バックステージツアーへようこそ!
林 のぶお
第1話 プロローグ・幕末時代へようこそ
プロローグ
劇場が眠りから覚めるのは遅い。
一般社会の始業時間は午前九時だが、その時間劇場は安らかな休息世界に浸っていた。
京都四条大橋に佇む、「都座」もそうだった。
客席数1078席。竹松直営の商業演劇の劇場である。
一人の女が、早足で四条大橋を西から東へと渡っていた。
橋の下には、京都の街の背骨のように南北に貫く鴨川がある。
幾ら三月となり春の便りが聞こえていても、早朝の川面からの冷気が橋を渡る人々の足から身体全体にまとわりつく。
その冷気をまるで蹴飛ばすかのように、足音、足さばきがどんどん早くなる。
四条大橋を渡り終えた女は、四条通りにそびえる都座の前で一つ大きく身体を伸ばした。
劇場正面右端に、「京阪電車(祇園四条)」駅に通じる地下階段がある。
階段を降りた途中の踊り場に、都座の地下事務所入り口がある。
「鳴滝ほとりさんお早うございます」
警備員が声をかけて、ドアを開ける。
女の名前は「鳴滝ほとり」都座の社員である。
ほとりは、勤怠管理カードを出勤レコーダーにタッチすると、目の前のデスクには行かず、地下にある楽屋を目指す。
楽屋の電気をスイッチオン。これで、ほとりのこころもスイッチオン。
もう一つ、ほとりのこころをスイッチオンする儀式があった。
それは化粧。と云っても、女性の普通の化粧ではない。
顔にコールドクリームを塗りたくる。
その上から、刷毛で素早く白いものを塗り合わせる。
ひんやりとした感触が顔全体からひたひたと押し寄せる。
俗に云う「白塗り」である。
都座は、歌舞伎発祥の地として知られているが、東京歌舞伎座のように年中歌舞伎を上演しているわけではない。
年に多くて、四か月が歌舞伎で、後は歌手芝居、喜劇など様々である。
それでも、歌舞伎とは縁が深い。特に12月の「顔見世歌舞伎興行」は人気で、全国から歌舞伎ファンが訪れる。
歌舞伎の白塗りが完成に近づく。
ほとりは、目の前の化粧前(鏡)に向かって静かにほほ笑む。
「さあ、大切なお客様をお迎えしないと」
その微笑みは、氷のように冷たく、見る者を文字通り凍らせた。
第1幕 幕末時代へようこそ
(1)
京都東山。大文字の送り火で有名である。
毎年八月十六日に行われる、魂の鎮魂歌。
東山「大」に午後八時、火が灯される。
この時刻になると京都市街のネオンサインは一斉に消灯する。
掃き出し窓の戸を開けてじっと、春の大文字山を見ていた。
大文字の送り火では「大」に炎が灯されるが、今はそこだけ、緑が抜けていた。
ベランダ端には、緊急時脱出用の縄梯子が保管されている小箱があった。
「鐘也、何してるの」
その声に慌てて、振り向き、
「ごめん、お婆ちゃん寒かったかな」
慌ててベランダから室内に入り、窓の戸を閉めた。
ここは、マンションの一室ではない。れっきとした病院である。
ここ、京都御所東側に建つ、京都御所病院五階の部屋は、病院には珍しく、窓が床から天井近くまである、「掃き出し窓」で、ベランダまでついていた。
鐘也に声をかけたのが、この病室の主、祖母常盤蘭世(ときわらんせい)
見舞い客は、孫の常盤鐘也だった。
「ここの病室、大文字山がよく見えるねえ」
「そうやろう。人気の病室でな。毎年大文字の送り火の八月十六日は、患者が沢山のお客さん呼んで、見物するんよ」
「一等席だよねえ」
「そうやろ。毎年見て、すぐ来年の予約する人までいるんよ」
「病院じゃなくて、高級ホテルだよなあ」
「そうやあ。安い宿泊代やがな」
蘭世は、うどんを食べていた。
「それ病院食なの?」鐘也は聞く。
「違う。出前。ここのおうどん屋さん、替え玉までついてるのよ」
「病院で出前て!しかも替え玉て!二度びっくり!」
二人して笑った後、沈黙が訪れる。
蘭世の枕元には、三味線が立てかけてあった。
「病室でも、三味線してるの」
鐘也の視線は、蘭世から、三味線に移った。
「そうや」
「根っからの三味線好きなんだね」
「そうや。鐘也は稽古してるか」
「忙しくて、あまり稽古してないよ」
三歳から蘭世の指導で、鐘也は義太夫三味線を習っていた。
二五歳の今日まで、ずっと稽古を続けて来た。
東京の会社に行ってからは、あまり稽古はやってなかった。
「もう東京勤務やめて、京都に戻りよし」
「そうはしたいけどね」
蘭世は、おもむろにベッドの横の引き出しを開けて、一枚の紙切れを取り出した。
「今日わざわざ東京からあんたを呼んだのは、単なるお見舞いをさせる事じゃなかったの」
「えっ、どう云う事なの」
「これから云う事、よく聞いてよ」
蘭世は、そこまで云うと鐘也の目を見つめた。
三条大橋に佇む鐘也。
ちょっと頭が混乱している。
何人かの通行人が振り返る。
鐘也の背中には、蘭世から譲り受けた、義太夫三味線があった。
病室を出ようとする鐘也に、蘭世は声をかけた。
「これを持って行きなさい」
枕元の三味線を渡した。
「でも、これ大切なおばあちゃんの三味線でしょう」
「私は五丁持ってるから。これはあなたの大切な友となり、助けが必要な時に弾きなさい」
「はあ、わかりました」
「解体せずに、このままの形で持ちなさい」
三味線の棹は、通常二つに分解出来る。
中には、九つにも分解出来て、ばらばらの棹を胴の中に収容出来る優れものまであった。
先程の蘭世の口から発せられる言葉の数々が、にわかに信じられない。
わかりやすく云うと、焼き肉を食い過ぎて、消化しきれずにお腹が苦しい状態だ。
それはこうだ。
蘭世は、ガン末期で、余命がない。
それを救うのは、都座の「バックステージツアー」に参加して、宝を三つ見つけて来る事
都座で行方不明になった、鐘也の姉を見つける事
鐘也だけに、その資格がある
タイムリミットは三日のみ
失敗すれば、蘭世は死ぬ
蘭世のガン、余命幾ばくも無いは解るとしても、それとどうして、都座のバックステージツアーが結びつくのか皆目理解出来なかった。
そこを聞くと、
「それはどうでもよろしい。やるの?やらないの?どっち!」
蘭世は叫んだ。
仕方なくやりますと答えた。
すると蘭世は、手に持っていた紙切れを渡した。
それは都座バックステージツアーの招待券だった。
デザインは、仏像が中央にあった。
真ん中で手を合わせず、それぞれの脇にあり、肘まで持ち上げていた。
右手に短刀、左手に「都」の劇場紋瓦を持って立っていた。
仏像の胸元には、ブローチがかかっていた。
足元には細かい、瓦の破片が敷き詰められていた。
肩から上の顔の後ろに、葉っぱを縦にした光背がある。
その光背には、細かい模様が施されていた。炎のデザインである。
「三日よ。三日間だけだから」
重ねて、タイムリミットを告知した。
鐘也は、じっと招待券を見て、ポケットに入れて、三条大橋を歩く。
「ねえ、見て見てこれこれ」
若い女性観光客が、橋の支柱の上部にある、玉ねぎの親玉のようなものを指さした。
「これ、新選組がつけた、刀傷らしいわよ」
「本当なの」
二人は必死で、写真撮っていた。
「すみません、シャッター押して下さい」
二人は鐘也に声をかけた。
鐘也は快く応じた。
「その刀傷って本当なんですか」
「さあ、わかりません」
「京都によくある、都市伝説の一つでしょう」
二人はキャッと笑って、走り去った。
( 2 )
三条大橋から四条大橋まで、歩いた。ゆっくりと歩いて徒歩七分
都座の前に立つ。
四条大橋東詰の北側には、歌舞伎の祖とも云われる、出雲の阿国像がある。
阿国は、腰をひねらせて、都座を見つめるようだ。
現在の建物は、昭和四年に出来たもので、平成時代二回の改装工事を行ったが、外観はそんなに変わっていない。
東京歌舞伎座に比べると、間口が狭い。
さらに大きな違いは、東京歌舞伎座の背後には、29階建てのテナントビルが、背後から襲い掛かるように建つが、都座は単独で四階建てである。
京都市内は、古都の外観を守るために、厳しい高さ制限が設けられていた。
鐘也は、蘭世から貰った招待券を握りしめて、左端の切符売り場へ行く。
「これ、このまま入れますか」
鐘也が声を掛けたのは、切符売り場の前にいた女性だった。
「どれですか」
女性が振り向く。顔が真っ白だったので、鐘也は後ずさりしかけた。
「お客様、そんなに驚かなくてもいいですよ。私の名前は、鳴滝ほとり。、都座バックステージツアーのガイドしてるの。よろしく」
「はあ。常盤鐘也です」
「背中に背負ってるのは、三味線なの」
「ええ、よくご存じで」
鐘也の声など無視して、ほとりは、三味線の布のカバーをめくった。
「あら、義太夫三味線なの」
ほとりは、義太夫三味線を弾き出した。
鐘也が驚いたのは、自分のバチを懐から取り出したのだ。
「やってらっしゃるんですか」
その答えを無視して、弾き始め、少しだけ弾くとやめる。
「今は、都座バックステージツアーをやっています」
「そうらしいですね」
「お客様のお持ちの招待券は、特別招待券です」
「何が特別なんですか」
「三等はパンフレット付き、二等はイヤホンガイド付き、一等はその両方付き、お客様がお持ちの特別招待券は、さらに」
「さらに」
鐘也は、ほとりの白い化粧の顔がまじかに迫り、オウム返しした。
「もれなく、私の付き添いガイドがついて来ます」
「もれなくですか」
「さあ行きましょう」
ほとりが鐘也の手をそっと握る。ほとりの冷たさが身体を貫く。
その気配が伝わったのか、
「手は冷たくとも、こころは温かいのよ」
すぐにほとりは、云い寄った。
鐘也とほとりは、正面から入らずに、都座の側面、川端通りにある楽屋口から入り、エレベーターで4階に向かう。
「どこ行くんですか」
少し不安になった鐘也は尋ねた。
「特別なお客様ですので、まず都座の神様にご挨拶です」
都座の屋上に出た。
お社が鎮座する。祭壇で一人の女性が、供物の整理をしていた。
「華代さん」
女性が振り返る。
銀縁のメガネとオカッパ髪だった。
「こちら、バックステージツアーのお客様」
「ほとりさんがお連れって事は特別なお客様ですね」
じっと鐘也の顔を見つめた。
「双ヶ丘(ならびがおか)華代(はなよ)です。都座の楽屋番です」
「毎月八日が月参りで、八坂神社の宮司さんが来られます」
まずほとりが説明した。
「その月の興行の大入りと、従業員、スタッフの安全祈願です」
続いて華代が補足説明した。
「まずは、お参りです」
ほとりに促されて、鐘也も社の前で頭を下げる。
とその時だった。
突然、背後から華代のソプラノの高い声で歌声が鐘也の耳を侵し始めた。
都座 お社の歌
♬今あなたが 見えるもの
今あなたが 触れるもの
それらは全て 神様が用意したもの
今あなたが 見てる芝居
今あなたが 見てる舞台
それらは全て 芝居の神様が用意したもの
都座には いるのです
都座には 住んでいるのです
芝居の神様 お元気です
芝居の神様 今宵も走り回る
参拝が終わったが、華代の歌声は終わらない。
最後のフレーズ(芝居の神様 今宵も走り回る)が理解出来ない。
何で走り回るのか?
(そんなに、芝居の神様は忙しいのか?いや、そもそも、芝居の神様なんているのか)
ここが劇場ではなくて、新興宗教の施設に紛れ込んだ錯覚に陥った。
余程、もう逃げて帰りたい心境だった。
その鐘也のこころ模様を察知していたのか、
「大丈夫、もうすぐ終わるから」とほとりが耳元で囁く。
歌が終わりかけると、すぐにほとりは、鐘也を連れて、楽屋に向かう。
「さあ、時間がもったいない」
「次はどこの見学ですか」
「見学じゃなくて、体験ね」
鐘也は、床山部屋でかつらを被らせられ、衣装部屋で、着物に着替えさせられた。
「最後は、この羽織です」
「これって、ひょっとしたら、新選組じゃないですか」
鐘也は、着物の柄と袖の部分を見ながら云った。
「そうです。刀は、これから行く舞台上手袖で貰うから」
エレベーターで一階に降りた。
すでに刀を持った黒いTシャツ、黒のズボンの女が待っていた。
「小道具の上賀茂ひとえです。鐘也さん、はいこれ」
刀を渡してくれた。
「これ忘れてた。このメガネかけて」
ほとりが鐘也の正面に周り、黒ぶちのメガネをかけた。
「時代劇にメガネはおかしいでしょう」
「これ単なるメガネじゃないの。かけると目の前に現る人の名前とポジションがわかるの」
「便利ですね」
「でしょう。いちいち自己紹介もうっとおしいでしょう」
「でも、相手の名前は解っても、相手は僕の名前知らないから結局、僕が自己紹介しないといけないんじゃないですか」
「それは心配ご無用。相手も常盤鐘也ってわかっているから」
何だか意味不明の事を云われた。
笑顔で云うから、かえって怖さが倍増する。
もし本当なら個人情報をいつ、どこで抜かれたんだ?
数々の疑問が芽生える中、上手舞台袖に来た。
舞台袖から舞台を見る。なんの舞台装置もなかった。
「何もありませんね」
「これから始まります」
舞台奥の奈落に通じる階段から、何人かの大道具の人間が湧いて来た。
総勢、20名ぐらいだろうか。隅々まで、箒で掃除を始める。
次に各ポジションに分かれて、舞台装置を作り上げて行く。
まず箱馬と呼ばれる、小さな立方体の木で出来た箱を四隅に置く。
その上から平台と呼ばれる台を置く。さらに平台の上に、畳模様の上敷が敷かれる。
四方八方から家の壁になるパネルをはめる。さらに上から、吊り物の屋根が降りて来る。
一連の作業を歌いながらやっていた。
袖で見ていると、上手袖の垂直の階段、鉄砲階段を一人の若者が登って行く
メガネをかけた鐘也の目元に、
「西院つよし 大道具 スノコ担当」の文字が浮かぶ。
「スノコって何ですか」
「舞台の上」
大きな手を指さして背後から男が声をかけた。
振り向くと、いかつい男だった。
「烏丸節夫 大道具 リーダー」の文字が出た。
「どうも」
「おう若者よ、大道具入所希望か」
「いえ、都座バックステージツアー見学です」
「そしたら、大道具連中の歌声も聞いとけよ」
♬ 大道具の歌
俺たちは 大道具
どんなものも 作れるぜ
トントン カンカン
俺たちは 大道具
トントン カンカン
舞台が俺たちの 生活の場所
舞台が俺たちの 生きがいなんだ
太陽も月の光も 入らない
人はごみごみ していると云う
けど俺たちは太陽 月まで作る
星も作るけどねえ 作ったものに欠けるものがある
それはねえ それはねえ
お客様の魂拍手 感動の嵐
それが入って初めて 出来上がる
出来上がる 出来上がる 出来上がる
「おい、鐘也、お前も手伝え!」
鐘也の返事を待たずに、烏丸は鐘也を舞台奥に連れて行く。
通称三六(さぶろく)と呼ばれる、縦、6尺(約180センチ)、横3尺(約90センチ)の大きさの平台を運ばせた。
「これ、本来は一人で運ぶんだよ」
「無理っす。力ないので」
「力じゃなくて、身体に預ける」
「預ける?」
「見ていろ」
烏丸は、肩に載せると、ひょいと持ち上げた。
「さあ、やってみろ」
鐘也はやってみる。
でも出来ない。
「何回かやれば誰でも出来る」
「誰でもですか」
「そう、誰でも」
烏丸はそう云って、顎をしゃくった。
その方向を見ると、小柄な先程の小道具のひとえが平台を肩にかついで走って来た。
「どいて、どいて!」
小走りに走って行く。
「凄い!」
「だろう!」
烏丸は得意そうに笑った。
( 3 )
左右に開閉する定式幕が引かれて行く。
「さあ始まりますね」
鐘也は歩いて舞台袖の奥に行こうとした。
「どこ行くのよ」ほとりが聞く。
「客席で見るんでしょう」
「勘違いしないで。あなたはこれから舞台に出るの。そのための、新選組の恰好でしょう」
「でも台本ないし」
「台本ねえ」
そこまで云ってほとりは、少し笑った。
「何が可笑しいんですか」
「台本は、また後程」
「じゃあ台詞は?展開は?」
「そんなもの適当よ」
「アドリブ劇って事ですか」
「アドリブじゃないです」
「でも僕、台本貰ってないです」
もう一度強く鐘也は抗議した。
「まあやったらわかる」
ほとりは、ぽんと力強く鐘也の胸を叩いた。
析頭が鳴る。
「チョン」
さらに析頭の連打の刻みが入る。
ゆっくりと定式幕が開く。
上手幕袖から、ふと鐘也は客席を覗く。
「あれっ」
「どうかしたの」
背後からほとりが声をかけた。
「見て下さい。一階席、椅子がなくて、全部升席ですよ」
「江戸時代だから、当たり前じゃないの」
呆れたようにほとりは、答えた。
「いやあバックステージツアー凝ってますねえ。いつの間に、こんなに仕込んだのですか」
升席の間を、男衆(おとこし)やお茶子の女性が客を案内している。
升席を区切る、縦横の細い幅、10センチ程の狭い板を、曲芸師のように、身体でバランス取りながら、お弁当、お茶、お酒を運んでいる。
升席では、お酒を呑む。煙草を吸う。
おなごの膝枕で談義する者とまさに自由きままだった。
小型の火鉢の炭火で魚を焼いている客までいた。
現代の劇場は飲食、喫煙、お喋り駄目のご法度のかたまりだった。
この落差に鐘也は、目を見張った。
「あれは、本物ですか。それとも3D映像処理ですか」
「何わけわからない事云ってるの」
見るとほとりの頭は日本髪になってる。
さらに着物姿に変身してる。
「ほとりさん、いつの間に早変わり変身したんですか」
「あんた、いつまでもわけのわからない事云ってると、引っ張叩くよ」
予想外の剣幕に鐘也は、口を閉じた。
「あんたの出番は、次の二場からだから」
舞台の盆が回る。
裏に飾ってあった、舞台装置が顔を出した。
侍が、悲壮な顔をして座っていた。
「時代劇かあ」
「鐘也君、ちょっと」
ほとりが、鐘也を舞台袖から、ロビーに連れ出す。
客席の扉の前には、男衆が立っていた。
「入退場は駄目」
「この人、役者なの。ちょっと失礼」
「ほとりさん、何ですか」
「ちょっと説明しとくね」
ほとりさんが説明し始めた。
今から上演される芝居は、仮名手本忠臣蔵の四段目「判官切腹の場」である。
この場面は、緊迫した場面なので、客席の出入りも禁止である。
よって、客も飲食はこの場面では、禁止となる。
「わかった?」
「つまりそれだけ、真剣に芝居しろと」
「そう云う事」
「で、僕が舞台に出るのは、どこですか」
「その時が来たら、背中を押してあげるから。声は出せないから」
「わかりました」
鐘也らは、再び舞台袖に戻った。
切腹をまじかに控えた判官。家来を待ち続ける苦悩の姿。
しんと静まり返る客席。
とその時だった。
「早く、腹切れ」
「何なら、俺たちが介錯してやろうか」
芝居の雰囲気に相応しくない輩の声が聞こえた。
それは舞台ではなくて、客席からだった。
「お客様、お静かに願います」
お茶子と男衆二人が抑えにかかっていた。
見るからに、酒に酔った輩二人が、お茶子、男衆らの制止を振り切って舞台に上がって来たのである。
輩は、切腹しようとする判官の周りを取り囲む。
とその時ほとりが、強く鐘也の背中を押した。
「えっ、この時にですか?」
少しよろけながら、振り返ると、ほとりは、手で汚いものを追い払うかのように、
「しっ、しっ、しっ!」
「今ですか?」
押されて、鐘也は舞台に出てしまった。
嫌な空気に支配されていた客席は、鐘也の登場で一気に和んだ。
「待ってました!」
「待ってたぞ、正義の使者!」
「何だお前は」
鐘也は輩二人と顔があった。
輩1・・・岩倉藤太・・偽物の新選組。町の輩
輩2・・・木野桜太・・ 〃 〃
目の前にすぐに二人のプロフィールが映し出された。
「何だお前は」
もう一度、輩は同じセリフを凄んで云う。
鐘也が黙っていると、
「正義の味方!」
客席から野次がすかさず投げかけられ、観客はどっと沸いた。
「正義の味方なら、普通花道からの登場だろうがあ」
「そもそも何でお前、俺たちと同じ新選組の羽織を羽織っているんだ」
「お前ら、新選組ではない。藤太に桜太。町の輩であろう」
鐘也は落ち着いて喋る。
もう、客席は皆、これも芝居の一場面だと信じていた。
「えらい忠臣蔵も変わりましたなあ」
「けど、忠臣蔵と新選組て、時代が違いますがな」
「いや、歌舞伎て、時代あちこち、ないまぜする狂言(演目)やがな」
「これはこれで、よろしいがな」
「今回の芝居狂言作者、誰ぞいなあ」
客は、一気に緊張が解けて、再び酒を呑み交わしながら芝居談義を始めていた。
「何で俺たちの正体知っている」
「お前は誰ぞ!名を名乗れ」
「常盤鐘也!」
「調子に乗りやがって!切るぞ!」
輩、二人が刀を取り出す。
鐘也も抜くが、こちらは小道具のおもちゃ。
向こうは、真剣である。
鐘也はびくつきながら後ずさりする。
上手袖を見る。
小道具の上賀茂ひとえ、大道具の烏丸始め、多くの裏方が鈴なりで見ていた。
見ているだけで、誰も助けようとしてくれない。
中には、腕組みしてにやけている人もいた。
「これ、台本通りですよね」
確認するように鐘也は二人の輩に尋ねる。
「台本?」
「何寝ぼけた事云いやがる」
一人の輩が切りにかかる。
ふと、舞台の地面を見た。
手紙のようなものが落ちていた。
反射的にひょいと、身体を折り曲げた。
刀が空を切る。
はた目から見ると、素早く刀をかわしたように映る。
「凄いぞ!」
「負けるな!」
客席から拍手と熱量が一気に高まる。
(これは、真剣勝負なんかではない)
(東映映画村、日光江戸村で開催される、模擬殺陣を見るショーの進化したものである)
(京都観光も見るから、体験するものに変化している)
(だから、自分は死なない)こころの中で何度も云い聞かせた。
段々と落ち着いて来た。
空を切って、倒れかけた輩一人が、態勢を整えて背後から切りかかろうと上段に構える。
「死ね!」
刀を振り下ろそうとした瞬間、一瞬それよりも早く、上から降りて来た、じゃり糸が刀に絡まるり、すぐに刀を上に引き上げた。
大勢の観客は、この新手の手法に、一様に大きなどよめきを上げた。
「ありゃあっ!」
両手から刀が消えて、間抜けな体制となった。
「しっかりしろ!」
「それでも新選組か!」
観客から鋭い野次が幾つも輩二人に突き刺さる。
「うるせえ!黙れ!」
輩は、舞台に向かって吠える。
しかし多勢に無勢数の力を借りた町衆はひるむどころか、さらに野次の応酬を開始する。
「負け犬、よく吠える!」
「ワンワン、ここ掘れ!」
「わしは、おなごに惚れたいワン」
爆笑の大波が芝居小屋を覆う。
「あっ、輩、危ない!」
その野次に、藤太の目と身体が泳ぐ。
観客は、爆笑の波を瞬時に作り上げて、場内の隅々にまで、その波は押し寄せた。
片割れの桜太が雄たけびを上げた。
「貴様!俺たちに恥をかかせやがって!もう我慢ならん!今度はわしが相手じゃ」
鐘也の間合いを詰めよる。
鐘也は、次の一手が踏み出せない。
ふと、再び幕袖のほとりを見た。
手の仕草で、三味線を弾けと合図していた。
「三味線?」
この切るか切られるかの大勝負で、何で三味線なのか合点が行かない。
しかし、すぐに鐘也は従った。
背中に背負った、三味線を取り出した。
桜太は、刀を構え、一方の鐘也は三味線を構えた。
観客は、この想定外の展開に、一瞬静まり返り、次にどう反応してよいやらわからずに、身体もこころも固まった。
鐘也は、頭から出て来る言葉を即興で奏でる、創作浄瑠璃を弾き、歌い始めた。
創作浄瑠璃「新選組殺陣の段」
♬正義の御旗 携えて
京におでまし 新選組
町衆がやがやと 見物す
御上の光背 輝くか
悪の輩を 蹴散らして
京の安寧 祈念する
町衆ささやき 如何ほどぞ
審判下すは 民のちから
さあ来い来い 反逆人どもめ
両手を広げ 防ぐんだ民たちよ
町衆の力 ともに携えて
新選組は 京に根をはやす
それを育てるは 民百姓
これから先も 無礼先般する輩
許さじ手加減なし 成敗いたす
わかったか輩 わかったか輩ども
鐘也が義太夫三味線を弾き語る毎に、鐘也の身体に変化が出始めた。
まず髪の毛が瞬く間に怒髪天となり、金髪逆毛と化した。
さらに目には炎が一つ生まれ、身体全体から煙が出始めた。
変化に度肝を抜かれたのは、輩だけではなくその場に居合わせた客、裏方全員だった。
ひとたび、鐘也のつま弾く、義太夫三味線の音色が場内に響く。
すると、客は今まで食べたり、飲んだりしていた動作が一瞬にして止まる。
徳利を持ったまま、微動だにしない客は、病人のようにぽかんと口を開けて、顔と目は舞台に文字通り釘付けとなる。
それは二人の輩、藤太、桜太も同じだった。
鐘也の両側に対峙して、挟み撃ちしていたが、二人とも魔力をかけられたようで、刀を抜く、振り下ろす力が完全に失われた。
「こやつの義太夫三味線は、一体!」
ぶるぶる身体全体にけいれんが走り出す。ここまで云うのがやっとだった。
二人は崩れて、正座して聞いていた。いや、聞き惚れていたのだ。
その証拠に口からよだれが流れ落ち、目に力はなく、顔のあらゆる筋肉は弛緩していた。
元々太棹の義太夫三味線は長唄等の細竿三味線に比べて、音色、響きは、重低音である。
しかし、鐘也の繰り出す、義太夫三味線の音色は幾重にも重なる、人々のこころの奥底にまで染み渡り、細胞を活性化させていた。
「負けだ」
ぽんと刀を鐘也の足元にまで投げ捨てた藤太だった。
それを見て、桜太も続いた。
驚愕の淵に立ち尽くしていたのは、観客、輩だけではなかった。
弾いていた本人、鐘也自身が驚いていた。
「こんな事が起きるんだ」とつぶやいた。
「おぬし、その義太夫三味線はどこで習われたのじゃ」
「祖母からです」
「祖母のお名前は」
「常盤蘭世ですけど」
「何、蘭世だと」
二人の輩の顔色が変わった。
「これまでの数々のご無礼、失礼つかまつります」
「無礼と云えば、三条大橋の擬宝珠の刀傷もお前たちがやったのか」
鐘也はさっき見て来た事を云った。
「あれは、旅籠屋(池田屋)さんとの共同事案であります」
藤太の話では、所謂宣伝のために、尖った鉄くぎでつけたそうだ。
「幕府公認の橋を、刀で傷つける、そんな恐れ多い事出来ませぬ」
「刀でなくて、鉄釘。それは間違いないか」
「ははあ、間違いございませぬ」
「後世の人々は、三条大橋を渡る度に、新選組がつけた刀だと見ておるぞ」
「後世?」
「ああ、もうよい」
「蘭世殿は、貴殿に何か云っておられたか」
鐘也は、そこで思い出した。
「宝物、そう宝物を探して来いと」
「そうであったか」
輩二人は顔を見合わせた。
藤太は、懐から小さめの刀を差し出した。
「これをお納めください」
「何ですか。これは」
「蘭世殿がお探しの宝物の一つです」
「一つ?じゃあ、あと幾つあるの」
「いやあ、それは、時代がワープしてるから、そこまでは」
「ワープ?何それ?スタートレック、スターウオーズの世界じゃないですか」
「つまり、そのう」
輩が云いかけた時だった。
ほとりが、舞台袖から顔を見せた。
「鐘也くん、先を急ぎましょう」
ほとりは、輩に目配せした。
「次はどこへ」
「あなたが、拾った手紙の持ち主のところへ」
「ああ、そうだった。忘れる所だった」
殺陣の最中、足元に落ちた手紙を拾った事をすっかり忘れていた。
「これはどこから落ちて来たのでしょうか」
「多分、あそこ」
ほとりは、云いながら人差し指を上に向けた。
「上ですか?」
「そう。ずっと上です」
二人は顔を見上げた。
舞台上手袖に、垂直に伸びる鉄砲階段があった。
「スノコです。今から行く所」
登りながらほとりは、説明してくれた。
舞台上部に、背景画などを吊って収める空間があった。
「別名、ぶどう棚とも呼ばれているの」
「何でなんですか」
「ぶどうは、どうして出来る?」
「竹の棚作って・・・」
「それそれ」
「どう云う意味ですか」
「百聞は一見に如かず」
二人は上がった。
舞台で使用する吊り物を収める場所だから、高さは、吊り物と同じか、それ以上ないと収まらない。
目の前に広がる光景は、簡単に云うと、薄暗い屋根裏天井の大きい形だった。
屋根裏部屋と大きく違うのは足元だった。
舞台の上部が、今立っている足元である。
足元には、ほとりがさっき云った、竹で編んだ、まさにぶどう棚が広がっていた。
その上に、上手から下手まで何本ものロープが並んでいた。
その両端が吊り物のパネルに迄降りて支えている。
その両端には、滑車があった。
パネルを動かすと、当然それを支えるロープが上手から下手にかけてゆっくりと動く。
現代なら電動だが、江戸時代は当然、人力である。
舞台前に二人の人影を見つけた。
鐘也が先に進もうとすると、ほとりは、鐘也の腕を引っ張った。
「逢引の邪魔をしちゃあ駄目」
「そう云う仲なんですか」
二人の人影は、小道具の上賀茂ひとえと大道具の西院つよしだった。
「ここであなたの出番。甘い恋の語らいには、良質の音楽が不可欠なんです。だから即興で創作浄瑠璃やりなさい」
「義太夫三味線の音が邪魔するんじゃないですか」
「あなたの義太夫三味線は、そうじゃないから大丈夫。さあ、やってやって」
ほとりが催促して、鐘也の腕にしがみついて来た。
「わかりました。じゃあやります」
「待ってました!」
顔をほころばせて、ほとりは、手のひらを気ぜわしく、それでいて、拍手の音が出ないよう、すんでのところで空間作って、エアー拍手した。
創作浄瑠璃 「スノコ逢引の段」
♬スノコの闇は 未来の戸口
行く末まなこ 光りあれ
たぐるじゃり糸 恋の糸
絡まる二人の 恋の糸玉
未来に咲かすは 恋の花
咲くも枯らすも ふたり次第
進むか退くかは 悩ましい
滑車の響き 恋の響き
進む手綱は 我にあり
動く手綱の先に 未来絵図かな
止まらぬ身体 身を守り
七転八倒 恋の登山
怪我せぬうちは 嘘の恋山
大怪我をして 一人前
さてどうなるか 当事者もわからぬ
観客も息ひそめ 見守るぞ
鐘也の髪の毛は、さっきの怒髪天から、真逆の後ろに逆立っていたが、リズムとりながら左右に規則正しく揺れ、たなびいていた。
背中に宿した葉っぱの形の光背もゆっくりと音楽に合わせて動いていた。
弾き終わると拍手がほとり一人ではなかった。
拍手の風は三つに広がっていた。ひとえとつよしだった。
「やっぱり、聞き惚れるなあ、鐘也さんの義太夫三味線の音色」
顎を何度も上下させてひとえは、云った。
「浄瑠璃もいいよね」
つよしも賛同した。
「有難うございます」
「今のも、即興なの」
「もちろんです。前もってこんな展開、台本があるわけじゃなし」
鐘也の「台本」の言葉に、他の三人は、各自顔を見つめ合っていた。
「だろうねえ。それにしても上手い」とつよしは云った。
「祖母の方が義太夫三味線をしていらしたようです」
ほとりが説明した。
「先程は、輩との立ち回りの時、助けていただいて有難うございました」
「あれ、危なかったよねえ」
剣の心得が全くなかった鐘也だった。
輩の剣の先に、スノコにいるつよしは、じゃり糸を垂らして、上手く輩の剣に絡ませて、剣を上部に挙げた。
「あれで助かりました」
「助けたのは半分かなあ」
「半分?後の半分は」
「もちろん、あなたが奏でる、義太夫三味線の音色だよ。初めて見学させて貰いました。義太夫三味線の音色で人間がふぬけになってしまう所を。あっもちろんいい意味での」
「そんなあ」
鐘也は謙遜した。
「ほんまにそう思う。お客さん、もうよだれたらして、恍惚状態やったもん」
ひとえも激しく同調した。
「鐘也さん、例のもの渡したら」
「ああ、忘れるところでした。これ、舞台に落ちていました」
手紙をつよしに渡そうとした。
「えっ、舞台に落ちていたの」
「そうです。でもこれ、もう一つの命の恩人なんです」
手紙を見つけて腰を屈めたから、輩の最初の一撃を偶然にも交わす事出来た。
「中身は読んだの」
「いえ、そんな事しません」
「有難う」
つよしは、一旦受け取った後、すぐに鐘也に戻した。
「これはきみが預かっておいてくれ」
想定外の展開に鐘也の頭は?マークが飛び跳ね回り出した。
「大事な手紙のはずじゃなかったんですか」
「そうだよ。でもきみが持ってた方が値打ちもあるし、行方不明にはならない」
「はあ・・・」
つよしの云ってる意味が皆目解らないけど、ひとまずここは預かる事にした。
「でも、一つだけいいかな」
「何でしょうか」
「時が来るまで封は絶対に開かないで欲しいんだ」
「わかりました。で、その時はいつなんでしょうか」
「今からだと、随分先かなあ。きみは生き続けるから大丈夫。その時が来たら誰かが教えてくれるから」
つよしの答えも、鐘也にとっては、答えになっていなかった。
「私、見たい」
ひとえが云い出した。
「駄目」
「これって、恋文なん」
「まあ、一種のね」
「なあ誰あてなん」
「それは秘密です」
「て事は、江戸のおんな!悔しい!」
急に大声を上げて泣き出した。
「早く、次行ったほうがいいよ」
つよしは、ひとえの泣き顔を見ながら云った。
「これ、泣き出すと長いから」
「そうします」
鐘也とほとりは、スノコを退散する事にした。
「次ってどこなんですか」
「ついてくればいいのよ」
都座のバックステージツアーで、一番驚いたのは、自分の奏でる義太夫三味線の音色が、そんなにも威力があったのかと云う事だった。
再びロビーに戻った。
「少しここらで休憩しましょう」
ロビーの椅子に座った。
「鐘也くん、義太夫三味線弾く毎に、パワーアップしてる。きみ凄い特殊能力持ってる」
「そうですか」
「日本に、たんと義太夫三味線弾く人いるけど、怒髪天金髪、目に炎柱、背中に葉っぱの炎燃やす人って、きみしかいないからね。超人鐘也と呼ぼうかなあ」
ほとりがにやけながら喋った。
「これって、都座のバックステージツアーですよね。しょうもない事、聞きますけど、一体どこからどこまでが、そのバックステージツアーなんですか」
「どこからって?」
「ぶっちゃっけ、これって皆仕込みですよね」
確認するように鐘也は尋ねた。
「僕が新選組の恰好したり、舞台で立ち回りしたり、果てはスノコ覗いて、手紙まで預かったりして。これも仕込みでしょう」
「そう思うんならそれでいいでしょう。で、鐘也くんなりの結末はどうなのよ。例えば、その西院つよしくんの手紙は」
「手紙と見せかけて、実はこれは、お楽しみ抽選が入ったもの」
「かああーー若いのにえらく、昭和な発想だ事」
大げさに、ほとりは身体をのけぞらして、倒れかけた。
そのまま、放っておくと、倒れてしまいそうなので、鐘也は慌てて手を差し出した。
「有難う」
ほとりは、手を握りゆっくりと起き上がった。
「じゃあ答えを教えて下さい」
「そんな種明かし先に見てから、手品見ても面白くも何ともないでしょう」
「またはぐらかされた」
「それより、まず最初にやらなければいけない事があります」
「何ですか」
「その恰好を開放しないとね」
ほとりは笑いながら頭を指した。
「あっ」
鐘也も気づいたようだ。
かつらをかぶり、新選組の羽織を着たままだった。
衣裳部屋に戻って、すぐに元の恰好に着替えた。
「お腹すいたねえ。何か食べよう」
ほとりは、一階東側売店で「バックステージツアー弁当」とコーヒーを買って、渡した。
「ここのコーヒー、案外いけるのよ」
紙カップ入りで、表面に英文字が書かれていた。
「何これ?」
初めて目にする、ブランド名だった。
GOD HOPE QUEEN
「神の希望の女王?何ですか、これは」
「さあ、知らない」
素っ気なくほとりは返答した。
「神と云えば世間では劇場の神様とか云うけど、本当の所どうなんですか。いるんですか」
「います」
あっさり、ほとりが答えを返したので、鐘也は驚いた。
「どこにいるんですか。バックステージツアーなんでしょう。見せて下さいよ」
「あら珍しく、この件に関しては、食いつくのねえ」
疑心暗鬼の視線を投げかける鐘也に、ほとりは、立ちはだかる。
「そんな簡単に見せられないわよ」
「お楽しみは、あとでって事ですか」
「そう。云っとくけど、芝居の神様は、交代制だから」
「本当ですか」
次から次へと、鐘也の知らない事を繰り出すほとりだった。
「歌舞伎四百年、都座四百年。ずっと一人で四百年やって来たわけじゃないの。時代時代で人間が知らないうちに、どんどん交代してるから」
「ほとりさん、何で知ってるんですか。ひょっとして、神の使いですか」
「いいねえ、いいねえ。神の使い!私は奈良の鹿か!パオーン!」
ほとりは、自分でぼけて、自分で突っ込んだ。
「もう一つ質問」
「はい、鐘也くん」
国会の議長の口調で、ほとりは云った。
「結局、芝居の神様って、男なんですか、女なんですか」
「神って、男でもあり、女でもあるんじゃないの」
「何ですか、そのあやふやな答え」
口をとんがらせて云った。
「あやふやだから、全世界に何千もの神がはびこるんじゃないの」
「そんなもんですか」
「そんなもんです。話戻すけど、このコーヒーの神様の事は、店の人に聞けば」
仕方なく、鐘也は売店の人に聞いた。
「この英語の意味は何ですか」
「その答えは、あなたのこころに問いかけてみて下さい」
席に戻ってほとりに報告した。
「何それ?新興宗教の教祖様が云いそうな事よね。それより食べましょう」
初めて口にするバックステージツアー弁当だった。
「一体どこがバックステージツアー弁当なんだろう」
鐘也はぼそっとつぶやく。
「もういちいち、理由づけしないの」
ぴしゃりと云われた。
「どれもこれもおいしいけど、盛り付けがいまいちですね」
「具体的にどこがよ」
「例えば、この卵焼き。裏返ってる」
「それから」
「なすびもほら、裏返ってる」
「鐘也くん、それらを見てまだわからないの」
「何がですか」
わざと大きくため息ついて、ほとりは云った。
「もう本当、一から十まで云わないと気づかないのね、あんたって人は」
名前ではなくて、「あんた」と云われ始めた。
「すみません。説明お願いします」
「これこれ」
ほとりは、弁当が包んである、包装紙を指先で軽く叩いた。
「これ、何て書いてあるの」
「バックステージツアー弁当」
「そこ、そこ」
鐘也は、ほとりの言葉を曲解して、弁当の底を見つめた。
「弁当の底じゃなくて、この言葉!まだわからないの」
「わかりません。解説続きお願いします」
「バックステージツアー。裏方探訪。裏方。ウラ。だから、皆、おかずが裏返ってるの」
「ああ、そうでしたか。ついでにほとりさんの声も裏返ってます」
「何だか、ダジャレの解説みたいで、疲れたから声も裏返るの!」
珍しく、ほとりの口調がきつくなった。
「すみません」
「鐘也くんの悪いところでもあり、良いところでもある。そのいちいち、理由、答えを見つけようとする所。最近の若い子って、すぐに答えをせがむ傾向あるよね」
「スマホで、検索する癖がついてますから」
食べかけた弁当をソファに置いて、ほとりは立ち上がる。
「答えは、スマホの中にない!この都座の中にあるのよ!」
大声で叫んだ。
ご飯を口に入れたまま、鐘也は金縛りにあったように、身体が固まった。
ひと呼吸置いて、にこっとほほ笑むほとりだった。
「はあ、確かにそうでした。すみませんでした」
「謝る事ないから。折角時間を作って都座のバックステージツアーに参加してるのだから、この空間を楽しんで欲しいの。スマホネット空間は、家に帰ってからでも出来るでしょう」
「確かにそうでした」
ひとえの云う通りだと思った。
元々は祖母、蘭世の命令に近い、懇願で都座に来たのだが、楽しもうと決めた。
「おばあさんの、お願いも忘れないでよ」
「行方不明の僕の姉探しと、宝物を三日以内で見つける事です」
「お姉さんってどんな人?写真あるの」
「あります」
スマホを起動させて、見せた。
「それ、私のスマホに転送させてよ」
「何か心当たりありますか」
「拡散させてもらうから」
雰囲気で、ほとりのネットワークは只者でないと感じた。
その効果は、すぐに現れた。
弁当を食べ終わった頃だった。
けたたましく、こちらに走って来る足音がした。
見ると楽屋番の双ヶ丘華代だった。
楽屋から走って来たようで、顔と首筋に汗の玉を幾つも生まれさせていた。
「ほとりさん!」
華代は、右手に持ってるスマホを何度も振った。
「やっと見つけました!」
「えっ見つけたの!」
まずほとりが立ち上がる。
「見つかったんですね」
確認するように、次に鐘也も立った。
「どこで見つかったんですか」
ほぼ同時にほとりと鐘也は同じフレーズを口から放出させていた。
「いえ、だから私が今、ほとりさんを見つけたと」
どっと二人は前のめりになった。
やっと態勢を取り戻したほとりは、
「お互い、ちょっと落ち着きましょう」
ほとりの案内で、三人は、二階ロビーにある、「八幡寿司」に入った。
カウンター8席と、奥にテーブル席がある。
そこで息を整えた。
注文はかっぱ巻き。
鐘也とほとりは、さっき弁当を食べたばかりである。
「で、華代さん、私に会いに来た理由は」
「もちろん、スマホで送信された女性の事です」
「僕の姉なんです。探しています」
事の経過は、端折って結論だけにした。
「どこかで見たの」
「見ました」
「だから、どこで」
ほとりの声が、早くも苛立つ。
「都座です」
「だ・か・ら、都座のどこなの」
鐘也とほとりは、質問のたびに、華代の顔に近づく。
取り調べを行う刑事のように、結論を求めた。
「それがどこなのかわかりません」
再び、鐘也とほとりは、前のめりになって、机の角で顔を打ち付けるのを、両手で机の角を押さえて踏ん張った。
「だからあ、私達の聞きたいのは、その先なんだよ!」
と絶叫したいぞと頬に殴り書きしたかの顔をほとりは見せた。
鐘也はごくりと、唾を呑み込んだ。
「見たのは一回だけですか」
自分で落ち着かせようと、わざとゆっくりと言葉を発する鐘也だった。
「いえ、何度か」
「もう一度聞きます。見たのは都座の中ですね。外ではなくて」
「中です」
「ロビーですか」
「ロビーだったかのような」
「正面玄関?」
「だったかのような」
「客席?舞台?」
「だったかのような」
もうこれ以上場所の事を聞くのは無駄だと思った。
「姿、形は」
今度は、ほとりが聞いた。
「それが一番肝心だった」
「ええ、これに近いです」
スマホで送られた写真をもう一度、華代は見つめながらつぶやく。
「話したんですか」
「いえ、通り過ぎです」
もうこれ以上話しても無駄と二人は思った。
「あのう、ちょっといいですか」
今度は華代の方から切り出した。
「何でしょうか」
「これ食べますか」
華代は、ポケットからなすびとにんじん、バナナを取り出した。
「どうしたんですか」
「供物です。月参りのお礼です」
「縁起よいのよねえ、供物のお下がりって」
遠慮なくほとりは手を出した。
「食べる?」
呆れたままの鐘也にひょいとバナナを口元に突っ込んだ。
「いえ、今は」
「食べなさい。これから色々と体力使うはずだから」
「何ですか、その予告めいた云い方。怖いなあ」
「これもどうぞ」
華代は、なすびを差し出した。
このまま、生で食べるわけにも行かないので、取り敢えず、ポケットにしまい込んだ。
「お兄さん、食べておいた方がええで」
今までのやり取りを見ていた、店主が声を掛けた。
鐘也のメガネ上にプロフィールが浮かんだ。
八幡寿司 店主 八幡八郎
「末広がりの八の二乗!目出度い名前だなあ」
鐘也はぼそっとつぶやいた。
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