哀歌

緑夏 創

第1話

 夕暮れの春の海。穏やかながらまだ少し冬の香りのする風に煽られて、今日の海は凛としたさざめきを奏でていた。波打ち際、と言ってもいいくらいに海に近い岸辺には、桜の木々が十本程度並立していて、その昨日今日咲いたばかりの若い花弁は、早くも浜の潮風に拐われては白く薄い波に身投げして、波打ち際に無数の骸を並べていた。


 それらを、彼女は虚ろな目で眺めていた。

遂に届かぬ恋をしたのだった。

 藍花。その雪のように白い肌は、君の心が凍てつく吹雪の中に囚われている事を示すのか。その虚ろな瞳には、舞踊りながら身投げしていく桜花が、君の凍てついた心には、優しい海のさざめきが、果たして届いているのか。

 君だけが一人、凍えたように震えている。春の陽を、一人だけ拒んでいる。


 涙する藍花。

輪郭を撫でるその清らかな一筋は、水平線に沈んでいく仄かに赤い陽の光を受けて、刹那、星のように輝いては白砂に吸い込まれていく。藍花は、己の涙が沈んでいったその一点に、遠い夢でも見ているかのような覚束無い瞳を向けていた。


 あの人のことを、想う。


 いつも遠い何かを見ていて、自分の事など見てはくれない、心なんて此処に無いというのに、それでも、どうしようも無いと思う程に優しく、思わせぶりに思う程甲斐性なあの人の事が、好きだったのだ。

 氷のように平静で、引き締まった表情を変えないあの人の、それでもふとした会話の瞬間に綻んでしまう、その、全ての生命を芽吹かせ育む春の陽のように暖かく柔らかな笑顔が、好きだったのだ。


 天を往く鉄の翼で陽光をも切り裂く飛行機が、浜に膝を抱えて座る藍花の頭の上を、優に飛び去っていく。ごぉ、と地と空を震わせながら、飛行機は沈みかけた太陽の頭を越していく。


 あの空の奥へ、私も行きたい。


 悲しくて、切なくて、藍花は肌を震わせながら、目の縁から止めどなく溢れてしまいそうな涙を懸命に堪えて、そして、頭を反らし、反らし続け、そしてそのまま、藍花は湿った砂浜に、髪に砂が混じり込むのも制服が汚れてしまうのも全部お構い無しに倒れ込んだ。

 仰向けになって、まるで自分の心を投影したかのような、そんな悲しく暮れた藍色の空を両目一杯に写した。しばらくそうしていると、あれだけ涙腺を限界まで追いやった涙はいつの間にか瞳の奥に吸い込まれて、更には綺麗に乾いてしまっていることに気づいて、藍花は呆れたように少し笑顔を見せた。

 まだ少し冬の香りがする風に吹かれて、藍花はやっと、始めから自分に寄り添い、慰めてくれている、その優しくさざめく波の音色に耳を傾けた。

 そんな藍花の雪のように白い頬には桜の花が一枚舞い落ちた。指でその花弁を掬って、そして藍花はもう一度笑顔を見せた。

 立ち上がる藍花。ふっきれたのか乾いた微笑みを浮かべて、そして歩み出す。


海と踊る藍花。海を抱く藍花。

ただ最後まで想うのはあの人の事ばかり。


桜も咲いていると言うのに、翌朝は雪が降った。

まだまだ若い桜の花弁は、荒れた世界の息吹に散らされて、無念に地に華を咲かせていた。


非情で理不尽な北風は、悲しげに震えた声で、散った桜を巻い上げながら途切れ途切れの歌を歌った。

若くして散った桜達の骸にまみれて、彼女は幸福そうに微笑んでいた。冷たく濡れた黒髪は、風に吹かれて一度切なくそよいだが、もうそれきり動く事は無かった。

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哀歌 緑夏 創 @Rokka_hajime

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