不器用な雨宮さん
怜 一
不器用な雨宮さん
タイルに何かが落ちた音でハッとする。
「冷たっ!」
トイレの個室に入っていた私は、全身がびしょ濡れになっていた。足元にはバケツが転がっており、何者かがこれに貯めた水をドアの向こう側から浴びせてきたことが容易に想像できた。
また、あの子達か。これをやるために、一々、戻ってきたのかな?
湿った制服を絞りながら、私を虐めてくる女の子たちのことを思い出す。
私が、あの子たちのイジメの標的になった理由は分からない。ただ、一度だけ授業中に煩かったことを注意したことはあった。おそらく、それがキッカケなんだろうなと推測している。
それからというものの、帰ろうとしたら下駄箱を荒らされたていたり、朝早く学校に着いたら机に落書きがされてたり、とにかく自分たちだとバレないような陰湿な嫌がらせを仕掛けてくる。
「サイアク…」
肌に張り付いた髪を撫でる。
これから帰宅しようにも、このままの格好で電車に乗る訳にはいかない。乾くまで学校に居ようかと考えて、教室に置いてきた鞄の中に小さいハンカチをいれていることを思い出す。
何もしないよりはマシかな。
寒さに震えながらトイレから出た私は、教室へと向かった。
蛍光灯の白い光が漏れる教室の扉を開くと、窓際の席に座って分厚いノートに何かを書いている三つ編みを垂らした女の子───委員長の後ろ姿があった。
「あっ…」
い、委員長!なんでこんな時間に!
驚きのあまり、私は小さく声を漏らした。すると、その声に気がついた委員長は私の方へ振り向き、驚愕した。
「えっ!?雨宮さん、びしょ濡れじゃん!どうしたの?」
「えっ、いや。べつになにも」
言葉を濁し、ハッキリとしない態度になにかを察したのか、委員長は語気を強める。
「もしかして、またイジメられたの!こんな酷いことまでするなんてあり得ない!」
委員長はそう言って、自分の鞄の中から取り出した大きめのハンドタオルを手に持ち、駆け寄ってきた。
「よかったらこれ使って。大丈夫。汚れてないから」
「あ、ありがと」
若干戸惑いながらも、女神のような微笑みで手渡してくれたタオルをありがたく受け取り、自分の席へ座る。
タオルをよく見ると、ぬけパンが描かれていることに気がついた。
ぬけパンとは、普段は身体が真っ白なパンダだが、身体に黒い模様が浮かぶと過激な言動をするというなんとも珍妙なゆるキャラで、そのギャップがクセになるということからコアなファンを中心に人気が広まっている。
私もそのぬけパンのファンで、この高校に入学した時からぬけパンのストラップをいくつか鞄にぶら下げている。
委員長もぬけパン、好きなのかな?と隣の席に座っている委員長に分からないように視線を向ける。
委員長はノートに何かを書き込んでおり、その真剣な横顔に、私の鼓動が強く跳ねる。
委員長は、私がイジメの被害にあった時にいつも怒ってくれたり、慰めてくれたりする。それがクラス委員長の仕事なんだろうけど、それでも、優しい言葉を掛けてくれる委員長に、私は密かに好意を寄せていた。
「ねぇ。やっぱり、先生とかに伝えた方が
いいと思うんだけど」
ノートを書き終えた様子の委員長は、こちらに向き直って提案してくれた。借りたタオルで髪を拭いている私は、しかし、その提案に弱々しく異議を唱える。
「そんなに大事にしたくない…。それに、騒ぎになったらもっと酷いイジメになるかもしれないし」
実際、こんなことで目立ちたくないし、まだ我慢できるレベルなので、一ヶ月後に行われるクラス替えまで耐えれば逃げられるという勝算はあった。さらに、まだあの子たちがイジメの主犯という証拠はなく、もし間違っていたら、という可能性も否定しきれなかった。
「それは、そうだけど…」
委員長はばつが悪そうに目を伏せ、それきり会話が途切れてしまった。
吹奏楽部の拍子外れなトランペットや、男子の胡乱な怒声が遠くから轟く。気まずくなった私は、まだ夕方だというのに既に真っ暗になった寒空を窓越しに見つめる。
委員長を困らせてしまった。一体、どう返事をすればよかったんだろう。あまり会話が上手くない私には、その疑問を解決できる策は思い浮かばなかった。
「あの、委員長はなにやってたの?」
不意を突かれた委員長は、ビクッと身体を震わせ咄嗟に顔を上げる。
「えっ?私?私は、先生に提出する連絡ノートを書いてたよ」
「そういえば委員長、今日、日直だったよね。もう一人の日直は先に帰っちゃったの?」
「そうなの。塾があるからなんて言い訳して、帰りのホームルームが終わったら、みんなと一緒にすぐに帰っちゃたんだよね」
委員長の言葉に、私は引っかかった。
「ここにいたのは委員長だけだったの?」
「ええ。そうよ」
私の質問に、委員長は不思議そうな顔で頷く。
私はホームルームが終わった後、帰る人に紛れてトイレに向かった。その時、私はあの子たちの背後を歩いていたし、あの子たちが階段を降りていく姿も見た。それを踏まえた上で冷静に考えれば、あの子たちは私がトイレに入ったのを知らないはず。
私が校内にいることを知っているのは、私が自分の席に置いていた鞄を目撃している生徒だけかもしれない。つまり───
「どうしたの?顔色悪いよ?」
委員長は、私の顔を心配そうに覗き込んできた。
「…ううん。なんでもない。大丈夫」
私は、頭を軽く振って微笑んだ。
ちょっと悪い方向に妄想が膨らんでしまった。委員長は、私がトイレの個室に居たことまでは知らないはずだ。それに、今まで私を気にかけてくれて、先生にまで訴えようとしてくれている委員長を疑うなんてバカバカしいにも程がある。
一瞬でも疑ってごめんなさい。委員長。
心の中で謝っていると、委員長の両手が、私の悴んだ手を包み込んだ。
「こんなに冷たい…。ねぇ。また、誰かに虐められたら、いつでも私に相談してくれていいからね。我慢できなくなった時は、一緒に先生に言おう。それでイジメが酷くなっても、私が守るから。ね?」
私の冷えきった手から、委員長の優しい体温が伝わる。その温もりに、思わず、虐められてからずっと抱えていた疑問を吐き出した。
「なんで…。なんで、委員長は私に優しくしてくれるの?委員長のお仕事だから?」
委員長はそうじゃないよと笑った。その後、なにかを決心したような面持ちで委員長は私の目を見て、答えた。
「私、雨宮さんと友達になりたいの」
予想外の返答に、私はこれでもかというほど眼を見開く。
「私、ぬけパンが好きなんだけど、周りに理解してくれる人が居なくて、それで、ほら」
委員長が机の横に掛かってる鞄を指差す。
「それ、ぬけパンでしょ?しかも、店舗限定バージョン。ファンの中でもそれを持ってる人って少ないからさ。きっと、雨宮さんはすっごいぬけパンファンなんだろうなって思ってて、私、ずっと気になってたんだよね」
最後に、委員長はこう締め括った。
「いつ話そうかなって思ってたんだけど、なかなかタイミングが分からなくて…。イジメが許せないって気持ちもあるけど、私が雨宮さんの味方でいたい理由は、ぬけパンのことを一緒に楽しく語れる友達になりたいからだよ」
呆気に取られていた私は、カラカラになった喉からなんとか言葉を絞り出す。
「ホントに私と友達でいいの?」
委員長は屈託のない笑顔で頷いた。
「うん。雨宮さんがいいの」
+
友達になった私達は、時間の許す限りぬけパンのことについて語り合った。デザインが可愛いとか、限定グッズの噂とか、イベントで会いにいった写真を見せあったりとか。とにかく、今までのイジメなんて気にならなくなるほど、楽しい時間を過ごした。
「あっ!ヤバい!塾のこと忘れてた!」
壁に掛かっている時計を目にした委員長は、立ち上がった。
「ごめんね!私、駅まで走らなきゃいけないから!それじゃ、また明日話そうね!」
と、慌ただしく帰り支度を済ませた委員長は、教室から勢いよく出て行ってしまった。
委員長と友達になれたこと、初めてぬけパンを語り合える同志に出会えたことに、私は今までにないほどの充実感に満たされていた。
はぁ…。まさか、こんな身近にぬけパントークできる人がいるなんて。しかも、それが委員長だったなんてホント奇跡的だよ。それに、また明日も話そうねって。エヘヘッ。
珍しく陽気な気分になりながら、私も荷物をまとめていると、机の上に置いておいたぬけパンタオルを地面に落としてしまった。すぐさま拾い上げ、タオルをジッと見つめる。
これ、綺麗に洗って返さないとな。
そんなことをぼんやりと考えていた私は、無意識にタオルに顔を埋めて、思いきり深呼吸した。そして、静かに目蓋を閉じ、そしてゆっくりと開く。
柔軟剤のケミカルな匂いの中に感じる、委員長らしい素朴な香りが鼻腔を抜け、肺を満たす。
やっと、委員長と友達になれた。しかも、委員長の方から言ってくれるなんて、予想外だったなぁ。それに、タオルも貸してくれてるなんて、真冬に水を被った甲斐があった。
このまま着実に委員長と仲を縮めていけば、いつかは…。
口元を隠し目を細めた私は、悦に浸る。
ああ。私をイジメていて、本当によかった。
end
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