9-6

 事情聴取が終わり、山本が捜査員に連れられ取調室を退出すると、大木はすかさず新見に尋ねた。

「アンコール演奏を聴きながら、礼子は泣いていた。そして『鏡花水月』、探しさがし辿り着いたここがわたしのまほろば、泣いたのは月のせい、こよない月が眩し過ぎたから……身の丈の違いを詠んだ自虐的な礼子の詩……」

 新見は静かに聞いた。

「警部、自分はルナ・ルプスがヴォルフガングのように思えてなりません。そうなのでしょうか、だとしたら……」

 

「そうなのだろう……」

 腕組みをしながら大木の問いに答え、目を閉じる。

(Luna Lups 月狼と、Wolfgang 狼の道。死の欲動……天野 礼子はコンサートの夜に、殺されることを覚悟していた。惻隠の情……山本 太一を犯人に仕立ててまで、彼をかばおうとした理由はなんだ。束の間の妊娠……二人は愛し合っていたはずだ、しかしなぜ、彼は礼子を殺さなければならなかったのか。そして、神がかり的な偶然……二人を導いたものとは……見えざるものの存在、いや、そんなことはあり得ない。だとしたら、何か事象に基づく結果として、必然的に出会ってしまったのか……)

「……しかし日記のコピーだけでは、重要参考人として引っ張るだけの効力に欠ける」


「やはり、そうですね……」


「警部、ご苦労様です。予想外の展開になりましたなぁ。第3の男ルナ・ルプスはたぶん、ヴォルフガングでしょう」

 川村は、取調室に入るなりまくし立てた。

「大木、ヴォルフガングの本名は何と言ったかな」


「川村警部補ご苦労様です。ネットで公開している名前は、椎名 恭平といいます。本名なのかは、定かではありません」


「椎名 恭平……先ずは、事件当夜のやっこさんの足取りを捜査してみないとなりませんな。しかし、だとしたら、礼子と椎名 恭平のあいだに何があったのか……」


「ヴォルフガングの所属する音楽事務所は世田谷の三軒茶屋にある。大木は明日、コンサート直後のミュージシャンとスタッフ全員の動向調査に行ってくれ。世田谷署には私から応援要請をしておく」


「はい、解りました」


「川村さんは本部で待機を。私は今から富士吉田署に向かいます、礼子の過去を洗わない限り真実は見えて来ない」


「えっ、今からですか……」


「そう来ると思いました。こちらの運営は任せて下さい」

 大木の動揺を尻目に、すかさず川村が応える。


「川村さんよろしく頼みます。大木……任せたぞ」


「うっうぅ!」

 新見の言葉に大木は高揚した。


「それとな……」

 大木の目を見ながら続ける。


「礼子にとっての儚いゆめ……『鏡花水月』、これは自虐的な詩なんかではない。諦めていた妊娠に気付いた、喜びを詠んだ詩だ。礼子にとってのは、椎名 恭平。そしては、体内に宿った新しい命だ。だから……嬉しくて泣いたのだ」



 18時を過ぎ、山梨行きの準備の為公社に戻ると、ロビーの待ち合い用のソファーに七海が座って待っていた。

「啓一郎さん、父から聞きました、ご苦労様です」


「ななちゃん……」


「山梨に行かれるんですね。はい、これ。父が啓一郎さんにお弁当を持たせてくれって」


「川村さんが……」


「運転しながらと思って、サンドイッチにしときましたけど……でも、おにぎりの方が良かったかしら……」

 頬に指を添え、真顔で悩む七海の横顔に、新見はそれまでの緊張が知らずとほぐれ、自身の顔から自然と笑みが溢れるのを実感した。


「いや、サンドイッチでよかったよ。ありがとう」

(なんだ、この、安らぎは……)


「よかった~」

 微笑みながら七海は、胸に当てた手を軽く握ると、そわそわしながら新見に切り出した。

「啓一郎さん……」

 少しばかり声が上ずっている。

「もし、良かったらなんだけど……」


「ん、なんだい」


「山梨から帰ったら、時間がある時でいいんですけど……」

 目を逸らし、うつ向きながらゆっくりと小さな声で続けた。

「……ほんと、時間がある時で……」


(消え入りそうな声だ……)

 見ると、頬に赤みが差している。


「ななちゃん……こっちに帰ったら、源平川から柿田川湧水まで、ウォーキングでもしないか」


「えっ……」

 突然の提案に七海は驚き、ぽかんと新見を見つめる。


「弁当を持ってさ」


 新見の優しい眼差しに触れた途端七海は、子供の様な顔で泣き笑いした。

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