8-7

「警部、出ました!」

 10分後、大木が息を切らし会議室に飛び込んで来た。


「開いたか!なにか手がかりになるものは見つかったか」


「ノートパソコンの方にも日記サイトが存在しております」


「なに、同じ出会い系サイトか……」


「エロスを名乗っていたサイトとは別の日記サイトです。出会い系ではなく、小説や日記を投稿する為の、ここでのネームはえーと、(Thanatos)なんて読むのかな、たなとす……さなとす、ですかね」


「なに、タナトスだと、日記サイトでの礼子のペンネームはタナトスと言うのか!」

 新見は座っていた椅子を腰でギイと押し、激しい勢いで立ち上がる。


「はい、そうなっておりますが……」


「それではまるで、フロイトではないか……」


「えっ、フロイトですか……」

 大木は新見が言っていることが解らない。


「あぁ、『快感原則の彼岸』に描かれた、生の欲動『エロス』と死の欲動『タナトス』。彼女はふたつの相対するサイトネームを使い分けていた……」


「全くわかりませんが……」

 大木は両手を上げ、白旗をかかげた。


「精神科医であったジークムント・フロイトは著書『快感原則の彼岸』に於いて、人間のリビドー『欲動』の定義を、Eros『生の欲動』とThanatos『死の欲動』とに二重化し、対置性をもって解釈しようとした」


「エロスとタナトス……」


「そうだ。リビドーは表向きは生きようとする『生の欲動』エロス、ギリシャ神話の愛の神に由来するものだが、これを軸として成り立っている。しかし、その根元には『死の欲動』、死へ向かおうとする欲動が存在する。Thanatosとは死の神タナトスに由来しているものだ。例えば、苦しむ患者は[生きたい気持ち]を持つ。これは容易に理解可能だが、それだけでなく、不思議なことに[死にたい気持ち]にも憑りつかれる……」


 大木はポカンとした顔つきだ。


「……今は時間がない。後は自分で調べてくれ」


「あっはい、承知しました……」

 平素、泰然自若な新見が取り乱した様子に、大木は驚きを隠せない。


 気を取り直し新見は、

「礼子はタナトスとして、どんな日記を書いているんだ……」

と、大木に尋ねた。


「はい、出してみます」


 ふたりは駆け足で鑑識課に向かった。


 ・・・・・・・・


 さくのよに

 ひかりはあるの

 わたしにはわかる


 しんじつだけを

 てらしだす

 みえないひかりが

 あなたをいぬき

 そこに おちるかげ


 ほのぐらい

 そのかげが


 わたしのすべて


 ・・・・・・・・


(なんだ、この違和感は……)

 そこには、エロスとして投稿していた日記とはまるで違うであろう詩が書かれていた。新見は、開かれたパソコンの画面をまじまじと睨み付けながら腕を組む。


「これを、礼子が書いたのか……」


「被害者のノートパソコンに書かれていた最後の日記です。サイトへの投稿は確認出来ていません」


 大木からの報告を受け、新見はこの事件に底知れぬ闇を見た気がした。

 あなたと書かれた人物が真犯人だと仮定した場合、今までの捜査方針が全く意味を持たなくなる。


(誤認逮捕、冤罪の不幸……まずい!)


「過去の日記をすべてプリントアウトしてくれないか、これがダイイング・メッセージだとしたら……」

(被害者は犯人を擁護している)と後に続く言葉を呑み込んだ。

 なぜそう感じたのかは解らない。只漠然と、この日記には惻隠の情があるように思えた。


(スマホをゴミ箱の中に置いたのは、やはり礼子なのか……)


『真由理』

殺されることを覚悟して書いたもの、いや望んでいたのか……


(タナトス……死の欲動)


「ダイイング・メッセージ……なんですか」

 大木は訝しげに新見を見つめた。


「それと、日記サイトに書かれた過去のコメントも合わせて調べてくれ。そのコメントからガイ者の人間関係が見えて来るはずだ」


(天野 礼子はゴミ箱の中にスマホをわざと置き、山本との通信を見せることによって捜査を混乱させようとした。山本を犯人に仕立てあげる為にネックレスを車中に隠した……かばおうとした相手が真犯人だ、たぶん『あなた』とかかれた人物なのだろう……)

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