落葉酒   作・麦茶

 昔々、ひとりの少年が山へ遊びに出かけた。風がすっかり冷たくなった秋の終わりのことで、昼間であったために陽光は豊かながら、山の中はすでにほの暗かった。竹の多い森であった。道中で拾った木の枝で竹を叩きながら歩いていると、ふと何か大きな物の前で忙しなく働く人の姿が見えた。 近づくと男で、いちょうやもみじを両手いっぱいに抱えて、それを傍らの巨大な水がめに放り込んでいるらしい。


 おじさん、何をしているの。


 見ればわかるだろう。


 いちょうと、もみじを、どうするの。


 水を汲んでこなきゃならん。


 男はあたふたとどこかへ行ってしまった。水。どこで汲んでくるのだろう。このあたりに湧き水でもあったかしら。


 しばらく帰ってこないと踏んで、水がめの中を覗き込むと、黄金と紅の落葉が、水がめの飲み口より下の、くびれたところまでぎっしり詰まっている。


 さあ、どけ、どけ。


 足、速いんだね、おじさん。


 まあな。ここまでこぎつけるのに随分かかった。気も急く。


 男は小さなひょうたんを腰にくくりつけていた。それをさかさにして水がめに口を向けると、ツルツルと輝く水が流れ出た。なかなか途切れない。無抵抗に流れ、たちまち水がめの口元までひたひたと水が溢れた。


 これでよし。


 これをどうするの、おじさん。


 このまま放っておくのさ。半刻も放っておけば佳い味が出る。


 落ち葉から味は出ないよ。


 男はにやにやしながらひょうたんに口をつけると、一瞬後に不思議そうにひょうたんをさかさにして強く振った。


 ありゃあ、カラッぽだな。


 また汲みに行くの。


 そうだな。


 ついて行ってもいいかな。


 好きにするといい。


 ザクザクと躊躇いなく竹藪の中を歩いていく男の背をしばらく追うと、ハタと目の前が開け、金糸や緋糸でできた豪華な錦が広がっていた。つと足を乗せると、いちょうともみじが折り重なっているらしい。足元の金を取り除けると、炎の色が浮かんだ。


 何をしている。来るなら来い。


 見回すと周囲は枝ばかりになった樹木が立ち並んでいる。背の高い木々が切り裂く空は、なお高い。振り向くと先程の竹藪がかすんで青暗く沈んでいる。


 おじさん、この先に川があるの。


 ある。


 おじさん、このいちょうともみじは、どうしてここにあるの。


 昔からこういう場所だ。知らんのか。


 知らない。


 そんなら憶えておいてくれ。なんなら他の奴に教えてやってくれ。


 この林を?


 ここのいちょうと、もみじと、水だ。着いたぞ。


 サラサラと涼しい音が前方から聞こえてきた。しゃがみこんだ男のもとに落ち葉を蹴って走り寄ると、思いの外川は細かった。男は川の真ん中にひょうたんを沈め、膝に頬杖をついて川の流れを見つめている。


 飲まないのか。


 飲んでいいの。


 いいもなにも。


 それならばと男の隣で膝をついて、両手を川にひたした。秋の終わり、切るほどに冷たいかと思ったが、さほどでもない。するすると絹のようにすべる。口に含むと、甘くやわらかい。


 うまいか。


 うまいよ。


 男も頬杖をついていた手を川にひたし、器用に片手で水を飲んだ。


 うまいな。


 うまいね。


 くすくすくす、と抑えた笑い声が風に乗って、枝に残っていたいちょうの葉を落とした。


 ああ、最後のひと葉。


 どうして分かるの。


 分かるさ。


 最後のいちょうは川の淵の淀みに浮かんでくるくると踊っている。稲穂の色が水にひらめいている。


 戻るか。もう半刻経ったろう。


 立ち上がった男を追おうとしたが、ふとそのいちょうが目についた。指先で摘み上げると、つやつやと美しい。


 おじさん、これ、持って帰ってもいいかな。


 好きにしろ。


 そそくさと懐にしまいこみ、ついでにもみじも、すぐ近くに落ちていた特に綺麗なのを拾った。


 早くしろ。


 すぐ行くよ。


 竹藪の中に入ると、ぐんと辺りが暗くなった。


 いかんな。長居しすぎた。


 今、何時なんだろうね。


 分からん。


 男は急いでいた。水がめを見つけると、すぐさま飛びついて中身を覗き込んだ。


 ああよかった。まだ、大丈夫。


 何が。


 おれは無事に眠れるってことさ。見ろ。


 促されるまま水がめの中を見下ろすと、葉の形はすでになく、金と緋の色のみが水の中にどろりと溶けている。


 のど元いっぱいまでこの美しい黄金と紅を詰め込んだら、その時おれは初めてぐっすりと眠れるのさ。


 眠るの。


 そうさ。


 どうして、これを飲めば眠れるの。


 うまいからかな。うまいものは眠りを誘うものだ。


 そんなにうまいの。


 うまい。


 飲んでみたいな。


 男は少し困った顔をした。少しの間顎を掻きながら周りを見回していた。ひょうたんが男の腰で呑気に揺れている。


 それなら、そうだな。一杯だけだ。これを使え。


 懐から男が取り出したのは、竹でできた器だった。手のひらくらいの大きさで、緑黒い外皮と裏腹に瑞々しい白い色を内にたたえている。喜び勇んで水がめの中に手をさしのべ、とろみのある水を汲んだ。


 落ち葉に吸い込まれていたらしい、安らかな太陽の匂いが頬を撫でた。とろりした舌触りと、あたたかく豊かな香りがして、遠く中国に伝わる長寿の薬とはこのようなものかと思えた。


 一杯だけだ。返せ。


 しばし我を忘れて中空を見つめていると、男が脇から器を奪い取った。


 うまかったよ。とても。


 もう帰るがいい。あまり飲むとお前も眠ってしまうぞ。もと来た道を、早う帰れ。


 ありがとう、おじさん。またね。




 すでに夕餉のことを考えながら家路を急ぐ少年を見送っていると、背後でバサバサと翼のはためく音がした。


 振り向くと旧知の友である。訝しげに少年の後ろ姿を目で追っている。


 人間相手に、何をしていた。


 勝手ながら、あの少年に我らの林の一部を持ち帰らせた。おそらくあれが、我らの存在を語り伝える最後の糸となろう。


 あの林は昔ながらの禁足地として、人間にふれまわっておいたはずだが。


 いや、あの少年は何も知らぬらしい。我ら天狗もここまで衰えてしまった。世が進み怪異が消えるは当然の道理とはいえ、悲しいものよ。


 だから眠るのだ。力を後の世へ残すために。落葉酒の用意はいいか。


 先程できた。百人分はあろう。


 地鳴りにも聞こえる天狗たちの唸り声が、山間に響き渡る。


 眠ろうぞ。約束の日まで。


 途端にざわざわと竹藪が揺れ、男の声がその合間をすり抜けて少年の耳にもかすかに届いた。


 少年よ、どうか語り継いでくれ。数百年の後の世も、我らが生きてゆけるように。


 風が止んだあとには、夕暮れの空が宵闇を出迎え、山中には空になった水がめが取り残された。


 今日でもその山の中には、中身の入っていない巨大な水がめが据え置かれている。

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