僕と今井と鮭弁当

夜が豚を食う。

僕と今井と鮭弁当


 そよ風が吹いて桜の花弁が舞い散る。

食堂の前を横切る一本の道にはちらほらと歩いていく人がいるだけで真新しいものは何も見つけることができない。


二限の講義が終了して昼食時のこの時間。込み合う食堂の片隅に座っている僕は、紙コップの水でひたすら腹を膨れさせていく。カレーの匂いや、味噌ラーメンの旨味を含んだ匂い。オムライスのケチャップの匂い。

できるなら僕だって食券買って、温かなご飯にありつきたい。けれど如何せん金がない。


今月のバイト代は全て友人との酒代に消えてしまった。時給の低いコンビニ店員になんてなるもんじゃないなと、他人事のように考える。

今日は五限まで講義があるから家に着くのは八時くらいかな。さすがに夜ご飯まで腹がもちそうにないな。借りるしかないよな。金。


そう考えて、ポケットからスマホを取り出そうとしたとき、後ろから声をかけられた。

「すいません。となりいいですか?」

 振り返るとボサボサの髪をしてしわしわのダウンシャツを着た女性が、コンビニの袋をぶら下げて立っていた。

 初対面の印象というのは大体三秒程度で決まってしまうらしいけど、この時の彼女に対するイメージは「汚い」でしかなかった。

 混雑する食堂は、カウンター席である僕の隣の席しか空いていなかった。

「あ。どうぞ」

 と僕は言ってイスを寄せスペースを開けるしぐさをする。

「ありがとう」

 彼女は礼を言って、ガサゴソと袋の中を探ると、取り出したのは缶チューハイと鮭弁当だった。


 なんと異端なコンビネーションだろう。缶チューハイなら唐揚げ弁当を選ぶべきだと個人的に思う。いやそもそも大学構内で酒を飲むことがいろいろとおかしいのだが。

 じっと見ている僕の視線に気がついたのか女性がいかにも不快そうな顔で尋ねてくる。

「なに?」

 その顔に気おされて口ごもってしまった。

「なにか文句ある?」

「あ。いやなにもないです」

「いや。その顔は何か言いたげな顔だよ」

 気になるから言ってみてよ。女性は口角を上げて、目を吊り上げて挑発的な表情をする。

「あの。なんで鮭弁当なんですか。唐揚げ弁当のほうが絶対に合うと思うんですけど」

 女性は一瞬目を丸くしたかと思うと、「はっはっはっ」と汚い笑い声をあげた。

「てっきり大学で酒を飲むなっていうのかと思ったよ」

「いや。あなたがどこで酒を飲もうと僕には関係ないことですし」


 女性は「たしかにそうだ」と笑っていうと缶に口をつける。

「なんで鮭弁当なんですか?」

 女性は困った顔をする。

「なんでっていわれてもなあ。見たときビビビッと来ちゃったんだよね。強いて言うなら運命ってやつかな」

 鮭だって運命という非常に重い言葉をかけられるとは思ってもいなかっただろう。


「おいしそうだなって思ったわけでもないんだよね」

「鮭が好きなんじゃないんですか?」

「嫌いじゃないけど、好きでもないね」

 不思議な人だと思った。

「ところでどうして君は昼食を食べるわけでもなく食堂にいるの?」

「金がないんですよ。だから食券を買えない」

「あら。可哀そうに」

 そこで会話は途切れてしまった。

 数秒か、数分か。しばらく経ったあと、女性が口を開く。

「君。名前は?」

「山元です」

「私は今井。よろしく。山元君」

 よろしくお願いします。と言おうとすると、講義の開始を告げるチャイムが鳴った。

 なんとなく気まずくなってお辞儀をしてからその場を去った。


 翌日。

 昨日のことを思い出して無償に鮭弁当が食べたくなった。大学の前にあるコンビニで四〇〇円の鮭弁当を買い食堂で食べることにした。母さんからもらった予算ギリギリだ。

 鮭はけっこうしょっぱくて、なんだか癖になる。他にもおかずはあるが、やはり鮭の存在感はでかい。

「あれ。今日もいるの?」

 今井だった。

「そりゃいますよ。今日も講義はあるんだから」

「でもご飯を食べる場所はここ以外にもあるでしょ」

 それは。

「なんとなくですよ」

 今井は「ふーん」といって昨日のように隣に座る。しかし装いは昨日とは違ってきっちりとしていた。アイロンをかけたであろう白いシャツに黒いパンツ。いわゆるスーツというやつだ。


「今日はどうしてスーツなんですか?」

 と僕は聞いてみた。

「今日は塾講のバイトがあるんだよ」

 こんな人でも塾の講師というのは務まるものなのか。だとしたら相当緩い仕事なんだなと他人事のように考えていると今井が僕に訪ねてきた。

「山元君はなにかバイトしてる?」

「コンビニでしてます」

「へえ。お客さん、こんな無気力な顔をした店員がいたらびっくりしちゃうね」

 まだ出会って二日なのになんて失礼なんだろう。別にいいんだけど。

「今井みたいなだらしない人が先生だったら生徒はもっとびっくりするだろうね」

「昨日はさ、もう全部がめんどうくさくなっちゃって」

「何かあったんですか?」

「んー。あったといえばあったけど。きっと出会って二日の山元君にいうようなことじゃないよ」

 濡れた目をした今井にそんなことを言われた僕は、彼女に何かをしてあげられるような人間じゃなかった。

 時はもう四月だというのにどこか肌寒くて、まだまだパーカーが手放せない。

「そういえば、どうして鮭弁当が食べたくなったのか分かったよ」

 突然に今井は言った。なにかを言いたげな顔をした今井に仕方なく聞いてあげることにした。

「どうして?」

「たぶん無意識に覚えていたんだよ。元カレが好きだっていっていたのを」


 ああ。おそらく今井は男と別れて悲しんでいた。そんなところだろう。だって「元カレ」と口にした途端いまにも泣きそうな顔をしている。

「好きな食べ物はと訊かれて鮭弁当って答える人って珍しいな」

「そうなんだよね。そんな珍しいところに惹かれたんだけどね」

 今井は「でも」と続ける。

「珍しいってだけで彼も人間だったんだよ。私は彼に二股かけられていたんだ」

 出会って二日の僕にそんなこと言っていいのか。そう思ったけど今井も話し相手が欲しかったんだろう。

「まあ、なんだ。新しい人ができるなんて軽い言葉かけるつもりないけどさ。その男といた時間によって成長できた部分は確かにあるんじゃないの。知らないけどさ」

 今井は笑う。それが前向きなものなのか後ろ向きなものなのかはわからない。だからもう少しだけ一方的な助言をすることにした。


「前向きに生きるのも、後ろ向きに生きるのも疲れるからさ。横を向いて色んなものをみて生きていこうよ。視野が広がると自然と幸せの道を歩いているもんだよ」

「うん。ありがとう」

これ以上何かをいうのはお節介というものだろう。

 すると講義開始をつげるチャイムが鳴った。

「あ。それじゃあまたね。山元君」

「また」

 それだけ言って僕たちは別れた。


 そして翌日。

 昨日の鮭弁当がおいしくて今日も同じものをコンビニで買うことにした。たぶん今日鮭弁当を食べたら飽きるのだろう。そんなことを思いながら少し渇いた白米を口に放り込む。


 今井。今日は来るのだろうか。ここ数日座っていたカウンター席に座って待つことにした。

 が。十分。二十分待っても今井は来ない。今日は学校に来ていないのだろうか。まあ別にすごい仲がいいってわけでもないし、来てなくてもいいけど。

静かに米と、しょっぱい鮭を口内で混ぜ合わせる。

窓の外はいつものように人が歩く。桜が散る。風が吹いて新葉がざわめく。

 

食堂のなかはザワザワとうるさい。

なんで学生はこんなにしゃべることが好きなんだろう。

辺りを見回す。


 食堂内はカレーの香辛料の香り。ラーメンの脂っこい匂い。ケチャップの酸っぱい匂い。おいしい匂いが充満するこの空間は人の心をハイにする作用でもあるのだろうか。

 見知った顔があった。今井だ。


 彼女は男と向かい合って座っている。仲良さげだ。いやいや。もう彼氏つくったんか。あいつ。

 きっと僕がなんの助言をしなくても彼女は立ち直っていたんだろう。


 きっと人が人に与えられる影響なんてたかが知れているのだ。百の知識を与えても一程度にしか吸収しないんだろう。人は勝手に育っていくのだ。勝手に成長して、大きくなっていつか戻ってくる。鮭のように。

 そんな哲学チックなことを考えながら食べた鮭は舌の奥が痺れるほどにしょっぱかった。

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僕と今井と鮭弁当 夜が豚を食う。 @night-eat-pigs

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