問題編 第2話
三人が順に出て行き、最初にラウンジに帰ってきたのは雪乃だった。三分も経っていないだろう。サークルで共有している小型のデジタルカメラを手に持っていて、ひらひらと小さく振ってみせる。
しかしメンバーが少ないことに気が付いたのか、薄い笑みが疑問の表情に変わった。
「……あの、寺田さんと遠山さんはどこに……?」
「寺田はトイレ、遠山君は部屋に私物を取りに行っているよ」
「男子のトイレにしては長いよねー。飲みすぎで吐いてたりして」
有り得ないことではない、と安東も思うが、寺田は一回生での嘔吐の反省を生かし、二回生となった今ではアルコールの匙加減を完璧に会得した人物だと安東は評価しているので、その線は薄いだろう。
残る可能性は言うまでもない。あるいは、更にトリックが浮かんだと言っていたので自室にでも寄っているかもしれないが、写真を撮る話は聞いていたはずだ。そのうち戻ってくるだろう。
案の定、寺田は六分程で姿を現した。
遠山を待つ間、ミス研フルメンバーのミステリ談義が再熱する。語り尽くしたと思われた過去作の話題も、場所が場所だけに弾むようだ。気が付けば安東も饒舌になり、酒の空き缶が足場を減らしていく。
特に、雪の山荘物は語られた。『霧越邸殺人事件』『屍の命題』『『アリス・ミラー城』殺人事件』『ジェリーフィッシュは凍らない』『星降り山荘の殺人』『殺しの双曲線』『名探偵はもういない』『蜜の森の凍える女神』『雪密室』『シタフォードの秘密』……等々。綾乃を除く四人が揃えば、俎上に載る作品は枚挙に暇がない。
ふと腕時計を見遣ると、午後十時十二分。遠山が出ていってから、一時間三十分以上が経とうとしていた。
しかし、待てど暮らせど、彼がラウンジに帰ってくる気配はない。
「なぁ、流石に遅くないか?」
誰もが思っているであろうことを、代表して安東は口にした。
「バッテリーが見つからなくて部屋を丸ごと探したとしても、こんなに掛からないだろう」
「誰かトイレに行ったときに、遠山くんを見たり部屋をノックした人はいないのー?」
綾乃の質問に答えるメンバーはいなかった。
この一時間半の間に全員が一度はトイレなどで席を外したが、彼の所在は誰も分からないらしい。安東自身も、先ほどトイレに行った後に遠山の部屋の前を通ったのだが、物音どころか気配すらない様子だった。
「まさか、麓まで歩いて買いに行ったーなんてことないよね?」
「おいおい、遭難で恐ろしい目に遭ったやつが、夜間に出歩くわけないだろ。そもそもの話、何で俺たちに一こと言わないんだ」
寺田が尤もな疑問を呈した。
モバイルバッテリーが見つからず、同種の充電ポートの充電器を求めて外出をするにしても、誰かに借りるにしても、ラウンジを寄らない理由は見当たらない。
「だよねー。おかしいなぁ」
「……写真を撮る話を忘れてしまっていて、部屋で充電をしているなんてことは、考えられませんか? 若しくは妙案が浮かんで執筆をされているのかも……」
「遠山ってそんなキャラだったか? いや、出会って一日も経ってない俺たちが彼のことをどうこう言えないか」
皆が口々に考えを述べる中で、
「これは……、面白い展開になってきましたね。よし、僕が声を掛けに行ってきますよ」
言うや否や、有馬は軽い足取りでラウンジを出ていく。
面白いとは一切思わなかったが、声を掛ける必要があるのは彼の言う通りだ。
残った四人が沈黙したまま耳を澄ませていると、遠くで微かにノックをする音と、何かを言っている張り上げた声がする。十秒ほどの静寂があってから、再び微かにノックと声。大きくはない建物とはいえ、仮にもペンションだ。開業当初にお客からの苦情もあり、防音リフォームもしたようで、そこそこの防音性はある。
そんなことを考えていたものだからか、気付くのが随分と遅れた。
「「あ!」」
と、共鳴するように安東と雪乃が腰を浮かす頃には、有馬がラウンジのドアからいよいよ興奮した様相を帯びて戻ってきていた。
「反応なしですね。鍵も問題なく掛かっていました。ああ、施錠の件は一度全員で見ておきましょう。僕が疑われるのは嫌ですからね。さて、お約束の扉を蹴破るかですが――」
「違う、違うのよ悠士君。……実は部屋を交換したの。だから、私と綾乃が使ってたツインベッドの部屋を、今は遠山くんが使ってるのよ……。あれ、そう言えば部長さんは何でこのことを?」
「……トイレに行くときに、聞こえたものでね」
「あー部長さん、盗み聞きしてたんだー」
「まぁ、そういう表現もあるな」
綾乃の冗談交じりの揶揄に上手く返せず、安東は浮かした腰を恥ずかしげに下ろすのだった。
ちなみに、彼女ら姉妹が交換する前に使っていた部屋は、従兄弟夫妻が寝室として使っていた部屋でもあり、窓は東側だ。交換した現在は、姉妹は西側(駐車場、玄関側)の部屋になる。
「部屋の交換ですか。なるほど、そうだったんですね。でも、それはまたなぜに?」
「それは…………。私が幽霊の声を聴いてしまったので……」
初耳の有馬と寺田はきょとんとした顔だ。
「と、ともかく……、私が声を掛けてきますね……!」
「待って下さいよ。僕にも立ち会わせてください」
普段見ない俊敏な動作で廊下に出ていく雪乃の後を、有馬が浮き浮きと付いていく。
安東は迷ったが、あの二人に任せれば大丈夫だろうと判断をする。
しかし、彼女達の行動も徒労に終わったようだった。
「……何度呼び掛けても、物音一つしないんです。まるで室内にいないかのような……それでも鍵はきちんと掛かっていまして……」
「ねぇねぇ、どうします? 密室と定義するには窓の外に足跡が無いことも確認しないといけませんよね。ああでも、遠山くんが二階にいたなんてオチだったら、がっかりだなあ」
沈んだ表情と喜色満面な顔が交互に言う。
雪乃には珍しく気色ばんだ眼で有馬を一瞥すると、再び安東達を見渡しながら、
「もし急病でしたら大変でしょう……? 心配なので、わたしが窓から見てきます」
なら頼んだ、などと現在は雪が降っていないとはいえ、この積雪と寒風の中を女性一人で行かせられるものではない。
「俺も行こう」
と、安東は今度こそ腰を上げた。
「雪乃の言うように急病の可能性はあるからな。少し確認してくるよ」
じゃあ俺も。じゃあ、わたしもー。とダチョウ倶楽部には程遠いテンポで、ぽつぽつと手が挙がる。結局、全員で行くことになった。
ラウンジに持ち込んでいたアウターをそれぞれが着込むと、裏口は壊れていて開かない為、全員で玄関に直行する。
一階の窓側に回るには当然、降り積もった雪を踏みしめて行かなければいけない。
アウトドアな遊びはしないと踏んで、誰も雪山用の登山靴は買わなかったのだが、ここで妥協が裏目に出たようだ。
何かないかと探したが、玄関には雪用の長靴が二足しか置いてなかった。
「物置を探してこようか?」
「そこまでするより、確認を急ぎたいな。女性陣二人が使ってくれ。かわりに俺達はその跡を辿っていくから。なに、そこまで深い積雪量でもないさ」
使用者が決まり、姉妹がライトを手に先頭となって建物の周りを半周することになった。
外に出ると、途端に冷たい空気が肺を刺激する。
先ほどの奇妙な風は、僅かに雪も混じり始めて強まってきている。山の気候は変わりやすいと聞くが、安東には何かおぞましい凶兆はらんだ風音に聞こえてならなかった。
道中、玄関や駐車場、建物に近接する地面を見ていたが、降り積もった白銀の世界に自分達以外の足跡などの異物は見られなかった。
東側まで来ると、ライトアップされた光によって遠方の雑木林付近まで見渡せる。地上からでも十分美しい景観に、やや違和感を感じたが、
「……あれっ? ね、ねぇ、窓が開いてるよっ」
前を行く綾乃が先に声を発した。息急きながらそう言う彼女の後方に並び、目を眇めて目的の窓を見遣ると、確かに全開に近いくらいに窓が開け放たれていた。部屋の明かりも付いている。
急速に、不穏な空気が満ちるのを感じた。
「雪は降っておらず、足跡は無し、これはついに密室のにおいがしますねぇ」
有馬だけは平常運転だ。
「足跡ならありますよ……。ほら、その窓の下から、向こうの林まで長く……」
窓に意識を傾けていた安東は、雪乃に言われて漸くそれに気が付いた。他のメンバーも足を止めて確認している。開け放たれた遠山の部屋の窓のすぐ真下から、上空から俯瞰すると、建物の壁面と垂直に一メートルほど進み、そこから右に湾曲してやや蛇行しながら続く雪の足跡があった。それは往復の足跡で、最終的にライトの当たらない雑木林の奥に向かい見えなくなっていた。(図:1)
まだ強風とは言えなくても、冷気は着実に安東達の体温を奪っている。いつまでも異様な景色に目を奪われているわけにもいかない。
さらに歩を進めた綾乃が、きゃ、と短くも甲高い悲鳴をこぼして仰け反り、尻餅をつく。綾乃の衣服から部屋の鍵が跳ね落ちたので、拾って渡したが、当の彼女は呆然とした様子だ。その視線は依然として窓に、さらに言えばその奥に、釘付けにされたように大きく見開いていて……。
安東は咄嗟に新雪を踏みしめ、姉妹の隙間を縫うようにして窓越しに中を窺った。一瞬、息が止まりそうな感覚を覚え、目を見張る。
その部屋の中央に倒れているのは、血溜まりに、蹲るようにして動かない遠山朔椰の哀れな姿だった――。
すぐに他のメンバーも傍に集い、無残な姿となった遠山を視界に捉えては、それぞれ、悲しみ、困惑、怒りの感情を露わにしていた。
こちらに後頭部が向いているため表情が見えなかったことが、特に女性陣にとって、変な言い回しだが、不幸中の幸いだったかもしれない。
安東は気をしっかりと持ち、冷静になれ、と自身に言い聞かす。
警察だ、警察を呼ばないと。……いや、違う。それも大事だが、血溜まりから鑑みて絶望的とはいえ、遠山がまだ生きている可能性に賭けなければ!
そう決断すると、何をすべきか瞬時に考える。
「有馬……部屋に入るぞ、付いてこい! 残りのメンバーはなるべく、その足跡を踏まないように待機していてくれ」
安東はそう言うと、カーテンが開いた状態の窓の桟に飛び乗り足を掛け、出来る限り僅かな動作を心がけて部屋に飛び込む。
有馬はというと、鹿爪らしい表情で「はい」とだけ言い、安東と同様の要領で部屋に入り込んだ。密室だ何だと茶化していたことが堪えているのかもしれない。しかし今は、彼の知識と経験が必要だった。
遠山は部屋の中央、ツインベッドの丁度あいだの足元に、頭を窓側にして横向きに倒れている。(図:2)
安東達はなるべく血溜まりや他の物に触れないようにして近づき、回り込んだ。
胸の辺りに鋭利なナイフが落ちていて、両手両脚は不規則に投げ出されている。苦悶に満ちた表情は蒼白で、眼の輝きを失い、あらぬ方向を睨んだまま静止していた。
誰がどう見ても、死んでいた。
それでも、安東は有馬に乞う。
「有馬、すまないが確認してくれないか」
「……僕だってこういうことは初めてなんですけどね」
減らず口をたたくものの、彼はてきぱきと行動に移してくれた。近寄って目を閉じると手を合わせ、安東もそれに気づいて合掌をする。その後、死の三徴候を確認したらしき有馬はおもむろに顔を上げると、ゆるゆると首を横に振った。
覚悟はしていたことだが、深い嘆息が漏れる。
それから有馬は態勢を変え、シャツを捲り上げたり、遺体を傾けたりと何らかの確認を行っているようだった。
安東は、真剣な表情で室内を静観している他のメンバーに問い掛ける。
「スマホを持っている人がいたら、警察に連絡して欲しい」
ごくりと、誰かがつばを飲み込む音がした。
「……明かりは必要かと思って持ってきてますよ。俺が掛けます」
寺田は上着のポケットからスマホを取り出すと、三つの数字を押して脇を向いた。通報は彼に任せよう。
安東はざっと部屋を見回した。特段、目に付いたのは、手前のベッドの枕元近くに置かれた鍵。その傍にあるパッケージが未開封のモバイルバッテリー。遠山の登山用ザックは部屋の隅にあり、何者かに荒らされた様子で散らかっていた。他は、初めから備えられてるナイトテーブルや、テレビとテレビ台、エアコンくらいだ。ベッドと反対側の側面には、クローゼットとバスルームがある。ベッドの数以外は他の部屋とほぼ同じ配置と言えた。
さて……どうしたものか、と安東は考えあぐねる。
ミステリ小説であろうが、現実であろうが、現場保存は鉄則だ。これ以上は出来るだけ何かに触れることは避けたい。
現に窓の桟を乗り越えるときは若干の躊躇があった。指紋を付けてしまう上に、その桟には、雪を固めたような跡に加えて、土の混じりも見受けられたからだ。
しかしそれは、もしもの救命を優先して諦めたのだが。……安東は窓と反対側にあるドアを見据えながら思考する。
このペンションの部屋のドアは、外から施錠するにはそれぞれの部屋の鍵が必要だが、中からはつまみを九十度捻るだけで施錠出来る造りになっている。
数分前に鍵が掛かっていると二人が言っていたように、内側のつまみを見ても、しっかりと水平になってロックされている様子だった。
このドアを開けていいものだろうか……。
外の三人も、命に関わることはないとしても、長引けば風邪を引かせてしまうだろう。
決めなければ。
寺田が電話を終えたところを見計らって安東は告げる。
「外の三人はすまないが、同じルートを辿ってペンション内に戻ってくれ。俺達は部屋のドアを確かめてから出ていく」
「分かった。でも、気をつけてね」
意味深長な綾乃の発言を不思議に思いながら、安東は有馬に向き直った。
「有馬、ちょっといいか」
彼は従順な羊のようにすぐに立ち上がると、
「ドアの施錠を解こうと思う。問題があれば言ってくれ。……それで、有馬には証人になってもらいたい」
「つまり、部長さんが変なことをしないか、鍵はしっかり掛かっていたか、見ておけばいいんですよね。OKですよ。どうぞ」
理解が早くて助かる。安東は、無意味な行為かもしれないが、ハンカチを取り出して指紋を付けないようにつまみを回そうとしたところで、
「ああ、待って下さい! その前にどうしても確認しておきたいことが」
すると有馬はどこから持ってきたのか取り出した軍手を両手に着けると、ノブを最小面積で握り、ガチャガチャとドアを開けようとする。さらには押したり引いたりを試みてから満足がいった様子を見せると、
「やはり開きませんね。別段仕掛けもないようで、杞憂でした。さぁ、見てますのでどうぞ」
そそくさと場所を譲る有馬にやや調子を狂わせられながらも、今度こそ、安東はドアを開錠した。
慎重に開いたドアから出ようとする安東に、再び声が掛かる。
「そうそう、僕は靴を脱ぎますが、部長さんもそうした方がいいと思いますよ」
浮かせた足を止め、意味に気付いて片足立ちで靴の裏を見る。慎重に避けたつもりだったが、所詮は素人の行いだ。血痕を踏んでしまっていた。有馬の方は尚更だろう。
「ああ、すみません、もう一つだけいいですか」
丁寧だが断定口調で有馬は言う。
「必要なことなら構わないよ」
「この部屋の鍵は、あれで間違いないですかね?」
有馬が指さす先にあるのは、ベッドの枕元付近に無造作に置かれている鍵のことだった。
このペンションの部屋の鍵は、部屋番号が木彫りで刻まれた札と鍵が、キーリングで繋がれたシンプルなものである。
この鍵の存在は部屋に押し入ったときから気付いていて、有馬は当然のことながら、外にいた三人の中にも目にしていた人間はいたのではないだろうかと思う。
「俺達は小説の中の探偵じゃないんだ。余計なことはしないで警察に任せよう」
「……んー、分かりました。部長さんが言うなら従いますよ」
これには不承不承といった体で、有馬は苦笑を浮かべた。
二人して靴を脱ぎ、漸く廊下に出る。
廊下には神妙な顔つきの三人が待っていた。
「警察はどうだった? すぐに来てくれるのか?」
「それが実は……この積雪で小さな雪崩が起きたようで、到着が遅れるような趣旨のことを言ってました。でも、今日中には来れるらしいっすよ」
それを聞いて腕時計を見る。日付が変わるには、まだ二時間近くあった。安東は頭を抱えたくなる思いがして、実際にこめかみに手を添えた。
気になることは多少あると言っても、雪庭に残された足跡から、まず間違いなく犯人は外部犯だろう。
だからと言って、人を殺した奴が逃亡したと言い切るのは早計だ。
警察同様に雪崩に足止めされ、一人殺したなら何人殺そうが関係ない、などと考えて戻ってくるかもしれない。あるいはもう、すぐ近場に潜み、機会を窺っているのかもしれないのだ。
何れにせよ、返ってくる可能性があるのなら、対策を講じなければいけない。
「一度、ラウンジに戻りませんか……? お酒はもう飲まない方がいいでしょうけれど、コーヒーと紅茶がキッチンにあったので、それで温まって、落ち着きましょう……」
冷静さを身に纏った現役部長の言葉に、考え込んでいた安東は、はっと我に返った。屋外も、遠山の部屋も、冷気が入り込んでいたというのに、ひどく自分の体が汗ばみ、同時に冷え切っているのを今更ながら自覚する。
酔いはすっかり覚めていた。
酒には強いミス研だが、果たして自分も含め、通常の判断は出来ていただろうか。少し心配になるが、今更振り返っても詮無いことだ。
安東達はぞろぞろとラウンジへと赴いた。
ラウンジに戻ったミス研メンバーは各々適当なところに座る。
雪乃が飲み物の好みを聞いて、手際よく人数分のカップを用意し、安東達はそれを受け取った。二口、三口と飲むと、大袈裟かもしれないが五臓六腑に染みわたる気持ちだった。張り詰めていた身体が解れるのを感じる。
「部長さん、有馬君、……先ほどの遠山君の状態と彼の部屋の状況を教えてくれませんか」
同様にカップに口を付けてから、雪乃が問い掛けてくる。
「聞いて為になるとは思えないが」
安東は眉根を寄せながら言葉を返した。正直に言えば、この件はもう話題に出さないようにして、五人が出来るだけ目の届く範囲にいる状態で警察の到着を待ちたいところだった。
「それでも、お願いします……」
真摯な眼差しを受けて、安東は暫く考えてから、結局折れることにした。
話すくらいなら構わないだろうという判断だ。
「分かったよ。――まず、遠山君の方だが……有馬から話してもらった方が詳しくて正確な内容が訊けるだろう」
有馬に目線を向けると、待ってましたとばかりに細い足を組み替えて話し始める。
「遠山君は胸を刺されて亡くなっていました。死因は出血性ショックでしょうかね。凶器はペティナイフ。ダマスカス鋼製の高価な物品に見えましたが、ペンションの物かは僕には分かりません。死亡推定時刻も頑張ってはみたんですが、窓が開けっぱなしだったでしょう? 室内温度の低さに加え僕の知識不足も相まって、二時間は経っていない程度にしか判断が付きませんでしたね。
ああそれと、後頭部に殴られたような裂傷がありました。致命傷ではなさそうですが、そうなっていてもおかしくはないほどの深い傷でしたね」
意気消沈していたのは死体発見の僅かのことで、有馬は飄々とした口調に戻っていた。
「何か、……無くなっていた物はありませんでしたか? 例えばお財布は」
問われ、安東が部屋全体を思い出している間に有馬が答える。
「財布は遠山くんの着ていたジャケットにありましたね。ただ、彼の衣服からはスマホは見つかりませんでした。周辺にも落ちていなかったと思います。部屋の隅には登山用のザックがあって、荒らされた形跡は一目瞭然でしたが、僕達は近づいてもいません。……部長さん曰く、現場保存が優先なのでね」
言外の意味を感じながらも、安東が台詞を引き継ぐ形になる。
「部屋に関しては外から見た状況とそこまで大差はない。鍵がベッドの上に置かれていたが、これには三人の中にも気付いた人がいないだろうか。それと同じベッドに、充電用のモバイルバッテリーもパッケージが未開封の状態で置いてあった。後は、登山用のザックは有馬の言った通りだ。あぁ、俺達二人が部屋に入るときに、窓の桟に雪に紛れて土が混在していたのは誰か気付いたか?」
「俺は気付いていましたよ。間違いない」
「わたしも、あれ? 焦げ茶色が入ってる、変だなーって思ってた」
「……私も見ています」
「うちのミス研が優秀で良かったよ」
安東は笑みを返した。外部犯を指す重要な証拠はしっかりと把握していたようで安心した。こんな状況でなければ、相好を崩すほど喜ぶのだが。
「わたしたちが去ってからは、すぐに部屋をでたの?」
綾乃も真剣な表情だ。
「時間的にはすぐとは言い難いかな。ドアが間違いなく施錠されているかを確認していたんだ。それは俺だけじゃなくて、有馬が実際にドアノブを動かして確かめている。ドアを開けてからは、靴を脱いで、三人と合流したというわけだ」
以上の情報を聞き終えた雪乃は、ありがとうございます、と小さく言い、黙考するように中空に視線を留めた。
「逆にそっちは何事もなかったか? 変な人影を見かけたとか」
報告がない時点で、おそらく何もなかっただろうと結論付けていた安東だったが、三人の戸惑いの表情と互いの意思を探る視線を交わす様子に、不安を抱く。
「何か、あったのか……?」
「ああ、いえ……実は俺たち、辿ったルートとは逆回りに帰ったんっすよ。部長の言葉に逆らった形になって申し訳ないですけど、警察が来るのは遅くなると分かってましたからね。……結論、一周してみて断言できます。建物の周囲には足跡はなかったですよ。――例の東側のアレを除いて」
そうか……。安東も半周する時点ではチェックしていたが、他のメンバーも抜かりはなかったらしい。頼もしいことだ。
だが、と安東は思う。探偵気分はほどほどにしておかなければならない。
身体の寒さも和らいだ頃だろう。もしもの為の、物理的な準備をする必要がある。どんなあやふやな理由で、ふと殺人犯が戻ってくるか分からないのだ。圧倒的な暴力の前では、如何に精緻な論理を組み立てても何の防衛策にもならないのだから。
「遠山君の話は、ここまでにしよう……。犯人は物取りの類だ。彼は不運だったとしか言いようがない。警察は遅れると言っても、二時間以内には来てくれるんだろう? だったら戸締りを徹底して、いざという時のために戦える準備をして、待つんだ」
あるいは、ペンションまで乗ってきたレンタカーで山を降りることも考えたが、警察さえ苦戦している雪崩による通行止めを、自分達が突破出来るとは思えない。素直に待つ選択を取った方が賢明だろうという判断だ。
メンバーは皆、頷いてくれるだろう、そう思っていた。思考を一定のところで止め、楽観視していた、と言い換えてもいいかもしれない。
「ねぇ部長さん……それ、本気で言ってるの」
綾乃に視線を転じると、彼女は怒りの色を含んだ眼を安東に向けていた。
安東には、何故彼女がそんな憤りをみせているのか、全く分からない。きょとんとする顔を見て、綾乃はさらにじれったそうに表情を歪める。
「あのね……荷物の方は調べてみないと分んない。けど遠山くんの状況からして、財布には手を付けずに盗まれたのはスマホだけなのよ。それに、こんな季節に、こんな山奥に、強盗なんて来るわけないでしょ?」徐々に彼女の声は、荒く大きくなっていく。「庭だってライトアップされていたのよ。侵入経路は他にもあるのに、照らされた東側を堂々と選んだって言うの? そして遠山くんのいる明かりのついた部屋に押し入ったの? まさか、有り得ないよ……! だったら……だったらさ! わたしたちの中に、犯人がいるに決まってるじゃないっ!」
ため込んでいた思いが爆ぜたかのように綾乃は訴える。彼女の情緒不安定な面が出てしまっていた。
だが、その発言は感情的な部分が多かったが、全員が考えさせられるには十分な効果のある発言だった。
「……それに、外部犯だと仮定すると妙な点があります」
綾乃の論に、冷静に雪乃が加勢をする。
「私がカメラを取りに部屋に戻ったときに、……窓が小さく鳴っているのを見て思ったんです。私達六人が揃った頃には、ほら、すでに風が吹き始めていたのでしょう……?」
確か安東も、有馬が窓を開けたときに妙な風が出てきたなと感じたことを思い出した。
「それなら……、外部犯が桟を乗り越えて押し入ったとするならば、窓を開けた時点で遠山君は吹き込んだ冷気の冷たさに気付いたのではないでしょうか……。侵入者の物音にも冷気にも気付かずに大声も上げなかったというのは、いくら何でも、亡くなった方に使う言葉ではないですが……鈍感過ぎると思うのです」
雪乃の言い分も、もっとな話だった。
さらに、遠山は後頭部を殴られているのだ。万が一に声を出すことが間に合わなかったとしても、窓の方を振り向くくらいはするはずだ。なら、声も出さずに逃げようとしたのか? 何故、としか思えない。考えを変えて、換気のために窓を開けていたというのはどうか? 凍えるほどの冷気を昼間ではなく夜間に? そんな莫迦な。安東は心の中で失笑する。さらには綾乃が言及した大胆な犯行心理。だめだ、どう考えても外部犯の線を追う構図が見えてこない。
雪乃は見た目通り、綾乃も言動は軽く見えても、頭の回転は想像以上に早い。遠山を殺した凶悪犯がペンションに戻ってくるかもしれない、何か対策を講じなければ、と考えていた安東は羞恥心と劣等感を覚える。
だが今は、そんなことに懊悩する場面ではないことは、さすがに理解できていた。
ラウンジを見回せば、いよいよ誰かが誰かを見る眼には、猜疑の色が濃く帯びるようになっていた。
おそらく、安東自身の眼も変わってしまっているはずだ。安穏と酒を飲み雑談していた時のようには戻れないだろう。それはきっと、皆。
沈黙の帳が下りる中、寺田が口火を切った。
「現場を確認しに行かないか? 特に、鍵を。なあに、全員が注目してる中で調べれば問題ないって。それから念のため、誰かが隠れていないかペンション内を見て回ろう。ついでに戸締りの確認もな」
誰ともなく立ち上がるのは、賛成多数の証だった。止むを得ず安東もそれに倣う。しかし、それぞれの監視の眼は怠らず、皆でラウンジを出て再び現場に赴くのだった。
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