初心者一年生
赤木と雨宮が思いがけず急接近したその日の部活。
宮崎監督は一年生にひたすら課してきたダッシュトレーニングからボールを使ったトレーニングを解禁した。紅白戦以来に部活でボールに触れられる事に一年生部員達は歓喜するが、最初に課せられたのは初心者がサッカーボールに慣れるためにおこなう「ボールタッチトレーニング」であった。
ボールタッチトレーニングとは、足元のボールを止め、運び、蹴るを繰り返すボールを扱う
宮崎監督がおこなうボールタッチトレーニングは二人一組になって指定された範囲から外に出ずに制限時間内にそれぞれ一組ずつバラバラに与えられたボールタッチメニューを1セットごとこなし、練習ペアにパスを送り合計10セットをクリアするものだ。お互いが全てのメニューをクリアすれば、二、三年生と同じ練習メニューに移れる。基礎的なボールタッチトレーニングに僅かだが落胆した空気が流れていた一年生部員達も先輩達との練習に移れると告げられればやる気も起こるというものだ。だが、このボールタッチトレーニングは二人一組と決められた範囲でおこなうというのがミソである。ひとりでおこなうものとは違い自身の課題が終われば対になる相手にボールを送り、相手も課題が終わればボールを送る。制限時間内に十回繰り返すというのは意外と相手とのタイミングを合わせるのは難しい。焦りからボールタッチが散漫になるもの。クリアしたもののパスミスをして相手を指定範囲外に出してしまうものが続出する。一度でも失敗とみなされれば連帯責任でそのペアは最初からだ。基礎練習と甘く見た者に次のステップを踏ませることは許されない。
雨宮 リアも他の一年生部員と同じく、決められたボールタッチトレーニングをペアでこなしていた。雨宮自身は制限時間内に課題をクリアしてボールを正確に送るのだが、相方となる部員は粗が目立つ。課題はこなせているがどうにも制限時間を割ってしまうようでボールタッチトレーニングの終わりは見えない。
(このくらいできないと)
競争の激しいレギュラーなんて取れる訳は無い。自身はそつなくこなせるだけに段々とイライラとしたものが心の内から湧いてくる。だが、相方の方は妙に楽しげな顔でひとつひとつ失敗を繰り返しながらも時間は掛かっているが段々と速度をあげて課題をこなし始めてゆく。足の各部位にボールを付け転がす「ロール」からボールを引いて戻す「プルプッシュ」からまたロールへと戻る課題を時間内にクリアすると真っ直ぐと雨宮にボールを転がした。絶妙な位置でボールを受け取った雨宮は10セット目となる課題をそつなくこなし相方に正確なパスを転がし、ため息に近い長い息を吐いた。
次の練習に移る前に水分休憩の指示が伝えられる。あまりにも時間を食い過ぎたため、すぐにでも次の練習に移りたいというもどかしさはあるが適度な水分補給と休憩も大事なトレーニングのひとつだ。雨宮は用意されたストップウォッチをアラーム代わりにセットしてから持参したワンプッシュオープンタイプのスポーツボトルを手に取り片手で押し上げ、適度に冷えたドリンクで喉を潤す。水分が身体に染み渡る感覚は自覚の無い身体の疲れを自分自身に教えてくれる。
「結構、サッカーのボール練習も楽しいもんだね」
赤茶けた髪をヘアゴムでサイドアップに纏めた部員が休憩をしている雨宮に親しげに声を掛けてくる。先程のボールタッチトレーニングのペアになった相方だ。正直、今日初めて練習ペアを組んだくらいで名前もまだよく知らない彼女にいきなり親しげに話をされても困惑の度合いが雨宮には強い。
「別に、小学生になる前からやってる基礎練だから、楽しいもなにも無いんじゃないの?」
休憩中はしっかりと身体を休めて次の練習に備えたい雨宮は多少ぞんざいに言葉を返した。だが、向こうは特に気にはならないようで薄茶色の大きな眼を瞬かして頷きながらドリンクを飲む。
「そうなんだ、わたしサッカーは今年から始めたから知らなかったわ」
「……??」
一瞬、なにを言っているのか解らずに彼女の顔を思わず見つめた。美味そうに喉を潤す横顔がストロー付きのスポーツボトルをくわえたまま雨宮の視線に気づく。
「ん、んぁに?」
「いや、サッカーを今年から始めたって聞こえて」
聞き間違いじゃないだろうかと雨宮は耳の奥を小指で掻いた。いくら長年勝利から遠ざかっているといっても西実館は元強豪校だ。小学生の頃に優秀だったプレイヤーも練習の厳しさに根をあげ自信を喪失しやめてしまう事もあるというこの女子サッカー部に、今年からサッカーを始めたとかいう人間が入部するものなのかと。だが、目の前の女子はストローから口を放し、眼を瞬かせて逆に首を傾げる。
「そだよ、小6の時はバスケやってたんだ。中学になったらまた別のことやりたいなと思ってさ、
そんな食堂のメニューに迷うかのようなあっさりとした理由で女子サッカー部に入部したというのかと雨宮はただ唖然とした。
「んなことより、あなた、みんなが噂してる雨宮 リアさんでしょ? 監督さん追いかけてきたって、凄いよね、なんか有名人の追っかけみたいだ」
このやたらと馴れ馴れしい態度は素なのか、なにか煽っているのかいまいち雨宮にはよくわからない。構わずに目の前で彼女は話を一方的に続けてくる。
「まぁさ、さっきペア組んだのもなんかの縁だから一年生同士仲良くしようよ。雨宮さんて名字呼びなのも、なんかよそよそしいよね。うーん、わたしはリアって呼ぼうかな。よし、そうしようっ。リアもわたしの事遠慮なく「イチジョウ」って呼んでよ。よろしくっ」
「は?」
いきなりなにを言ってるんだと無遠慮な距離の詰め方に飽きれるまもなく、ストップウォッチが休憩終了の合図をやかましく鳴らす。
「お、休憩おーわりっ。んじゃ、リアお先っ」
言うだけ言ってイチジョウはスクッと立ち上がり元気に掛けていく。雨宮は普通のランニング速度で後を追いながら複雑な表情で彼女の背中を見つめる。
(こっちは馴れ馴れしく名前で、なんでそっちはよそよそしいって言ったくせに名字なんだろうか?)
心の中の疑問、無遠慮すぎるイチジョウというチームメイトは妙に雨宮の脳内に忘れる事は難しい印象を刻むのだった。
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