夜水の愛

武田コウ

第1話 夜水の愛

 ピタピタと、裸足でプールサイドのタイルを踏みしめる感触を確かめながら、私は普段とは違った表情を見せる水面を見つめた。




 夜の闇を映した漆黒の水が、静かに流れる風を受けてなだらかな波を立てる。隣接した道路の街灯から漏れ出した僅かな光が、波のあちこちに反射してキラキラと輝いた。




 美しい。私は目の前に広がる幻想的な光景に胸を震わせた。わざわざ夜の学校に忍び込んだかいがあった。そう思えるほどの感動を味わったのだ。




 私はプールの縁までゆっくりと歩み寄り、ぐっと膝を折り曲げた。そして自然な動作で漆黒の水に飛び込む。




 ザブリ。ピンと伸ばした指先から順に冷たい感触が纏わりつく。存外、水中は明るかった。ゆらゆらとゆれる視界の中で、ピンと伸ばした腕を見る。青白く細い腕は不規則に揺れ、唐突に自分がか弱く、儚い存在に感じられた。




 無重力を思わせる浮遊感、水面から差し込む光の筋が私を照らし出す。




 両足で水を蹴った。そこから生まれる僅かな推進力が私の体を前進させる。腕で水を掻く、ふと思い立った私は体を反転させた。




 水中から見上げた夜空には、ゆらゆらと揺らめく満月が浮かんでいた。




 ゆっくり体の力を抜くと、自分の体が浮上していくのがわかった。そのまま何をするのでもなく、ただゆらゆらと水面に浮かんでいる私。




「夜中の学校に忍び込んで水泳とは、ずいぶんと洒落た趣味だな」




 誰もいないはずのプールサイドから、声が聞こえた。そっと、声のした方向へ視線を向けると、そこには見知った男が佇んでいた。




「なんだ君か、どうしたの?私に何か用事でもあるのかな」




 私が問うと、男はやれやれといった様子で答えを返した。




「おじさんが探してたぞ、また勝手に家を抜け出しやがって」




 この男は、私の幼馴染というやつだ。家が近所だった事もあり、私のプライベートにも遠慮なく踏み込んでくる。




「君には関係の無いことよ。私の事は構わずにサッサと帰るといいわ」




 私が素っ気なく言い放つと、彼は怒ったような顔で口を開いた。




「関係ない事無いだろ!幼馴染じゃないか」




 幼馴染。彼の口から聞こえたその単語に、私は顔をしかめた。そう、彼と私は幼馴染。それ以上でもそれ以下でも無い。少なくても彼にとっての私は幼馴染でしか無いのだろう。その事実を自覚した瞬間、私の胸がチクリと痛んだ。




「……ほっといてよ」




 私に関わらないで。君の無邪気な瞳は、まるで鋭利なナイフのように私の心をズタズタに切り刻む。


 ザブリ。私は水中に潜る。目の前にいる彼から逃れたくて、儚くも美しい、私は夜水の抱擁に身を託す。




 ザブリ。幻想的な闇に、微かなノイズ。気が付くと隣には彼がいた。




「いいかげんにしろ」




 彼は怒ったように頬を膨らませて、私を水上へ引き上げる。一見女子の腕にも見える彼の細腕。こんな腕のどこにこれ程の力があるのだろうか、私は彼のなすがままに引き上げられた。




「服……着たまま飛び込んだの?」




 私が問いかけると、彼は真っ赤になって顔をそむけた。




「バカね。本当に……バカ」




 でも私は……そんなあなたの事が……。




 そっと、彼のほほに手を当てる。少し驚いたような彼の表情、私はそっと微笑み……、彼の唇にそっと自分のそれを押し当てた。




 塩素の臭いがする。どくどくと高鳴る心臓、実際には数秒、自身には永遠にも思える時が過ぎ、そっと唇を離す。




「俺、彼女居るんだけど」




「うん、知ってる」




 知っている。でも、君が私を愛していなくても、私は君を愛してる。




 悲しい程に報われない。それでも私は君を愛している。この夜水のように美しく、ずっと私に優しかった。そんな君を……。












私はずっと愛してる

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夜水の愛 武田コウ @ruku13

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