33 天界の岸辺


 遺跡の中は予想に反して光に満ちていた。

 扉もない闇が口を開けたような入口を潜り、しばらく歩いたらそこには広い空間が広がっていた。

 無骨な石を積み上げた、およそ明かりとは無縁の壁のそこかしこから、どういう訳か柔らかい光が漏れ出している。まるでランタンや篝火のように、その頼りない光が足元までを照らしてくれている。

 足元にも石が敷き詰められており、壁の色合いとも合わさり、どうやらこの遺跡は外観共々白一色で統一されていることが窺えた。長年の風化により外の色合いまでは純白を守り切れなかったようだが。

 天界への崇拝をその色に込めたかのように、研ぎ澄まされたような白き空間だった。淡い光も光の魔術のような暖かさを放っている。

「空間に光の力が満ちているな」

 ゼトアの言葉にグロッザも頷く。エルフである自分には暖かさとして伝わるこの魔力の波長は、まさしく聖なる光の魔力そのものだ。空間全体が降臨の儀式のための魔力に満ちているのだ。そんな中を魔族であるゼトアは顔色も変えずに佇んでいる。

「グリアス、大丈夫?」

「ボク? 少し魔力の流れは気になるけど、そこまでじゃないよ」

 隣の小さな手を握りながら聞くと、少年も穏やかな魔力の流れと共にそう返してくれた。手を伝わって感じる魔力に、無理をしている様子はない。

「ほな――始めよか?」

 天使がそう言って音もなく空間の中心――外からも少し見えた階段に向かって歩き出す。まるでその存在を認識したかのように、天使が歩く度に空気が震える。まるで燃え上がるように空間の熱が上がるような錯覚を感じさせる。

 天使が階段に足を掛ける。その階段は途中で崩れていた。それが元からのデザインなのか、崩落の影響なのかはわからない。ただ、半ばで立ち止まりこちらを振り返った天使の姿に、これまでとは違う何かを感じさせた。ここは神聖なる舞台なのだ。

「ここは天界と地上を繋ぐ場所だ。この地での奴こそ、天界での奴に程近い」

 グロッザの心を見抜くように、ゼトアがそう補足する。彼もまた少し目を細めて、まるで眩しい光でも見るような目でストラールを見ている。

「さぁ、グリアスくん。おいで」

 ストラールが片手をこちらに差し出してくる。グロッザの隣で小さな手が一瞬強く握り締められ、そして一人、その手を取るために歩き出す。

 大きすぎる魔力を背負うには、その身体は小さすぎて。少年は静かに天使の手を取り、共に階段の半ばまで歩を進める。

「これから中和を行うで。ママさん、階段の前で祈りをお願いしますわ」

「わかりました」

 天使の指示を受けて母が階段の手前で膝をついた。静かにその瞳が閉じられ、その形の良い口からまるで鈴の音のような呪文が流れ出す。神官服が溢れ出した魔力にたなびく。

 天界への呪文は聖職者でないと聞き取れない。ただその音色の美しさだけはグロッザにもわかった。天への祈りはきっと、その願いを天界へと届けるだろう。

「……ほんまにエエ素材やな」

 天使の呟きに、グロッザは小さな違和感を感じた。その言葉に吸い寄せられるかのように視線は天使へと移る。

 天使は片手を振り上げて、その手にはあの眩い光が集まって――

「――グリアスっ!!」

 グロッザは駆け出した。その手に集まる光にほんの少しの悪意を感じて。眩い光にひた隠し、好機を狙う狂気を感じて。

 祈る母の横を走り抜け、階段にその一歩を踏み出す刹那、その舞台<階段>から天に向かって光の柱が漏れ伸びた。

 まるで淡い色合いのヴェールのように半透明なその光は、階段の上にいる天使とグリアスを守るようにして広がった。グロッザは構わずそれに手を伸ばすも、あまりに激しい熱さを感じて、それ以上踏み出すことが出来なくなった。

 半透明の向こう側でグリアスが怯えた表情をしている。その正面にいる天使の口がさもおかしそうに開く。

「なんや、バレてもたんか? 儀式中やで? じっとしときや」

「お前っ、何が目的なんだ!?」

 にやーっと笑った天使の表情は、どちらかというと悪魔に近いように感じる。その手の輝きはどんどん増している。

「このコから闇の魔力を消したげるんやで? あ、そうやな……グロッザくんには特別に教えてやってもええな」

 天使は何かを思いついたようで、おもむろにそう言うと片手をグロッザに向かって差し出した。

 目の前にはあの熱を発するヴェールがあるのに、グロッザの身体はまるでその手に導かれるように、一歩また一歩と意思に反して踏み出していく。

 ほんの少しの肌を撫でるような感触。それだけを残してグロッザの身体はヴェールを問題なく通過した。その瞬間ヴェールの透明度が濁る。

「この光の中は天界の岸辺と言われる空間や。さっきまでは地上との境界を曖昧にしてたけど、こうなったらもう向こうにはこちら側の行動はわからんくなる」

 そう言いながら天使はヴェールの向こうを顎でしゃくった。もうそれは光の濃度を増しており、自分が元居た場所も彼も母親の姿も見えなくなってしまっている。

「中和を、するんじゃないのか?」

 天使は闇の魔力を消すとは言ったが中和とは言わなかった。天使はきっと嘘はつかない。

「俺はな、魔王アレスを殺すことが天命なんやわ」

 天使はその身に刻まれた使命――と塗り替えた欲望を口にした。悪魔のような表情は変わらず、その口元は人間らしい欲望に歪んでいる。天使がグリアスの肩に手を置いて説き伏せる。

「俺の槍“ブレランツェ”は魔力を混ぜ合わせることが出来る。この身に残った光の魔力とグリアスくんの闇の魔力……極限まで混ぜ合わせて魔王の鏡にぶち当てる。混ぜ合わせる段階で中和もされてまうから、グリアス君はこれでも問題ないやろ」

 安心させるようににっこり笑うストラールに、グリアスは子供ながらに冷静だった。その目は油断なく天使を見据えている。

「……それだけなら、わざわざグロッザを引き入れる理由がないよね? いったい……天使様は何を考えているの?」

 目の前の天使に負けないぐらい、少年も悪い笑みをしてそう返した。それにストラールは肩をすくめる。

「……なかなか、しっかりしたガキやな。出来損ないの息子とは大違いや」

 そう言いながら天使はこちらに目を向けた。笑みはそのままにその口が続きを紡ごうとしたところで、グリアスが慌てた様子で制止をかける。

「待って! 今この場所で、それを言う必要はないと思うけど? 混ぜ合わせるにはボクの意志が必要でしょ? そんなこと言うなら、協力してあげないよ?」

 捲し立てるようにしてグリアスがグロッザを守るようにして間に立ち塞がった。小さな背中が微かに震えている。だがグロッザには、少年のその心遣いよりも、天使の言葉の方が惹き付けられる。

「……出来損ないの、息子?」

「なんや、まだわかってないんか、お前は――」

「――黙ってよ! ボクのグロッザを――」

「――お前はゼトアの息子やで」

 喚くグリアスを押しのけて、ストラールは残酷な真実をグロッザに突きつけた。相変わらずの笑みは、今はもう嘲笑に張り替えられて、小さな身体を押しのけたままの真正面で、出来損ないの息子の表情を楽しむ。

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