を怖がるくせに、歳をとることは望みすらする。
女が――少女が首を傾げた。ボクが笑ったせいかもしれない。レーザーの赤が外れる。一瞬だけ、でもじゅうぶんすぎる隙だ。
二歩で踏み込んで、彼女が目を見開くときには振りきった左腕で彼女の手首を強かに打ち据えている。手ごたえが軽い。銃を飛ばし損ねた。意外と素早い。
舌打ちをしたい気分で足を払う。今度はきれいに入った。バランスを崩した彼女の体を左腕で引き寄せて、骨が剥き出しになった右腕を喉に入れて、少女を壁に叩きつける。
ぐげ、と潰れた声がした。悪臭の満ちた湿った下水道も人肉と血が好物のネズミも、大きな拳銃だって似合わない、細い体だった。
ボクの血を浴びてねっとりと濡れた薄い腹に左手の拳を圧しつけて、ボクは彼女の耳朶に低く吹き込む。
「いい? よくきいて、考えて。今、ここで君を殺すのは簡単だ」
ひゅ、と防砂ゴーグルに護られた彼女の喉が鳴る。無視して、続ける。
「でも、君を殺す必要を感じてるわけじゃない。もし君が銃を捨てて何事もなかったように回れ右をして帰ってくれるなら、ボクも平和に君を解放してあげられる。今、ここで死体となって汚水を泳ぐか、自分の脚で地上の夜を堪能するか、選ばせて」
あげるよ、と言うはずの声を呑み込む。背後の四つ角から足音が聞こえた。鉄板を仕込んだ軍靴だ。
頭上の穴と下水道の闇とで一瞬だけ迷って、ボクは少女を手放す。足音とは逆方向に駆け出す、はずだったのに。
「ケイ?」
その声に、その名前を呼ばれて、凍りついた。足を止めて、呼吸を止めて、思わず振り返る。振り返って、しまう。
彼であるはずがないのに、こんな場所で聞こえるはずのない声だったのに、その名前があまりにも懐かしくて、愚かなボクは足を止めてしまった。
ドッ、と弾けた肉がその幻聴を掻き消す。
頭を殴られた衝撃で壁まで吹き飛んだ。右の視界が完全になくなっていた。
肩で壁を擦りながら体を支える。残った視界の端で、少女が腕を上げていた。赤い光線がボクと彼女をつないでいる。さっき奪い損ねた銃だ。
自分の失態に舌打ちをするはずの上顎がぐぼっと凹んで、喉のどこかが捻じれる感覚に吐き気がした。
どうしてあんな声を聴いてしまったんだ、と自分の耳を呪った途端に、たぶん耳朶まで千切れた。膝をついて、口の中に溢れたものを吐く。横穴から下水に合流しているものと同じ、重たい水音がした。
「ケイっ!」
また、彼だ。顔を上げる。すぐに突っ伏して吐く。血と肉片の中に白っぽい塊が浮いていた。歯か骨の破片だ。
あのときと同じだ、血と銃と、彼。
背後に迫る強烈な眠気の中で、ぼんやりと考える。ボクの手は彼に届かない。彼の手もボクには届かない。
「ケイ!」
汚水の濁流に呑み込まれた声が近い。
もう身体を支えていられない。黒の濃淡で浮き上がる壁に、ボクの血と脳が大輪の花を咲かせていた。
でも、そんなことはどうでもいい。彼の声が聞けたんだからもう、どうでもいい。
幸せな酔い心地がした。ボクは薄れる意識の下から、そっと彼に応える。あのとき呼べなかった彼の名を、呼ぶ。
――
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