スノードロップ・エモーション 作・秋月渚
人間が持つ感情の中で、恋愛感情ほど複雑怪奇なものはないだろう。
誰かが欲しい。誰かの興味を引きたい。誰かに嫌われたくない。
誰かを拒絶したい。誰かに興味を持ってほしくない。誰かに好かれたい。
実に歪なものである。おぞましいものだと言ってもいいだろう。どうしてこんなものが人間に備わっているのか、私には理解できない。まあ、そんなことを言っている私もそんな感情に振り回される人間の一人ではあるのだけれど。
*
「新世界の神になったら何をしたい?」
「ノートを捨てる」
私は携帯から顔を上げることなく彼女の言葉に答える。その回答に満足したのか、彼女はにっこりと笑うと「欲がないのね」と続けた。
欲がないわけではない。
「私はきっと自分の欲のためだけに使うわ」
「そっか」
まあ彼女ならそうだろうな、という予想はしていた。彼女はそういう人間だ。あと多分、彼女がノートを使うとすれば真っ先に殺されそうなのは…………いや、こんなことは考えても詮無いことだ。それでも、と画面の上に目を滑らせながら鈍く働く頭は結論を出す。
好きな人に✕されるのは悪くない、なんて。
*
今日はホームルームが長引いたため、部室に着くころにはすでにボブカットの少女とショートカットの少女が部室の中でくつろいでいた。
「おまたせ、何か変わったことはあった?」
「新世界の神になったらどうするか話し合っていたわ」
私の質問にボブカットの少女が答える。彼女はフルネームを
「私? そうだね…………」
案外難しいな、この質問。犯罪者は罰を受けるべきだ、とは思うがそれを判断する基準は一体どこにあるというのだろうか。殺人は間違いなく悪である、と断じることができるのはいったいなぜだ?
そんな風に悩む私を見て、琉衣はクスクスと笑う。
「なにも笑うことはないでしょ」
「ううん、ずいぶん真剣に考えているんだな、って。だってそんなこと現実には起こらないわ」
憮然とした私の問いに対する彼女の答えに一理あるな、と思わされる。所詮はイフの想像であるからだ。でもまあ、と私は考える。
「一応質問されたんだし、それなりに答えを出したいじゃない?」
「優しいのね、ちーちゃんは」
よせやい、照れるだろうが。
「ちなみに私は我欲のために使うって答えたわ」
「…………」
怖っ。いや怖っ。くりっとした瞳に口元には微笑みというゆるふわな見た目に対する内面のアグレッシブさは、年を経てもおさまるどころか悪化しつつある気がするのは私だけだろうか?
「うふふ」
「ち、ちなみに
さすがにこれ以上突っ込むとヤバい予感しかしなかったので部室にいるもう一人に声をかける。彼女は
「私はノートを捨てるって答えたよ」
「なるほど」
欲がないように見えるが、実際のところは欲より楽を取ったのだろう、多分。それはそうと、である。
「私は自分の身の回りの人に危害を加える奴の名前を書くかな」
「それがちーちゃんの答えなのね」
「チハルらしい答えだね」
おっと、私が名乗るのを忘れていた。ちょうど私の名前が出たことだし自己紹介をさせてもらおう。
「でもなんだって琉衣はそんなことを聞きたいと思ったのさ」
「気になったから?」
疑問形かよ。それってつまり暇つぶしみたいなものじゃんか。
「否定はしないわ」
クスクスと楽しそうに笑う琉衣を見ていると、なんだかどうでもよくなってしまう。これ以上この話を続けていても特に進展はなさそうだ。それぞれ理由を説明したっていいけれど、そんなものはただの信念のぶつけ合いである。要するに、勝負がつかない。
などとグダグダと考えていると、唐突にドアがノックされた。
「はぁい」
ガチャリとドアを開けた私の目の前には、制服をぴしりと着こなした男子生徒の姿があった。
「失礼しましたー」
ガチャリ。
「誰だったの?」
「さあ?」
「そっかぁ」
うふふ。あはは。ああ、平和だなぁ。
部室の前に生徒会長がいなければ、だが。…………仕方がない、平和のために生徒会長にはお引き取り願おう。
ガチャリ。
「私たちは別に何も問題行動は起こしていませんそもそもこの件に関しましてはすでに生徒会教師陣共に決着のついたことであり我々としては過去のことを今更ほじくり返されても甚だ迷惑であると言いますかええとですね要するにですよ」
息継ぎ。
「かえれ」
「天瀬、お前人の話を聞くということを知らんのか」
「知らないので会長の話も聞きませんさようなら」
「おいこら待たんか」
チッ、こいつドアを掴みやがった。さすがに一般的な筋力の持ち主の私にはこれを阻止することはできない。めんどくさ。
「ええい、依頼だ依頼! お前たちの大好きな謎を持ってきてやったぞ!」
「………………………………ほう」
思わず力を込めていた手から力を抜く。その反動で会長がよろめいていたが知ったこっちゃない。そんなどうでもいいことより、この男は何と言った? 依頼、そう言ったな。よし、ならば取る行動は一つ!
「紹介はどなたから?」
「副会長、
紗良に目配せすると、うなずきが帰ってくる。いや、今回は必要ないんだけど形式としてね。
「報酬は珊瑚堂特製シュークリームを一人につき三個でよろしかったですよね?」
ちなみに珊瑚堂とはこの辺りで有名な菓子店であり、そこのシュークリームは絶品なのだ! …………高いけどな! 普段は良心価格の喫茶店、学生の味方ガトーで何かおごってもらうのだがこんな奴なら構わんだろへっへっへ。
「は? いや、ガトーでのおごりだと聞いていたが…………」
「よろしかったですよね?」
「おい」
「よろしかったですよね?」
「…………」
「よろしかったですよね?」
「ちーちゃんって本当に
「あれは嫌いというよりも苦手といった方がいいのかもしれないけれどね」
後ろからなにやら二人の声が聞こえてくるが無視! こんな奴から多少巻き上げた程度で私の心はちっとも痛まな――「認可を取り消すぞ」――いえなんだかとっても心が痛くなってきましたね。
「……………………三人におごりで」
「まったく…………」
しぶしぶ条件を引き下げた私に、呆れたようにため息をつく男子生徒。彼の名前は九重
閑話休題。
「それで、天下の生徒会長様がこんな
「丁寧に言っているのにちっとも敬意を払っていないことがこんなにも分かるなんて面白いわね」
「日本語というものの妙、というものだろうか」
「天瀬の陰に隠れているからわからんが、そこの二人も大概失礼だな」
まったく、とため息をつく生徒会長殿。いやあ、二人は普段から誰に対してもこんな扱いですよ?
「本当にお前たちはろくでもない奴らだな…………」
「じゃあなんでここまで来たのさ。いつもみたく杏梨ちゃんに伝達させればいいじゃんかよぅ」
杏梨ちゃんはこんな性悪生徒会長のもとで働いているとは思えないほど人当たりがよく、くりくりした目とその背丈から小動物のような可愛らしさを持ち合わせた女の子である。それがなんでまたこんな四角四面な真面目を体現した男の面を拝まなければいけんのだ、けっ。
「天瀬、俺のことを嫌うのはもう慣れたことだから構わんがせめてその顔だけはどうにかならんのか」
「生まれつきです」
「嘘をつくな。天瀬、お前はそこの二人と付き合えるだけの性格をしていながら人付き合いも成績も悪くはないと聞く。それだけ表面を取り繕うのは上手いのだからなぁ…………」
「うわぁ、生徒会長、さすがにそれは気持ち悪いですよ……」
「杏梨の評価だ」
「ふむ、かわいい女の子にそんなに褒められると悪い気はしませんねぇ」
手のひらがドリルのようだって? 好きでもない男に褒められるより女の子に褒められる方が何倍も嬉しいだろうが!
「まあまあ、ちーちゃん、そろそろ九重君の話を聞きましょう?」
そういえばこいつがここに来た理由は依頼だったか。仕方がない、聞くとしよう。
「よし話せ、
「急かすな! 話しにくいだろうが」
「チハル、ホーム」
私、部室の隅に備え付けられたテーブルの下へ。そこに気味が悪いものを見るかのような目を向ける九重。
「なんだこれは」
「ちーちゃんはあなたのことが嫌いだから、もしも今後あなたがくることがあった場合に備えてシェルターを作っておいたのよ」
「なぜそれを最初から使わなかったんだ……?」
「忘れていました」
今頃琉衣は天使のような笑顔を浮かべていることだろう、知らんけど。そして私はテーブルの下の段ボール中から敷物とヘッドホンを取り出す。ついでにCDラジカセにお気に入りのアーティストのCDを入れて再生ボタンを押す。おお、この脳を直接掴んで揺さぶるようなシャウトが素晴らしい……!
そんな風にアルバムを一周したころ、肩を叩かれた。
振り向けば琉衣が笑顔を見せている。耳を指さすのでヘッドホンを外すと、彼女は笑顔のまま「九重君は帰ったよ」と告げた。
「やっと帰ったのか、それで依頼の方は?」
「ぼちぼちね。解決はしたけど根本的な解決にはなっていないかも」
「なんだか厄介そうな案件を持ち込んだみたいだなあの陰険眼鏡」
「まあそれもすぐに解決すると思うわ」
「ふうん」
琉衣が寝てない……いや、よく見れば目の端に涙が溜まっているな。私を呼ぶために起きていたのか。
「琉衣、寝てていいよ。私なんか買ってくるから」
「あー、ちーちゃんありがと……」
くらっと倒れそうになった琉衣を紗良が受け止めて椅子に座らせている。こっちは紗良に任せておけば大丈夫だろう。
*
「げ」
「ん?」
自分のための紅茶と、琉衣には甘いものでも買っていくかと向かった購買には、先程まで部室にいた九重がいた。
「おや、天瀬先輩ではありませんか!」
そんな声が聞こえたと思うと、九重の陰からひょこりと女子生徒が顔を出した。
「杏梨ちゃん!」
「いやあ、私のせいで先輩達にはご迷惑をおかけしました」
「???」
深々とお辞儀をする杏梨ちゃんだが、私にはその理由が分からない。いや、今回の依頼に杏梨ちゃんが来なかったのではなく、来ることができなかったと考えるとまあ何となくはわかる。
「私は何もしてないよ。今回も琉衣と紗良が頑張ってくれただけだから」
「まったくだな。犬飼、こいつに頭を下げる理由はないぞ。こいつはテーブルの下でヘドバンをかましてただけだ」
真実だが黙ってろ陰険眼鏡。
「それでもあのお二人が九重先輩の依頼を受けてくれたのは、天瀬先輩がお二人と一緒に活動しているからですよね」
おおっとぉ、杏梨ちゃんが私をかばってくれている? やはり天使では?
そんなことを考えていると知ってか知らずか、彼女はもう一度ぺこりと頭を下げると九重と一緒に立ち去った。
ちっ、杏梨ちゃんが関わっているというのなら私だってちゃんと働いたんだぞ! 仕方ない、部室に戻ったら今回のあらましでも紗良に聞くか。
*
「というわけで聞かせてくれ」
購買から戻った私はそう言いながら、買ってきたものをテーブルに出すのもそこそこにして席につき、顎を組んだ手に乗せる。気分は報告を聞く組織のボス。それを見て、私に起こされた琉衣が涙目で私を軽くにらむ。
「私たちには守秘義務というものがあってね?」
「知らん。杏梨ちゃんが関わっているなら私はどんな事件であろうと聞く権利がある」
「言っていることは間違っていないのだけれど、それは公私混同よ?」
あーあー! 聞こえない!
耳を塞いで首を振る私の様子に、琉衣はやれやれといった様子で紗良の方を見た。
「じゃあさっちゃん、説明はお願いね。私は寝るわ」
そう言うやいなやお気に入りのクッションを取り出して夢の世界へ飛び込んだ琉衣を横目に、私たちは情報のすり合わせを行う。
「まず、今回の事件はざっくり言ってしまうとストーカー案件だ。…………おい落ち着け、実害は一切なかったそうだ」
「は? 杏梨ちゃんを怖がらせている時点で重罪だが?」
「チハルは本当に杏梨ちゃんのことが大好きなんだな。妬けてしまいそうだよ」
「そういうのいいから」
「ちぇ」
おいなんで今舌打ちしたんだよ。杏梨ちゃんの心配をするのは私にとって私より優先されるべきことなんだよ!
「数週間前から彼女の下校時に不審な視線を感じていたらしい。はじめはなんとも思っていなかったようだが、ちらちらと人影が見えだしたようでな」
「それは実害と言えるのでは?」
「話すのやめようか?」
「今やめられたら心配で眠れなくなるのでやめてください」
みっともなく下げられた私の頭に、重たいため息がのしかかる。わかりました、大人しくします……。
「最近になってからは学内でも感じるようになったから、さすがに私たちに相談するように動いたみたい。今回杏梨ちゃん自身が来なかったのは九重の判断だってさ」
「ふうん、じゃあ今回のはうちの生徒の仕業だと」
それなら別に、ここまで大げさになる必要はなかったの、か? いや、こうして相談に来ている時点でギルティの一択なんだが、と知らない犯人に向けて恨みを飛ばす。
「一応ね。ただ犯人自体は見えていないからもうちょっと詰めないといけないけれど」
「ん? でもさっき解決したって言ってなかったっけ」
首を傾げた私に、紗良は再びため息をついた。おいおい幸せが逃げていくぞ。
「チハルに心配をかけないでほしい、っていうのが杏梨ちゃんからのお願いだったんだよ。よかったな、相思相愛で」
あー、なるほど。ならまあ、今回の件に首を突っ込むのはここまでかなぁ。さっき九重と一緒に出歩いていたのなら、気に食わないが安心できるだろうし。
「それならこっちから動けることはもうないかな」
「まあそうだね。私たちの場合、どうしてもこういう案件は後手に回りがちだ」
「いや、私たち自身がこの件に関わることはないかな、って」
「…………それは」
「そんな顔しないでよ」
暗い顔をした紗良に、私は笑いかける。私の事情を知っている紗良は私の言葉がどういう意味を持っているのか分かっているのだろう。ま、それはそこで狸寝入りをしている誰かさんも同じなんだろうけどさ。
「じゃあまあ、九重からの連絡を待ちますか。いや、あいつからの連絡を待つとかなんかヤダな」
「本当にブレないな……」
まあ、私があいつのことを好きになれる日なんて永遠に来ないだろうけどな!
*
数日後。
「あ、九重君から連絡が来たよ。犯人と穏便に対話して、事件は解決したそうだよ。あとおごるのは今日の六時半からでいいか?って」
「私は問題ないよ」
紗良が答えているのを聞きながら、私はバッグを持って立ち上がる。
「あ、ごめん。私親孝行しなきゃ」
「ちーちゃん、行きたくないならそう言っていいのに……」
「…………まあ、私はパスってことで。じゃあ、私は行くね」
「また明日ね」
「うい」
ばいばい、と右手を振って私は部室を出る。そのまま駐輪場で自転車を回収すると、私は家でもガトーでもない方向へと漕ぎ出した。
約束の時間に遅れそうだったので少し急ぎ目に自転車を走らせること十分少々。私はスフィアという喫茶店の前にいた。
カランカラン、というベルの音を聞きながら、店内をぐるりと見回す。客の姿はほとんど見えない。しかも全員顔なじみ。それにしても待ち合わせの相手はどこにいるかな~っと。あ、いた。
「ごめん、待った?」
「ううん、私もさっき着いたところ」
私はバッグを置きながら椅子について、目の前の少女をじっと見る。
「どうしたの、そんなに見つめて。は、恥ずかしいよ……」
「ごめんごめん、でも私の妹はこんなにかわいいんだなあって噛みしめてた」
「もう!」
やべえ、超かわいい。子犬のように守ってあげたくなるような雰囲気を持っている顔を赤らめながら頬を膨らませている私の妹超かわいい。かわいい。
そんな風にトリップしていたけれど、妹は無言でメニューを差し出してきたことでその雰囲気は霧散する。私は差し出されたメニューを受け取って、パラパラと流し見る。
「注文いいですか」
「いつものといつものでよかったか?」
私が手を挙げると、カウンターの奥でグラスを拭いていた壮年の男性が顔も上げずに答えた。
「真面目に注文受けてよ伯父さん」
「伯父さんと呼ぶな」
「ハイハイ、マスターって呼べばいいんでしょ。じゃあ、いつものといつもので」
目の端で妹がうなずいているのを確認して、マスターに注文する。
「それにしても、お姉ちゃんが私を呼び出すのって珍しいよね。いっつもわたしの方が呼び出すのに」
「たまにはいいじゃん。普段はできない妹孝行、みたいな」
「ふふふ」
そんな風にしばらく談笑していると、マスターがトレーを持ってきた。そのまま彼は私の前にホットコーヒーとモンブランを、妹の前にカフェラテとチーズケーキを出す。
「いつものやつといつものやつだ」
「雑だなぁ!」
「こちらホットコーヒーとモンブラン、カフェラテとチーズケーキでございます」
「あ、ごめんなさい、いつも通りでお願いします」
「だろ?」
小さいころから遊んでもらっていたせいか、近所の優しいおじちゃんという感覚が強い伯父さんにかしこまられるのは少しむず痒い。
それはさておき、と私たちはフォークを手に取る。
「「いただきます」」
「ごゆっくりどうぞ」
*
「マスター、今日も美味しかったよ」
「当たり前だろ。いつも丹精込めて作ってんだからよ」
なんでこの人喫茶店やっているんだろ。菓子店を開いた方が儲かりそうなんだけどな。でもそう言うとマスターは「喫茶店のマスターの方がかっこいいだろ?」と答えるに違いない。昔と変わっていなければ、だけど。
それはさておき。
目の前の彼女を呼び出した理由がちゃんとある。かわいいかわいい妹を愛でたいという気持ちが大半だったこともあるけれど、それとは別に。
「私たちに依頼させたのは、あいつのことを確かめたかったから?」
「…………あー、うん、お姉ちゃんにはバレるかぁ」
「お姉ちゃんは妹のことならお見通しなのだよ」
私は得意げな顔をしながら目の前に座る妹を、犬飼杏梨を見る。なに、そう複雑な話ではない。ただ私たちの両親がそれぞれ浮気して、離婚する際に私たちを別々に連れていったというだけの話だ。わりと、どこにでもある話だ。
「いつ気が付いたの?」
「購買で杏梨を見かけたときに、首突っ込まないとなって思った。んで、部室に戻って杏梨からのお願いを聞かされた時、かな。ほんとは最初から私のことを除外して話を進めるつもりだったんでしょ? だから自分はこっちに来なくて、代わりにあいつが来た。私が首突っ込まないようにするならその方が楽だし簡単だからね」
「あー、そこまでバレちゃってるのかぁ。やっぱりそうだよねぇ。あそこでお姉ちゃんに会うのは想定外だったよ」
「私はかわいい妹が無事だと知って一安心していたけどな」
そう言って私たちは笑いあう。はた目には女子高生が二人で談笑しているように見えるだろう。いや実際そうなんだけどさ。
「なにか九重のことで心配になったんだったら話してみて? 場合によっては私があいつを殴る」
「もう、お姉ちゃん!」
おっと怒られてしまった。仕方がない、私の右腕が奴の頬を打ち据えるのは当分先になりそうだ、よかったな陰険眼鏡。
「単純に、私が何でもないことで一人で不安になっちゃっ……」
私は最後まで言わせずに、身を乗り出して彼女の頭を抱く。よしよし、私の妹はいい子だねぇ。
「おねえちゃん…………」
「泣いてもいいから。お姉ちゃんに全部話してよ」
そう言って私が背中をポンと叩いたのが引き金になったのか、杏梨はぽつぽつと話し始めた。要約すれば、些細な二人のすれ違いがあったのが、ちょっと距離が開いてしまったというものだった。
「聞いてくれてありがと、お姉ちゃん」
「当然。お姉ちゃんは妹のことを受け止めてあげるものだから、杏梨のことも絶対受け止める。だから安心して私を頼ってよ」
泣きはらして赤くした目で、それでも笑いながら杏梨が言う。それを聞けて良かったよ。
「今度こういうことがあったらちゃんと相談する」
「そうしてくれると嬉しいな。まあ次こんなことがあったら絶対あいつ殴るけど」
「あはは…………」
何はともあれ、これで今回の件は終幕、ってことでいいのかな。めでたしめでたし。え、犯人? 名前知らないけどうちの妹にたぶらかされてるんだから、まあ九重にやられてても仕方ないよね。あいつはそんなことしないだろうけど。
*
後日譚というか、蛇足というか。
まず、杏梨は九重とちゃんと話し合ったらしい。メッセージアプリで嬉しそうに杏梨が報告してくれた。
それに伴って九重からの依頼も幕引きとなった。まあ被害者による遠回しな自作自演だったわけだから、そうなることもむべなるかな、というものである。
そして最後。杏梨と報告してくれた更にその数日後に、私はなぜか九重と一緒にガトーに来ていた。
「なんで呼び出したのさ」
「三人におごりだと、依頼を受ける際にお前が言ったのだろう」
「琉衣と紗良におごったとき、私は用事があるからいいって伝えられなかった?」
「伝えられた。しかしその上で俺が個人的におごりたいと思ったから誘った」
…………ナニヲイッテイルンダコイツハ。
「杏梨ちゃんに刺されるのは嫌だなぁ。いや、かわいい女の子に看取ってもらえるのならばそれもアリなのでは…………!」
そんな風にトリップしかける私を見て、理解できないものを見たような顔で九重は続けた。
「杏梨もお前と会うことは知っている。ちゃんと説明もした」
「ふうん、ならいいけど」
こいつを殴る理由がなくなっただけだ。
「相変わらず俺が嫌いなようだな」
「辛気臭い仏頂面の好きでもない男と二人きりでいるのが楽しいと思う?」
「…………少しは棘を隠そうとは思わんのか」
「思う必要がない」
バッサリと切り捨てる。目の前の男は唇をへの字にひん曲げている。けっ、いい気味だぜ。
「まあ、なんだ、俺はお前たちに解決を依頼し、安心院と寒田がそれを解決した。…………だが、杏梨のことを気にかけてくれたのはお前なのだろう? ならば、その礼はしなくてはならない」
「ああ、そういうこと。ならありがたく受け取っておく」
「お前、本当に杏梨には甘いな」
なにをまた当然のことを言っているのだ。あの女の血を引いているとは思えないほどに可愛らしいあの容姿を見て惹かれないわけがないだろう、などということを、こちらの事情なんて一切知らないこいつに言うのはさすがにまずいのは私にもわかる。だから三文字で済ませる。
「まあね」
「俺は」
「?」
「俺は不器用だ。杏梨のことが何でもわかるとは思っていない。だからちゃんとコミュニケーションを取ろうと心掛けていたのに、このざまだ」
「それ、私が聞くべき話か?」
「許せ。シュークリームおごってやる」
なるほど、それなら我慢しよう。たとえつまらない男のつまらない話でもご褒美があるなら別だな、うん。いやよくないけどさ。
「杏梨の気持ちに気が付かなかった俺を、それでも杏梨は許してくれた。でもその機会を作ってくれたのは、お前だ。天瀬」
そう言って九重は額をテーブルにつけるように頭を下げた。
「感謝する」
「別に、私は推しの杏梨ちゃんが巻き込まれていると知ったからそっちのケアに行っただけ。私は九重のことまで考えるような、お人好しじゃないよ」
「知っている。だが俺は貸し借りを好まない。だから今こうしてお前に頭を下げている」
「あ、そ。なら受け取っておく。どういたしまして、だ」
その後、私たちは珊瑚堂に行き、シュークリームを二つ買った。
「二つ?」
「なに、お金足りない?」
「いや、三つ買うのかと思っていたからな」
そこまで食いしん坊じゃねえよ。あ、最初に三個ずつ買わせようとしたの私だったわ。
そんなことを考えながら買った二つのシュークリームが入った箱を持って、私は一人で歩いていた。九重とは店を出たときに別れた。
「や、待たせたね」
待ち合わせていた公園で、杏梨はベンチでプラプラと足を振っていた。
「お姉ちゃん、清十郎君を取っちゃだめだよ?」
「冗談きつい。私の好みはもっとこう、ダンディな人だから」
「ついでに浮気もしない人、でしょ?」
いや、うん、まあ。浮気は不誠実だからやってはいけないものだとは思うけど、言葉にされると、こう、ちょっと。
「じゃあ、はい、これ」
「あ、清十郎君がお姉ちゃんに買わされたシュークリームだ」
「おいおい」
「ふふふ」
あー、今日も妹はかわいいなぁ!
それから、私は杏梨とシュークリームを食べながら少し話をした。九重とどんな話をしたのか、とか、学校生活はどうか、とか。そんな他愛もない話を。
「ふう、やっぱり美味しいね、ここのシュークリーム」
「そうね」
妹に対して相槌を打っていたら、ふとこの前のことを思い出した。
「ねえ」
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「もしも、杏梨が新世界の神になったとしたら、どうする?」
「んーと、名前を書くだけで死んじゃうノートを手にいれたらどうする、ってこと?」
「まあ、そういうこと」
「どうしたの、いきなり?」
「いや、この前琉衣と紗良がそんな話をしていたからさ。ちょっと気になって」
「へえ、安心院先輩も寒田先輩も面白い話をするんだね」
確かに、普通はこういうのって一人で想像するものなのかも。そう考えている横で、杏梨は「そうだなぁ」とつぶやきながら天を見上げる。うん、今日もいい天気だ。
「お姉ちゃん」
「んー?」
「私がノートを手に入れたら、二人だけ名前を書くよ」
「そっか」
その二人が誰なのか、私は聞かなかった。私の想像通りかもしれないし、全く違う誰かの名前を書くのかもしれなかった。ただ、私たちの足元を冷たい風が通り過ぎていって、私の背中を震わせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます