おっさんの俺に地球を救えったって、そりゃ無理だろ。

しろめしめじ

第1話

 星が綺麗な夜だった。

 まるで、懐メロの歌詞を彷彿させるノスタルジックなフレーズ。

 懐メロと言う言葉自体、今の若い世代にはもはや死語なのかもしれない。その語彙の意味が分かるか否かで、恐らく世代が大きく分かれるだろう。

 そんな昭和の匂いがプンプンする一節を思い浮かべながら、茂利一行は一人ほくそ笑んだ。

 誰かに話し掛けたわけでも、ましてや声に出したわけでもない。ただ脳裏に思い浮かべただけなのだが、余りにもベタなフレーズにこっぱずかしくなったのだ。

 夕食後のウォーキング。去年の春から始めてそろそろ一年になる。

 元々は妻と娘がダイエットにと始めたのだが、人間ドックで引っかかってから、茂利も一緒に歩くようになった。見た目はそれほど太っているわけでもないのにでもないのだが、肝臓がフォアグラ状態になりつつあると医師から手厳しい指摘を受けたのがきっかけだった。

 ただし、一緒にと言っても、妻と娘は常に彼の数メートル先を歩いている。

 二人とも黒っぽいパーカーにデニムを履いているせいか、家中電灯で足元を照らしていなければ、その姿は完璧に濃厚な闇の中に溶け込んでいる。

 楽しそうに会話をしながら歩く二人の後ろ姿を眺めながら、彼はその後を追うように、とぼとぼとゆっくりとした足取りで続く。

 別に並んで歩くのを彼が拒んでいるのではない。むしろ彼自身は、妻や娘と肩を並べて歩きながら、一日の出来事を互いに語りあいたいのだ。

(この距離を詰めるのに、あと何年かかるのかな)

 茂利は苦笑を浮かべた。

 やがてそれは、寂し気な吐息に取って代わる。

 一見、すぐにでも叶いそうな、ささやか過ぎる夢。でも茂利にとってそのハードルは、キリマンジャロを単独で登頂するよりも遥かに厳しい現実の箍に、がっちりと咥え込まれていた。

 理由は分かっている。娘が頑なに彼を嫌がっているのだ。

 一人娘の明里あかりは今年で二十歳になる。

 地元の国立大学に進学したのだが、急にやりたいことじゃなかったとか言い出して、半年もいかないうちに中退してしまった。娘から大学中退の相談を受けた時、茂利は憤慨し、彼女の話には一切耳を傾けず、頭ごなしに激しく叱咤した。それ以来、二人の関係はぎくしゃくしたままだったのだ。

 ただ、妻は違った。一方的に持論を明里に集中砲火した茂利とは違い、彼女は娘と正面から向き合い、じっくり話し合った後、その決断を受け入れたのだ。

 よって、母親との関係は良好で、それ故、大学中退後も明里は気兼ねなく家に居場所を得る事が出来たのだ。

 どちらかと言うと、家に居づらいのは、むしろ彼の方だった。昨年の春、単身赴任からか解放され、再び家族揃って生活出来る喜ばしい環境になったはずなのだが、現実はそうではなかった。

 六年間の単身赴任の間に、彼の居場所は無くなっていた。一日の生活のリズムが、妻と娘中心の生活になっていたのだ。

 家に戻った彼が、久し振りの家族の団欒を堪能したのは、ほんの何日も無かった。

彼が家に戻ったことで、長年続いていた生活パターンが崩れ、そのストレスが溜まったのか、妻と娘が日に日に苛立ちを見せ始めたのだ。

 悲しい現実だった。一家の主の帰宅は、妻にとっては余計な面倒を見なければならないお荷物が増えたに過ぎなかったのである。

 だが、茂利の存在を貶めた原因は、他にもあった。

 今回の異動に伴って彼の地位が降格したことも、家族とのぎくしゃくした関係を生み出している要因の一つなのかもしれなかった。単身赴任先の上司と折り合いが合わず、たえず衝突した結果が、彼の人事異動に大きく影響を与えているに違いなかった。

 異動が決まった時、当然その旨も家族には伝えている。その時は、それでも帰ってこれたのだから良かったのではと、失望する彼を慰めてくれた妻だった。が、次月の給与明細を見た時、彼女は非情な現実を垣間見ることになったのだ。

 彼が居場所を無くしたのは、家庭だけではなかった。

 会社で彼を待ち受けていたのは、更に地獄だった。

 主任という名ばかりの役職名を与えられ、自分よりも一回り以上若い上司に罵倒されながら苦手なパソコンのキーを叩く毎日は、茂利にとって苦痛以外の何物でもなかった。

(会社は、俺をやめさせようとしているのか)

(俺は只のお荷物なのか)

 打ちのめられ、喘ぎながらも、家族を養う為には現実に食い下がっていかなければならず、それでいて割り切れない自分自身の弱さに苛立ちすら覚えながら、蓄積するストレスに悶絶する刹那の時を刻んでいた。

 不意に、彼は目頭が熱くなるのを覚えた。右手の親指と人差し指で瞼をそっと押さえる。

 涙が止まらなかった。

 日々、喪失していくモチベーションと消失していく人間性に、彼は自身の感情をコントロールするのが困難になりつつあった。それこそ、「生きがい」という観念も、彼の思考の中ではもはや痕跡すら残っていない死語となっていた。

 自分は壊れかけているのだ――彼は、そう実感していた。

 以前の、未だ若い頃の彼なら、どんな逆境もポジティブに気持ちを切り替えて立ち向かう精神力を持ち合わせていた。ある意味能天気な思考の持ち主のはずだった。

(希望と活力に満ちた「俺」は、いったいどこへ行ってしまったのだろう)

 茂利は苦悶に顔を歪ませながら、大きな吐息をつくと、徐に夜空を見上げた。

 今宵は新月。

 月明かりの無い漆黒の夜空に輝く無数の星が、静かに煌めいている。農地の広がる郊外故の特典だった。広がる水田の所々に集落の集まる様は、広大な海に浮かぶ小島のようにも見える。外灯や家々の明かりが水田や農地に寸断された結果、圧倒的に濃厚な闇が夜を支配している。それ故、尚更星の明かりが映える環境に恵まれているのだ。これが都会ならば、此処まで綺麗には見えないだろう。

(出来るならば)

(俺も、夜空に瞬く星の一つになりたい)

 茂利は、まるで神に救いを求めるかのように、すがる思いで一際輝く星を見つめた。

 北極星。シリウス。死を司る異国の神の名を冠する星。その白く輝く星の冷たい光は、実際には途轍もない高温を放出しているのだろうけれど、彼の心には氷の刃となって容赦無く突き刺さっていた。

 何もかもが、虚しかった。

 何もかもが、切なかった。

 もし、未確認飛行物体が彼の前に現れ、連れ去ろうとしても、恐らく何の抵抗もせずにその身を委ねるだろう。例え実験台として身を刻まれる結果となったとしても。

 不意に、前を歩く妻と娘のペースが早くなる。

(そんなに俺と歩くのが嫌なのか)

 茂利は悲しそうに目を伏せると、項垂れながら歩みを進めた。

 そんな彼を更に振り切ろうとするかのように、二人は歩くどころか駆け足に近い足のストロークを繰り返しながら、ぐいぐいと道を進んでいく。

 彼は走り出した。歩いている時と違い、風が頬を優しく撫でていく。

 意地だった。

 追いつけば、露骨に煙箍れるのは目に見えている。

 とは言え、このままじゃいつまで経っても距離が縮まらないままだ。

 様々な憶測と心の葛藤に苛まれながらも、彼は行動に出たのだった。

 妻と娘は、街灯のある十字路で立ち止まると、体をくの時に折り曲げて苦しそうな呼吸を繰り返した。そこ茂利がふうふうと息を荒げながら追いつく。

「お父さん、大丈夫?」

 意外にも、妻が苦し気な呼吸を繰り返しながらも心配そうな表情で茂利に声を掛けた。

「あ、ああ」

 茂利は乱れた呼吸を整えながら妻に答えた。生き絶え絶えになりながらも走って追いかけてきた彼を心配したのか、妻は神妙な面持ちで彼を凝視している。

 久し振りに走った彼の膝は悲鳴を上げていたが、妻が自分の事を心配してくれたのだと思うと喜びはひとしおだった。

「あれ、何だったんだろう」

娘が、帯びた眼付きで彼の背後を見つめた。

「あれって?」

茂利は訝し気に振り返った。

 何もない。

ただ、タールの様な漆黒の闇が広がっているだけだ。

「お父さん、気がつかなかったの?」

妻は呆れた顔でそう溢すと、深々と溜息をついた。

「これよ、これ」

 娘が、彼の眼前にスマホをぬううっと突き出した。

 動画の様だが、真っ暗な画面のど真ん中に、不思議な光の玉が浮かんでいた。

 最初、真っ赤に輝いていたのが青になり、次に紫になったかと思うと緑になる。 妙な規則性に従いながら、光の玉は目まぐるしく色を変化させていく。

「何だこれ……」

 彼は食い入るようにスマホの画面を睨みつけた。

「スマホの明かりか? それは無いな。俺、スマホは触っていないし」

「お父さんじゃないよ。これ、お父さんの後ろにいたもの」

 娘が眉毛を吊り上げながら口を尖らかせる。

「じゃあ、誰か俺の後ろを歩いていたんじゃないのか。それって、きっとそいつのスマホの明かりだろ?」

 彼は苦笑を浮かべた。二人が突然走り出したのは、決して彼との距離を置く為ではなかったのだ。ほっとしたものの、結果的には二人から見捨てられたわけだから、到底素直には喜べない。

「人影は見えなかった。この変な光だけがふわふわ浮いている感じに見えたんだけど」

「まさか、空飛ぶ円盤だったりして」

 妻が不安そうに闇に包まれた水田の中の一本道を見つめた。

 茂利は妻が口走った空飛ぶ円盤という何となくレトロな表現に目を細めた。 

「今日はもう帰ろうよ」

 怯えた素振りで周囲を見回す娘に賛同し、三人は家に向かって歩き始めた。流石に同じ道ではなく、街灯が立ち並ぶ住宅街を抜ける道を選ぶ。 

茂利はゆっくりと天を仰いだ。

もしも本当にUFOだとして、自分をさらおうとしてたのなら、自分にとって最大のチャンスだったのかもしれない。

(惜しいことをした)

 人知れず吐息をつく彼の口元に、寂しげな笑みが浮かんだ。






「茂利さん、こんな簡単な書類を作るのに、いったい何時間かかっているんですかっ!」

 黒縁眼鏡の向こうから、ぎょろりとした魚眼もどきが茂利を睨みつける。上司の佐多は彼よりも一回り若いが既に課長のポストについており、営業部でも生え抜きの逸材と言われた男で、先の見えた彼とは真逆の存在だった。

「直ちにやり直してください。文章も滅茶苦茶で校正する気にもなれない」

 佐多は口から泡を飛ばしながら、書類を乱暴に投げ捨てた。小顔だが、目や鼻、口といったパーツが異様にでかく、陰では「カバオ」と呼ばれているのだが当の本人は知る由もない。

「申し訳ありません」

 茂利は軽く頭を下げると、床に散らばった書類を拾い集めた。

「高い給料払っているんですからね。あなたの部下の方がきちんと書類をしあげてきますよっ! ちゃんとやってくださいっ! 誤字脱字も多いし、あなたは全く信用出来ない……」

 不意に鳴り響く電話が、エンドレスに続くカバオの苦言を制止した。

「はい、営業一課の佐多です」

 不機嫌な口調で受話器を取った彼の顔色が変わった。

「あ、はい。茂利ですか? 彼ならおりますけど……分かりました。直ちに向かわせます」

 佐多は受話器を静かに戻すと、苦悶の表情を浮かべながら大きく吐息をを突いた。

「茂利主任、いったい何をしでかしたんですか?」

「え? 私は何も……」

「支店長がお呼びです。書類は後でいいですから、今すぐ支店長室に向かってください」

「えっ?」

「早く行けっ!」

 カバオは額に青筋を浮きだたせながら、彼を激しく罵った。もし茂利が何かしらの失態を犯したのなら、間違いなく彼にもそのお咎めが来る。彼はそれを恐れているのだ。

茂利はカバオに一礼すると、背中を丸めながら自分の席へと向かった。

部下達は複雑な表情を浮かべながら、さっと顔を伏せる。ただ同期で隣の部の係長の長澤だけは、心配そうな表情で彼を見つめていた。

 ここに舞い戻って来た時、彼が茂利にこっそり教えてくれたことがある。

 茂利が前に所属していた支店の上司とカバオは、同期で非常に仲が良いらしいから油断するなよと。油断こそしたつもりはなかったが、待遇は長澤の予想通りだった。  

 普段の接し方は勿論、同じ失敗をしても茂利にとる態度は露骨に見下し愚弄するといったえげつないもので、それらの暴言は彼の部下の前でも日常的に繰り返され、挙句の果てには様々な情報や指示事項までもが彼を飛び越して部下に伝える始末だった。

 但し、彼自身ミスが多いのは事実だった。最初の失敗を挽回しようと焦る余りに、その後の業務が空回りし、更に彼を負の連鎖へと追い込んでいたのだ。彼に不備があるとはいえ、佐多の取った行為は明らかにパワハラである。だがそれを逆手に面と向かって訴える決断を鈍らせている理由が彼にはあった。

 上司といざこざを起こせば、また何処かへ異動させられてしまう。今回はたまたま自宅から通勤圏内の事業所に異動になったから、降格したとはいえ、まだ割り切れるものがあったものの、今度は何処に飛ばされるか分かったものではない。

 ぎくしゃくしているとは言え、漸く家族が一つ屋根の下で暮らす事が出来たのだ。例え、家族には煙たがられているとしても、今の環境を早々に崩すのはどうしても避けたいところだった。

 彼は机上に書類を無造作に置くと、吐息を残して支店長室へと向かった。

(何をやらかしてしまったのだろうか)

 彼は眉間に皺を寄せながら、記憶の引き出しを次々にひっくり返してみる。が、記憶の事例を一つ残らず検索したものの、該当する致命的な失態は全くヒットしなかった。

 記憶にも残っていない、自分自身が気付いていない何かが、支店長の気に沿わぬ不具合を発動させてしまったのだろうか。

 その何かが思いだせないのは、彼にとってまさに致命的であると言えた。何しろ、釈明のしようもないのだから。

 漸く支店長室の前に辿りついた彼は、徐に立ち止まると大きく深呼吸を繰り返した。

(ここまできたら、なるようになれだ)

 茂利はドアを軽くノックすると、静かにドアを開けた。

「失礼しますっ! 」

 彼は深々と一礼をすると、恐る恐る顔を上げた。

 正面の席から渋面で彼を見据える支店長の顔を想像していたのだが、意外にも

それとは正反対の満面の笑みを丸顔いっぱいに浮かべながら彼を見つめていた。

 それも、彼と目と鼻の先の応接席から彼を見上げていたのだ。額が後頭部まで広がりながらも、かろうじて生息する絶滅危惧の頭髪は、窓から差し込む陽光を受けて、銀色の光沢を放っている

 支店長の芦田は彼の大学時代の先輩で、今回の異動についてもかなり気をまわしてくれたらしい。当然、本人から聞いた訳ではなく、周囲の者の憶測でもあったりする訳だが、何かしら配慮してくれたのは間違いないと思われた。

 芦田は人事に関してはその温厚な風貌からは想像がつかない程ドラスティックで有名なのだが、茂利に対しては掌を反したように慈悲を見せたのが佐多にとっては面白くなかったらしく、それ故、佐多が彼にきつく当たるのではないかと推論を最もらしく語る者もいる。

「おう、来たか」

 芦田は手招きすると、彼に隣の席に着くよう促した。

 その対面に、黒いパンツスーツ姿の女性が座っている。年は二十代半ばか。ショートヘアーに、見つめられれば吸い込まれそうになる大きな瞳、高過ぎず低すぎずといったバランスのとれた鼻、口元に笑みを湛えた薄い唇。

 利発そうな顔立ちから察するに、得意先の営業担当なのだろうか。

 それにしても支店長に直接商談を持ち込むことはないと思うのだが。

「茂利主任、この方はジャクサの暮亜さんだ」

「ジャクサで宇宙食開発を担当している暮亜です」

 彼女は茂利にそっと名刺を差し出した。

「営業一課の茂利です」

 茂利は慌てて名刺を取り出すと暮亜と名刺を交換した。ちらりと彼女の肩書を確認すると、宇宙食開発部チーフマネージャーとなっている。見た目は若いが生え抜きのエリートなのだ。

「茂利主任、以前君が商品開発に携わっていた時、ジャクサ主催のコンペで宇宙食を出展したことがあったろ?」

「はい、でもあの時は端にも棒にも引っかからなくて……」

「それが、つい最近、過去のレシピを確認していたら、茂利さんの提案レシピが目に留まりまして、開発チームの中でも高い評価得たんです。そこで急な話で申し訳ないのですが、是非ジャクサと共同で開発を進めさせて頂きたく、無理を承知でお願いに上がった次第です」

「えっ?」

 茂利は思わず身を乗り出した。淡々と語る暮亜の依頼は余りにも突拍子が無く、謝罪モードで入室した彼の思考には即対応するだけの余裕を持ち合わせてはいなかった。

「茂利主任、悪い話じゃないだろ? 君さえよければ明日からでも出向という形で赴任してもらいたい」

「よろしくお願いします」

「は、はあ」

 二人の勢いに圧倒されて、茂利は呆然としたまま頷いた。

「佐多課長には話しておくから、直に今の仕事の引継ぎを開始してくれ」

「え、これからですか?」

「ああ、これからだ」

 戸惑う茂利に、芦田は温和な笑みを浮かべながら容赦無く言い切った。






「何が何だか……訳が分かりませんよっ!」

 佐多はただでさえ大きな眼を魚の様にぎょろりと引ん剝くと、ヒステリックに口から泡を飛ばした。

「そういう事なんで、早急に業務の引継ぎをさせてもらいます。と言っても、課長が普段からおっしゃられている通り、私以外はみんな優秀ですからその必要もないですよね」

 茂利は、忌々し気に睨みつける佐多に一礼すると席に戻った。

 するとそれを待ち構えていたかのように、長澤がにまにま笑いながら近づいて来る。

「聞いたぞ茂利、あのジャクサに引き抜かれたって?」

「ヘッドハンティングじゃないよ。出向さ」

 茂利は歓喜に高ぶる気持ちを抑えながら、平静を装い長澤に答えた。

「いやいや、そう言いながらもそのまま引き抜かれるパターンだな」

「まさかね」

「ないとは言えないだろ?」

「まあな。でも余り期待しないようにはしているよ」

 長澤の言葉に、茂利の口元が思わず緩む。

「いやいや、大いに期待しろよ。思いもよらぬ逆転人生だな、ま、頑張れよ」

 背後から突き刺すような佐多の視線を感じてか、長澤は彼の耳元でそう囁くとそそくさと自分の席に戻った。

 茂利は部下達を集めると、手短にジャクサ出向の話を伝え、引き継ぎ書を手渡した。驚きや称賛の声が上がってもよさそうなのだが、茂利の急な人事異動で不機嫌な佐多の顔色を気にしてか、白々しい程反応が無い。

「悪いが、今から目を通して質問があれば言ってくれ」

 茂利の言葉に顔をしかめながらも、部下達は渋々引き継ぎ書に目を通した。

 さらさらっと資料に目を通し始めた部下達が、次々に羨望と驚嘆の入り混じった表情で茂利を見た。

 日頃、佐多に罵られ続けている茂利に同情しながらも、繰り返し耳に入るその暴言に洗脳されたのか、何となく彼を蔑み見ていた部下達だった。

 だが手渡された引き継ぎ書は意外にもしっかりとした内容で、彼らは幾度も文面を目で追ったが、質問ワードは微塵も思いつけなかったのだ。

 彼にしてはすこぶる用意周到だったが、これには裏があり、度重なる佐多のパワハラに耐えかねて、密かに早期退職を決意し、引き継ぎ書を早々にまとめ上げていたのだ。その上、自分の業務についても極秘裏に部下達に分散移行していたのである。結局、妻の猛反対もあって実現には至らなかったが、こんな形でも活用出来たのは彼にとって幸いだった。

 極秘に退社準備を進めていたのは引継ぎだけでなく書類や備品の整理もすでにあらかた終えていたため、昼の休憩前には全て完了していた。

 綺麗に片付けられた机を満足げに見渡していると、胸ポケットのスマホが着信を告げる。

「はい、茂利ですが」

「ジャクサの暮亜です。先程はありがとうございました。準備は進んでいますか?」

「はい、もう何時でも御社に伺えます」

「良かった。じゃあ、今からこれますか?」

「今から?」

「御社の前で待っています。支店長の許可は頂いています。食事をとられてからで結構ですよ。では、また」

 茂利の返事を待つ事無く、暮亜は一方的に通話を絶った。

(とんでもなく急展開な話だな)

 送別会も挨拶も無しの異動とは前代未聞の急人事だ。まあ、彼自身、上司や部下との関係もぎくしゃくしていたし、ましてやカバオにお世話になりましたなんて頭を下げたくなかったので都合は良かったのかもしれない。

 ちらりと佐多の様子を伺う。

 佐多は些細なことで部下の若手社員に声を荒げながら怒鳴り散らしている。機嫌の悪さはMAXだ。

(もう一仕事必要だな)

茂利はシャットダウンしたパソコンを再び立ち上げると、キーを叩き始めた。





「お待ちしていました」

来客用駐車場の傍らに止められた白い高級車の傍らに、暮亜が、にこやかな笑顔でたたずんでいた。

「お待たせしました。だいぶお待ちになりました?」

「いえ、大丈夫ですよ。さあ、参りましょうか」

 暮亜が後部のドアを開け、彼に乗車を進めた。

 茂利は会釈をすると、緊張した面持ちで車に乗り込む。

(いったい、何を急いでいるのだろうか)

 時間が経つにすれ、茂利の脳裏にむくむくと疑念が込み上げてくる。共同開発の依頼だとは言え、その日のうちに出向決定だけでなく、赴任までする羽目になるとは、明らかに常軌を逸している。

 支店長も実際一緒に面談して承諾しているというものの、本来なら本社の人事部との手続きを得た上でになるはずだ。

 それに、宇宙食の開発そのものをジャクサで取り組むのも不可解だった。ジャクサで開発を進めるのなら、以前出展したようなコンペなどしないはずだ。

 方向性が変ったのだろうか。

(本当にジャクサに向かっているのか? まさか誘拐? そんなわけない。俺なんか誘拐しても特に重要人物って訳ではないから、何の得にもならないはずだ)

「茂利さんは宇宙に興味がありますか?」

 茂利の邪推を断ち切るかのように、暮亜が明るい声で話し掛けてくる。

「ええ、まあ……星を見るのは好きですね」

「天体観測ですか?」

「いえ、夜に散歩しながら星空を眺める程度です」

 茂利は照れ笑いを浮かべながら答えた。と、同時に、ふと脳裏を浮かべた企業誘拐説は愚考である事に気付く。誘拐するなら、若い女性一人で迎えに来るはずがない。

 武道経験はないとはいえ、成人男性一人を拉致するには役者不足だ。

 不意に気が軽くなった茂利は、シートに深く身を沈めた。

 彼女とたわいのない会話を繰り返しているうちに、車は現状な警備に守られた施設に到着した。

 ジャクサだ。

 紛れもなく、本物のジャクサ。

 疑いはもはや脳裏から消え失せていたとはいえ、これで誘拐説は間違いだったことが確実となった。

 車から降りた邦松は、彼女の案内で建物の奥へと案内された。

「こちらです」

 暮亜は、会議室と明示されたドアの前に立つと、ドアを軽くノックし、入室した。

いよいよか。

 彼女の上司に紹介されるのだ。とんでもない急展開だったが、茂利は逆転人生の始まりに浮き足立った気分で彼女の後を追った。

 こみ上げてくる緊張に、自然と表情が強張る。

「失礼いたします」

 一礼して入室する。が、予想に反してそこには誰もいなかった。対面式の机が並んでおり、恐らくは二十~三十名は着席できる背もたれ付きの豪奢な椅子が並んでいる。恐らくは首脳陣が何かしら重要な議案について議論する場なのだろうが、室内の空気はひんやりと冷たく澄んでおり、人がいた形跡すらなかった。

「どうぞ、こちらへ」

 暮亜は会議室の奥へ進むと、壁に手を翳した。

 静かな駆動音と共に、壁が静かに開く。

(隠し扉だあ? 何なんだよいったい。それだけ重要なプロジェクトって事なのか?)

 訝しげに思いながらも、茂利はもはや後に引く選択肢は残されていなかった。

「失礼いたします」

 茂利は一礼すると、ゆっくりと顔を上げ、絶句した。

 目に飛び込んできたのは、テレビで見たことのある顔ぶれだったのだ。

 正面には、総理大臣の川辺玄蔵、右隣には官房長官の曾根田伊知郎、左隣には国防 相の榎村美和子の三人の重鎮が控え、更には防衛庁長官と側近含むその他もろもろが彼を一斉に見つめていた。

「茂利さんですね、急で申し訳ない。まずは席について下さい」

 川辺が物静かな口調で語ると、邦松に着席するように促した。

「あ、ありがとうございます」

 茂利は緊張の余り、機械仕掛けの人形のようなぎくしゃくした動きで席に着いた。

(いったい何が始まろうとしているのか)

 茂利の心臓は拍動を顔全体で感じていた。それはさながら脳内に心臓が移転したかのような、今までに経験したことのない異常な感覚だった。

「茂利さん、今回御呼びだてしたのは他でもない。我々からどうしても引き受けていただきたいお願いがあるのです」

 川辺が眉間に皺を寄せながら、重苦しい口調で静かに語り始めた。

 その姿は一見落ち着き払ってはいるものの、目は苦悶の色を湛え、これから告げるだろう言葉の内容に、茂利は得体の知れない戦慄を覚えていた。自由奔放な夫人の行動に国会答弁で野党から追及を受けた時も、此処まで苦し気な表情は浮かべた姿は見たことが無い。

 とはいえ、あくまでもテレビで見る限りの情報しか茂利も知る由が無い分けで、単に彼の思い込みでしかないと言えばそれまでだ。

「どういったご用件でしょうか」

 茂利は凍てついた唇を無理矢理引き剥がしながら、対峙する総理に問い掛ける。

(まさか、テロ組織への潜入捜査をやれとかいうのでは――ありえない。おれは民間人だ。決してそれは有り得ない)

「君に、地球を救ってもらいたい」

「えっ?」

 茂利は椅子から飛び上がった。それは余りにも彼の詮索していた枠を超えたエキセントリックな台詞だった。

「地球を、救えって?」

 茂利の喉がごくりとなった。聞き間違いだ。間違いなく聞き間違いなのだ。彼の思考が導き出した答えは、それ以外の言葉を選択する余地は無かった。

「実は今、地球は史上最悪の状況に面している。信じられないかもしれないが、地球外生命体による地球侵略の危機に面しているのです」

「宇宙人……」

「そう。NASA情報では我々の科学を遥かに凌ぐ生命体が、メッセージを発信してきたらしい。直ちに降伏し、地球の全権を譲れとね」

川辺は大きく吐息をついた。

「だが、彼らは条件を一つ提示してきた」

「条件、ですか?」

「ああ。奴らの要望は、稀に見る美しい惑星である地球を、出来る限り無傷で手に入れたいとのことだ。戦争ともなれば、我々も最大限の防衛手段をとることになる。勿論、核の使用は不可欠だろう。敵への効果は未知数だが、我々サイドの被害の方が遥かに上回るのは想定できる。そこで、彼らは最もお互いにロスが少ない方法で決着をつけないかと提案してきた。その方法というのが、一対一での対決。彼らの代表一名と地球側の代表一名で行うものとする。勝敗は、どちらかが倒れるまで。しかも

その人選は彼らに決定権があり、我々はそれを呑むしかなかった」

「まさか、私に?」

「そのまさかなんだ」

 川辺の言葉が、重く茂利に伸し掛かる。

「何故? 民間人の、それも武道経験ゼロの私なんかが……」

「全ては 彼らが一方的に提案してきた絶対条件だ。不本意だが、これに従わなければ、地球の環境温存は度外視で一気に我々を滅亡させるつもりらしい」

「そんな。相手は地球より遥かに科学の進んだ連中なんですよね? 私に死ねというんですか。太刀打ちなんか出来る訳がないでしょう」

 茂利は顔を真っ赤にして涙ぐみながら川辺を見据えると、眉間に青筋を立てながら必死に抗議した。

「大丈夫だ」

「何が大丈夫なんですか」

「彼らは君にハンディを与えてくれた」

「ハンディ?」

「ああ。専門家によると、我々は知力・体力共に、実に本来あるべき能力の三十パーセントしか活用していないそうだ。彼らはそれを百パーセント…否、それ以上に活用できるよう、遺伝子のリミッターを解除する施術を君に施している。彼らはそれを『魔法』と呼んでいるそうだ」

「そんな、身に覚えがない……」

「最近、何か不思議なことはありませんでしたか? 突然強い光を見たとか」

 不意に暮亜が茂利に問いかけた。

「強い光? あっ!」

(あった。あの時だ。夜のウォーキング中に、妻と娘が俺の背後から光の玉が近づいてきたと言っていた――あれが、そうなのか)

「身に覚えがあるようだね」

 川辺が微笑みながら頷いた。

「戦闘開始は明日の十時。場所は奴らが指定してくる。奴らとのコンタクトは暮亜に一任している。詳しくは、彼女に聞いてみてくれ。それと、報酬だが、見事勝利した場合には、日本政府からは百億、その他各国からも報奨金が出ることになっている。恐らく、総額で一兆円は下らないだろう。しかも所得税は掛からない。例え、最悪負けたとしても、君の家族が悠々自適に暮らしていける補償を用意するつもりだ」

「一兆……」

 邦松は色めきだった。勝てば一兆――否、それ以上の報奨金を手に入れる事が出来るかもしれない。戦いに敗れても、恐らく今加入している生命保険以上の遺族補償がつくということだ。だが、奴らの占領下に陥った場合、家族の――それどころか人類の存亡に関わってくるのだ。

 こうなれば、ハンディで付加された能力を信じ、全力を尽くすしかない。

「分かりました。全人類の命運を我が手で死守致します」

 茂利はぎらぎらと燃え滾る眼で熱く語った。

「ありがとう。よろしく頼みます」

 川辺は席から立ち上がると深々と頭を下げた。他の重鎮達も起立すると、首相に習い、深々と頭を下げた。

 茂利は慌てて立ち上がると、同様に深々と礼をする。

「茂利さん、我々これで退席です。参りましょう」

 暮亜に声を掛けられ、茂利は再び席を立った。

「それでは、失礼致します」

 彼は深々と一礼すると暮亜と共に部屋を後にした。政府高官達は彼が了承したことで安堵したのか、入室時より幾分か緊張感に緩みが生じたように見えた。

「茂利さん、早速ですが明日からの件で打ち合わせをしたいと思います。別の部屋を用意していますから、ついて来てください」

 颯爽と歩く暮亜の後を追う。

 最初に入った会議室を抜け、通路に出ると今度はこじんまりとした一室に通された。中には机と複数のモニターが並んでいる。

「ここは?」

「私の仕事場です。小さな部屋ですが、セキュリティは万全です」

「宇宙食の開発室ではないのですか?」

「開発室は別にあります。私も一応は席を置いています」

「一応? 」

「話しておきますね。私の本来の在籍は公安なんです。今回の様な事態に対応するために、ジャクサに出向しているんです」

 茂利を直視する暮亜の目に、偽りの色は無かった。

「じゃあ、宇宙食の話はフェイクなんですね」

「個人的には興味有です。茂利さんがプレゼンされたレシピは絶品です。あの味はなかなか出せない」

 暮亜や優しく微笑んだ。それは茂利への気遣いかもしれないが、彼はそれだけで満足だった。

 大変な役を仰せつかったのだが、あのまま元の職場で働き続けていたら、精神的に病んで離脱するのも時間の問題だった。それこそ自ら人生の終末を迎えることを望んでいたくらいだ。

 そう考えれば、死ぬことは怖くない。

 死を迎えるにしろ、恐らく痛みを感じる間もないままに事は終わるだろう。

「敵はどんな姿をしているのですか?」

「今掴んでいる情報では、相手もヒューマノイドです。見た目は地球人と変わらない。侵略者も同様ですが、こちらは見た目は異なるようです」

 茂利は眉を顰めた。暮亜の台詞に妙な違和感を覚えたのだ。

「ちょっと待ってください。戦う相手と侵略者は違うのですか?」

「ええ。戦う相手は、また別の惑星の種族らしいです」

「何故?」

「真意は分からないです。なんせ、全ての主導権は敵が握っていますので」

 暮亜は困った表情を浮かべると、申し訳なさげに答えた。

「戦いに長けた星人をスカウトしたのか?」

「かもしれません」

「どうやって戦ったらいい? 銃とか、もっと未来的な……レーザー銃とかは無いの?」

 茂利は苛立った口調で暮亜に詰め寄った。立場上、彼女には敬語を使っていたのだが、焦燥の余りに我を忘れたのか、いつの間にかため口に変わっていた。

「武器は我々からはお渡しできません。それについては相手もそうです。あくまでも思考力と創造力と体力を駆使して戦うのです」

 悪い冗談の様な話だが、暮亜の目は少しも笑ってはおらず、真顔で茂利を見つめている。

「徒手空拳ってやつか」

「いえ、もっと破壊力を秘めた武装も可能です」

 茂利は首を傾げ、怪訝な表情を浮かべた。

 彼女の言っていることが全く理解できないのだ。

「武器を持てないのに武装出来る? よく分からない」

「明日になれば分かります」

 戸惑う茂利の追及を遮るかのように、暮亜は強気な口調でぴしゃりと言い放った。






「行って来ます」

 茂利がいつものように玄関を出ると、部屋の奥から妻が見送る声が聞こえた。

「行ってらっしゃい」

 それは、彼がこの家に戻って来て、久し振りに耳にした妻の台詞だった。

 ドアを後ろ手で閉める。かちゃりという聞きなれた軽い金属音が、いつもよりも乾いた響きで彼の耳に届いていた。

「さて、いよいよだ」

 茂利はぽつりと呟いた。

 昨夜、茂利家は大騒ぎだった。

 ジャクサへの出向を妻と娘に伝えた途端、二人が茂利を見る目ががらりと変貌した。野菜炒めの予定だった晩御飯は霜降りの焼肉に代わり、いつもの発泡酒は生ビールに進化していた。

 勿論、地球の運命を掛けて異星人とバトルなんて二人には一言も言ってない。

 言える訳が無かった。言ったところでまず鼻先で笑われるのが落ちだった。

 久し振りのご馳走と家族の笑顔を堪能し、彼は最高によき家族の団欒を楽しん

だのだ。

(最後の晩餐、か)

 昨夜の夢の様なひと時を思い浮かべながら、茂利は道までのエントランスを一歩一歩踏みしめた。負けたとしても、あと十年残っているこの家のローンも、恐らくは楽に返せるくらいの見舞金は入るだろう。

 不意に、一台の黒い乗用車が茂利の目の前で停車した。

 運転席からダークスーツ姿の男性が姿を見せる。長身で長髪の青年で、一見スリムだが、マッスルボディを彷彿させる隆起した胸板の厚さはスーツでは隠し通せない。

 恐らくは何かしらの武道経験者の様だ。

 只者ではない体格ではあるものの、少年の様な童顔からは、その遍歴はうかがい知れず、茂利の只の憶測に過ぎないのかもしれない。

「お迎えに上がりました。こちらにお乗りください」

 爽やかな笑みを浮かべながら、彼は後部座席のドアを開けた。

 暮亜の姿はない。

 茂利は察した。彼はきっと彼女の部下なのだろう。恐らく、本職の方の。 

「あ、ありがとう」

 彼は背中を丸めながら遠慮がちに車に乗り込んだ。

 ふと、リビングのカーテンの向こうに人影が見える。妻と娘がこちらを盗み見ているようだ。

 迎えが彼でよかった。もし暮亜が迎えに来ていたら、百パーセントありえないとはいえ、よからぬ疑念を抱くこと間違いなしだ。

 彼はカーテン越しの視線に気付かぬ振りをしなから、そっと安堵の吐息をついた。

 車は静かに走り始める。

 流れゆく見慣れた車窓の風景を、しっかりと目に焼き付ける。

 ひょっとしたら、この風景を見るのもこれが最後かもしれないのだ。

 車はしばらく幹線道路を走っていたが、不意に脇道にそれ、気が付けば河川敷

へと進んでいた。

(ここが、戦いの場所か)

 成程だった。ここなら周囲に迷惑を掛けずにバトルできそうだ。たとえ秒殺されたとしても、血飛沫で他の人に迷惑をかけることはないだろう。それに、人間と異形のもの――異星人とのバトルなら、誰かに見られても特撮のロケぐらいにしか思われないだろう。

 川に掛かる架橋の下で、車は徐に停止した。見ると、すぐそばに黒いミニバンが停車している。

(ひょっとして、対戦相手はあの中にいるのか?)

 茂利は目を凝らしてミニバンのリアウインドウを凝視した。が、濃いスモークガラスの為、車内の状況がよく見えない。

「茂利さん」

「はい?」

 運転手に声を掛けられ、茂利は慌てて振り向いた。

 刹那、ガスの噴出音と共に視界が真っ白になる。

 茂利の視界の片隅にハンカチを口で押えながらスプレー缶を握りしめた運転手の姿が映っていた。

「ぐえほっ」

(何が起きた?)

 茂利は動揺しながら激しく咳き込んだ。

 運転席側のドアが開閉する。運転手は車外に逃れたらしい。

 急速に意識が混沌とし始める。

 目に映るものが極度の乱視になったかのように二重三重の輪郭を描き、耐え難い睡魔が思考を強制的にシャットダウンしていく。

 エノキダケのような密集した無数の白い手が意識に憑りつき、暗黒の深淵へと引きずり込もうとしている。幻影なのか、それとも混濁した思考が苦し紛れに描いた睡魔のイメージなのか。それは現実と相違ない位、恐ろしく鮮明に意識の断片に映し出されていた。

(まさか、もう戦は始まっているのか?)

(さっきの青年は、実は対戦相手で、油断している俺に先制攻撃を仕掛けてきたのか?)

(吹っ掛けられたガスは、ひょっとしたら神経毒か何か……か)

 茂利の視界は、完璧にフェイドアウトしていた。

 あっけない幕切れだった。

 ゴングが鳴るよりも早く勝負がついてしまった。

 否、知らないうちにゴングは鳴っていたのかもしれない。

(情けない。これで、人類の……地球の敗退確定かよ。未来永劫、語り告げられるのだろうな。地球人はスプレー缶一本で敗北したって)

 車のドアを開閉する音が響く。この車じゃない。恐らく隣に停車しているミニバンだ。しゃりしゃりという砂を踏みつぶす足音が複数響く。

 外に、何名か人がいるのは確かだ。否、果たして人なのかどうか。

 茂利は恐る恐る目を開けた。

 人だ。ダークスーツ姿の屈強な男の姿が四人。うち一人はさっきの運転手。こちらを見ながら何やら話をしている。

(敵は一人じゃない? ルール違反だろ)

 奴らの会話に耳を傾ける。

 日本語じゃない。と言っても聞いたことのない言語じゃない。何を言っているのかは分からないが、イントネーションに聞き覚えがある。

 間違いなく、地球上の言語。

 ということは、奴らは異星人じゃない。

(どういう事だ? ますます訳が分かんねえぞ?)

 茂利は訝し気に男達を見据えた。

 彼の動向に気付いた男の一人が、驚愕に表情を強張らせながら、茂利を指さすと、運転手の青年に激しく捲し立てた。

(あいつ、何を怒っているんだ?)

 茂利にはさっぱり分からなかった。

 青年は、捲し立てた男にぶっきらぼうに言い返しながら茂利を見た。

 彼の頬が硬直する。慌ててドアを開けると、再び手にしたスプレーからガスを噴射した。しかも、さっきとは比べ物にならない程長く。

 車内はもうもうと白いミストに満たされ、茂利の視界は再び白一色に覆われた。

(妙だ……)

 彼は首を傾げた。

 さっきまで彼を執拗に襲撃していた睡魔と虚脱感は何故か完璧に失せていた。そればかりか、追加のスプレー攻撃を受けたにもかかわらず、彼は平然としていたのだ。

(こいつら何者なんだ? 俺をどうしようとしているのか)

 茂利は意を決すると、ドアを開け、車外に出た。

 男達は、まるでゾンビでも見るような畏怖と驚愕の入り混じった表情で、彼を凝視した。

「俺をどうするつもりだ?」

 男達は答えず、一斉に銃口を彼に向けた。

 抵抗せずに、言う事を聞け――それが、奴らの答えの様だった。

「わ、待てっ! 抵抗しないから撃つなっ!」

 茂利は慌てて両手を上げた。

「そちらの車に乗れ」

 運転手の男が、顎先でミニバンの方を示す。

「わ、分かった」

 茂利は緊張で張り付く唇を無理やり引きはがすと、運転手に向かって何度も頷いた。

 その時だった。こちらに向かって猛スピードで近づいて来る白い乗用車に気付く。

 暮亜だ。

 男達は忌々し気に銃口をその乗用車に向けた。

(まずいっ!)

 慌てる茂利をよそに、男達は躊躇する事無く引き金を引いた。

 鳴り響く銃声。 

 ほぼ同時に、彼は見た。

 超スーローモーションで銃口から弾丸が飛び出すのを。

(これって、まるで……)

 映画の特撮シーン。

 ただし、これは特撮でもCGでもない。

 現実だ。

 茂利が動く。

 無意識のうちに、彼は足を踏み出していた。それは、中空に弾道を刻む凶器の洗礼よりも遥かに速い動きで。

 彼は中空を駆る四個の凶弾を全て手中に捉えると。男達の前に立ちはだかった。

 男達は何かに憑りつかれたように銃を乱射し続ける。

 が、その全てを茂利は掌の中に捉え、回収していた。

 男達の銃が、悲し気な金属音を奏でる。弾を討ち果たしたのだ。

 彼らは何が起きたのか理解できず、途方に暮れたような表情で茂利を見ていた。

「この野郎っ! 危ないじゃないかっ!」

 茂利は子を叱る親の様に彼らを恫喝すると、受け止めた弾丸を軽く放り投げた。

 はずだった。

 弾は男達の手から拳銃を弾き飛ばすと、ミニバンのリヤウインドウを粉々に粉砕した。

 あっけにとられる茂利と男達。

暮亜の車が、黒い高級車に横付けされる。

「茂利さん、早くこっちへ!」

 暮亜が叫ぶ。

「あ、はいっ!」

 茂利は地を蹴った。黒い乗用車を難なく飛び越すと、慌てて彼女の車に乗り込む。

 彼が助手席に滑り込んだのを見届けると、暮亜はアクセルを思いっきり踏み込んだ。

 車は重低音の方向を上げ、砂埃を巻きながら急発進した。

「申し訳ないです。奴らに先手を取られました」

「あいつら、何者?」

「対戦相手ではないです。詳しくはお話できませんが、某国の工作員です」

「何故俺を?」

「彼らの元に誤った情報が流れたようです」

「どのような?」

「日本が最強のヒューマンウェポンを開発したと。それで彼らはターゲットの茂利さんを誘拐して調査しようとしてたんです」

「何だよそれ。いい迷惑だよ」

 茂利は顔を顰めた。

「でもよかった。『覚醒』したんですよね。戦闘用システムが無事立ち上がったようです。さっきの動き、常人にはできませんから」

暮亜はうれしそうに頬を紅潮させながら語った。

「戦いの場所ってのは?」

「これからご案内します。その前に、奴らを何とかしなきゃ」

 彼女は眉間に皺を寄せながらルームミラーを睨みつけた。

 見ると、後ろから茂利を拉致しようとした乗用車とミニバンが連なって後を追って来ている。

 暮亜はそう言いつつ、追手を気にしながらアクセルを踏み続けた。

 突然、後続の黒いセダンが左右に大きく蛇行し始める。

 が、不意に急停止した刹那、後続のミニバンと激突した。

「え、何?」

 暮亜が驚きの声を上げると、急制動を掛けて車を停止した。

「茂利さん、なんかやった?」

「いや、やってない――あ、そうか。奴がぶちまけたスプレーだ。あの効力が残ってたんだ」

「えっ?」

事情が分からずにきょとんとする暮亜に、茂利は事の顛末を語った。

「なるほど、催眠スプレーか。自業自得ね」

 彼女は目を細めてけらけらと笑った。

「あいつら、大丈夫なのか」

 茂利は心配そうに後ろを振り返った。

 暮亜はへえええっと驚きの声を上げる。

「優しいんですね。敵に塩をタイプね。大丈夫、今、公安の仲間が来たから」

 確かに、前方から白いセダンが二台やって来るのが見える。暮亜はハンズフリーの携帯で後方の事故を仲間に伝えた。

擦れ違いざま、対向車の運転手が軽く手を上げる。了解の合図なのだろう。

「急ぎましょう。余計な時間を取ってしまった」

 暮亜は涼し気なまなざしで前方を見つめると、一気にアクセルを踏み込んだ。 







「戦いの場って、此処なのか?」

「ええ」

 彼女は言葉身近に答えた。

 彼女が車を止めたのは、市の中心部にあるオフィス街。無数の人々が行きかい、一日中人の姿が絶えず、そばには巨大な繁華街もあるため、年中不眠不休の街だ。

 ただ、今日に限って、街は恐ろしく静かに静まり返っていた。

「ここって、確か不発弾が見つかったって今朝テレビやっていた所だよな?」

 茂利は驚きを隠しきれないまま、目前の街並みを見渡した。間違いない。朝ご飯を食べながら見ていた朝のニュースで、大々的に取り上げられていたのを覚えている。

「不発弾が見つかったことにしています。街を閉鎖するためにね」

 暮亜はすました表情で得意げに答えた。

 ここまで情報を操作するとは、流石公安だけある。

「俺が死んだら、不発弾の暴発に巻き込まれたってことになるのか」

「随分と弱気ですね。自信を持ってください。あなたなら大丈夫です」

 暮亜は目を細めると、満面の笑みで彼を見つめた。

 キューンと、胸が高まる。茂利の中で、失われていた気概が、むくむくと込み上げてくる。と、同時に、断ち切れていた気の導管が、一気に造成され、繋がっていく。

 これだ。

 この言葉なのだ。

 茂利が待ち望んでいた、魂を覚醒させる希望のカンフル剤。

 もし元上司に、この言葉を彼に送れるような器と優しさがあれば、どんなに救われたことだろう。

「スイッチ入ったぜ。何時でも来い」

「その気持ちが大切です。どうすれば勝てるかを強くイメージしてください。そうすれば、思考が実体化してあなたを助けてくれます」

「イメージ? 実体化? 」

 茂利は眉をひそめた。

「おいおい、脳が硬くなっちまったおじさんにも分かるように、もう少し分かりやすく説明してくれ」

「おじさん? 茂利さんはおじさんじゃないですよ」

「ありがとう。お世辞でもうれしいよ」

「お世辞じゃないです。ルームミラーを見てください」

「えっ? 」

 茂利は言われるままにルームミラーを覗き込んだ。

 刹那、驚愕の吐息が、彼の口から零れる。

 そこに映し出された姿は、彼では無かった。

 いや、彼自身だ。

 彼には見覚えがあった。忘れもしない。それは、今から四十年前の、高校生の時の姿。恐らく彼が、一生涯のうちで最も気力に満ちていた世代。

「どういう事だ……」

 彼は自分の顔を撫でまわした。すると、ミラーに映った姿も、同様の動きをする。間違いなく、鏡の像は自分自身。

「戦闘システムが立ち上がったのと同時に肉体が活性化されたんです。恐らく今の姿って、茂利さんが最も気力に満ち溢れていた時じゃないですか? 」

「驚いたな……」

 茂利はまじまじと手を見た。無駄に重ねた苦労皺のない、張りのある皮膚に目を細める。

「席の横に紙袋があるの、分かりますか? 」

「あ、ああ」

「そこに衣類と靴が入っています。今からそれに着替えてください。防具ではないのですが、丈夫で軽くて動き易い素材で出来ています」

「着替えるって、ここで?」

「ええ。私の事は気にしなくてもいいですから」

「気にしなくてもって言っても……」

「時間がありません。敵とはあと十分程で合流します」

 暮亜は緊張した面持ちでスマホの画面を凝視しながら、彼に冷徹に言い放った。

 茂利は慌てて着替え始めた。服はレオタードの様な伸縮性に富んだ黒いセパレートの上下で、彼の肉体のラインをはっきりと強調していた。

(腹が出てない)

 彼は嬉しそうに自分の腹を撫でまわした。この頃、部活の陸上競技に勤しんでいた彼の腹筋は、縦割れ横割れの正に板チョコ状態だったのだ。妻と初めて知り合ったのも、確かあの頃だ。当時は特にお互い意識はしていなかったのだが、ふと懐かしく思えた。

(最高の時の姿で死ぬのも悪くない)

 彼はさばさばした気持ちで靴を履き替えた。用意された靴はハイカットタイプのブーツで、一見トレッキングシューズを彷彿させるヘビィ感があるものの、履いてみると社用に履いている革靴よりも遥かに軽かった。

「時間です。車から降りてください」

 暮亜が抑揚のない事務的な声で彼を促した。見ると、表情を硬く強張らせたまま、車窓の風景を凝視している。図太い精神力の持ち主のように思えたが、それでもかなり彼女なりに緊張しているようだ。

(いよいよ、か)

 茂利は小さく頷くと、ゆっくりと車から降りた。

「茂利さん」

 暮亜は茂利の傍らに立つと、正面を見据えた。

「はい?」

「自分を信じて下さい。戦闘力、武器、防備は茂利さんの創造力がいかに発揮されるかによります」

「創造力?」

「茂利さんに施術されたシステムは、思考を百パーセント実現化させるものです」

「創造力……自己暗示みたいなものか」

「もっと物理的作用の実現化も可能なレベルです」

 暮亜の言葉は信じがたいような内容だったが、それは殊の外現実味を帯びた言霊となって彼の胸に響いていた。

 まるで映画のワンシーンのように弾丸を受け止めた事実が、夢の様な彼女のににより現実味を帯びさせていた。

(ひょっとしたら、瞬殺は免れるかもしれないな)

 あくまでもマイナス思考の彼だが、ほんの僅かながら前向きな方向にゲージが傾きかけていた。

 不意に、数十メートル程前方に、卵型の白い発行体が出現した。大きさは四トントラック位だろうか。飛行時の痕跡は確認出来ていない。元々そこに存在していて姿を現せたのか、それとも姿を消して何処からともなく飛んできたのか。

「来ました」

「ああ」

 茂利は固唾を呑んでそれを凝視した。

 念願だった宇宙人との対峙の瞬間だった。出来れば連れ去ってもらいたい――現実から逃げ出したい余りにそう懇願していた彼の目の前に、それは現れたのだ。

 だが、今となっては目的が違う。彼はその搭乗者と戦わなけばならないのだ。それも、地球の命運を掛けて。

 発行体の下方部に小さな穴が開き、白い光の柱が地上を照らした。

 光の中から、人影が現れる。

「あれが、対戦相手?」

 茂利は眼を凝らすと拍子抜けしたような吐息をついた。

 全身筋肉の塊のような巨大なヒューマノイド、もしくは無数の手に見たことの無い最新兵器を携えた異形の蛸海月人を想定していた彼の予想を完全に裏切った驚くべき現実が、そこにはあった。

 少女だ。それも十代半ばくらいに見える。今の茂利と同世代のヒューマノイド。

 紫色の長い髪の間から見える耳はエルフの様に尖り、黄色を帯びた透明感のある目は猫のように丸く日開かれている。鼻も口も地球人と同じ形状だが、肌は水色に近く、唇も毛髪同様紫色だった。

 地球人がコスプレしているといってもおかしくない位、地球人ぽい。それも何というか……何故か胸元を強調するメイド服っぽい黒基調ブラウスにゴスロリ系のふわふわしたミニスカートを纏い、かかとの高い黒革のブーツを履いている。

 見た感じ、武器らしきものは携えていない。まさか、拳一つでガチ勝負するというのか。

「本当に、彼女と対戦するのか?」

 茂利は妙な戸惑いにとらわれながら、暮亜に目線を向けた。

「ええ。見た目で油断しちゃダメ。情報では百戦連勝中のこの辺りの銀河では向かう処敵無しの凄腕のファイターらしいから」

「じょ、冗談じゃねえ。そんなの勝ち目がない」

「茂利さん、勝つ気になっていたんですね。その気持ち、大切です。最初から負けてもいいなんて逃げ腰の考えを持っていたら、そんな風には言いませんもの」

「え、ああ、そうかな」

(なんてポジティヴな思考の持ち主なんだ、この人は……ここまで都合よくプラスにとるなんて人、初めてだ)

 茂利は苦笑を浮かべた。

「あと三分で開始となります。ステージはここを中心に半径一キロ圏内。ステージの境界を示すラインが、異星人の母船から何らかの方法で地面にマーキングされるそうです。戦闘は地球時間で五時間。勝負が着くまで毎日繰り返されます。また、勝負がつかなければステージは毎回変更になります」

「何だそれは……代理戦争というよりも競技だな」

「でも、負ければ死、そして地球は彼ら異星人のものになってしまいます」

「リアルな忠告ありがとう」

「時間です。私はエリア外で待機しています。何かあったらすぐにでも駆け付けられるよう、なるべく近くにいますから」

「大丈夫なのか? 」

「大丈夫です。非戦闘対象に対しては、例え間接的であっても傷つけてはならない――それがルールの根源にありますから」

「承知した」

「ご武運を」

 暮亜は厳かな立ち振る舞いで茂利に一礼すると、車に乗り込んだ。

 急速に遠ざかっていくエンジン音にシンクロするかのように、異星人の発行体もゆっくりと地上から離れ、消えた。

 異星人は、じっと邦松を見据えていた。普段なら絶えまなく行きかう車の群れも、途切れ眼無く続く雑踏も皆無だ。ビルの谷間を吹き抜ける風音が、これが現実であることを静かに物語っている。

(敵は、どう動く?)

 目を凝らし。相手の様子を伺う。

 間合いは五十メートル程。攻めるには空き過ぎている。

「? 」 

 茂利は訝し気に目を細めた。

 異星人の姿が一瞬にして消えたのだ。

「えっ! 」

 思わず戸惑いの声を上げる茂利。と同時に、ぞわぞわっとする戦慄が彼を捉えた。

 目と鼻の先に、彼女はいた。

 薄い唇を歪めて、にっと冷笑を浮かべる。

「まずっ」

 茂利は本能的に上半身を大きく後方に逸らした。目と鼻の先すれすれを巨大な銀白色の光が軌跡を刻んでいく。五十代の彼なら確実に腹の肉がそがれていただろう。 

 シャックルだ。それも、半端なくでかいやつ。タロットカードで死神が携えている代物を想像してもらいたい。

(異星人がシャックル? 妙な取り合わせだな)

 茂利は身を素早く起こすと後方へ大きく跳躍し、間合いを取った。

 間髪を入れずに襲い掛かる刃を、茂利は器用に両手で挟み取る。

 真剣白刃取り。

 意識しての行動というより、体が勝手に反応したのだ。

 だが少女は顔色一つ変えずに、無理矢理大鎌を振り下ろそうとじわじわ刃を押し込んで来る。

「お、おい、ちょっと強引過ぎじゃねえかっ?」

 茂利は力任せに刃を両手で大きくひねる。すると、大鎌の刃は、まるで飴細工のように根元からぽっきり折れた。

(ざまあみやが? )

 鋭利な刃を投げ捨て、勝ち誇った笑みを浮かべた彼の目に、柄だけになった大鎌の成れの果てが迫る。

 彼の脳天に思いっきり振り降ろされた。ごきっと鈍い粉砕音が頭蓋に響く。

 だが砕けたのは彼の頭じゃない。

 柄の方だ

 茂利は左右に軽く頭を振った。痛みは全くなく、怪我もしていないようだ。

 少女はポーカーフェイスのまま、両手の拳を結ぶと腰だめにした。拳の間から白い光が棒状に伸びる。

「ライトセーバー?」

(何かで受け止めないと!)

 彼は咄嗟に防具をイメージ。迫り来る光の双剣を両手に携えたそれで受け止める。

 弾ける甲高い金属音。金色に輝く直径三十センチ程の円形の防具?が、ライトセーバーの進撃を真っ向から食い止めていた。

 超未来的刀剣の斬撃を防いだのは、鍋の蓋だった。以前、夫婦喧嘩で妻が投げたしゃもじに対峙したのが鍋の蓋だった。そのイメージが強かったのか、防具と言えば俺にはこれしか浮かばなかったのだ。

 だが、鍋蓋は意外にも無敵だった。サイズ、重さも手頃で、間隙無く繰り出される光刃の斬攻をことごとく制止した。

 ただ、守備オンリーで攻めに応じられないのが難点だった。

 とは言え、全く隙を見せずに攻撃を緩めない彼女に対しては、とりあえず防戦しかないのが現状だった。

 スピード、剣技共に衰えを見せず、顔色一つ変えずに剣戟し続ける姿勢は、少女の風貌と言えども、相手は百戦錬磨を戦い抜き、常に勝利を収めてきた猛者だ。故に当然といやあ当然なのだ。

 それに対し、茂利は百パーセント純粋なド素人だ。良く分からない施術で本人も驚きの体技と魔法じみた能力で何とか対峙しているものの、正攻法では勝ち目がないのは一目瞭然だった。

(この均衡を崩すにはどうすべきか)

 暮亜がくれたアドバイスは、創造力が最大の武器。防具をイメージして身近な鍋の蓋しか思いつかない彼に、それはスニーカーでエベレストを登頂するに等しい試練だった。

(いつの頃からだろう。俺の頭が、こんなにも錆び付いちまったのは……)

 茂利は己の非力さを嘆いた。

(こんな状態で、銀河に名高い猛者を倒せるのかよ)

 茂利は眉を顰めた。

 それは、負の意味する仕草ではなかった。

(こだわりと既成の枠組みをぶち壊さないと、いくらとんでもない能力を授けてもらっても、発揮しないまま終わってしまう。それじゃ宝の持ち腐れだ)

 彼は自分自身を鼓舞していた。諦めではなく、自分の中に潜む可能性を引き出そうと、意識下に思考のシナプスを張り巡らせているのだ。

 久し振りに感じる心地良い高揚感。

 当たり前の日常を超越した突拍子の無い思考への覚醒は、彼に忘れかけていた生きがいと生への執着を呼び戻していた。

 不意に。

 悟りきった賢者の様な澄んだ輝きが、彼の瞳に宿る。

(要は、何でもありってことか)

 茂利は意を決すると、両手の鍋蓋を少女に投げつけた。

 彼女は少しも動じることなく、双剣で鍋蓋を払いのける。

 だが茂利は、次から次へと鍋蓋を実体化させると、間髪を入れずに投げつけた。

 少女は憮然とした表情のまま、淡々と鍋蓋を払い飛ばし続けた。

 まるで結界でも築くかのように鍋蓋が彼女の周囲を取り囲んでいく。

 いたって地味だが、やっている本人にはハードな攻撃だ。鍋の蓋で必死に弾幕を張る彼だったが、少女は少しづつながら、確実に間合いを短縮しつつあった。

 茂利の投げた二枚の鍋蓋が、彼女から大きく逸れて後方に消えた。

 彼の顔に焦燥と動揺の陰りが浮かぶ。

 少女の剣が斬攻を刻む圏内で、一瞬彼は無防備な状態に陥った。

 少女が一気に攻め込む。

 次の鍋蓋をプロデュースするタイムラグを遥かに凌ぐスピードで、彼女は剣を振り下ろ――。

 がこん

 鈍い打撲音が、少女の後頭部を襲う。

 それも、立て続けに二回。

 少女が一瞬ひるむ。

 彼女の足元に転がる鍋蓋二枚。さっき大きく逸れて後方に消えたやつだ。

 その二枚は大きく弧を描き、再びこちらに戻って来たのだ。

 全ては計算通り。あえてスピンをかけてわざとに逸れたように見せかけたのだ。

 俺は更に新たに実体化させた鍋蓋を十連発でお見舞いすると、彼女の手から剣を弾き飛ばした。

(今だっ!)

 茂利が一気に間合いを詰める。刹那、彼は足元をすくわれてすっ転んだ。

 少女の反撃?

 じゃない。自分がさんざん彼女に投げつけた鍋の蓋を踏んずけて滑っただけなのだ。

「うわっ!」

 茂利は転倒しながら、藁をもすがる思いで無意識のうちに彼女のスカートの裾を掴んでいた。

 スカートはずりずりと下までずり落ち、茂利は勢い余って少女の間に滑り込む。

 至近距離に迫る白いパンティーを申し訳なさそうに見上げる彼の目に、ぎょっとした表情でうろたえる少女の顔が飛び込んでくる。ポーカーフェイスの彼女が初めて見せた動揺だった。

 少女は慌ててスカートを引き上げようと前屈みになる。

 同時に、茂利は勢いよく上半身を起こすと、がら空き状態の彼女の胸を両掌で突き上げた。

「双竜拳! 」

 得意げに叫ぶ彼の目は、少女の瞳孔が大きく広がるのを捉えていた。

 彼女の体が、茂利の放った強烈な衝撃を喰らい、推進力の虜囚とって猛スピードで滑空していく。

 茂利の足元には、フリフリのミニスカートが所在無げに鎮座していた。

「ちょっとフェアじゃなかったか……」

 彼女が直撃した高層ビルは、激しい粉砕音を撒き散らしながらどてっぱらに巨大な穴を開通。その音はその後立て続けに二回連続で空気を震わせた。

(破壊されたビルはどうなるんだ? 国が保証するのか?)

 茂利は顔を顰めた。

(俺達が暴れて街が破壊されれば、それだけ税金が使われるって事か。申し訳ない)

 手前から三つ目のビルが、音を立てて崩れていく。それに連鎖するかのように、その前のビルが、そして一番手前のビルが、次々に轟音を撒き散らしながら崩れた。

(勝負あったか。かわいそうだが、やむを得ない)

「すまん、成仏してくれ」

 茂利は瓦礫と化したビル群に向かって手を合わせた。

「? 」

 ふと、彼は目を凝らして立ち上る砂塵を凝視した。

 何かが動いたように見えたのだ。

 動いている。間違いなく、動く人影が見える。

 あの少女だ。

「生きていたか……」

 茂利は吐息をついた。残念とかがっかりしたとか、どちらかと言えばそっち系の意味合いを孕むものではない。会心の一撃をもってしてでも、仕留めきれなかったのにも関わらず、不思議と妙な安堵感の中に彼はいた。

少女は露になった白いパンティーを手で隠そうともせず、それこそ大手を振りながら、もうもうと砂埃が煙る中をのしのしと歩いて来る。

元々羞恥にうとい種族なのか、それとも彼女にとって異星人の着衣を模倣しているだけに羞恥の実感がないのか、見るからに開き直りともとれるような行動だった

(どう仕掛けてくるか)

 茂利は呼吸を整えながら、彼女の動向を追った。人によってはガン見するか羞恥に眼を背けるか二分される姿であったが、彼にとってはそういった観念の遥かに超越した心境だった。

 彼女は兵器なのだ。

 兵器が、少女の格好をしているのだ。

 彼は、そう思う事にした。

 お互いが攻撃しうる間合いに入っても、少女は何を仕掛ける訳でもなく、ただ真っ直ぐ彼に近づいて来る。

 不意に、彼女は立ち止まると、視線を足元に向けた。

 彼女の目線の先には、不本意にも脱ぎ捨てる羽目になったミニスカートが持ち主の帰りを待ちわびていた。

 彼女は無表情のまましゃがみ込んでスカートを拾い上げると、落ち着きはらった仕草でそれに足を通し、腰まで一気に引っ張り上げた。

 不意に、彼女の口元が緩む。

 笑った?

 時折垣間見せた自信と余裕に満ちた冷笑とは異なる意味深な英み。

 茂利はごくりと生唾を飲み込んだ。

 彼女を取り巻く不気味な気の渦が警鐘を打ち鳴らし、彼の意識に得体の知れぬ恐怖と戦慄を刻み込んでいた。

「この変態っ! 」

「えっ?」

 突然の少女の雄叫びに、茂利はど肝を抜かれた。

 刹那、彼女の平手打ちが茂利の頬に炸裂する。

「ドスケベっ! 」

「痴漢! 」

「エロジジイッ! 」

「すっとこどっこいっ! 」

「×××××! 」

「××××野郎! 」

 立て続けに往復ビンタの応酬を受けながら、茂利は激しく衝撃を受けていた。

(この娘、しゃべるんだ)

(それも日本語べらべらじゃねえかよ)

 猥雑な台詞からピー音が入るような超危険放送禁止用語まで、流暢な日本語で暴言を怒鳴り散らす彼女を、ただ茫然と見つめる茂利だった。

 殴打自体のダメージはない。ただ、彼女が吐いた「エロジジイ! 」が、彼の心にグサッとぶっ刺さっていた。

(エロジジイかよ……せめてエロオヤジにしてくれよ)

 連続殴打で顔を左右に揺さぶり振り続けながら、彼は何処か論点のずれた不満を脳裏に思い描いていた。

「子種をたやしてやるううううっ!」

彼女の雄叫びに、茂利は即座に反応した。

台詞の物語る意味は、一つ。

彼女の長い足が彼の股間を蹴り上げる。

 が、寸でのところで組んだ腕でそれをブロック。

(危なかった……)

 茂利の額を冷や汗が浮かぶ。

何とか股間の安全は死守したものの、未だ安堵は出来ない。

(取り合えずは止まらないと)

 彼は猛スピードで滑空していた。少女の蹴りを受けた際、股間への直撃は免れたものの、彼は中空へと吹っ飛んだのだ。方向的にビル群ではなく道路に沿って飛んでいるので、無駄に建築物を破壊する恐れはないものの、このままでは成層圏を突破しかねない。

 不意に上空を過る黒い影。

 鳥?

 飛行機?

 じゃない。少女だ。

 茂利は食い入るように真っ直ぐ近づいて来る少女のシルエットを凝視した。

 妙だった。それも、遥か上空から加速ぐんぐん加速して、微妙な角度を保ちながら、彼から見て常に垂直方向にいるような座標を刻みながら急接近してくる。

 高々と蹴り上げられ、天を突く踵。逆光のせいで、肝心のスカートの中は全く見えない。

(まさかっ!)

 茂利を襲う嫌な予感。それを肯定するかのように、少女の踵が斧の様に勢いよく彼の水月に振り下ろされた。

「踵落としだとおおおおっ!」

 重力プラス少女の急加速力プラス脚力が、茂利を容赦無く襲う。

 上半身と下半身がブチ切れたような感覚。

 実際にはくっついているのだが、衝撃の凄まじさが彼から身体感覚を奪い去っていた。

 茂利は白い雲を引きながら強制的に急降下。猛スピードで遠のいていく頭上の雲に翻弄されながら、もう一つの光景に嫌な胸騒ぎと戦慄を覚えていた。

 彼の軌跡をぴたりと追従する影――異星人の少女だ。

(俺が着地すると同時に、仕掛ける魂胆だな)

(あと、どれぐらいで着地するのか)

 両サイドを流れる風景を凝視する。刹那、広く開かれていた彼の視界が、壁に閉ざされる。ビルの外壁だ。

(着地はもうすぐ。来るぞっ!)

 茂利の表情に緊張が走る。

 重い衝撃音とともに、茂利は六車線の路面に叩きつけられた。彼を中心に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

 衝撃の齎す圧迫感が、彼の呼吸を阻害する。が、彼は即座に身を反転させた。

 直後、彼の落下点に少女が着地する。路面を覆うアスファルトが木の葉の様に舞い散り、道沿いの店舗のショーウインドーを粉々に粉砕した。

(危なかった)

 降り積もった砂埃を払い落としながら、彼は立ち上がった。

(なんてパワーだ。これなら武器なんか生み出さなくてもいいだろうに」

(それにしても、事故だったとはいえ、脱がしたのがスカートで良かった。これがパンティ―だったらこんなもんじゃなかっただろな)

 顔に就いた砂埃を払い落とし、少女の姿を追う。

 いない。どこに行った?

 茂利にとどめを刺すのに失敗した後、彼女は彼の視界から消えていた。

 不意に、足元の路面が砕け散った。

 猫が獲物に襲い掛かる時の様な体躯で、空に浮かぶ少女。

 両手の爪が、熊手の様に伸びる。

(あぶねっ!)

 大きく上半身を反らし、かろうじて回避する。

 が、無防備に近い彼の鳩尾に、少女の蹴りが炸裂。今度は反対方向に体を折り曲げると、地面に対して水平方向に滑空していく。

 スタンドコーヒー店の店舗を破壊し、更に後方に立ち並ぶビルを立て続け三棟

破壊してようやく停止する。

 仄かな薔薇の香りが、茂利の体を優しく包み込んでいた。

 不可抗力とは言え、遮蔽物をことごとく破壊した挙句、最後にを受け止めてくれたのは花屋だった。

「運命を感じるな」

 彼は、懐かしそうに花屋の軒先を見渡した。彼は昔、ここで一凛の薔薇を買い求め、妻にプロポーズしたのを思い出していた。あえて派手な演出はせず、シンプルに思いを告げたのが彼らしくて良かったのだろう。彼の妻は優しく微笑みながら頷いたのだ。

(あの時、幸せだったな)

 彼は笑みを浮かべながら遠くを見つめていた。

 非常時の合間に、ぽっかり空いた不思議な休息の時間だった。

(いかん。気持ちを入れ替えないと)

 深紅の薔薇に埋もれながら、彼は少女の姿を追った。

 いない。

 どこに消えたのか。

 彼の疑問に答えるかのように、粉砕音が響く。

 地響きを伴いながら、それは一定の間隔を保って近付いて来る。

 方向は正面。

 煙の様に舞い上がる砂埃が正面のビルの間から洪水のように流れ込んでくる。後ろのビルが倒壊しているのだ。否、後ろだけじゃない。その後ろも、そのまた後ろも次々に倒壊しては前方のビルを巻き込んでいるのだ。さしずめ、ビルのドミノ倒し。

 と言う事は、次は正面のビルだ。

(まずい)

 彼の予想通り、ビルはゆっくりと彼に向かって倒れ始める。

(そうはさせん。あの花屋は潰させねえ)

 彼は表情を硬く強張らせると、正面のビルに向かって跳躍した。

 迫り来る壁に、渾身の力を込めて体当たりする。

 ビルの倒壊が止まり、やがて反対側へと倒れ始めた。

 茂利は後方に大きく空転すると、再び路面に降り立った。

 ビルは今までの進行方向とは逆方向にドミノを再開していた。

 花屋が店舗を構えるビルの向こうは駅だ。その沿線にも商店街が広がっており、

まともにビルの倒壊に巻き込まれていたら、被害は尋常じゃない。不幸中の幸い

なのは、公安が手をまわして大掛かりにこの街を封鎖してくれていたから、住民

や通行人を巻き込む心配は無かった――あっ!

 茂利は愕然としたまま立ち竦んだ。

 商店街の入り口に、路面に座り込む二人の人影があった。

 彼の妻と娘だった。

 恐怖に顔を凍てつかせたまま、倒壊していくビル群と彼を見つめている。

 腰が抜けているのか、二人は身じろぎもせずに座り込んだままで、一向に逃げ

ようとしない。

 彼は困惑した。二人に顔を見られてしまった。恐らく娘は今の姿から現実の老

けた姿は想像できないだろう。だが妻は、若い頃の彼の姿が記憶からよみがえら

ないとは言えない。そうなれば、妻をこの状況をどう解釈するだろう。

 不意に、一台の白い乗用車が道路を爆走してくる。

 暮亜だ。

 彼女は妻達のそばに車を横付けすると、二人を抱え込むようにして車中に乗せ

た。

 そして滑り込む様に運転席に乗り込み、彼に目配せをすると車を急発進させた。

 とりあえず、これで二人は大丈夫だろう。

 でも、なぜあんな所に? 

 倒壊した一連の建造物が、奥から順々に斧で割られた薪の様に左右にぱっくり

分断されていく。

 奴だ。逆ドミノにも巻き込まれず、逃げ延びたようだ。

 最も、茂利の方も彼女がそれくらいでくたばるとは想定していない。

 目の前もビルが真っ二つに割れる。

 灰白色の立ち込める砂塵の中を、ひるむことなく闊歩する彼女の姿を両眼に捉える。みると、肩に巨大な獲物を抱えている。

 斧だ。刃渡りは一メートル。柄も彼女の太もも位はあるだろう。

 あれでビルをぶった切ったらしい。

 真っ二つに勝ち割られるビル群を薪に比喩した彼の想像力は拍手物だった。

 茂利はゆっくりと歩みを進めた。

 今までの彼とは、装いががらりと変わっていた。

 静かな怒りが、彼の体から青い炎となって立ち上っていた。

 今まで守り主体だった彼が、あえて自分から前に出るのは初の試みだった。

 彼の意識の変化を敵も察したらしく、目を細めると、見下したような勝ち誇った笑みを口元に湛えた。

 少女の姿が消えた。

 一瞬き後、彼女は茂利の目と鼻の先に迫っていた。斧を大きく振りかぶり、躊躇する素振りを微塵も見せずに彼目掛けて振り下ろした。

 茂利は微動だにしなかった。

 ひるむことなく、無造作に右拳を突き上げる。

 甲高い金属音と共に、斧が砕け散る。

 重力の理に従い、きらきらと光沢を放ちながら舞い散る刃の成れの果てを蹴散らしながら、茂利の左拳が真っ直ぐ彼女の腹部に吸い込まれていく。

 少女の目が、限界まで見開く。

 彼女の体は柔軟体操の前屈の様に折れ曲がると、超高速で砂塵と瓦礫の向こうに消えた。

 即座に茂利も後を追う。

 走る際に巻きあがる風が、視界を阻む埃のカーテンを次々に打破し突き進む。

彼の動きに迷いは無かった。

 瓦礫の中から頭を左右に振りながら立ち上がろうとする少女の姿を、茂利は着実に捉えていた。

 前屈みにになっている少女の腹部を、茂利は容赦無く蹴り上げた。

 少女の体がロケットの様に凄まじい推進力を伴いながら空高くへと舞い上がった。

 地上に佇む茂利の姿が芥子粒と化した時、彼女の推進力と重力が拮抗した。

 これから、彼女は自由落下に移行する。

 少女は猫のような目を大きく見開き、茂利の姿を追った。

 少女は首を傾げた。

 茂利がいない。

 逃亡したか? 否、そんなはずはない。

 今まで受け身だった彼が、急に攻めの姿勢に転じたというのに、再び守りに入るとは思えない。それも、まず敵前逃亡は有り得ない。

 少女は振り向いた。

 いた! 

 彼女の背後に、茂利はいた。彼女と並行して空を駆っていたのだ。

 

 少女は身を反転させながら回し蹴りを放つ。

 が、茂利はそれを難なく受け止めると、そのまま彼女の足首を掴み、ぐるぐると回転し、ハンマー投げの様に放り投げた。

 少女は疑念を抱きながら、意識を眼下に注ぐ。

 彼が彼女を見る目は、怒りに満ちていた。今までにない憎悪に満ちた怒りの覇気を孕み、その全てが彼女に注がれていた。

 彼の心境の変化に何身があったのか。

 少女の体は、最初の地点である戦闘エリアの中央部へと飛んでいく。

 進行方向に幾つかの高層ビルが立ち並んでいるのを、彼女は記憶していた。そのうちのいくつかは、既に彼女の攻撃で崩壊寸前に至っている。

 衝突で生じた瓦礫に身を隠し、彼が来るのを待ち伏せて不意を突く――彼女は思考を張り巡らせながら、数秒後に訪れる次の戦闘に向けて作戦をはじき出していた。

 あと少しで、自分は高層ビルと激突し、その際に飛散するがれきや砂埃の煙幕に身を顰める事が出来る。反撃はそこからだ。

 ライトグレイの建造物の外壁と大きな窓が彼女の目に映る。

 少女は拳を固く結んだ。

 あの建造物を潰す。

 彼女の目に、熱く燃える闘気が宿る。

 彼女がこの惑星の代理人との戦いを引き受けた時、相手の余りにも非力さをしり、依頼人が示したハンディを二つ返事で受け入れたのだ。事実、戦闘開始となっても防戦に応じてばかりの地球人に、油断していたのは事実だった。

 だが、突如豹変した彼の戦闘能力に驚かされながらも、思いもよらぬ展開を目の当たりにして、彼女の冷め切っていた闘志に火が付いた。

 面白くなってきた。

 猫の目の様に瞳を細めながら、彼女は満足げに喉を鳴らした。

 刹那、ビルと彼女の間に新たな障害物が現れる。

 茂利だ。

 彼女は即座に茂利の顔面に拳を叩きこむ。まともに喰らえばビルなら完璧に外壁は木端微塵となる威力を秘めている。

 だが茂利は難なくそれをかわすと彼女をの懐に滑り込み、今度は地上に向けて一本背負いの体制で、彼女を地面に向けて投げつけた。

 彼女は九十度方向転換すると、重力プラスそれ以上の加速で地面目掛けて急降下する。

 が、地面に叩きつけられる寸前、彼女の体はぴたりと停止していた。

 茂利が彼女を抱きとめていたのだ。急降下と重力の齎すすさまじい衝撃が彼に伸し掛かったにもかかわらず、彼は微動だにせず、無表情のまま、少女を受け止めていた。

 少女は、困惑した表情で茂利を見上げた。

 一瞬油断させておいて、また天空へと蹴り上げるつもりか。

 刹那、彼女の瞳が大きく開く。

 意外にも、茂利は少女をそっと地面に下したのだ。

 彼女は狼狽しながら、慌てて乱れたスカートの裾を押さえた。

「お前、日本語分かるよな」

 茂利が、感情を押し殺したような抑揚のない声で少女に問いかけた。

 少女は不安げに表情を歪めながらも、黙ってこくりとうなずいた。

「一言、言っておく。民間人は巻き込むな。絶対にな。これはルールだ。この戦いを引き受けた時、俺はそう聞いている」

 少女は我に返った。彼女が高層ビルをドミノ倒しにした時、現場から慌てて地面を這うように走り去る地球人の移動機械を目撃していた。

 少女は悟った。

 目前の地球人が急遽狂戦士と化した理由は、そこにあったのだ。勿論、彼女は故意に民間人を巻き込もうとしたわけではない。彼女の獲物は茂利であり、それ故にターゲットを追う余りに他に関心を向けなかったのはいたしかたなったのかもしれない。

 だが、彼は違った。彼女と対峙しながらも、戦闘エリアに迷う込んだ民間人の存在を把握していたのだ。

 彼に不意打ちは通じない。考え方によっては、そうともとれる。

 否、それどころか。

 こんな敵を相手に生きながらえる事は出来るのだろうか。

 少女は身震いした。

 それは、収まるどころか、彼女の意思に反して更に激しく震え始める。

 彼女は困惑していた。今までに味わった事がない焦燥と不安が戦慄を生み、彼女の意識を翻弄していた。彼女は戦意を奮い立たせうとする自分の意に反して、闘志が音を立てて流出していくのを感じていた。

 畏怖。

 勝利に酔いしれるのが常であった彼女にとって、それは長年忘却していた負の感情だった。

 今、目の前の地球人が仕掛けてきたら、何の抵抗も出来ないままに、相手の攻撃に翻弄されるのだろう。

 もし、その最中に防御機能が異常をきたしたら……。

 押し寄せる不安の渦は、もはや彼女の自制力を遥かに凌ぐ強力な流れとなって、意識を更に負の深淵へと引きずり込んでいく。

「そろそろ時間だ」

 茂利は踵を返すと、少女に背を向け、車道に向かって歩き始めた。

 時間?

 少女は訝し気に彼の後ろ姿を見つめた。

 ほぼ同時に、彼女の上空に迎えの飛行物体が現れた。

 少女は驚愕の眼差しを茂利に注いだ。

 あれだけの戦闘を繰り広げながらも、彼は時間の経過までもを把握していたのだ。

 それだけの余裕が、彼にはあったというのか。・

 最初の防戦一方のスタイルは、その余裕ぶりを物語っているのか。それとも、戦闘データの収集に集中していただけなのか。

 とんでもない奴と対峙する羽目になってしまった。

 迎えの船からの搭乗コールに答えようともせず、彼女は悠然と立ち去る茂利の後ろ姿を凝視し続けた。

 茂利は少女が彼にそんな警戒心を抱いているとはつゆ知らず、とぼとぼと瓦礫の間を歩いていた。

 暮亜との待ち合わせ場所は決めていないが、メインの車道に出れば向こうから見つけるんじゃないかと言ったお気楽な解釈での行動だった。

 振り向くと、異星人の少女がお迎えの飛行物体に吸い込まれていくのが見える。

(あの時、とどめを刺すべきだったが)

 茂利は複雑な面持ちで空間に吸い込まれるように消えた飛行体の軌跡を目で追い続けていた。

 突然戦地に迷い込んだ妻子と思い出の花屋に危険が差し迫った時、彼は瞬時にして感情のリミッターが吹っ飛ぶのを感じ取っていた。

 怒気と共に込み上げてくる闘気と力は、今までに経験したことの無い驚異的なまでに躍動的な体感だった。

 あの時の感情の暴走を維持していたら、彼はあの少女を殺害していたかもしれない。

 だが彼女を抱きとめた時、腕の中で感じた温もりと、地上に降り立った時の今までになく浮かべた怯え切った表情に、茂利は失いかけていた人間性を取り戻していた。

 彼女にも、きっとこのように抱きしめてくれる家族や愛する人がいるはずだ。

 もし彼女の命を奪えば、彼女の帰りを待つ者達は、悲しみ、嘆くだろう。

 そして、ありったけの憎悪と嫌悪を、彼女の命を奪った彼にぶつけるのだ。

 彼だけでなく、地球人全員に。

 彼女クラスの兵力が徒党を組んで地球にリベンジしようと乗り込んできたら、間違いなく人類は滅亡する。

 それこそ、一瞬のうちに。

 でも、もし彼が負ければ、地球人は皆、侵略者に隷属し、惨めな人生を歩むことになる。

(勝っても負けても、何だか問題が山積みのような気がする)

 苦悶に眉を歪めると、彼はがしがしと頭を掻いた。

 砂塵をまきながら、暮亜の車が国道を暴走してくる。

 暮亜は車を彼のそばに横づけすると、ばつの悪そうな表情で彼を迎えた。

「申し訳ありません。遅くなっちゃって」

 暮亜は慌てて車から降りると、茂利にぺこぺこと頭を下げた。

「保護した二人は無事自宅に送り届けました。自力で歩けるような状態じゃなかったので。あの二人、茂利さんのご家族だったんですね」

「ああ。でもどうしてあんな所にいたのか……てより、何故、俺の家族って分かったの?」

「表札を見たんです」

 暮亜は意気揚々と答えると、得意げに胸を張った。

「妻は俺に気付いていたか?」

「それは無かったと思います。大丈夫ですよ、記憶操作はしておきましたので。あの場所にいたことも覚えていないはずです」

「そうか……ありがとう」

 茂利は彼女に促され、車の助手席に乗り込んだ。

 シートベルトをセットすると、車は静かに走り始める。

「でも、生き延びて下さって良かったです」

 ハンドルを握る彼女の横顔は、ほっこりした安堵の笑みを浮かべていた。

「これからホテルに向かいます。今日はゆっくり休んでください」

「あの街はどう対処するんだ? さんざん破壊し尽くしてしまった」

「不発弾が暴発したことにしますから、ご心配なく。もともとそういう設定にしてましたから」

 車は封鎖ゲートを顔パスで抜けると、巧みに渋滞を避けながら道を進んで行く。

「明日もあの場所で戦うのか?」

「いいえ、明日はまた別の場所になります。どこになるかは私も分からないんです。当日に発表されますので」

「また、何処かの街が廃墟になるのか」

「やむを得ないです。地球の命運がかかってますから」

 あっけらかんと重い台詞を口にする彼女を、茂利は感心した目で見つめた。

 めりはりがいいというか、なんと言うか。この手のタイプはストレスをうまくかわしてしまう、非常に希少な存在の仕事人だ。

「着替えが後ろのバッグに入っていますから、今のうちに着替えて下さい。流石にその恰好はまずいです」

「じゃあ後ろの席に移ろうか」

「このままで大丈夫ですよ。外から車内は見えませんから」

 暮亜は涼し気に言ってのけるが、問題はそこじゃない。

 茂利は後部座席からバッグを手繰り寄せると、ごそごそと着替え始めた。濃い目のデニムにチェックの長袖シャツ。スニーカーは白。

 戦闘ヒーロー崩れからごく普通の高校生に戻る。と言っても中身は中年のおっさんなのだが。

 車は市街地を抜けると、駅前のビジネスホテルの駐車場へと車を進めた。

「お疲れ様でした。食事はホテルのレストランで好きなものを召し上がってください。まだちょっと早いですから、シャワーでも浴びてくつろいでいてください」

「おおっ! じゃあ先ずは生ビールだな」

「残念ですけどそれは控えて下さい。見た目は高校生なんで」

 暮亜は申し訳なさそうに眉を顰めた。

「じゃあ、部屋で飲むか」

「それも駄目です。飲み過ぎて明日の戦闘に支障をきたすかも知れませんから」

「それなら一番高い飯を食ってやる」

「それなら大丈夫でえす」

(こうなったら分厚いステーキと刺身盛り合わせを食ってやる)

 暮亜の間延びした返事を聞きながら、邦松は車を降りた。

 不意に、対面に止められていた黒い乗用車から男女二人が姿を現すと、足早にこちらに近付いて来る。。

「えっ? 何故ここに?」

 茂利は目を丸くした。

 ダークスーツに黒いサングラスを掛けた中年男性と、同じくダークのパンツスート姿のロングヘア―のアラサーと思われる女性。男は日に焼けた浅黒い顔に顎髭を蓄えており、女性は男性とは対照的に透き通るような白い肌で、モデルの様な体躯と麗人と表現するにふさわしい面立ちは、性別に関係なく、見る者全てを魅了する魔性の美しさを誇っていた。

「茂利さん、ご存じなんですか?」

 暮亜が首を傾げながら茂利の顔を覗き込んだ。

「ああ。その方面じゃあ超有名な人末だからな。超常現象の専門誌「月刊MOW」の編集長、御嵩波留臣と超常現象サイト「NANIKA」の編集長、眞流夏姫だ」

「暮亜ちゃん、駄目だ。一人逃げちゃったよ」

 御嵩は頭を掻きながら顔を顰めた。

「茂利さんを誘拐した一番若い奴ね。あれ、只者じゃなさそう」

 眞流は両掌を上に向けてお手上げのポーズ。

 驚きだった。二人は暮亜の知り合いの様だ。おまけに茂利の事も把握しているらしい。

「暮亜さん、これってどういう事?」

 茂利は目前にまで急接近の二人と暮亜を交互に見つめた。

「ああ。この二人も公安なんですよう」

「なああにいいい?」

 茂利は驚きの余りに目をひん剥いた。

「茂利さん、お疲れさまでした」

 眞流が目を細めながら茂利に声を掛けた。

「夢みたいだ――俺、お二人の大ファンなんです」

 茂利は直立したまま、緊張した面持ちで二人に話し掛けた。

「光栄ですね。地球を救う為に戦うスーパーヒーローが私のファンだなんて」」

 御嵩は口元に仄かな笑みを浮かべると、軽く会釈をした。

「二人とも、その……本当に公安なんですか?」

「そうですよ。でも口外は禁物です」

 茂利の遠慮気味の問い掛けに、眞流が即座に答える。

「でも何故お二人が」

「表立った仕事も、実は公安の業務にリンクしていてね。我々が超常現象の情報を流しているのは、来るべき将来に人々がパニックを起こさないように免疫をつける為なんだ。例えば、今回の様な事態になった場合にね」

 御嵩はポーカーフェイスを維持しながら、粛々と語った。

「そういう事。だから、ある意味私たちは真実しか発信してない。みんながどう捉えるかは、その人次第なんだけど」

 眞流がニヤニヤっと悪戯っぽく笑う。

 確かに、二人が取り扱う話は非日常的な内容のもので、一見タブロイド紙と同

一視しがちなのだが、理論的に書かれた文面は数々の調査に裏付けられており、静かな説得力のあるものばかりだ。

「我々は戦闘中エリアに立ち入っていないので状況は計り知れないのだが、あの惨状ぶりからすると、相手も相当手練れの様だね」

 御嵩の問い掛けに、茂利は黙って頷いた。

「見掛けは正直言って地球人のJKって感じなんですが……半端無いです。私に『魔法』がかかっていなかったら、到底対等に戦えなかったです」

「『魔法』か……成程な表現ね」

 眞流が腕組みしながらうんうんとしたり顔で頷く。

「敵があの種族を選択したのは、あなたに油断させるつもりなのでしょう。こちらで入手した情報ですと、彼らはここから百五十八万光年ほど離れた、まだ我々が発見していない未知の惑星に住む種族の様です。環境が地球に似ているらしく、そのためなのか、彼らも我々の形態に類似したヒューマノイドタイプに進化したようです」

 御嵩の理路整然とした説明に、茂利は思わず息を呑んだ。御嵩の回答は的確に彼の感じていた疑問のツボを見事に押さえていたのだ。雑誌編集長だけあって、流石洞察力は頗る長けている。

 茂利は驚嘆しながらも一抹の不安を覚えていた。

 今日のタイムアウト直前、彼がとった行動を見透かされてはいないだろうか。

 彼は勝てたかもしれない戦いを放棄したのだ。

「茂利さん、どうかしました? 」

 暮亜が怪訝な表情で茂利の顔を見つめた。

「あ、いや、何でもないです」

 茂利は狼狽した。彼女もなかなかの洞察力の持ち主だ。油断ならない。

「動くなっ‼ 」

 突然、若い男の恫喝が響く。

 眞流の横にダークスーツ姿の青年が立っていた。見知らぬ顔じゃない。朝、邦末を誘しようとした奴だ。彼の右手には拳銃が握られており、銃口は眞流の側頭部を狙っている。銃身がアンバランぬな程に長いのは、サイレンサーを装着させているからだ。

 いつの現れたのか。気配はおろか足音一つしなかった。気が付けばそこにいた――そんな感じだった。

「賢明なる皆さんなら言うまでもないでしょうが、決して動かないように。動けば容赦無く引き金を引く」

 青年は落ち着き払った口調で、このシュチュエーションにお決まりの口上を述べた。

「そんな脅しにのると思う?」

 眞流が上目目線で青年に言い返すと、徐に振り向き、青年を睨みつけた。

 彼は表情一つ変えずに銃口を眞流の額に向け、躊躇する事無く引き金を引いた。

 乾いた破裂音と共に、弾丸が眞流の額を貫通する。

 青年は残忍な冷笑を口元に湛えた。が、瞬時にしてそれは硬く凍てつき、引きつったような笑みに変貌を遂げた。

 眞流は立っていた。

 表情一つ変えずに、驚愕と動揺を隠しきれない青年を、じっと見据えていた。

 青年は狂ったように引き金を引いた。

 引き続けた。

 だが、弾丸は全て眞流の体を貫通する。

 眞流は微笑みを浮かべながら、青年の胸元を軽く右手で突いた。

 そう見えたものの、茂利の目には実際には触れていないようにも見えた。

 刹那、青年の体が大きく宙を舞う。

 乗用車数台分ほどの距離を、大きな弧を描きながら空中散歩した後、彼はアスファルトの硬い路面に一気に叩きつけられた。

 彼は顔を顰め乍らゆっくりと起き上がった。

 茂利は思わず唸った。相当強烈な衝撃が襲ったにも関わらず、彼自身は全くこたえたような素振りは見せていない。常人とは鍛え方が違うのだろうか。

 青年は再び銃口を――ない!

 彼の手から銃が消えていた。

 青年は呆気にとられた表情で、まじまじと自分の手を凝視した。

「銃はこっちだ」

 御嵩の右手に、先まで青年の手の中にあったはずの銃が握られていた。

「君がさんざんぶっ放してくれた弾も回収しておいたよ」

 徐に突き出した御嵩の左掌には、数発の弾丸が鎮座していた。

 青年は目を丸くして御嵩を凝視した。

「あなたはもう包囲されている。諦めなさい」

 青年は慌てて振り向いた。彼の背後には、いつの間にか眞流が腕を組んで彼を見据えていた。

 更に複数の足音が周囲から近付いて来る。スーツ姿の男女十数名。皆、公安なのか。年齢性別はばらばらだが、その独特の雰囲気は何か共通するものがあった。

 冷静且つ厳格なスピリットと言うべきか。

 青年は諦めたのか、引きつったような笑みを浮かべながら両手をゆっくいと上げた。

「確保っ!」

 御嵩が発した掛け声が合図となって、皆一斉に間合いを詰める。

 消えた。

 公安たちの間に、明らかに動揺が走る。

 こちらの面々が一斉に飛びかかろうとしたまさにその瞬間、彼の姿は掻き消すように消失していた。

「かの国で瞬間移動テレポーテーション出来る工作員を育成したって話を聞いたことがあったのだが、奴だったのか」

御嵩が表情一つ変えず呟いた。

「の様ね」

 と、眞流が頷く。

「眞流さん、撃たれたのに、何故……」

 茂利が強張った唇を引きはがしながら言葉を綴る。

「ああ、幽体離脱しているんで」

「え?」

「危険が伴う任務でしょ。肉体は自宅よ。それにこれの方が気をもろ敵にぶつけられるから」

 あっけらかんと答える眞流を、茂利はただ茫然と見つめていた。瞬間移動が出来る工作員も凄いが、幽体離脱出来る公安てのも何だか現実離れした驚愕の事実だ。

(幽体離脱? ……気……? 」

 幽体離脱は何とか理解した茂利だったが、もう一つの気がかりなワードが彼の思考に消化不良的な停滞を及ぼしていた。

 理解できないイレギュラーな事例となると、どう考えてもあれしかない。

 ふと、茂利の脳裏に、派手に吹っ飛んだ青年の姿が蘇る。

(あれが気か。てっきり漫画の世界だけの話かと思った)

 気功術か何かの類なのだろうか。それにしても結構な威力だ。まあ彼が対峙している異星人とは比べ物にはならないが。

「御嵩さん、さっさと銃を取り上げちゃえば良かったのに」

 暮亜がややご機嫌斜めな口調で御嵩をぎろりと見据えた。

「いや、彼女の力を見せつけてビビらした方が捕まえやすいと思ったんでな。いきなり取り上げたら、即座に逃げ出しそうな雰囲気があった」

 暮亜の口撃に少しも狼狽える事無く、御嵩は表情一つ変えずに答えた。

「御嵩さんの、あの力って……?」

「サイコキネシスです。大した力はないけど」

 ぽかんと口を開けたままの茂利に、暮亜がさらりと答える。

「大したは余計だが、ま、そういうことだ」

 暮亜の説明に、御嵩は憮然とした表情で答える。

 驚きだった。驚く事ばかりだ。突拍子もなく巻き込まれた終末戦争のさなかに、異能者達が蠢く策略が息を潜め乍ら進行している。

 しかも、そのいずれにもキーパーソンは茂利なのだ。

(こんなおっさんが主役とはな)

 非常事態にもかかわらず、何だか愉快に思う茂利だった。

 つい先日まで、パワハラ上司にいびり倒される日々を送り、自身を抹消することまで考えていた彼が、今や地球の運命を握り、しかもその存在を欲する組織まで現れたのだ。

 非現実的な事件に振り回されて麻痺っているのか、彼の意識に恐怖はなく、抑えようのない衝動が自噴井のように絶え間なく込み上げ、この上ない高揚感に包まれていた。

「ホテル、替えた方がいいですか?」

 暮亜が不安げに茂利を見た。一連の出来事に動揺しているのではと、彼に気を遣っているのだ。 

「いや、かえって変えない方がいいだろう。ここはセキュリティーが万全だからな。スピリチャルな結界もあってあるから、奴とてそう簡単は忍び込めない。だからさっきここで仕掛けてきたのさ」

 御嵩は落ち着き払った表情で答えると、仲間達に指示を飛ばした。彼らは黙って頷くと、足音一つ立てずに四散した。

「スピリチュアルな結界って、御嵩さんが張ったんですか?」

「俺じゃない。もっと凄いお方だ。霜月恭子先生さ。君も知っていると思うが」

「え? あの有名な霊能力者の? テレビの特番でよく見ましたよ。MOWによく寄稿されていますよね。まさか、霜月先生も?」

「そうだ。他にも大勢いるぞ。大体有名な能力者はほとんどかかわりがあると思っていい」

「これ、シークレットだからね!」

 眞流は茂利にウインクすると、掻き消すように消えた。自分の肉体に戻ったのだ。

「私も持ち場に戻る。二人ともゆっくり休んでください」

 御嵩は茂利に会釈するとゆっくりと歩きだすと、駐車場のコンクリート製の柱の向こうに消えた。

「一瞬にしていなくなってしまった……」

「私達も行きましょう」

 呆然と佇む茂利に、暮亜がにっこり微笑んだ。

 車からバッグを下ろすと、颯爽と歩く彼女を慌てて追いかける。彼女は大きなトランクをガラガラと引きずっているのだが、意外にも足早な歩みに茂利は小走りで続いた。

 暮亜はチェックインをてきぱきと済ませると、カードキーを受け取り、エレベーターへと向かった。

「部屋は十階の一〇八二号室です」

「あ、ああ」

 暮亜の説明に答えながら、茂利は妙な違和感を覚えていた。それが何なのかはちょっと言いにくいことなのだが。ただ漠然とではある。

「着きました」

 暮亜は部屋のロックを解除すると、そそくさと部屋に入った。

「こ、これはっ?」

 天蓋付きの豪奢なダブルベッドに、本革のソファーと明らかにフェイクじゃない黒檀のテーブルの上には、ウェルカムドリンクとフルーツの盛り合わせが置かれている。ここって、どう見てもスイートルーム!

「ここが私達の部屋です」

 あっけらかんとの給う暮亜に、彼の顎は床につきそうになっていた。

「私達のって……君も同室なのか?」

「はい」

「まじかよ。ちょとまずいだろ、それ」

「気にしないでください」

「気にするだろ、普通」

 ヒートアップする茂利にたじたじとしながらも、暮亜は苦笑いを浮かべながらまあまあと彼をなだめた。

「茂利さんは覚醒中は無敵超人ですが、戦闘時間を過ぎると覚醒がクローズしてしまうので、普通の人と同レベルの防御力になってしまうんです。容姿は変わらないんですけど。これはあくまでも異星人からの情報ですが、信憑性はあるかと思います。故に、某国の工作員に寝込みを襲われてはまずいので、私がお守りします」

 暮亜は腰に手を当てて胸を張ると大威張りのポーズ。突き出された胸が、否応なしに強調される。

「先にシャワーを浴びててください。食事はチェックインの時に頼んでおきましたから。えっと、一番高いメニューでしたよね」

「ああ。刺身とステーキ」

「大丈夫です」

 Vサインで答える暮亜に何故か敬礼すると、茂利はシャワールームへと交信した。

バスタブに湯を張り、ゆっくりと肩までつかる。彼が何実のあるビジネスホテルの狭い浴槽とは違い、脚を目いっぱい伸ばしてもまだ余裕のある広いバスタブに、彼は上機嫌だった。

 見るとサウナやジャグジーまでもある。

(流石に、お背中流しましょうかってのは無いよな)

 にまにまする邦末だったが、慌てて頭を振って想念を振り払う。

(いかんいかん。彼女は娘と同じ位の歳じゃないか。俺ってやつは何考えてんだ)

「茂利さあん」

 ドアの向こうから、暮亜の呼ぶ声がする。

(何いいいいいっ? まさかあっ! 妄想が実現するのかあああっ?)

 茂利は血走った目ですりガラスに映った暮亜のシルエットをガン見した。

 服は着ているようだ。

 まさか、これから脱いで入ってくるつもりなのか?

 茂利の心拍数が一気にリミッターを振り切る。

「食事の準備が出来ましたよう」

 暮亜の声が、やけに爽やかに響く。それはまるで中年親父の薄汚い妄想を禊するかのように、冷静沈着な現実を邦末の意識に植え付けていく。

「ありがとうございます。すぐ出ますから」

 己の猥雑な思考を見透かされたかのような気持ちに苛まれたのか、茂利は上ずった敬語で彼女に返した。

「茂利さん、敬語は使わんでええですって」

 妙になまった暮亜の声が聞こえる。どうやら、彼の妄想劇は彼女にかんづかれてはいなかったようだ。

 茂利はざぶんと湯船に頭までつかると、一気に立ち上がった。

 シャワー室から出ると、テーブルの上には今までに見たことが無いような厚いステーキやオードブルに加え、巨大な刺身の舟盛やら寿司やらが隙間なく並べられている。

「凄え」

「私も少しいただいてもいいですか?」

「勿論だよ」

 茂利は弾む声で答えるとそそくさと席に着いた。

 彼の胃はぎゅるぎゅると空腹を訴え、思考を食欲が支配する。

「いただきます」

 彼はスタートを切った。ステーキは部厚にもかかわらず程よく柔らかく、刺身も寿司もネタは新鮮で最高においしく、会話一つなくただただ食に没頭し続けた。

「食べ終わったらベッドに横になって楽にしててください」

 デザートに頼んだ超特大パフェと大格闘しているさなか、暮亜は彼にそう告げた。

「ありがとう、君は?」

「明日の情報獲ってます」

 暮亜はノートパソコンを広げると、徐にキーを叩き始めた。

茂利はしめの珈琲を飲み干すとトイレに向かった。

(今頃、妻と娘は何をしてるんだろう。流石に昼間怖い思いをしただろうから、夜の散歩には出ていないか)

 個室に入り、一人になった途端、彼の意識は家族を思う一人の夫であり父親に戻っていた。

(明日は何処で戦うのか。また何処かの街が壊滅状態になるんだろうな)

(その結果、復興に莫大な税金が投下されるのだ。地球を守るためとはいえ、やりきれない話だな)

 特撮ヒーローが怪獣を倒して爆破する行為を週一でやったらどうなるか――以前、何とかいう科学者が被害総額をはじき出していたのを覚えている。只肝心の金額までは覚えてはいないが、日本が短期間で破産してしまうような膨大な損失であったはずだ。

 それだけの規模の損失を、これから何日か繰り返すのだ。短期で勝負がつけばいいのだが。こればかりは予想が立たない。

 それに。

 茂利に彼女を抹殺できるだけの思い切りと精神力が、果たしてあるのだろうか。

 彼が彼女に取った行動は、地球人目線で見れば、大いなる不安要素と言える。

(思い切るしかないのだ)

 彼は吐息をつくと、便座から腰を上げた。

 と、唐突にトイレのドアを激しくノックする打撃音が響く。

 暮亜だ。敵の襲来か? 異星人とは契約に基づき戦いを進めているはず。となると、工作員が仲間を引き連れて乗り込んできたのか。

(彼の思考に戦慄が走る)

「どうした⁉」

 慌ててトイレから飛び出した茂利の傍らを、暮亜が切羽詰まった表情で突っ込んでくる。

 水の流れる音と共に、零れる安堵の長い溜息。

 茂利が想像していた危機は訪れてはおらず、暮亜に訪れていた危機は無事回避できたようだ。

 茂利は吐息をつくと、クイーンサイズのダブルベッドにダイブした。

(この後、暮亜がやさしくマッサージしてくれるなんて……ないよな)

 茂利はにやにや笑いを浮かべると、ゆっくり眼を閉じた。




 



「茂利さん、起きて下さい! 朝ですよっ! 」

 若い女性の声が、深い睡魔の淵にシャットダウンしていた茂利の意識を強引に現世へと引き戻した。

 妻の声でも、娘の声でもない。

 そうか、暮亜だ。

 茂利はばね仕掛けの人形のように跳ね起きた。カーテンは大きく開かれ、朝の白い光が洪水のように部屋に押し寄せ、満たしている。

「朝ごはんの準備が出来ました」

暮亜がベットの横に立ち、微笑んでいる。すでに着替えを終えたのか、上下黒のパンツスーツ姿だ。

「ありがとう。いただきます」

 茂利ははだけた室内着を直すと、テーブルに向かった。

 メニューはベーコンエッグにパンケーキとクロワッサン。オムレツとウインナーの盛り合わせにフルーツたっぷりヨーグルト。

 いったい誰が朝からこんなに食べるんだ。

 笑ってしまうほどの山盛りメニューに呆気にとられながらも、茂利はそそくさと席について一足先にクロワッサンにかじりついている暮亜の猛進撃に負けじと、慌ててパンケーキにフォークを突き立てた。

 恐ろしく平和な朝だ。いつもなら、今頃既に駅に向かって自転車のペダルを踏みしめている頃だ。

 あの生活に、再び戻る事は出来るのだろうか。

 その為には、戦いに勝たなければならない。

 あの、異星人の少女に勝たなければならないのだ。

 茂利はグラスのグレープフルーツジュースを一気に飲み干した。果汁百パーセントの生ジュース。きれのある酸味と苦みが爽やかな甘味と相まって、すっきりとした最高の喉ごしを奏でている。

 徐に席を立つと、彼は大きく開かれた窓辺に立った。

 立ち並ぶ高層ビル群の間から、巨大な朝日が煌々とオレンジ色の光を放っている。

(取り合えず、やるしかない)

 彼はそう、己に言い聞かせた。

 不意に、鈍い衝撃音と共に暗い影が俺の前に立ちはだかる。

「うわっ!」

 茂利は大声で叫びながら後方にひっくり返った。

 工作員の青年だ。彼は広い窓ガラスにピタッと張り付いたまま、憤怒の表情でこちらを凝視している。

「結界が張ってあるから、彼の能力をもってしてでもあそこまでが限界なのよねえ」

 暮亜はすたすたと窓に近づくと、右掌を窓越しに彼の胸に押し当てた。

 刹那、青年は何かに弾かれたかのような勢いで中空を吹っ飛び、朝日の輝きの中に消えていった。

「暮亜さん、君が奴を?」

「まさか。違いますよ。結界の力です。私と工作員との距離が近づいたので、防御機能が過剰に反応したんです」

 さらっと答える暮亜を、茂利は唖然とした表情で見つめた。

「あの工作員、どうなったんだろう」

 不安げに工作員が飛んで行った方向を凝視する茂利を、暮亜は呆れた表情で見つめると苦笑を浮かべた。

「たぶん、自分の能力を発揮して安全な場所に跳んだと思います」

 心配げな茂利とは対照的に、暮亜はさっぱりきっぱり言ってのける。

「……だといいがな」

「え? 何か言いました?」

「あ、いや、何でもない」

 茂利は言葉を濁すと窓から離れた。自分の身を狙う想定外の敵を心配するなどお人よしも度が過ぎている。彼自身もそうは思うのだが……これは彼の性格と言うか、人間性そのものの問題なのだろうが。

「さ、早く着替えて下さい。今日は少し早めに出ますから」

 暮亜にせかされ、茂利は慌てて着替え始める。なれとは恐ろしいもので、彼女の前なのに何の抵抗もなく部屋着を脱ぎ捨てた。

 戦闘用の服ではなく、あくまでも私服だ。デニムに足を通し、カットソーに頭を突っ込む。

「いいよ、着替えた」

「トイレは大丈夫? 歯は磨いた?」

「あ、はい」

 茂利はまるで母親のような暮亜の号令に肩をすくめると、スリッパをパタパタならしながらトイレに駆け込んだ。

(まるで普段の日常と変わらない朝だ)

 慌ただしい時の間の中で、彼は妙な懐かしさを感じ取っていた。

 彼にとって母親と言うより妻なのかもしれない。妻にとっては夫も娘も手のかかる子供のようなものだろう。彼の記憶の中に、毎朝飛び交う言葉の応酬に、自分と娘とで分け隔ては無かった。

 彼にとって、暮亜は妻がもう一人増えたような存在に感じられた。ただそれは、自分の娘程の暮亜を嫁にしたいという欲望丸出しの妄想ではなく、彼女の言動に妻の面影がシンクロしたとでもいうべきだろう。

「準備は出来ましたか?」

「はいっ! 大丈夫でえす」

「行きましょう。荷物は持って行きます。今日の宿はまた別の所になりますから」

 暮亜はカートを引っ張ると、先頭を切って歩き始める。

 茂利は慌ててバッグを担ぐと後を追った。

 部屋を出ると、申し合せたかのように若い男女のペアが立っていた。どういう訳か、それぞれ茂利と暮亜そっくりのいで立ちをしている。

「お願いします」

 暮亜は自分そっくりの女性にルームキーを渡した。

「了解です。お気をつけて」

 二人は暮亜達に軽く会釈をすると、エレベーターに向かった。

「さてと、私達も行きましょうか」

「今の二人は?」

「替え玉です。工作員がうっとおしいので、巻くために呼んだんです」

「影武者か……二人は大丈夫なの?」

「ご心配なく。二人とも公安の特殊チームに所属する猛者です。異能にもたけていますので大丈夫です」

「異能って超能力? 日本の公安て、どうなってんだ?」

 茂利の問い掛けに暮亜は答えず、ただ意味深な笑みだけを返した。

 ここから先は民間人にはシークレットって事か。

 暮亜はエレベーターの前に来ると上方面のボタンを押した。

「おい、それ上だぞ」

 慌てて茂利が咎めると、暮亜はにこっと微笑んだ。

「いいんですよ、上で」

 エレベーターに乗り込むと、今度は最上階を選択した。

「最上階? まさかビルからビルへ飛び移って移動しろとかいうんじゃあないだろな。時間的にまだ覚醒していないぞ」

「安心してください。そんな無茶は言いませんから」

 核心の回答のない、何かをはぐらかすような彼女の態度に一瞬苛立ちを覚えた茂利だったが、ふとその真意を感じ取った。

 恐らく、盗聴を警戒しているのだ。ハード面でもソフト面でもスピリチュアルな面でも完璧な布陣を敷いているはずなのに、工作員は茂利達がここに来るのを知っていたのだから、決して油断ならないのだ。

 エレベーターが最上階に到着。開いた扉の向こうには、ガラス張りの通路があり、窓越しに屋上の殺風景な景色が広がっている。テーブルや椅子が住みに片付けられているのを見ると、普段はビアガーデンになっているのだろう。

「こっちです」

 暮亜は通路を進むと扉を開け、外へ出た。そのすぐ後ろを茂利が続く。

 同時に、朝の澄んだ空気が二人を包み込んだ。

「もうそろそろ来ますから」

「来るって、何が」

 茂利は訝し気に暮亜を見た。すると、上空からぱらぱらという独特のモーター音が近付いて来るのに気が付いた。

 ヘリだ。

 朝陽を受けて銀色に輝くそれは、徐々に風貌をし始めた。

「へりで、移動するのか?」

「ええ、今日のステージは他に交通手段が無いところなので」

 間近でホバリングするヘリの巻き起こす風が、暮亜の髪を激しくなびかせる。あの宇宙人の少女だったら、パンチラどころの騒ぎじゃないだろう。

 ヘリはゆっくりと高度を下げ、着陸した。

「さあ、乗りましょう」

「ああ」

 バッグを担ぎ直すと、茂利はヘリに駆け寄った。

「おはようございます」

 パイロットが茂利に声を掛ける。

「おはようございま――えっ!」

 茂利は眼球素っ飛びの驚愕絶叫を激しく奏でると、食い入りようにパイロットの顔をガン見した。

「御嵩さん――へり、操縦出来るんですか!

「ああ。乗り物は全て乗りこなせるよ。潜水艦でも戦闘機でもスペースシャトルでも」

「UFOも?」

「それはトップシークレットだな」

 御嵩は茂利のストレートな質問をさらっとかわすと意味深な笑みを口元に浮かべた。

「どうもお、今日は肉体同伴よ」

助手席からひょこり顔を覗かせたのは眞流だ。肉体同伴てのも何となくエロい表現だが、迷彩柄のジャンパーの下の黒いカットソーから覗くこぼれんばかりの胸元はもっとエロい。

「さあ、行こうか」

 御嵩が操縦桿をゆっくりと動かす。

 ヘリは爆音を轟かせながら、ゆっくりと上昇し始めた。

「暮亜ちゃん、さっき先行隊から連絡があったわよ」

「首尾は?」

「デコイを猟犬達が追跡中、だそうよ」

「良かった。大成功! 」

 暮亜は安堵の吐息をつくと、満足げにシートに深く身を沈めた。

「デコイって、囮か? ひょっとしてさっきの二人か? 」

「そうよ」

「追手が二十名程。敵は応援要請を掛けたのね。たぶん日本中の工作員を終結させたっぽいな」

「じゃあ、あの二人、やばいんじゃあ」

「大丈夫。こっちはその十倍以上の仲間が動いているから。それに、彼らの行く先は下手にドンパチ出来ない所だから」

「何処、それ……?」

「国会議事堂の前よ。もし何か起きれば、世界が注目する場所だから、下手に身動き取れないはず」

「成程、最強の罠だな」

「最高でしょ? ちなみにこれ、私が考えた作戦なんで」

 暮亜はえへんと胸を張って大威張りのポーズ。

「今日のステージは何処なんだ? 」

「ヘリじゃないといけない場所です。船でも行けるといやあいけますけど」

「無人島? 」

「ご名答」

 暮亜が人差し指を立てる。

 妙な空気が、辺りに立ち込めていた。

 暮亜の台詞、受け狙いのオヤジギャグか、それとも偶然か?

 ヘリは何もない海原の上空を爆音と共に飛行していく。

 いい天気だった。

 見渡す限り、雲一つない晴天だ。

 静かに波打つ海面を、茂利はぼんやりと見つめていた。

(今日で片が付くのだろうか)

 茂利は人知れず静かに吐息をついた。

「茂利さん、大丈夫ですか? 」

「え? あ、いやあ、大丈夫」

 心配そうに顔を覗き込む暮亜に、茂利は慌てて弁解めいたリアクションをとると、表情を硬く引き締めた。

(いかんいかん、迷ってる場合じゃない。地球の運命がかかっているんだ。昨日みたいな甘っちょろい迷いはNGだ)

 茂利は頭をがりがりと書くと、間近に迫りつつある孤島をじっと見据えた。無人島と言う割には、港周辺に民家が立ち並んでいる。が、よくよく見れば家屋は軒並み崩壊寸前にまで朽ち果て、窓ガラスは砕け散り、外壁のトタンのなみ板は錆びてぼろぼろになっていた。

「この島はインフラが進まなかったんです。だから、住民達が近年次々に離島した為、現在は誰も住んでいません。移住の際に島の土地は国が買い上げましたので、建物はぶっ壊しても大丈夫です」

「そうなんだ。まあ、今でもかなりぶっ壊れてるけど」

「もうすぐ着きます。戦闘用の服に着替えて下さい」

 暮亜が手渡してくれた紙袋には、昨日着用したコスチュームの迷彩柄タイプが入っていた。

「着替えはどこで?」

「ここで着替えて下さい」

 愚問だった。彼も予想はしていたが、まさかのストレートな回答だった。しかも今回は真横に暮亜が座っている。昨日みたいにシートの陰でごそごそと着替える事は出来ない。

「時間がありません。急いで下さい」

 スマホの時計を見ながらせかす暮亜に黙ったまま頷くと、茂利はシートベルトを外してそそくさと着替えを始めた。

 彼が着替えを終え、安堵の吐息をついた頃、ヘリは島の中腹でゆっくりと下降し始めた。

 生い茂る木々の間にぽっかりと空いた空間。すぐそばの木造二階建の建造物は蔦で覆われ、その所々が崩れ落ちているのが見える校庭は意外にも草り取られ、本来の地肌が陽光にさらされている。

 ヘリを着陸させるために急遽草刈りでもしたのだろう。急ごしらえのヘリポートが、緑に呑まれゆく廃墟とは対照的に、妙に異質な存在に見えた。まるで圧倒的な破壊力で文化の痕跡を飲み込んでいく大自然の再生力に抗うかのように。

 ヘリはゆっくりと降下し、不快な衝撃もなく静かに校庭に着陸した。

「ここからはお一人で行ってください。我々は時間まで島を離れ、別の場所で待機していますので」

暮亜は率先して席を立つと、ヘリのドアを開けた。

「分かった」

 茂利は頷くと、席から身を起こし、開け放たれた扉から外へ飛び降りた。

「ご武運をっ! 」  

 眞流の敬礼に、茂利は慌てて中途半端な敬礼で返す。

 へりはゆっくりと浮上し、大空へと消えて行った。

 強い日差しが、刈り取られて地面に横たえられた雑草を醸し、周囲を青臭い匂いで満たしている。

 とは言え、グラウンドに生えた雑草を全て伐採した訳ではない。ヘリが着陸できるように直径五十メートル程の円の中だけ刈り取っただけなので、後はイネ科の背の高い植物がぎっしり生い茂り、行く手と視界を遮っている。今回の彼の戦闘用スーツが迷彩色なのは、それ故になのだろう。

(そろそろ来る頃だな)

 茂利は目を細めながら天空を仰いだ。雲一つ無い上空に、未だ飛行物体らしき姿は見えない。

(昨日終板の俺の勢いに押されて棄権したってことは……ないわな)

 不戦勝の淡い期待を抱く彼に、そう甘くないと現実が語り掛ける。

 いつの間にか、見覚えのある飛行物体が目と鼻の先で空中に停止していた。

 忽然と現れたのだ。まあ未確認飛行物体の出現状況例からすると、それもありなのだ。

 飛行物体の一部に円形の開口部が生じる。

 颯爽と飛び降りる黒い影。お待ちかねの対戦相手登場だ。

 紫色の髪をなびかせながら、少女は重力を感じさせない軽やかな身のこなしで地上に降り立った。

「ああっ?」

 茂利は両眼をおっぴろげると、食い入るように少女の風貌をガン見した。

 コスチュームが変わっていた。

 それも、濃紺のスクール水着。おまけに足元は小さな向日葵の花をあしらったサンダルだ。向日葵はイミテーションだが、否それ以前に、戦闘にサンダルとはいかがなものか。

(リゾート気分かよ。でもそれならせめてビキニだろ)

 あっけにとられる茂利をよそに、少女は容赦なく一気に間合いを詰める。

 拳が立て続けに中空に軌跡を刻む。肉眼では追いきれない超高速で繰り出される拳を、茂利は紙一重の所でかわしていく。

 常人では追いきれない速度の剛拳連打を、茂利は確実に見切っていた。

 見切るだけではない。

 その軌跡をぬいながら、自分にとって好都合な間合いを見極めようとしていた。

 間髪を入れずに放つ回し蹴りを、茂利は左腕で受け止めると、すかさず彼女の足首を確保。体を反転させて彼女を投げ飛ばす。

 少女の体は白い雲を引きながら、かろうじて痕跡をとどめている廃校となった小学校の校舎に突っ込んだ。舞い上がる土埃と粉砕音が、衝撃の凄さを物語っている。が、昨日の高層ビルに比べるとささやかなものだ。

 後者に大きく開いた穴から、症状がゆっくりと姿を現した。勿論、負傷はしていないものの、全身に白っぽい埃を被っている。

「ここならどれだけ壊してもいいぞ」

 茂利が眉毛を吊り上げ、異星人の少女に言い放った。

 少女が口元に冷笑を浮かべる。

 彼女の右手に青白い光が像を紡いだ。

「何だありゃあ?」

 茂利は眉を顰めて少女が生み出そうとしている新たな凶器を見据えた。

 太い柄の先に、巨大で幅広の割には刀身の短い片刃とは言え、全体のフォルムは彼女の体躯の半分強はある。

 鉞だ。それも、棒杭のような柄に長座布団級の巨大な刃がついている

(鉞とは……昨日の大鎌と言い、どえらくいぶし銀なアイテムじゃねえか)

 もはや驚きもしないが、明らかに体躯と比べてアンバランスな武器であるにもかかわらず、彼女は何の苦も無く軽々と肩にしょい込んでいる。

(俺にも何か獲物が必要だ。でも昨日みたいな鍋の蓋じゃ受けきれそうもないな……)

 少女は思案する彼に容赦なく襲い掛かる。

 大きく振りかぶった鉞が、ぶんという風を切る低い音と共に、まっすぐ茂利の頭頂部を襲う。

 茂利は後方に大きく跳躍し、其れを躱した。

やみくもに避けたわけじゃない。居合切りを遥かに凌ぐ超高速の剣技?だが、茂利の目にははっきりとその軌跡が捉えられていた。

 鉞の刃が、つい先程まで茂利が立っていた場所に深々と食い込む。

 同時に、間合いを詰める茂利。

 彼の繰り出した拳は残念ながら鉞の柄で受け止められていた。

 大地に刃身のほとんどが食い込んだにも関わらず、少女はいとも簡単に引っこ抜くと咄嗟の防戦に応じたのだ。

 少女が横方向に大きく鉞を薙ぐ。

 茂利の体がふわりと舞い上がると、鉞の刀身に着地。

 少女はぎょっとした表情で茂利を見た。

 同時に、茂利の回し蹴りが少女の側頭部に炸裂。

 少女の体が弾丸のように素っ飛んでいき、藪の木々を倒しながらはるか向こうの小さな港に建っていた灯台を粉砕すると、大きな水しぶきを立てて波紋を立てて海に落下した。

(あいつ、泳げないってことはないよな……)

 茂利は目を凝らすと、心配そうに波紋の広がる水面を見つめた。

 次の瞬間、それが余計な詮索であることに気付く。

 凄まじい水飛沫とともに少女が水面を割って飛び出した。その跳躍力はとんでもなく常識を超えており、見る見るうちに天空へと消えて行った。

(まるでロケットだな)

 あっけにとられて空を見上げる茂利の表情が瞬時にして強張る。

 慌てて後方に跳ぶ茂利。

 彼が退いた地点に着地するよりも早く、黒い影が彼の視界を過る。

 凄まじい轟音と共に彼の目前の大地が大きく爆ぜた。

 鉞が、大地に深々と刺さっている。

 さっきと同じパターン――ではなかった。大地に食い込んだ鉞の刃を中心に、前後に亀裂が走る。まるでシャコガイのように大地に刻まれた亀裂は大きく口を開くと、更に前後縦横に左右に広がり、巨大な渓谷を築き上げていく。 

 島が、分断されていた。

「島を沈める気かっ? 」

「壊していいといったではないか」

「馬鹿野郎、やり過ぎだ」

 茂利が眉間に皺をよせ、.険しい表情で少女を見据えた。

 少女は舌をペロッと出すと、ニヤッと悪戯っぽく笑う。

 茂利は驚きに目を見開く。終始無表情だった昨日からは、想像できない態度の変貌ぶりだった。

 彼女に何があったのか?

 それは流石に超人化した茂利であっても知る由は無い。

(おいおい、てへぺろっているレベルじゃねえだろ)

 思わず苦笑を浮かべる茂利に、少女が迫る。

 鉞の刃が風を斬る。

 隙をつく容赦の無い剣戟は、無防備な茂利を正面から捉えていた。

甲高い金属音が巨大な刃を食い止める。

 茂利の手には一本の槍が握られていた。丸太程の太い柄の先に、三つに分かれた鋭い刃が澄んだ輝きを放っている。

「お前にこれが分かるか?」

 茂利の問い掛けに、少女は首を横に振った。無視するわけでも黙殺するわけでもなく、ちゃんと反応したことに茂利は幾分驚きを覚えていた。

「これはな、天逆矛ってしろものさ。昔、神様がこいつで海を掻きまわして日本を作ったって言い伝えがあるんだ」

 少女は首を傾げた。茂利の話が理解できていないようだった。そりゃあそうだ。何しろ相手は異星人だ。例え地球人であっても、理解できるのは日本人位か。それでもほとんどの者が理解できないかもしれない。

「お前がこの島をぶっ壊すんなら、俺はすぐに島を修復してやる。見てろよっ!」

 茂利は大きく振りかぶると、思いっきり槍を大地に突き立てた。

 ずん! と、下腹を突き上げるような重い衝撃が大地を激しく揺さぶると、戸を貫く矛先から四方八方に無数の亀裂が走る。

「えっ?」

 茂利は思いもよらぬ事態に動揺し、慌てて槍を引き抜いた。

 が、其れが仇となって、引き抜いた時の振動を受け、亀裂は更にその開口部を広げ、入り組んだ峡谷に勢い良く海水が流れ込む。

 少女は呆然と佇む茂利の表情に噴き出すと、腹を抱えて爆笑した。

「な、何を笑ってやがる」

「やってることは私と一緒じゃないか。てより、私以上だな」

 狼狽する茂利を嘲るかのように、少女は冷ややかな表情で足元に広がる惨状を見下ろした。

「どうやって修復するつもりだ?  」

「うるせえっ! 」

 茂利は八つ当たり的な怒号を吐くと、矛先を少女に向けた。

 少女は涼しい気な表情でこれを躱す。

 無駄のない、無数の円を重ねたような美しい身のこなしだった。

 身を反転させたかと思うと大きくのけぞり、更に開脚で身を沈めた次の瞬間、大きく跳躍して、もはや踏み石のようにしか存在していない僅かな島の名残に着地する。  

 まるで、あらかじめ決められた脚本に沿って演武しているようにすら感じられる無駄のない動きだ。

「畜生目めっ! 」

 茂利は槍を掲げながら跳躍すると少女の跡を追いかけた。

(そうだ、イザナギとイザナミは槍を突き立てたんじゃない。槍で海を掻きまわして雫を落としたんだ)

 茂利はふと蘇った記憶に心躍った。

(やってみるか!)

 茂利は生唾を飲み込むと、矛先を足元に迫る海面に突っ込み、かきまぜた。

 途端に、水面が大きく波立と、巨大な渦が発生した。

 渦は、わずかに残る島の残骸を次々に飲み込んでいく。勿論、茂利の足元も同様の運命をたどりつつあった。

(わ、やべえ)

 茂利は、僅かに残る大地を踏みしめると、大きく後方に跳躍。

 刹那、彼は最悪の現況に気付いた。

 陸地が、無くなっていた。 

 どうやらさっきの渦が、かろうじて残っていた島の名残を全て海中に飲み込んでしまったらしい。

(まずい、着地する場所がない。そういや、あいつは何処行っちまったんだ?)

 何気に上空を見上げる。

 いた!

 彼の真上。距離にして数十メートル上空に。

 鉞を担いでぐいぐいと近付いて来る少女。茂利はと言えば、まだまだ上昇中。

 このままいけば、否応無しに接触する。

 3、2、1……

 少女が鉞を振り下ろす。不安定な中空にもかかわらず、凶器はぶれる事無く彼の頭部を狙う。

 刹那、茂利は矛先でそれを受ける。

 二人は組み合い、もつれあったまま落下へと転じた。

 着水寸前、二人は離れる。

 白い水飛沫を上げ乍ら、二人は海面を大きくスライドした。

 二人は沈まない。

 二人の足元で渦巻く波が、浮力を生み、支えているのだ。

(すげえな。こんな体験、滅多に出来ねえ――てより、普通無理だろ)

「行くぞおおおおおっ! 」

 茂利は波を蹴った。投げた石が水面をはぜるかのように跳躍しながら、彼は少女目掛けて海面を疾走した。

 少女は身構えると、じっと茂利を見据えた。彼女の足元の海面が大きく持ち上がり巨大な波となった。

(なんだよおい……)

 眼前に突如現れた高層ビル並みの波の壁に、茂利は愕然とする。

 少女は涼し気な笑みを浮かべながら、巨大な波の背に乗って茂利を悠然と見

下ろしていた。

(ボード無しでサーフィンかよっ!)

 茂利は動揺しながらも、進行を緩めなかった。どうにでもなれという開き直りと、どうにかなるだろという超天然的ポジティヴ思考が、彼を前へ前へと突き進ませていた。

 押しと腰の強さには自信がある――それは、以前の茂利のビジネススタイルだった。 

 ありとあらゆる負のスパイラルを、個人的超お祭り的プラス思考で数々の難局を乗り切ってきた、彼の忘れ去られていた本質の開眼だった。

(気持ちいいっ!)

 茂利は興奮していた。

 危機的状況に陥りながらも、ドーパミンとアドレナリン分泌と供給は半端なく、無尽蔵かと錯覚するほどに怒涛の如く溢れ出るや、茂利の心身をどぶ漬け状態に誘っていく。

 茂利はひときわ大きく跳躍。矛先が波の壁を横一文字になで斬る。すると、波は一蹴にして表面張力を失い、水飛沫と共に崩壊していく。

(彼女は何処だ? )

 茂利は目を凝らした。

 滝のように崩れ落ちる水の壁の中で、一瞬、不自然なきらめきを察知した。

(金属光沢!)

 降り注ぐ海水のシャワーと共に、少女が茂利に鉞を振り下ろす。

 が、茂利は落ち着いた素振りで槍先で受けると、これを躱し、巧みに彼女の背後を取った。

「貰ったあっ!」

 茂利の渾身の突き。

 矛先が、彼女の背を突く寸前、槍先は鉞の側面に弾かれた。

 少女は大きく跳躍。彼の後方に降り立った。

 茂利は海上を疾走した。

 足裏を捉えるグリップ感は陸上のそれと違和感は無い。

 足が着水する毎に足元で爆ぜる水飛沫さえなければ、陸上を走っているのと何ら変わりは無く、目をつぶれば海上にいる事実を忘れてしまいそうになる程だった。

 少女は鉞を大きく水平方向に振った。

 鉞は嘶くような風切り音をあげる。同時に、彼女の足元の渦が大きく上空へと伸長した。

 竜巻だ。

 見る見る間に発達し、巨大化すると、まっすぐ茂利に迫る。

 だが、茂利は怯むことなく突き進んだ。 

 接触まであと僅か。

 茂利は竜巻目掛けて槍を大きく振り下ろした。

 竜巻は縦に大きく避けると、一気に表面張力が崩壊し、水飛沫を上げて崩壊した。

 勝算はあった。

 さっきの大波でこの槍の効力は確認済みだ。この槍は水の張力を切断する事が出来る。ならば、海水を吸い上げ、さながら渦潮の逆バージョンとなっている竜巻は切れるはず。

 想定通りだった。

 が、想定以上の事態が起きていた。

 竜巻が飛沫となって消えた後に、その現象は茂利の両眼に飛び込んできた。

 海が、二つに割れていた。まるで、どこかで聞いた事のある奇跡の様に。但し果てしなく道が出来たのではなく、大型タンカー一隻分ほどの亀裂ではあるが。

 切り立った側面は側面は崩れることも滝のように流れ込むこともなく、まるでゼリーを刳り貫いたかのようにつるっとした平面を手折っており、底には灰色の差面と様々な海藻がてらてらと妖しげな光沢を放っていた。


 あの少女は何処に……いたっ!

 海底のど真ん中。鉞を肩に担いで涼しげな表情を浮かべながら、茂利を見上げている。

 茂利は海底目掛けて跳躍した。風が轟と鳴き、より濃厚な潮の香が茂利の備考に飛び込んでくる。

 矛先を、まっすぐ少女に向ける。

 接触寸前、少女は後方に跳躍。矛先がずっぽりと海面に突き刺さる。

「流石すばしっこいな」

 茂利は、苦笑いを浮かべながら槍を引き抜こうと――抜けない。

(? )

 茂利は渾身の力を込めて槍の柄を引っ張った。

 抜けない……びくともしない。

(くそっ! 今襲われたらひとたまりもないぞ)

 茂利は少女の姿を追いながら、必死に槍を引っ張った。

 茂利は歯を食いしばり、凄まじい形相を浮かべながら、額に噴き出す汗を拭おうとも背せずに引っ張り続ける。が、槍はほんの数ミリも動かなかった。

 そんな茂利の姿を、少女は不思議そうに首を傾げて見ていた。いつでも攻撃できる状況にあるにもかかわらず、彼女はその気はないのか、威嚇する素振りすら見せていない。

 それでも茂利は絶えず少女の動向を垣間見ながら、焦燥に身を焦がしつつ槍と格闘し続けていた。

 少女は大きくため息をつくと、鉞を干上がった海底に突き刺した。むき出しの岩礁に、鉞の刃ががっちりと食い込む。その振動に驚いたのか岩陰に隠れていた蛸がのそのそ這いだして彼女の足元を横切っていく。

 少女は腕組みをすると、ゆっくりとした足取りで茂利に歩み寄った。

 間合いに入っても組んだ腕をほどこうとせず、警戒する素振りも何もない。

 茂利は険しい表情で少女を見据えた。

(こいつ、何をするつもりなのか。全く予想がつかねえ)

 警戒する茂利をよそに、少女は組んでいた腕をとくと、徐に茂利の槍を握りしめた。

「手伝ってやる。私は奇襲攻撃は好きじゃない」

 少女は流暢な日本語で茂利に声を掛けると、茂利の動きに合わせて槍を引き抜き始めた。

「あ、ああ。すまねえ」

 想定外の彼女の行動に、茂利はどぎまぎしながら頷いた。

(どういう事だ?、滅茶苦茶に街を破壊し島を消滅させる冷酷無比な日知面があるかと思えば、フェアプレイに撤する一面もあるとはな……分からん。ますます分からん)

 獲物は彼の槍同様、地面にぶっ刺さっているし、両手は槍を握りしめているので殴りかかって来ることもなさそうだ。じゃあ蹴りは――疑い出すときりがないが、其れもなさそうだ。大股に足をおっぴろげて踏ん張っている姿から、茂利柄の攻撃に転ずる姿がこれっぽっちも想像できない。

「そりゃあっ!」

 茂利は雄叫びを上げた。両椀の筋肉がプルプルとふる得ながら膨れ上がり、胸筋はコスチュームの生地を限界にまで引き延ばし、背筋と大殿筋はローマ彫刻のような躍動的なシルエットを浮かび上がらせていた。

 それは、少女も同様だった。全身の筋肉が筋繊維の規則正しい流れに沿って研ぎ澄まされた陰影を築き、体に張り付いたスクール水着はその躍動的な体躯の動きを如実に描いていた。

 まさに究極の筋肉祭りだった。それも、見せる筋肉ではなく、実用的な筋肉にガードされた理想的なファイターとしての肉体美だ。

 止めどもなく滴り落ちる汗を拭おうともせず、二人は槍を引っ張り続けた。

 ?

 茂利は妙な感触を覚えていた。 

 気持ち、槍が持ち上がったような……でも、抜けてはいない。

(なんだったんだろう、今のーーまただ!)

 茂利は確信した。決して気のせいではない。何かは分からないが、何かしらの変化が起ころうとしているのは確かだ。

(もう少しだ)

(もう少しで抜ける)

 言葉にならない咆哮を絞り出すと、茂利は大きく体を逸らした。

 刹那、体がぐぐっと上に持ち上がる。

 槍は抜けていない。だが確実に槍は持ち上がっている感覚があった。

「うわっ!」

突然槍が抜け、茂利と少女は絡み合いながら転倒した。

「ありがとう、やっと抜けた」

 茂利はばつの悪そうな笑みを浮かべながら少女に礼を述べた。

 刹那。

 彼は言葉を失った。

 思いっきり開いた目は、眼球が眼窩から零れ落ちそうになっている。

 ぽかんと口を開いたまま、茂利はまじまじと周囲を見渡した。

 二人は、小高い丘の上にたたずんでいた。

 元の島の百倍近くはある巨大な島の最も高いところに、二人はいた。

 島と言うよりむしろ……大陸だ。

 茂利はごくりと生唾を飲み込んだ。

 遥か先になった海面の様子がおかしい。

 高台にいるからはっきりとは認識していなかったが、よく見ると海岸部の海面が陸地より大きく盛り上がって見える。

「津波が来るのか――違うっ! まずいっ!」

 茂利の顔から血の気がひく。

 津波だ。と言っても、この島を襲うんじゃない。この島から四方八方に陸地目掛けて襲い掛かろうとしているのだ。

「すまねえ、戦いはお預けだ」

「何をするつもりだ?」

「槍で波をぶった切ってくる。でないとあちらこちらで津波の被害が出るんだ」

「そんなんじゃ間に合わない。私に策がある。飛ばされないようにしっかりつかまれ」

「こうか?」

 少女のてきぱきとした指示に従い、茂利は槍を握りしめたまま少女の腰にしがみついた。

「そういう意味じゃないんだが――まあよいわ。お前の力も借りるぞ」

「えっ?」

 少女への疑問詞が突如巻き起こった風音に掻き消される。と同時に、身体が引きちぎれるような強烈な遠心力が茂利を襲った。

 少女は回転していた。もはやその軌跡すら目では追えない超高速回転で、砂塵を激しく巻き上げながら、空高くへと舞い上がる。

 竜巻だ。それも大きくうねり乍ら巨大に成長し、新たに生まれた島そのものを遥かに凌ぐ径にまで成長を遂げると、波状に広がる大津波を、次々に吸い上げていく。巻き上げられた海水は上空高くまで達すると、次第に雨雲に転じ、渦を巻きながら二人を取り囲んでいく。

 目まぐるしく移り変わる風景を目の当たりにしながらも、茂利の身体能力は三半規管までもが強化されているのか、目が回って意識が飛ぶような事態には陥っていない。

 下を見ると遥か彼方にポツンと 島らしいものが見える。

(いったいどこまで飛んでるんだ?)

 無理矢理首を捻じ曲げて上空を見ると。

 星が見えた。宇宙空間まで目と鼻の先だ。

(成層圏?)

 驚きを隠せない茂利の顔を覗き見た。

「もういい。戻るよ」

 少女は回転をぴたりと停止した。

 同時に、二人は地表目掛けて急降下。

「うわああああああああああああああっ!」

 茂利の喉から絶叫が迸る。

 元々ジェットコースターとか絶叫系アトラクションが大嫌いな彼にとって地獄のひとときだ。バンジージャンプやスカイダイビングなど一生しないだろうと心に決めていた彼が、今や命綱もパラシュートもない過酷な急降下の真っただ中にいるのだ。

 少女は少しずつ減速しながら降下続け、やがてふわりと静かに地表に降り立った。

 彼女の腰にしがみ付いたままの茂利だったが、彼自身も衝撃荷重ゼロの信じがたい着地を成し遂げていた。

 周囲を見渡すと、大津波は全て昇華され、海面は平静を保っていた。

 だが頭上には、吸い上げた海水によって生じた雨雲が濃い灰色の厚い層をなし、重く垂れこめている。

「助かった。有難う、これで津波の被害を抑える事が出来た」

「民間人を巻き込んではならないからな」

 少女が天を仰いだ。常に無表情な彼女の顔に、仄かに微笑みがふくらんだ。

(こいつ、微笑んでいるぞ。それも飛び切りかわいく)

 茂利は驚きながら彼女の顔を凝視した。

 昨日よりも、何だか人間味が出ている。異星人に人間味と言うのも妙な表現だが、当初の無表情な面立ちからは想像がつかない親しみが感じられた。

 感慨深げに思いを張り巡らせている彼の額を、冷たいものが降りかかった。

 雨だ。

 どんよりと重く立ち込める雲から、大粒の雨が茂利たちに降り注ぐ。

「うわっ!」

 目も明けられない程の土砂降りだ。にわか雨と言うよりもゲリラ豪雨と言うべきか。瀧行を体験しているかのような絶え間なく降り注ぐ雨は、濃厚な水煙を成して周囲の視界を白い壁で遮断した。

(そうだ、傘を生み出せないか)

彼は脳裏に巨大な傘を思い描いた。が、彼の意図に反して傘は柄すら姿を見せない。彼はテントやら雨具やらイメージしたものの、思考を実体化出来るのは、どうやら武器か防具に限られるようで、一向に実体化する素振りは見せなかった。

(じゃあ、これならどうだ)

不意に、何もない空間に巨大な黒い影が浮かぶと、一瞬きもしないうちに質感を湛え、実体化し始める。

大きくのしかかってくるそれを、彼は片手で受け止めると、槍先で受け止めた。

鍋の蓋だ。

それも、直径数メートルは優にある超馬鹿でかタイプ。

昨日の前例があるだけに、鍋の蓋は防具として認識してくれるようだ。

槍で支えながら、蓋を固定する。

 一見、野鳥を捕らえるためのトラップにも見える其れは、桶をひっくり返した感のあるどしゃぶりの雨を見事に遮り、説得力のある雨宿り的存在感を誇示していた。

「おい、君もこちらに来ないか?」

 茂利は雨の中で腕を組んだまま佇んでいる少女に声を掛けた。

「大丈夫。今日のこすちゅうむは水に濡れてもよいやつだ」」

 少女は相変わらずつんとした表情で答えた。

 確かに。彼女の着衣はスクール水着。しかもご丁寧に胸に「1―九 きるん」と書かれた白い布製の名札まで貼ってある。

(キルン――ひょっとして、これ彼女の名前か?)

「君の名はキルンて言うのか? 」

 茂利の問い掛けに、彼女は黙って頷いた。

「私の名はキルン・ドウヌ・クロウラー。地球人の言語に発音を合わせれば、こうなる」

 彼女は自らそう名のると、茂利の鍋の蓋の下に入った。

「来る気になったか」

「戦いの時間が終わったからな」

 キルンは手の甲で顔を滴り落ちる水滴を手の甲で拭った。

 濡れそぼった体から、白い湯気が立ち上っている。

「俺もせっかくだから名のっておく。俺の名は茂利一行って言うんだ」

「モリ・カズユキ、か」

「ああ。そうだ、ちょうどいい機会だから聞きたいことがあるんだが」

「何だ?」

「地球の……日本語はいつ覚えんだ? 」

「一週間前だ。データを直接思考にシンクロさせて焼き付けた」

「よく分からんが、スゲーな」

「戦う相手の言語や文化は事前に学習することにしている。戦いの結果次第では今後の歴史を書き替えることになるからな。せめてもの礼儀だ」

 キルンは胸を張りながら、得意げに嘯いた。

 成程、それが昨日のゴスロリ的メイド服で、今日がスク水って訳か。まあ敵の文化を重んじる姿勢は見上げたものだが、ちょっとディ―プな路線を攻めている。

「もう一つ、聞いていいか? 」

「なんだ?」

「君は何故戦う。金か? それとも名誉か? 」

 茂利は振り続ける雨を見据えたまま、静かにキルンに語り掛けた。

 キルンは、戸惑いに似た表情を浮かべた。首を傾げながら茂利を覗き見るキルンの仕草には、彼の真意が計り知れずにいる様にも見える。

 キルンは重い吐息を溢すと、再び目線を降りしきる雨に向けた。

「故郷の為だ」

 キルンは閉ざされていた唇の封印を引き離すように解くと、言葉短に呟いた。

「故郷の、為? 」

 茂利が訝し気に少女を見た。

 少女の回答には、二つの、それぞれ違う解釈が見て取れた。

 一つは、惑星の支配を続ける国家に貢献する為。そしてもう一つは……。

「私の星は、奴らに支配されたんだ」

「奴らって? えっ? どういうこと、それ」

「この戦いを仕組んだ連中と私は同族じゃない」

「その情報は俺も掴んでいる。じゃあ、君の星も奴らに襲われたのか」

「ああ」

「でも、君くらい強ければ簡単に撃破出来るんじゃないのか?」

「個々での戦闘能力は長けていると思う。でも、我々より遥かに進んだ科学の前には、抵抗するにはリスクがあり過ぎた」

「君らでも太刀打ちできないのか」

「ああ。それに戦に長けた種族とは言え、今の私の力は元々あった訳じゃない」

「それは……」

「お前と同じだ。私も戦闘用にチューンナップされたんだ」

「何でわざわざそんな」

「楽しむためだ」

「楽しむ? 」

「奴らにとっては娯楽に過ぎないのさ。一方だけ極端に強過ぎても、ショウとしては面白くないだろ? お前は気付いていないみたいだけど、戦いの様子は生配信されている。今は時間外だから、撮られていないようだがな」

(何てことだ……)

 茂利はぐっと唇を噛み締めた。耐え難い怒りが、彼の意識を激しく翻弄する。

 自分が命を懸けて地球の運命を担って戦いに挑んでいるというのに、侵略者達はそれを娯楽の一環としてとらえているというのか。

 無意識のうちに握りしめた茂利の拳が怒りに震えていた。

 腹立たしくて仕方が無かった。

 人類の運命を何と思っているのか。

 ふと、彼の脳裏に疑問が過る。

 彼女はさっき、故郷の為に戦っていると言っていた。それも、彼女の惑星を虜囚に従えた敵の手先となって。

 おかしい。

 会話の内容がシンクロしていない。

「惑星を賭けた戦いに百回勝てば、私の星を未来永劫支配下から除外する――それが、奴らと私が交わした契約だ。今回の戦いでおまえに勝てば、満願成就、目標達成だ」

 まるで茂利の疑問を見透かしたように、キルンは淀みなく語った。

「記念すべき戦いって訳か……でも何故、連中は代理戦争を仕掛けてくるんだ? 想像を絶する超文明なんだろ?、その気になりゃ、地球上の全てを一瞬にしては意にも出来るんだろうに」

「自分達に被害が及ばず、獲物の惑星も被害を最小減に食い止め、手中に入れに入れる。それが、奴らのやり口だ」

「その割には結構ぶっ壊しているぜ」

「相手を徹底的に委縮させるには、ある程度の力を誇示する必要があるからな」

「奴らはここを征服したらどうするつもりなんだ? 地下資源没収か? それとも人類食料化計画か」

「おまえ凄いな。どちらも当たってると言えば当たっている」

「えっ? マジかよ」

「資源は根こそぎ持って行くわけじゃない。まあ実害はないだろう。奴らが必要としているのは、お前たちが普段見向きもしていない物質だしな。それに人類もそのまま食べる訳じゃない」

「生では食わないって事か?」

「そういう意味じゃない。奴らが食うのはプラアナだ」

「何だそりゃ?」

「生命エネルギーさ。奴らは高次元の生命体だからな。他の生物の生体エネルギーを取り込んで生きている。奴らの惑星狩りは、食糧供給地の開拓でもある」

「じゃあ、奴らに支配されても殺戮されるわけじゃないのか」

「ああ。一般人ならば、奴らの支配下にあることなど一生気付かないだろうな」

「奴らの家畜って訳? 」

「そういう事」

「負けたって人類滅亡の危機は無いって事か」

「ああ。だが弊害はあるぞ」

「どんな? 」

「寿命が短くなる。生体エネルギーは強制的に抜かれ続けるからな。平均寿命が恐らくは今の半分になる。それと、遺伝子操作でこれ以上進化しないようにされてしまう。将来的に超進化を遂げて立場が逆転するのを恐れているのでな」

「成程な」

 茂利は溜息をついた。取り合えず人類滅亡の危機はなさそうだ。だが、人類の平均寿命が大幅に短くなるのは、素直に受け入れられない。

 それにこれ以上進化しなくなるのでは、将来的なヴィジョンが描けなくなる。

 寿命が短くなるとはいえ、例え人類としてのバトンを子孫に渡す事が出来たところで、いつまでたっても変わり映えの無い閉塞的な時を延々と繰り返すのだ。 

 負ける事は出来ない。

(でもな・・・・・)

 茂利はそっとキルンを見た。

 昨日の終盤戦で、キルンが浮かべた恐怖に震える表情が、彼の思考に消化不良を齎していた。

 甘いのかもしれない。

 彼女は自分が背負った使命を成就するために、今まで九十九の相手と戦い、勝ち抜いてきたのだ。例え負けた相手が、自分達種族が歩んできた同じ不幸な宿命を負うことになっても。

 それも、一つの不幸な宿命が、百倍に拡散したとしても。

 自分達の種族の為に、か。

 一見、究極のエゴイズムと捉えがちな事案だが、当事者目線から察するに、決してそうじゃない。

 短い命を嘆き、生気の失せた表情に憂いながら閉ざされた未来に従う同胞たちの為に、非情の精神を掲げているのだ。

 そこに個の欲は無い。結果的に個の幸せにも繋がるのだろうけれど、動機に独善的な感情の暴走は無い。

 少女が感情を表情に出さないのは、その双肩に負わされた使命の重さ故にだろうか。

「君は、この役目を自分から志願したのか?」

 茂利の問い掛けに、キルンはきっぱりと首を横に振った。

「無作為だ。突然、政府の高官が私の元にやってきて、母国のために戦えと」

「ご両親は?」

「先の星間戦争で死んだ。二人とも宇宙生物学者だった」

「星間戦争って……」

「奴らとの戦いだ。惑星征服に奴らが武力を注ぎ込んだ最後の戦争さ」

「最後のって?」

「直接手を下したのが最後って事」

「何か理由があってか」

「結果的には連中の圧倒的勝利だったけど、私達も奴らには少なからずダメージを負わせることが出来たんだ。どうやらそれが連中には衝撃的だったようだ。奴らは今まで一方的に戦を仕掛けては無傷で完全勝利し続けていたからな。買ったものの、無傷での勝利記録が絶たれたのがショックだったようだ」

「ちなみに、その記録ってのは?」

「完全勝利が九十九連勝。百勝目が我々との戦いだ」

(成程な)

 茂利は忌々し気に頷いた。自分達の記録を絶った相手への雪辱か、其れとも戒める思いからなのか、それにしてもいやらしい枷を彼女に科したものだ。条件を言い渡した侵略者達の高官はかなりねじ曲がった性格の持ち主だ。

 残虐性の陰に意地悪な側面が垣間見える。

「完全主義者ほど、一つ歯車が狂うと砂上の楼閣の如くだからな」

「まあな。それからさ、奴らが代理戦争に撤し始めたのは。自分達が隷属した星から傭兵を選出して戦わせる。それも極力獲物を生け捕りに近い形で手に入れたいから、相手も代表者一人との戦闘でーーそんな身勝手な願望を実現させるために、最初に選ばれたのが私だ」

「戦うことに秀でた能力が買われたのか? 」

「違う。私はお前達が「武術」と呼ぶような戦いに関わる経験やスキルは一切無い。ただ単に、奴らが人を兵器にチューンナップする施術にシンクロ出来るか否かが選出の理由だ。私の場合、シンクロ率百パーセントなのだそうだ」

「そうなのか」

「おまえは自分のシンクロレベルを知っているのか? 」

「俺か、よく分からんな。まあ、武術やった事ねえのは君と一緒だ」

「そうか、やはりな。事前に聞かされていた情報だと、おまえもシンクロ率百パーセントらしい」

「初耳だぞ、其れ」

「おまえ達には情報が回っていないのか? 私の戦った相手で、シンクロ率百パーセントは初めてだ。大抵は五十パーセント。今までの最高でも七八パーセントだった」

「喜んでいいのか」

「いいと思う。もしおまえが五十パーセントのシンクロ率だったら、昨日の開始早々で決着が着いからな」

 キルンはニヤッと不敵な笑みを浮かべた。

 茂利は驚きの表情で彼女を凝視した。

 数少ない感情表現に、彼女の人間性を僅かにだが垣間見たような気がした。

 根っからの殺戮者じゃない。

 話を聞いて、其れははっきりと茂利にも理解出来た。

 妙な話だが、何となくほっとしたような、言葉じゃ説明出来ないほっこりした安堵感に茂利は浸っていた。

 雨が止んだ。

 厚く空を覆っていた雲は掻き消すように消滅すると、抜けるような青空が頭上に広がっていく。

「やっと降りやんだな」

 キルンは鉞に手を翳した。すると、巨大なその獲物は瞬時にして無数の白い光の粒となって消え失せていく。

「そうか、今日の戦闘は終わったんだものな」

 茂利はそう呟くと逆矛と頭上の鍋蓋に目線を向けた。彼の意思に同調したのか、それぞれ痕跡すら残さずに掻き消すように消滅した。

 途端に、青空が彼の視界に飛び込んでくる。

「清々しいな」

 茂利は大きく伸びをした。

 と、何かを彼の目が捉えた。

 飛来物。否、落下物だ。

 何か点の様なものが、否、天じゃない、棒状の、何かひらひらしたがついている何かが、猛スピードで落ちてくる。

 落下点はーーここだっ!

「危ないっ!」

 茂利はとっさにキルンを抱え込むと横に素っ飛んだ。正直、何故こんな行動をとったのか、茂利にも分からなかった。冷静に考えれば落下物位、彼にせよキルンにせよ、簡単に手で払いのけて対処出来るはずなのだ。ただ不思議と言えば、突然抱きすくめてきた彼に拳を打たなかったキルンの反応も奇跡的と言えば奇跡的だ。

 ばすっという低い衝撃音が、彼らの後方で弾けた。

 茂利は振り返ると、その落下物の正体に首を傾げた。

 黒い棒が地面に深々と突き刺さり、その先に白地に赤丸が描かれた薄汚れた布がしんなりと巻き付いていた。

「日の丸の旗だ、どうしてこんなものが……」

 廃校となった小学校の校長室にでも保管されていたものが、さっきの竜巻で空高く巻き上げられた挙句、落っこちてきたのか。にしては、他の材木とか瓦とかの落下物は全くない。

「モリ……」

「ああこれは旗だ。この国の国旗ってやつだよ」

 問いかけてくるキルンに茂利はやさしく答えた。が、キルンは何故か不満減表情を浮かべた。

「そっちじゃない、後ろだ」

「えっ? 」

 キルンに促されて振り向いた茂利の目に、驚きの光景が映っていた。

 茂利は、眼下に広がる麓の平野部に、いくつもの建造物が立ち並んでいるのを目の当たりにしていた。

 それは決してもともとあった小学校や住宅の名残ではなかった。綺麗に切り崩した石を積み上げて作られたそれは、浸食を受けて崩れかけてはいるものの、まるで古代ギリシャを彷彿させるような豪奢な建造物が無数にひしめき合っていた。巨大なドーム状のものもあれば、塔のようなものある。

「遺跡?」

「ムー大陸だ。知っているか? 」

「えっ! ムー大陸? あれってデマじゃなかったのか? 確か調査してそんな大陸なんてなかったって証明されたって聞いたことあるぞ」

「調査する場所が違っていただけだ」

「そうなのか」

「ああ。原住民に見つかるような隠し方はしない」

「隠し方? 」

「そうだ。この大陸は元々我の先祖が調査の為にこの惑星に築いたものだ。調査終了後、」

「えっ! マジかよ」

「マジだ」

「人工島なのか」

「厳密に言えばな。地殻に作用して造成したんだ」

「残しておいても良かったんじゃね? わざわざ沈めなくても」

「原住民の歴史に影響を及ぼす可能性があったからな」

「そうなのかよ」

「まあな」

 キルンは目を細めて眼下の遺跡を見渡した。

 茂利は、彼女がどこか懐かし気な表情を浮かべているのに気付いた。

(まさか、その調査に彼女もかかわっていた……訳はないな)

 茂利は自分の突拍子の無い想像に思わず笑みを浮かべた。

「迎えが来た。また明日戦おう。全力でな」

 キルンは空の一点を見つめると、右手を下ろしたまま軽く振り前に進んだ。

 彼女なりの別れの挨拶なのだろう。

 不意に目前の空間に歪が生じ、シンバル型の飛行物体が姿を現す。

 彼女は大きく跳躍すると、中空を漂う飛行物体の中に吸い込まれていった。

(全力で戦うってか)

 一瞬のうちに青空に吸い込まれて消えた飛行物体を見送りながら、茂利は複雑な表情を浮かべた。

 彼女の身の上を知ったことで、彼は更なる苦悩に追い込まれていた。

 もしキルンが戦闘に快楽を求める種族で、自分自身の本能と財を満たす為に傭兵となって惑星を渡り歩いているのならば、茂利は割り切って彼女に止めをさせるかもしれない。一度は戦慄に表情を凍らせた彼女に情をうつした彼ではあったが。だが、彼女が語った身の上は、彼の闘志を揺らがせていた。

 背景的には、彼女は茂利よりも遥かに耐え難い理不尽な洗礼の元に、不条理な戦闘に身を投じているのだ。

 立場的には同じようでも、根本的に違うものがあった。

 彼女は生きる為に戦っている。

 茂利は、死んでも仕方がないと思っている。どちらかと言おうと、あまつさえ合法的な死を望んでいる素振りがあった。

 メンタル面で言えば、彼女の勝利だ。

 茂利は空を見上げた。

 パラパラとにぎやかなエンジン音を撒き散らしながら、接近してくる白いヘリが見える。

 いや、一機だけじゃない。モスグリーンのボディのヘリが五機。遠くに巡視艇らしきものも見える。

 それだけじゃない。頭上を数機の戦闘機が何度も旋回している。

 自衛隊機?

(俺が負けたと思って自衛隊が動いたのか? でもあっれじゃあ、簡単に返り討ちだぞ。ていうか、彼女はもう帰っちまったし)

 腑に落ちない表情で腕組みしているうちに、白いヘリが一機彼の前に降り立った。

「ごめんなさいねえ、遅れちゃいましたあ! 」

暮亜はヘリから降りると茂利に深々と頭を下げた。

「大丈夫だ。すまん、勝負はまた持ち越しになった」

「仕方ありませんよ。それよりもこのでっかい島、どうしたんですか? 」

「後で話す。俺の存在が知られるとまずいんだろ?」

 両眼を真ん丸にして周囲を見渡す暮亜を制すると、茂利は足早にヘリに乗り込んだ。

「そうでしたっ!」

 暮亜はてへぺろって仕草と共に、慌てて茂利の後に続く。

「お疲れ様!」

 操縦席の御嵩が左手の拳で親指を立ててグッジョブのポーズ。

「あざーすっ!」

 茂利はシートに座る前に深々と頭を下げた。

「凄いわねえ、ムー大陸よね、これ」

 眞流が感慨ぶ替えに呟いた。

「え、分かるんですか?」

「そりゃそうよ、伊達にオカルト系サイトの運用やってませんよう」

「確かに」

「茂利さん、あの日の丸には笑ったよ。これでこの島は日本の国土だ」

 御高ががははと豪快に笑い飛ばした。

「他国もこの島が出現したのを知って、我先に上陸しようとしたんだが、突然の高潮と大竜巻に見舞われた上にとんでもない集中豪雨の壁に阻まれて二の足を踏んでね」

 御高が上機嫌で語った。

 さっきキルンが茂利の体をぶん回して起こした奇跡の竜巻の事だ。まさかこんな展開になるとは、キルンも思いもよらなかっただろう。

「あとは空自に任せて俺達は退散だ」

 次々に着陸する空自のヘリやオスプレイを尻目に、御高はゆっくりと操縦桿を操作した。

「暮亜さん達は、俺の戦闘相手の情報、どこまで掴んでいるの?」

「前にもお話した通り、戦闘に長けた種族ってくらいです。それ以上は相手からは伝えられていないんです」

「名前とかは?」

「分かりません」

「キルンっていうんだ」

「へ? 」

「戦闘タイムが終わった後、話し掛けてみたんだ。そうしたら、色々と話してくれたよ」

 茂利は雨宿りしながら彼女と話した内容を三人に洗いざらい語り尽くした。

「なるほどねえ」

 眞流がしんみりした口調で頷くと、複雑な表情を浮かべた。 

「茂利さん、彼女の身の上話を聞いて、何かためらいみたいな感情は持たないでくださいね」

「ううーん、言いたくは無いんだが、彼女がメンタル面で君に揺さぶりをかけてきているのかもしれない。今のところ、力は互角。となると、一瞬の躊躇いが命取りとなるから」

 眞流をすかさず援護射撃する御高の言霊が、茂利の思考をがっちりと捉えた。

「そんな風には……」

 茂利は何処か歯切れの悪い返事をすると、口を閉ざした。

「彼女の言葉が真実を綴ったものなのかは、正直のところ誰も分からない。信じるか信じないかは君次第だな」

 思いもよらぬ指摘だった。

 キルンの話に耳を傾けていた彼の心情に、彼女を猜疑の目で見る意識は全くなかったのだ。

 茂利には、キルンが嘘をついているようには思えなかった。只々直感的にという訳ではない。彼女の行動、言動が、彼には表面だけを装う安っぽいメッキの様には思えなかったのだ。

『私は不意打ちが嫌いだ』

 そう言って抜けなくなった逆矛を抜くのに、キルンは茂利に手を貸してくれた。    

 あの隙を逃がさず彼に鉞を振り下ろせば、確実に勝てたはずなのだ。

 それとも。

 あえて茂利との勝負を棚に上げ、自分達の先祖が築いた遺跡の復活に力を注いだのか。

 彼女は知っていたのか?

 あの島のそばに、かつてのムー大陸が眠っていたのを。

 それで、茂利が天逆矛を生み出したのを利用して、再び蘇らせた……違う違う、そんな馬鹿な事は無い。

 第一、 茂利がどんな獲物を生み出すかなんて彼女に分かるはずがない。

 偶然が生んだ賜物なのだ。

 相手は戦の手練れであるとは聞いていたが、力任せにぐいぐい攻めてくる先方が、果たしてプロの戦い方と言えるかどうか。

 彼女自身、自分は戦う術を知らないと言っていた。

「茂利さんが使った武器って、天逆矛って言ってましたよね」

 思い悩む茂利の苦悩を察したのか、暮亜がにこやかな笑みを浮かべると、彼に問い掛けた。

「うん」

「その……キルンと二人で矛を引っこ抜こうとしたら島が浮かび上がったんですよね」

「そうなんだ。信じられるか? 俺自身未だに信じられない」

「まるで、現代版イザナギ&イザナミですね」

 暮亜は腕を組むとどや顔で頷いた。

 そう言われていれば。

 茂利はキルンの姿を脳裏に浮かべた。

 確かに、二人で寄り添いながら? 矛で大陸を想像した訳だから、まさにその通りだ。

 と言う事は、新たな大地に神々を生み出さなければならない。

 つまりは、キルンと共同作業の名の下に、あれをあれしてああするのか?

(いかんいかん!)

 茂利は激しく首を横に振った。

 オソロシクおっさん的な猥雑な妄想に、容姿は十代の少年でも精神はおっさんのままなのだという悲しい現実を噛み締めていた。

「茂利さん、どうしたんですか?」

 暮亜が心配そうに茂利の顔を覗き込んだ。

「いやあ、大丈夫」

 冷や汗をたらたら流しながら、茂利は苦悶の笑みを絞りだした。

 言えない。

 決して言えたもんじゃない。

「大丈夫よお、多分あれでしょ? キルンとの子孫繁栄の儀式を想像してたんでしょ?」

 図星だった。恐るべし眞流の直感。

「流石にそれは無いよ」

 意味が分からないのか、きょとんとしたままの暮亜に、茂利は頭を掻きながら弁明した。眞流は意味深な笑みを浮かべると、目を泳がせている茂利を愉快そうに見つめた。

「今日のお宿は温泉旅館だ。最高級の部屋を用意したから、十分に休んでくれ。ま、明日に備えて夜遊びは控えめにな」

操縦桿を握る御高が、右手を前に突き出すと、親指立ててグッジョブのポーズ。

それじゃあほんとにおっさんだろと心で叫ぶものの、顔は薄ら笑いを浮かべてやり過ごそうとする大人の対応の茂利だった。





 露天風呂に肩までつかりながら、茂利は夜空を仰いだ。

 用意された宿は最高だった。

 畳みの匂いがかぐわしい和室の最高級の部屋からは温泉街が一望でき、内風呂はちょっとした家族風呂で、おまけに足を延ばしても十分に余裕のある露天風呂まである。

 茂利は吐息をついた。

 地球の命運を掛けた戦いが、二日目を経過した。

 昨日の戦闘で破壊された街は不発弾処理時にトラブルが発生し、それが地中の都市ガスの配管を破壊した為に大爆発が起きたと報道されていた。今日のムー大陸の一件は地殻変動により巨大な島が浮上したと報道され、日本の新たな領土となったと、空から降ってきた例の日の丸がでかでかとテレビの画面に映し出されていた。

 大事故と有り得ない天変地異が立て続けに発生していながら、死者はおろか負傷者も一人も出ていないと各報道のキャスター達は興奮気味に『奇跡』を連呼していた。

 明日は三日目。戦いのステージは何処になるのだろうか。

 場所がどこであれ、キルンと戦わなければならないのに変わりはない。

 力は恐らく五分五分。

 勝敗はメンタル面で左右するだろう。

 彼女の告白は、御高の行った通り本当にメンタル的な揺さぶり目的の心理作戦なのだろうか。

 立場的には一緒なのだ。彼女も俺も、故郷の命運を両肩にしょって対峙しているのだ。

 勝つか負けるか。

 答えに和解は存在しない。

 じゃあ、どうすべきか。

 茂利が勝ってもキルンが勝っても不幸な運命を強制的に負わされる人々が出現するのだ。

 彼女を倒せるか?

 矛を抜く際に戦いを放棄し、手助けしてくれた彼女を。

 それに、ムー大陸が現れた時、余波で生じた高波を消したのはキルンの力によるものだ。

 あの共同作業で生み出した新島は確実に日本の領土になるだろう。そうなれば遺跡だけでなく、何らかの地下資源も期待出来るかもしれない。

 彼女には恩義がある。

 そんな相手を倒せるのか?

 かといって、彼女に世界の人々の寿命を捧げられるのか?

 彼は不毛な自問自答を繰り返しながら、再び吐息をついた。

 キルンは決して暴力と破壊を好むデストロイヤーじゃない。無茶苦茶な破壊行為はむしろ闘い方を知らないから故に、力任せの攻撃になっているからだ。

 どちらかと言うと、一般人よりも遥かに理性的だ

「キルンの事、考えているんですか? 」

 暮亜が徐に茂利に声を掛けた。

「ああ、まあな――えっ! 」

 茂利は我に返ると、慌てて声の方向に目線を向けた。

 彼から身体二つ分開けた所に、暮亜の姿があった。いつの間にか肩まで湯船に沈め、満足げな至福の表情を浮かべている。

「お、おい、いつの間に?」

「ついさっきですよ。一応声かけたんですが、返事が無かったんで、いいのかなって思って」

 てへっと悪戯小僧の様に舌を出す暮亜を、茂利は呆気にとられた表情でガン見した。

 星空を楽しむという趣向で照明を落としているので、シルエットと仄かに肌の色しか確認出来ないが、水着を着けているようには見えず、また、女子アナが温泉レポートするときの様に分厚いバスタオルを巻いているようにも見えない。

「タオルも何も巻いていないのか」

「そりゃそうですよ。タオルを湯船に着けるのはエチケット違反ですから」

 暮亜はどっしりと落ち着いた態度で、恥ずかしげもなくきっぱりと言い放つ。

 茂利があたふたしているのとは対照的だ。

「躊躇っているんですか? 彼女と闘う事を」

 淡々とした口調で問いかけて来る暮亜を、茂利はぎょっとして目線を泳がせた。

 図星だった。

 彼の意識に渦巻く感情の乱気流を、彼女は冷静に見透かしているようだった。

「立場的には一緒だって分かったからな。最初、侵略と強奪を生業とする物欲の塊のような奴かと想像していたから。それに、見た目の年齢が、俺の娘とあまり変わらないか、もっと年下かもしれない――そう考えると、気持ちは滅入るね」

「どうすればいいんでしょうね」

「中庸だな」

「ちゅうよう? 」

「そう、中庸。イエスでもノーでもない、究極の選択だ」

「ふうん、何だかよく分からないですね」

 じゃばんと湯面が弾ける。

 暮亜は徐に立ち上がると、前に二、三歩進み、露天風呂の縁にたたずんだ。 

 白い裸体が、闇の中でぼんやり浮かび上がる。

「ちょっ、ちょっと! どうした急に?」

「ちょっとのぼせちゃいました」

「んでもそこに立つのはまずいだろっ! 向こうから見たら丸見えだぞっ!」

「まさか、こんな高いとこ覗くのは無理でしょ」


うわああああああああ・・・・・・


不意に、若い男の悲鳴が闇に響きながら遠ざかっていく。

あの工作員の男だ。声の後に路面に叩きつけられる衝撃音が聞こえてこないところを見ると、また瞬間移動で難を逃れたか。

「彼にはちょっと刺激が強過ぎたかも」

暮亜は冷ややかな目線を眼下に注ぐと、再び湯船に身を沈めた。

(奴だけじゃねえよ。俺にだって刺激強過ぎだ)

 茂利は目を泳がせながら、闇にぽかり浮かんだ満月の様な暮亜のお尻の残像を必死になって記憶の引き出しから削除を試みていた。

「奴もしつこいですね」

「ああ」

「茂利さん」

「何? 」

「茂利さんの思った通りにやればいいと思います」

暮亜は月を見上げた。

顔は笑っていない。その表情には、何かしらのリスクを回避する責務を負う覚悟が出来ているかのような決意の様な意志がが垣間見れた。

茂利は月明かりに浮かぶ彼女のその面持ちをじっと見つめると、徐に目を伏せ、何度も頷いた。

「ありがとう。考えとくよ」

 茂利はそう答えると目を細めた。

 彼女は何もかもお見通しなのだ。優れた洞察力と直感の持ち主なのだろう。票っとしたら御高達同様、超常能力のスペックホルダーなのかもしれない。となれば読心術の持ち主ーーテレパスか。

 と言う事は、迂闊にエロイことを考えると、みんな見透かされるってことだ。

「先に出ますね!」

「あ、ああ」

 返事をしながらちらっと彼女の姿を追った彼の目に、至近距離を無防備に通過する暮亜の姿があった。

 慌てて夜景に目線を向ける茂利の思考の中は、前進白タイツの煩悩君が激しくストリートダンスを繰り返している。

(戦っている時の方がまだ楽だぜ)

 茂利はざぶんと勢いよく頭を湯船に沈めた。






「未だ着かないのか。遠いな」

 茂利は車窓の風景を見つめながら呟いた。

「ええ。今日は人里離れた森林になりますから」

 暮亜は事務的に茂利の問い掛けに回答した。

 旅館を出てから数時間近く。例のしつこい工作員は、公安の面々がうまく対処したのか、それとも昨夜の衝撃シーンの余波で立ち直れないのか、俺達の前にはまだ姿を現せてはいない。

 車で最寄りのヘリポートにより、そこでヘリに乗り換えての大移動だった。

 気晴らしにスマホでニュースを見ると、どのサイトも昨日現れた島の話題で持ちきりだった。島と言っても四国と同じくらいの大きさで、当然日本の領海内だから日本の領土なのだが、某国が極秘且つ強引に潜水艦で接近し、上陸を試みたらしい。だが新島にはその時既に空自、海自の面々が既に上陸しており、更には小高い丘に掲げられた薄汚れた日の丸が誇らしげに所有権をアピールしていたのが、全世界に放映され、それがダメ出しの決め手となった。

 空から降って来た、あの日の丸だ。

(今日はどうなるんだろうな)

 三度目の正直となるのだろうか。

 昨日の苦悩の時間も途中から苦悶に変わり、理性が煩悩を駆逐するのにエネルギーを使い果たしてしまってしまい、結局結論は出ていない。

「茂利さん、もうすぐです。準備してください」

「あ、ああ」

 茂利はスマホの画面を閉じた。服装はもう着替えている。ステージが森林だけに、ガチの迷彩服に底の厚いブーツだ。

 ふと車窓に目を向けると、なじみのある巨大な山が姿を現していた。

「戦いの場の森林って、ひょっとしてあれなのか?」

「そうです。あれです。昨日から散策コースを規制して、一般人は入れなくしています」

「あれったって・・・・・・大丈夫か? 例のあれ、自殺の名所だろ。正規の散策コースを規制しても、そこから入るとは限らんぞ。もし戦いの巻き添え喰らってみろ、まず助からないぜ。あ、まあ本人は願ったり叶ったりなんだろうけど。否、ごめん、不謹慎発言撤回する。やっぱそれはまずいな」

「大丈夫です。みんな保護しましたから」

「保護? まあ、それならいいけどさ」

 茂利は言葉を濁した。彼の心配はそれだけではなかった。

(戦闘の余波を受けて、万が一あの日本一の御山が噴火したらどうしたものか)

 有り得る事だった。

 もし噴火したら、溶岩が周囲の原生林を飲み込み、空に吐き出された火山弾や火山灰が広範囲に広がったら、甚大な被害が出るだろう。

 キルンと茂利が形振り構わず戦ったら、恐らく〇〇山は簡単に平地となり、厥すそ野に広がる原生林は跡形もなく焼け落ちるのは確実だ。

(どう戦う? 島はそれ以上の島となって復活したが、今度もそううまくいくとは限らない。

 最悪は天変地異の引き金になりかねないリスクを孕んでいる。

「着いたぞ」

 御嵩のロートーンの声が海鮮開始を告げた。

 だが、ヘリはホバリングしたまま、一向に着地しようとしない。

 それもそのはず。眼下にはヘリが着陸できるような平地が全くないのだ。

「茂利さん、降りて下さい」

 暮亜が茂利にそう促すと、茂利はぎょっとした面持ちで彼女を見据えた。

「降りて下さいって、ヘリはまだ着陸していないしーー」

「飛び降りて下さい」

「飛び降りてって、此処から?」

「はい、此処からです」

「ここからってーーおいおい、どう見ても地面まで百メ―トル以上は有るだろ! パラシュートはあるのか? 」

「そんなの無くったって、茂利さんなら大丈夫!」

 暮亜は超真顔で茂利に親指を立てて見せた。

 確かに。

 彼ならここから裸で飛び降りたところで、何のダメージも受けない。

 彼もそれが分かっているからか、何か言いたげながらも反論せずに黙って頷く。

「いつでもどうぞ」

 御嵩がゴーサイン。暮亜は頷くと、ヘリのハッチを開けた。

「じゃあな、行って来る」

 暮亜に囁くと、茂利は躊躇する事無くハッチから身を躍らせた。

「ご武運をっ! 」

 暮亜の声が、幽かに茂利の耳に届いた。

 後ろ手で軽く合図すると、茂利は身を反転させながら、着地点を追った。

(なるべく木々の隙間。出来れば岩肌が露出していない箇所がいいな)

 茂利は冷静に落下点を見極めた。

 戦闘も三日目となり、自分に与えられ特殊能力の幅広い可能性に市への恐怖は完璧に払拭されていた。

 木々の間をすり抜け、彼は降り積もったの落ち葉の上に着地した。上空を見上げると、僅かな木立の隙間からヘリが立ち去っていくのが見える。

 そろそろキルンが到着する頃だが、これだけ木々が生い茂っていると茂利を見つけるのも一苦労だろう。

 彼にとっては好都合だ。

 場合によっては手合わせしないうちにタイムリミットを迎えることも考えられる。

(何とか、話し合いの場が取れないものか。確か戦闘は奴らが遠隔で監視しているんだったな。そうなると、タイムリミット後の迎えが来るまでの間しかない)

 不意に、頭上が明るくなる。

 白色の発光体。キルンのUFOだ。

(くそっ、全てお見通しかよ。時間稼ぎは無理か)

 白色に輝くそれは、茂利の消極的な企みを全否定するかのように、忌々し気に見開いた彼の視界いっぱいに埋め尽くしていた。

 光体の中央部から人影が現れる。キルンだ。

 キルンは放たれた矢の様に中空を駆ると、茂利の目前に降り立った。

「待たせたな」

「ああ。それよりその恰好は何だ」

 茂利はキルンのコスチュームを凝視した。

 白い羽織に赤い袴。

 いうまでもなく、巫女の格好だ。

「今回のステージが、お前達日本人にとって神聖な場所らしいからな」

 キルンは意味深な笑みを浮かべながら、親指を立てて杭っと背後を指さした。場所が特定されてしまうので、はっきりとは言えないが、彼女の指す方向には、間違いなく多くの人々が崇高する日本一高い山がどでんと控えている。

「後ろの山、更地にするんじゃねえぞ」

「極力」

 その言葉が戦闘の合図となった。

 キルンは地を蹴ると地面すれすれを跳躍。茂利との間合いを一気に詰める。

(今日はどんな獲物を使うつもりか? )

 まるで茂利の思考を読んだかのように、彼女の手の中で闘気が形状化していく。

 やがて輪郭を成したのは細長い金属光沢。日本刀じゃない。剣だ。細身の刀身

は西洋の両刃の者ではないが、装飾とフォルムは遠い古の倭を彷彿させる何処か懐かしくも荘厳な風貌を秘めている。

(見た事は無いが、ひょっとしたら草薙剣? )

「おいこら、そいつを振り回すんじゃねえっ! お前の獲物、重要な神器だぞっ」

「心配ご無用。私の気で作り上げた復刻版だ」

 キルンは茂利の質問に的確な回答を返していた。地球の、と言うよりも日本の

歴史や文化、風俗――と言ってもあちらの意味ではないーーを掌握し、対戦相手

に畏敬の念を払うのが彼女なりの礼儀らしいが、その知識と造形の深さには舌を

巻く程だ。

キルンの回答通り、まあ、本物じゃないのは分かる。本物は瀬戸内海の底に眠

っているのだから。

 とは言え、茂利の置かれている状況は、決して安心できる状況ではなかった。

 茂利は迫り来る刃をかわしながら木々の間を疾走した。

 キルンは進路を妨げる木々を片っ端から切り倒しながら突き進んでくる。

 昨日までの戦法を思い返してみると想定内の攻撃だった。

 雑なのだ。

 力任せにガンガン突き進むタイプ。作戦もへったくれもない。それでも今まで全戦全勝を誇るのは、そのパワーの凄まじさ故にだろう。

 理不尽な伐採はものの数分で埼玉アリーナ一個分に広がり、その進行に衰えは

感じられない。

(そろそろ何とかしねえと、無駄に自然破壊が進んじまう)

 茂利は足を止めると真っ向からキルンと対峙した。

 間髪を入れずにキルンの刃が茂利の首を狙う。

 刹那、剣は冷たい金属音と共に動きを止めた。人一人すっぽりと覆い隠す位の

巨大な一枚岩が、キルンの前に立ちはだかっていた。

「どうだ。これぞ有名な天の岩戸だ。復刻版だが、いくらお前でも簡単には切れ

ねえぞ」

 茂利は得意げにキルンを挑発した。 

 が、その表情は瞬時にして消失すると、戦慄の咢にすっぽり飲み込まれていく。

 巨石に横一文字の亀裂が走り、上下に分断されると、上半分がずりずりと滑り落ちる。

 その向こうに、勝機に喜悦するキルンの姿が。

「切りやがったかっ!」

 茂利は立て続けに岩戸を生み出し、キルンの進路を閉ざした。

 だがまるで青竹を斬るように、キルンは岩戸を次々に切り崩していく。それはまるで二人の軌跡を形どるかのように巨大な石畳を原生林の間隙に築いていく。

(防戦ばかりじゃ駄目か)

 茂利は一際大きな岩戸を打ち建てると、上空へと跳躍した。

 茂利の動向を瞬時に察知したキルンも、岩戸を紫電一閃した直後に跳躍。

 無防備な茂利に容赦なく剣を突き立てる。

 刹那。

 茂利の手に形状化した大振りの剣がそれを払いのけた。

 刃と刃の間に溶岩の様な厚く焼きただれた闘気が炸裂する。

 二人は弾かれたように間合いを取ると、中空を浮遊しながら対峙した。

「ラグナロクだ。レプリカだがな」

 茂利は精悍な表情でキルンを見た。北欧神話の神が最終戦争に用いた究極の

神器だ。地球を熟知している彼女なら、その武器の謂れを熟知しているはずだ。

「いいのか? レプリカとは言え、その神器は人類を滅亡へと導くぞ」

 キルンが恐ろしく無表情のまま、淡々と語った。茂利の生み出した武器に決して臆している訳ではない。むしろその神器の背景を理解した上で、無謀にも扱おうとする茂利を諫めているようにも思える。

「扱い方次第だ」

「お前が人の道を外さずに使いこなせると?」

「やってみなきゃ分からん。神話上、どう解釈されているのかは俺は知らん。只昔やったゲームの中に出てきたすげえ武器だって事位しか分からないからな」

「ふざけた奴め」

「いんや、至ってまじめだ」

 茂利は大きく剣を薙いだ。空に刻んだ軌跡が熱い気の波動となってキルンを襲う。

 キルンは落ち着き払った剣さばきでそれを一閃。彼女の一振りで巻き起こった静の波動が熱く焼ける茂利の波動を次々に打ち消していく。

 茂利の剣からおびただしい紅蓮の闘気が迸る。己の攻撃を一蹴したキルンへの報復に狂う剣の性だった。

 剣の魂に同調したかのように、茂利は憤怒に顔を見にくく歪めながら、キルン目掛けて中空を滑空した。

 同時に、迎え撃つキルンも動く。

 灼熱と静寂。

 それぞれ相反する気の噴流が空間御真っ二つに分断し、激しく渦巻きぶつかり合う。

 組み合う剣と剣。

 互いの力に優劣は無く、拮抗した状態だった。

 茂利は殺気に満ちた目で目前のキルンを見据えた。

 彼の目に、昨夜までの迷いは無かった。それは手にした剣の意志に魂を乗っ取られたかのようにさえ見える。だが剣は彼の思考の産物に過ぎない。剣に操られるなどありえないのだ。

 キルンはそんな茂利に動じる所作は一切見せず、むしろ嬉しそうな表情すら浮かべている。

 繰り返される剣技の応酬に、途切れることの無い緊張の中、周囲の空気はピリピリと震え、他者を寄せ付けない神々しくも戦慄に満ちた結界を築いていた。

 隙の無い接近戦が繰り返される都度、金臭い匂いが辺りに立ち込める。互いの剣が空を裂く都度、摩擦熱で大気が焼け付くのだ。

 キルンが茂利の剣を振り払い、一刹那後に剣先を茂利の胸元目掛け突き入れる。 

 同時に。

 茂利は剣を引くと脇を固め、まっすぐ剣先を立てるとそのまま突き入れる。

 互いの剣先が、ぴたりと制止した。

 二人の剣は、剣先の一点で接触し、微動だにしない。

 力は五分五分。

 隙が出た方が敗者となる。

 時が。

 風が。

 何もかもが完璧に停止していた。

 微かに聞こえるのは二人の呼吸音だけ。

 それも一糸乱れる事無く見事にシンクロしている。

 二人は互いの剣先を凝視していた。

 生きる為にどう動くか。

 勝つためにどう動くか。

 二人は共に同じ思考を張り巡らせ、次の動きの選択に全神経を注いでいた。

 静と動――二つの相反する闘気の噴流は、太陽のプロミネンスの様に大きく揺

らめきながら、二人を包み込んで行く。

 二人の刃が接点を離脱すると、その延長線上から大きく身を交わし、剣を薙ぐ。

 流れるように空を走る剣筋に導かれるように、激しく燃え上がる紅蓮と蒼炎の

気の渦が、二人を境に交差する。

 再び刃と刃が接触。

 刹那、二つの気はひときわ大きく燃え上がり、木々を、大地を、空を容赦なく

焼き尽くしていく。

 不意に、闇が二人を支配した。

 二人は着地すると、互いをじっと凝視した。

 不可解な違和感が茂利の五感を支配する。キルンも同様に訝しに眉を顰め乍ら、

時折周囲に目線を走らせ、得た情報を何度も咀嚼していた。

「茂利、戦いは中断だ。ここはステージじゃない」

 キルンはぶしつけに吐き捨てると、徐に剣先を下げた。

「えっ!」

 茂利は周囲を見渡した。

 刹那、息が詰まるような苦し気な圧迫感が彼を襲う。想像を絶する驚愕が、彼の気管をじわじわと締め上げていた。

「ここ……何処?」

 苦し気な息遣いが不安げな声色を彼の喉から絞り出していた。

 突然二人を包み込んだ闇は、生い茂る木々の枝葉によるものではなかった。

 夜、だった。

夜の帳が、時空を超越して空間を支配していた。

 呆然と佇む茂利の頬を、ぬっとりとした粘着質の空気が愛撫する。

 漆黒の闇をベースに、ぼんやりと赤く染まった空。

 その闇を更に協調するかのように、立ち並ぶ高層建築物。

 軒を連ねるアパレル関係のショーウインドウ。

 お洒落なカフェやリストランテ。

 一見、朝のニュース番組で新人アナウンサーやアイドルがレポートする様な店が続く都会的な街並み。

 だが、その存在は明らかに異質だった。

 物音一つしない。音だけじゃない。明かりも、あるべき人々の生活感あふれる息遣いが全くしない。

 まるで、人間世界を模しただけの、今まで見たことの無い虚構の世界。

「異世界だな。お前達が生活している世界とは、明らかに次元が違う」

 キルンは遠くを見つめるような目で天空を仰いだ。

「キルン、この街もお前達の先祖が創ったのか? 」

「残念ながら違うな」

「じゃあ、奴らか?」

「でもなさそうだ。奴らの歴史も学んだが、この惑星に異世界をこしらえたって話は聞いたことが無い」

「じゃあいったい誰が?」

「分からない……でも、興味深いな」

 キルンは好奇心旺盛な子供の様に目を輝かせながら街の風景を見渡した。

 茂利は半ば呆れかえりながらキルンの横顔を見つめた。

(なんて肝の座った娘なんだ。このまま元の世界に帰れなかったらとか考えないのかよ)

「行こう」

 キルンは剣の形状化を解除すると、すたすたと歩き始めた。

「行こうって?」

 茂利も慌てて剣の実体化を解くとキルンの後を追った。

「住民を探そう。何か分かるかもしれない」

「住民? いると思うか? 見る限り生活感も人の気配も全くない」

「ああ、いる。恐らく今も何人かが我々の動向を探っているかも」

「えっ?」

「この世界で、我々意外に動いているものが一つだけある」

「何だそれは」

「監視カメラだ。あちらこちらに固定カメラが設置されているが、確実に起動している」

「ああ。あるのは分かるけど、動いてんのか? 」

「微細ながら駆動が聞こえる。機械にしてはちょっと妙なかんじだけど」

「すげえな」

 茂利は羨望の眼差しをキルンに向けた。超人的な能力を得た彼でも、そこまで聞き取るのは難易度が高い。やはり、ハイエルフ並みの発達した耳は、伊達ではなかったのだ。

 元々聴力に長けた種族故に、チューンナップされて更にクオリティーが充実されたのだろう。

「何処に居やがるんだ?」

「さあな、そこまでは分からない」

 キルンは周囲を警戒しながらも、臆することなく先頭きって進んで行く。

 茂利は、ずんか、ずんかと突き進む彼女の後姿を半ば呆れかえりながら目で追った。

(いくら戦いのステージではないとはいえ、完全に背中を見せるとは・・・・・もし俺が不意打ち仕掛けたら一巻の終わりだぞ)

 その心配は無いのだろうか。

(俺レベルじゃ余裕でかわせると思っているのか?  )

(それとも、俺を信用している? まさかな)

 自身が導き出した最も有り得ない結論を即座に却下した。

 不意に、キルンが左手で茂利を制した。

「どうした? 」

 茂利は半ば前のめりになりながら慌てて立ち止まった。

「しいっ! 何か音がする」

 キルンは声を潜めると、そっと聞き耳を立てた。先端がとんがった長い外耳が音源を求めてピクリと動く。

 茂利もそれに習い、耳を澄ませた。

 確かに。

 がさがさと何かが這い回る様な摩擦音が聞こえる。それも、そう遠くない。

 更にはっきりと分かる事は、それが確実にこちらに近付いて来るという事実。

 空気を劈く轟音。

 連続して。

 これって、銃声?

 茂利とキルンは立ち止まると顔を見合わせた。

 互いに頷くと、同時に銃声のした方向目掛けて走り出す。

 数十メートル先の十字路左折方向。

 それを裏付けるかのように、その辻から黒い影が猛スピードで飛び出して来る。

 人だった。

 ダークのスーツを纏ったベタなくらい妖しい青年ーー茂利を突け狙うあの工作員だ。

 工作員は、茂利たちに気付くと、驚きの表情を浮かべながらも彼らに向かって猛ダッシュして来る。

(何故、奴がここに?)

 意外な登場人物に首を傾げる茂利の目線に、異様な光景が映った。

「何だありゃ? 」

 茂利は立ち止まると、必死の形相で走ってくる工作員の背後を凝視した。

 巨大な黒い蠢く怪異。無数の銀色の剛毛が生えた節くれだった脚が、小刻みに地を刻みながら工作員を追って来る。

 蜘蛛だ。

 それも、トラック並みの巨大な代物。更に奇怪な事に、顔が蜘蛛のそれではなかった。

 人面だった。真っ白な顔。両眼は空洞にも見える虚構の闇が広がり、大きく避けた口からは鋭い牙が顔を覗かせている。

(妖怪? それとも異次元の住民か)

 非現実的な思考が彼の脳裏を駆け巡る。だが、それが極めて現実的な憶測であることを彼は悟っていた。

 ここ何日間、彼がおかれている状況に常識は通じない。

 目に映るもの全てが、あらゆる常識から逸脱しており、それでいて否応無しに認めざるをおえない現実なのだ。

 人面蜘蛛が前脚で囲い込むように工作員を補足――刹那。

 工作員の姿が消えた。

 キルンだ。彼女は工作員を小脇に抱えると、蜘蛛の前脚をかわし後方に大きく跳躍する。

 一瞬、戸惑った素振りを見せた人面蜘蛛だったか、新たなターゲットに色めき立ちながら突進してくる。

 まっすぐ、茂利に向かって。

 迫り来る人面蜘蛛の前脚を交わすと、茂利は無防備になった敵の顎を蹴り上げた。

 人面蜘蛛の体は天高く舞い上がり、夜空へと消えた。

 茂利は軽く吐息をつくと、後方に逃れたキルン達の姿を追った。

「無事か? 」

「まだいる! 」

 茂利は、キルンが返した彼の問い掛けとは違う回答に胸騒ぎを覚えながら、彼女の目線の先を追った。

 立ち並ぶビル群の屋上付近に、なにやらわさわさ蠢く異形の影が見える。それも、数えきれないほどびっしりと。

 蜘蛛の大群だ。それも半端ない数の。

 蜘蛛達は腹部の先端から白い糸を曳きながら、一斉にビルから降り始めた。

「逃げるぞっ! 」

 茂利の掛け声と同時に、三人は一斉に走り始めた。

 走りながら、茂利はある異変を感じ取っていた。

 体が重いのだ。それだけじゃない。足も脹脛がパンパンに張り、いつ痙攣してもおかしくない恐怖に苛まれていた。

 そればかりか、呼吸もいつになく荒くなってきている。

(おかしい・・・)

 ちらりとキルンに目線を投げ掛ける。と、キルンも彼同様に苦悶の表情を浮かべているのが見えた。さっきまで抱き枕のように小脇に抱えられていた工作員も、いつの間にか自力で走っている。

 わしわしと路面を掻く無数の足音は確実に距離を縮めてきている。

(まずいな、このままじゃ追いつかれる。何とかしないと)

 茂利は思案しながら前方を凝視した。道沿いに立ち並ぶ店舗の様相が、ブティックやカフェからバーや居酒屋に変わり始める。立ち並ぶネオンサインの向こうに、「おかげさま横丁」とかかれた看板と右に折れる矢印が目に映る。

(これだっ! )

「右に曲がれっ!」

 茂利はそう叫ぶと急遽通りを右折する。キルン達もそれに従い、彼の後を追った。 

 さっきまで爆走していた道とは比べ物にならないほど細い裏路地だった。恐らく車1台通るのがやっとだろう。間近まで迫っていた蜘蛛達は路地の入口で次々に立ち往生すると、悔しそうに甲高い奇声を上げて嘶いた。巨大な体躯と節くれだった脚が邪魔をして通れないのだ。

 三人は左折し、更に細い路地と入る。

「もう大丈夫だ、奴らは追ってこれない」

 茂利は立ち止まり身をかがめると大きく深呼吸を繰り返した。キルンも追手が来ていないのを確認すると安堵の表情を浮かべながら跪いた。工作員の青年は俺たち以上に披露しているのか、路面に倒れこむと大の字にひっくり返った。

 ただならぬ体力の消耗に、茂利は一抹の不安を覚えていた。

(異能がシャットダウンしている・・・時間はそんなにたっていないはずなのに・・・まてよ、この世界に迷い込んだ時、時間軸も狂ったのか? )

「キルン、ひょっとしてタイムアウトか? 」

「かもしれない。何とも言えないが、時空移転で時間の流れに歪が生じたのかもしれない」

 茂利の問い掛けに、キルンが口惜しそうに答えた。

「おい、ここはどこなんだ? それにあれはなんだ? 日本で開発した生物兵器か? それにその娘は何者? お前の仲間なのか? 」

 工作員は苦し気な呼吸を繰り返しながらも、脳裏に浮かんだありとあらゆる疑問を

矢継ぎ早に茂利にぶつけた。彼は震える手でスーツの下に隠れたショルダーホルスターから銃を取り出すと。空になった弾倉に弾丸を補充し始めた。

「ここがどこなのかは俺も知らん。多分異世界に迷い込んじまったんだろうな。あの物の怪は兵器じゃない。この世界の生物なのだろうな――」

 茂利は簡潔に彼の質問に答えた。彼の異能についてやキルンの事は一瞬戸惑いはしたものの、これ以上誤解されたまま毎回邪魔をされても困るので、やむなく話すことにした。話す前に一応キルンに目配せをしたが、彼女も同様の考えだったらしく、黙って頷いた。

「信じられない・・・お前の力は宇宙人に改造されて得たスペックで、この娘が宇宙人だと? そればかりか、お前達か敵味方の関係で、地球の命運を掛けた戦いをしているなんて。でも何故、敵対する者同士が協力して俺を助けたり、今も無防備に対峙しているんだ? 」

 工作員は訝しげに眉間に皺を寄せると、頭をがりがりと掻いた。

「戦いは決められたステージでのみ、決められた時間の間だけ行われる。その間、エイリアンは俺達の戦闘振りをずっと監視しているらしい」

 茂利は困惑する工作員に更にそう告げた。

「おい、もしお前がこの娘に負けたらどうなる? 」

「エイリアンの目的は地球生物の生命エネルギーだ。彼女の話じゃ人類は滅亡することはないが寿命が半分位に縮まるらしい」

「寿命が、縮まるのか! 」

 工作員は驚愕し、目をかっと見開いた。

「茂利、そろそろ移動したほうがいい。また新たな追手が来るかも」

 キルンは周囲を見渡しながら茂利に声を掛けた。

「おい、工作員の兄ちゃん、お前の力で元の世界には帰れないのか」

 茂利は呆然としたまま思考を咀嚼し続けている工作員を見た。

「やってみたが、無理だった」

「そもそも何故お前がここに? 」

「貴様の後をつけてたんだ。そうしたら巻き込まれちまった」

「そうか・・・すまん! 」

 茂利が申し訳なさそうに表情を歪めると、工作員は不思議そうに彼を見た。

「なぜ謝る? 俺の自業自得だ。それより、お前達の力で何とかならないのか」

 工作員は苛立たしく台詞を吐いた。

「無理だ。今は異能がフェイドアウトしている。異世界は時間の流れが違うのか、さっき逃げてきた途中からタイムオーバーになっていた。でも逃げて正解だったぜ。あのまま戦ってたら、今頃全員蜘蛛の化け物に食われてしまってただろうな」

「どういう事だ? お前の力はいつも使える訳じゃないのか? 」

 工作員が驚きの声を上げる。茂利は内心失言したかと後悔した。自ら面倒くさい輩に弱点を話してしまったのだ。

「この娘もそうか?」

「ああ」

 返事に戸惑う茂利を尻目に、キルンは自らそう頷いた。

 刹那、工作員の手が静かに動いた。

 右手に握られた銃がキルンに向けられる。

 一発の銃声が、静寂に満ちた夜の帳に響き渡る。

「何しやがるっ!」

 茂利が激高した。彼の迷彩色のシャツの左肩がどす黒く染まっている。彼の後ろには、怯えた表情で工作員を見つめるキルンの姿があった。

 工作員がトリガーを曳くよりも早く、茂利はキルンの前に立ちはだかったのだ。

「そこをどけっ! 」

「どくもんかっ! 」

「どかないと貴様の命もないぞっ! こいつをやれば地球の勝ちなんだろうがっ! 」

「どいてたまるかっ! ルールを破って勝っても意味がないんだ! もしお前がキルンを撃ったら、人類は一瞬にして滅亡する! 跡形もなくな。相手は惑星狩りを楽しんでいるエイリアンだぞ。あいつらの科学力は半端ねえんだぜ! 」

 茂利は血走った目で工作員に訴えた。

 肩が焼けるように熱い。銃創のもたらす耐え難い激痛に彼は苦悶に表情を歪めた。

「ここは異世界なんだろ? 敵の監視下じゃないんだろ? 何がルールだ…これはゲームじゃないっ! 戦争なんだぞっ! 」

 工作員は口から泡を飛ばしながら捲し立てた。その目から理性の光が消え失せ、戦慄に翻弄された感情だけが彼の思考を支配していた。

「俺はせめて対等に戦えるチャンスを与えてくれたエイリアンに敬意を表したい」

 茂利はじっと工作員を見つめたまま、静かに語り掛けた。

 工作員はかっと見開いた目で、じっと茂利を見据えた。眼窩から零れ落ちそうになるくらい見開いた目は、小刻みに震えている。

「くそうっ! 」

 工作員は項垂れると銃口を下げ、跪いた。

「大丈夫か」

 キルンは心配そうに被弾した茂利の肩を見つめた。

「大丈夫、かすり傷だ」

 茂利は顔をしかめながら無理矢理笑みをつくる。

 かすり傷ではなかった。だが弾は幸いにも彼の右肩の筋肉を貫通しており、骨にまではダメージは及んでいないように思われた。

 不意に、彼の首筋に冷たいものが当たった。

 雨だ。

 星こそ出てはいないものの、分厚い雨雲に覆われてもない漆黒の夜空から、雨がぽつりぽつりと降り始める。

「こんばんわ」

 突然、茂利に何者かが声を掛けた。

 ぽつりぽつりと立ち並ぶ街灯の明かりに、小さな人影が浮かび上がる。

 いつの間に現れたのか、着物姿の童子がにこやかに笑みを浮かべながら彼の傍らに立っていた。菅傘を被り、藁でできた蓑を身に纏っている

「こ、こんばんわ」

 茂利は呆気にとられながらもとりあえず挨拶を返す。その時、彼は童子の手に不思議な物がのっかっているのに気付く。童子の顔よりも大きいお皿を大事そうに持っているのだ。皿の上には真っ白な直方体の何かがちょこんとのっている。

(これは、豆腐? こいつ、もしかして・・・)。

 茂利はごくりと生唾を飲んだ。

「おじさん、それなあに? これあげるから触らせて」

 童子は工作員の持つ銃に興味を示したらしく、間近に近くとさらに乗った豆腐を彼の鼻先に突き出した。。

「駄目だっ! そんなのいらねえ! それに俺はおじさんじゃないっ! あっち行ってろ! 」

 工作員はめんどくさそうに手で童子を追いやり、声を荒立てて罵倒した。

「てへっ! 」

 童子は口角を吊り上げて不気味な笑みを残すと、かき消すように消えた。

「何だ今のは――うわっ! 」

 突然、工作員は叫んだ。彼の手から銃が零れ落ちる。

 銃は、カビだらけになっていた。濃厚な緑や黒、くすんだピンクのカビのコロニーが、銃全体をびっしり覆い尽くしている。

「やっぱりそうか…」

 茂利は合点がいったかのようにうんうんと頷いた。

「おまえ、さっきの奴を知っているのか?」

 工作員はカビだらけの銃をハンカチで摘まみ上げると、一人で納得している茂利をぎろっと睨みつける。

「ああ。『豆腐小僧』っていう妖怪だ。雨がしとしと降る日に出るらしい。おまえ、あの豆腐を食わなかったのは正解だ。あれを食うと全身カビだらけになるらしい」

「妖怪だと? そんな馬鹿な・・・」

 工作員は疑念に表情を歪めながら茂利の回答を即否定した。

「じゃあ、あの大蜘蛛はどう説明する? 日本が開発した生物兵器でもエイリアンでもないぜ」

 茂利の横でキルンが黙ったまま頷いた。だがその目の奥には憎悪の蒼炎を湛えており、瞳はまっすぐ工作員を捉えている。自分の命を、それも不意をついて奪おうとしたのだ。当然の事だろう。ただ工作員にとって幸運だったのは、今彼女の戦闘スキルがオフになっている点だった。もし彼女のスキルがオン状態だったなら、彼は今頃原型を留めていなかったに違いない。


「俺、何となく分かっちまった」

「何がだ? 」

「ここが、どこかって事」

 茂利が得意げにそう答えた刹那、路地の両サイドに立ち並んでいた居酒屋やBARといった飲食店のフォルムがゆらゆらと揺れながら崩れ始める。

「地震か?」

 思わず両足に力を込めた茂利だったが、妙なことに気付く。地面は少しも揺れていない。揺れているのは建物だけだ。

 びっしりと軒を連ねる数々の店舗は、やがていくつもの丸みを帯びた影に変貌を遂げていき、次々に異形のものとなって彼らの前に出現した。大玉転がしの玉に手足をつけたような巨大な肉の塊――『ぬっぺらほふ』だ。2階建ての建物並みの巨大な板蒟蒻のようなものは『塗り壁』!

 河童やら、着物を着た猫やら、酒瓶を下げた狸やら、一つ目小僧やら、ありとあらゆる異形の物の怪が、びっしりと道端に並んで茂利達を興味深そうに見つめている。

 茂利は工作員とキルンに目配せした。

「逃げるぞっ! 」

 茂利の掛け声とともに、三人は一目散に走り出す。

 刹那、どっと笑いが生じた。妖怪達が逃げる茂利達を指さしながら、さも嬉しそうに腹を抱えて大笑いしているのだ。逃げきれないことを知っての余裕の表れなのだろうか。道の両側からの声援ならぬ嘲笑を浴びながら、三人は黙々と走り続けた。

(どれだけ走り続けたのだろうか)

 茂利は喘ぎながらキルンと工作員に目線を走らせた。二人とも息が上がり、もう限界が近いように見える。茂利自身もいくら部活で日々鍛えぬいていた高校時代の肉体に戻っているとはいえ、銃創を追った左肩をかばっての逃避行だ。恐らく極限状態に追い詰められてアドレナリンが過剰分泌させているのか、不思議と痛みは感じられなかった。とはいえ、もはや限界は目前に迫っている。ただせめてもの救いは、妖怪達は誰一人として彼らを追おうとする者がいないことだろう。どういった思惑なのかは分からないが、彼らは只管笑い続けるだけで何も手出しをしてこないのだ。

 不意に、前方から白い影が猛スピードで迫り来る。

 人じゃない。

 獣だ。それも三匹。猫に似たスリムな体躯だがかなりでかい。成獣の虎位あるか。

 先頭の獣の手が鎌の様に湾曲し、金属光沢を放っている。

(まさか、カマイタチかっ! )

 戦慄が、茂利を捉える。カマイタチ達は手負いの茂利ににターゲットを絞ると、次々に彼と交差した。

 逃げる隙も間も皆無だった。

 先頭のカマイタチの鎌が負傷した彼の肩を一閃する。次のカマイタチが過ぎる時、温かい風が彼を包み込み、最後のカマイタチが過ぎる時、銃創の傷口が熱く疼いた。

 瞬時のうちに、カマイタチ達は後方へと駆け抜けて行く。

 突然、笑い声が途絶えた。

 茂利は慌てて周囲を見渡した。

 妖怪達がいない。ただ代わりに、生い茂る木々の影が小道に暗い影を落とし、闇にをさらに濃密なものにしている。道も舗装されたそれではなく。落ち葉に熱く覆われた山道にとって代わっていた。

「大丈夫だ、奴らはいない」

 茂利の声に三人は立ち止まると激しい呼吸を繰り返しながら咳き込んだ。

「逃げ切ったのか? 」

 キルンは額の汗を拭いながら茂利を見た。

「いや、逃げ切ったんじゃない。奴らが勝手に消えたんだ」

「見逃してくれたのか・・・」

 工作員が苦し気に顔を顰めた。

「かも知れない」

 茂利は頷いた。根拠はないが、彼らのとった行動に何故か悪意が感じられなかったのだ。

「妙だ」

 茂利は銃で撃たれた肩を訝し気に凝視した。。

「どうした? ?」

 キルンが心配そうに茂利の肩を覗き込む。

「肩の傷が治っている。痛みだけじゃなく、傷口もきれいに無くなっている」

 茂利は首をかしげながら、銃創の辺りを手で触れた。

「まさか、嘘だろ――本当だ」

 工作員が疑い深そうな表情で茂利の左肩を覗き込んだ工作員は、驚きの余りに下がった下顎がリセットされずに震えている。

「カマイタチが治してくれたのか」

 茂利はカマイタチが走り去った方角を向くと、深々と頭を下げた。

「さっきの獣みたいな奴がか? 」

 工作員はいまだ信じられないと言った口調で訝し気に首を傾げた。

「そう。カマイタチは一匹目が人を切りつけ、二匹目が血止めをし、三匹目が薬を塗って立ち去るって言い伝えがある。たぶんそうだな。でも何故俺を助けた? 」

 茂利は狐につままれたような顔で、狐ならぬカマイタチ達が消えた闇に思考を投影した。

「なあ、さっきここがどこなのか分かったって言っていたよな」

「ああ」

「ここって、どこなんだ? 」

「隠れ里さ」

「隠れ里? 」

「そう。妖怪達が人目を忍んで暮らす世界だと言われている。まさか本当ににあるとはな」

 茂利は落ち着いた声でしみじみと語った。恐らく当たっているだろう自分の推測に、まんざらでもない表情を浮かべている。

「あれはなんだ? 」

 キルンが道の先を指さした。

 何か見える。白い点のようなもの。

「明かりだ! 」

(こんなところに民家かなんかあるのか? いやそれとも妖怪達の罠かも。あの明かりに追い込むために俺達をはやし立てていたとしたら説明はつく)

「行くぞ。前に進まないことには何も変わらない」

 キルンが躊躇する茂利の背中を押すかのように、先頭切って歩き出す。

「そうだな」

 茂利は吹っ切れた顔でキルンの後に続く。

「お前ら正気かっ? 罠かもしれないんだぞっ!」

 工作員は血相変えて叫んだ。が、いっこうに歩みを止めない二人に諦めたのか、吐息をつくと渋々二人の後を追った。

 最初は点でしかなかった明かりも、道を進むにしたがって徐々に全容を露わにしていく。

 明かりは、民家からこぼれる光であった。大きな屋根の黒いシルエットは、近付くにつれ、それが日本の原風景を彷彿させる茅葺屋根の木造平屋建ての古民家であることが明らかになった。

 申し訳程度の垣根の奥は小さな畑となっており、その横を玄関まで砂利を敷き詰めた小径と飛び石が続いている。

「行ってみるぞ」

 茂利は恐る恐る純和風のアプローチを進んだ。

 極力飛び石に上を足を忍ばせて進むものの、時折砂利を踏むたびに足元がザクザクと音を立てる。恐らく家の人は確実に何者かが忍び寄っているのを感じ取っているだろう。ただ、引き戸から明るい光がこぼれているものの、人の息遣いや気配は全く感じられない。

「今晩は」

 引き戸越しに家の中に向かって声を掛けてみる。

 返事はない。

 茂利は意を決し、引き戸の取っ手に手を掛けた。材木の端材を削って釘で戸に据え付けたような素朴な作りだったが、触れた指先を通じて木の暖かみがじわじわと感じられる。

「今晩は」

 再び家の中に呼びかけながら、ゆっくりと引き戸を開いていく。引き戸は意外にも殊の外軽い造りになっており、音一つ立てることなく静かに開いた。

 玄関を入ってすぐの所には、広い土間が広がっていた。その奥にはかまどや流し台があり、正面はいろりのある座敷となっていた。今の後ろに襖があるところを見ると、まだ他に部屋があるのだろう。

 温かみのある部屋だった。ついさっきまで、住民がいたかのように見える。だが明らかに人の気配は無い。

「おい、あれは・・・」

 工作員が囲炉裏を指さした。囲炉裏には串に刺した魚が並べられており、中央には吊るされた鍋から湯気が立ち上っている。おまけに、囲炉裏を取り囲むようにお膳が三つ用意されており、そこには湯気の立った白いご飯に野菜の煮物、山菜の天婦羅、白菜の漬物が並んでいる。空のお椀は囲炉裏にかけられた汁物用なのだろう。まさにこれから夕食が始まろうとしているような光景だった。

「今まで誰かいて、私達が来たのを見て逃げ出したのか」

 工作員が部屋を見渡しながら呟いた。

「でも、逃げ出す人影は見えなかった。でも履物がないところを見ると家の中に隠れているようには思えないな」

 茂利は靴を脱ぐと座敷に上がりこんだ。

(もし住民達が俺達の姿に驚いて逃げ出したとしても、鍋を火に居かけたまま居なくはならんだろう...でも、俺達がここに来るのを直前まで気付かずにいたとしたら、ない訳でもないか...ん?)

 茂利はお膳の前に敷かれた座布団に掌位の白い和紙が落ちているのに気が付いた。

和紙には流れるような達筆でさらさらっと文字が書かれている。

「えっ! 」

 文字を目で追った茂利が小さな声を上げた。

「どうした? 」

キルンが傍らから覗き込む。

「これは…」

 キルンの表情が硬く強張った。

「読めるのか? 」

 茂利が感心した表情でキルンを見た。敵の文化に敬意を表する故にその文化を理解しようとする彼女の真摯な姿勢には、彼はただただ脱帽せざるを得なかった。

「何て書いてあるんだ? 」

 工作員も気になるのか茂利の肩越しから覗き込む。

「何て書いてある? 」

 キルンが茂利の顔を凝視した。

「何だ読めないのか...」

 茂利は肩透かしを食らい、苦笑を浮かべた。

「ええっと『茂利様、キルン様、工作員様、ようこそおいでくださいました。食事とお風呂を用意しましたのでゆっくりとごくつろぎ下さい』と書いてある。驚きだろ? 」

「驚きだ。よくそんな文字が読めるな」

 キルンは感心したように目を閉じるとうんうん頷く。

「そこかよう」

 茂利の脳内を無数の藁が埋め尽くす。

「どういうことだ、それ...」

 工作員は訝し気に書面を睨みつける。

「文面も不思議なんだけど、家主は俺達が来ることを分かっていたかのような感じだなんだよな 」

「それってありえんだろ」

 工作員が馬鹿にしたように吐き捨てた。

「でも、何故工作員は工作員なんだ? 名前じゃないってのは―― 」

 茂利は探るような目つきで工作員を見た。

「国家機密だからだ」

 工作員は憮然とした表情で茂利をガン見する。

「この家の主が忖度したってのか? 」

 茂利は呆れたように工作員に返す。

「おい、食事が冷めるぞ」

 キルンはいつの間にかお膳の前に正座してご飯を口に運んでいた。いつの間にかちゃっかり自分のお椀にだけ汁物をよそっている。

「お前...」

 工作員が驚きの表情を浮かべる。

「箸の使い方が上手過ぎる。おい、こいつ本当に宇宙人なのか? 」

 唇をプルプル震わせながら訴えかけてくる工作員に、茂利は黙って頷いた。

「驚きだな。地球の、それも和食が食べれるのか」

「ああ。まあなんとか。嗜好は合いそうだな」

 キルンは平然爽答えると、煮物を美味しそうにほおばった。

(これも元の世界に戻ったら暮亜に報告だな)

 茂利はそう思考に刻むとお膳の前に座った。

「せっかくだ、俺達も食うぞ」

「え、まじかよ」

 茂利の決断に躊躇した工作員だったが、何事もなく食べ続けているキルンを見て意を決したのか、お膳につくと食事をとり始めた。

(旨い。結構シンプルなメニューだけど、味が奥深い)

 茂利は幾度となく租借しながら煮物の里芋を味わった。何となく懐かしい味がする。それこそ子供の時に食べた母親の手造りの料理のような。囲炉裏にかけられた鍋には玉葱と豚バラ肉がたっぷり入った豚汁が入っており、キルンはいたってこれが気に入ったらしく、すでに二回お替りしている。つまり今、三杯目と格闘中。

 無事何事もなく食事を終えた茂利は、ふと隣の部屋が気になり、何気に襖を開けた。と、そこには居間の倍程の広さの和室があり、古びた畳が敷き詰められた床には、ふかふかの布団が三つ並べられ、ご丁寧に温泉宿で出るような浴衣まで用意されていた。それだけではない。和室から別の襖を開け、奥に続く廊下を進むと、その先にはなんと湯の湧いた檜風呂とトイレがあった。トイレだが、何故か家の雰囲気にはそぐわない水洗式の洋式トイレで、これも何らかの忖度がはたらいたのではないかと思うものの真実は定かではない。

 キルンが風呂に入っているうちに、茂利は炊事場で食器洗いにいそしんでいた。流し台は水盤も桶も檜製で、純日本的な味わいを醸し出してはいるものの、何故かスポンジと洗剤は現在の日本で流通しているそれだった。台所としてはかなり広く、調理台には木製のまな板が三枚立てて乾かしてある。恐らく食材によって使い分けているのだろう。洗い場の正面や横の壁には括りつけの棚があり、いくつかの食器がそこに収納されていた。

 洗い終わった食器を洗い桶とは別の桶に伏せていく。と、突然その食器に手を伸ばす人影が彼の目に映った。

 キルンだ。お風呂から上がったのだろう。浴衣を身に纏った姿で食器を手に取り、しげしげと眺めている。

「これ、片づければいいのか? 」

「手伝ってくれるのか? じゃあ、そこにあるふきん――分かるか? そうそうだ。それで俺が洗った食器を拭いて壁んとこにある棚にしまってくれ」

「分かった」

 キルンは彼が一度話しただけでその意図を把握したらしく、躊躇うことなく食器を手にとって拭き上げ、棚に並べていく。

「工作員は? 」

「風呂に行った」

「そうか。結構渋っていたけど観念したか」

 茂利は食器を洗う前に工作員に風呂を進めたのだが、銃を一時たりとも手放すわけには行かないと必死の抵抗を試みたのだ。そんなカビだらけの銃なんざ奪う気にもなんねえよと言い放った俺の顔を奴は疑い深げにしばらく凝視していたが、最終的には渋々だろうが納得してくれたのだろう。何しろ駆けずり回って全身汗だらけの上に埃まみれになっているはずなのだ。そんな体で布団に潜り込まれたりしたら、一夜の宿を提供してくれた何者かに対して失礼だ。

「茂利、工作員の事だが...」

 キルンが茂利の耳元でそっと囁く。

「えっ? まさかっ! 」

 茂利は驚きの余り鍋を落としようになるのをかろうじて食い止めた。

「それって、何故気付いた? 」

「風呂場の戸の隙間から偶然見えた」

「覗いたのか」

「見えてしまった」

「それは覗いたっていうんだ」

「そうか」

「隙間が空いていても気にしないなんて、結構がさつなのか...」

 茂利が首傾げると、キルンも同じように首を傾げた。

「何こそこそ話してるんだ? 」

 突然、浴衣姿の工作員が背後から声を掛けてくる。風呂場に向かってからまだそんなに時間は立っていない。烏の行水並みの入浴時間だ。

「変なこと聞くけど、お前――女性なのか? 」

 茂利はセクハラにならないようにワードを拾いながら、恐る恐る工作員に切り出した。

「そうだけど。何? お前、まさか私が男だと思っていたのか? 」

 工作員はぶすっとした表情でくいっと胸を前に突き出した。どうやらこれは国家機密ではないらしい。確かに。それらしき隆起は確認できる。今思えばだが、自宅の前で初めて会った時、スリムな割には胸厚な体躯に細マッチョかと思っていたのが実は実はの大間違いだったということだ。まあキルンがご立派過ぎる故に、目立たなかったのは確かだが、言葉にするとセクハラになりそうなんでやめておく。

「でも妙だな。何故風呂覗いて公安のねーちゃんの裸を見て驚いて落っこちるんだ? 」

「そりょあ驚くだろ。いくら同性でもいきなり全裸で目の前に立たれたら。それよりもなんだよお前。一緒に風呂入ってたよな。エチエチな奴」

 工作員はニマニマ笑いを浮かべながら、好奇の目線を茂利に注いだ。

「彼女が勝手に入ってきたんだ。俺の位置からは真っ暗で何も見えなかった」

 慌てて弁明する茂利に対して、工作員は上目遣いにフンと鼻で笑った。

「地球人の混浴文化は聞いたことがある。我々の星でも普通の習慣だ」

 キルンはちらっと茂利を見ると少しも動じることなく平然と呟いた。

「ひょっとして、お前達食器の後片付けをしていたのか? それも私の分まで」

 工作員が茂利の手元をひょいと覗き込む。

「まあ、ついでだからな」

「すまない」

 工作員は意外にも感謝の意を示すと、頭を深々と下げた。浴衣の胸元から色っぽい谷間がチラっと顔を覗かせた。確かに、間違いなく女性の様だ。

「洗い終わったし、俺も風呂に行くとするか」

 茂利は炊事場を離れると風呂場に向かった。途中、隣の和室によって浴衣を手に取った。見ると、キルン達はそれぞれ寝る場所を決めたらしく、枕元に来ていた衣服が丁寧にたたまれている。それも、よりによってそれぞれが端っこ側をキープしており、茂利は見事女子二人に挟まれてのど真ん中だ。といっても、片や迷わずに引き金を引く工作員、そしてもう一方は無敵超人の宇宙人女子ときた。        (うれしいような、うれしくないような、だな)

 ある意味戦慄しか感じえない設定に、極力女子二人に挟まれて寝るという滅多にない設定だけを無理矢理意識に叩き込む。

 風呂場につくと、畳一畳くらいの脱衣場に脱衣籠があり、何故か体重計までもが用意してあった。濡れた足跡が残っているところを見ると、少なくともあの二人のどちらかはのっかったのだろう。

 茂利は衣服を脱衣籠に放り込むと、掛湯をし、湯船に身を沈めた。檜の荘厳な香りが鼻孔をやさしくくすぐる。

 洗い場も含めて、風呂場は数人が優に入れる立派なものだった。また総檜の湯船は圧巻だった。檜の香りが仄かに漂い、茂利の疲れ切った心身に浸透していく。目を閉じれば、まるで森林浴をしているようなリラックスした気分になれる。

 茂利はさらさらした湯の感触を楽しみながら、弾痕のあった辺りを見つめた。

 工作員に撃たれた銃創は後かともなく消えており、傷一つ残っていない。驚きの事実がもう一つ。最初のカマイタチに切り付けられた時、不思議と痛みは全くなかったのだ。

(カマイタチってすげえな )

 茂利はあるべき傷跡のの辺りをまじまじと見つめた。

 カマイタチは何故、彼を助けたのか今だに分からない謎だった。カマイタチだけじゃない。豆腐小僧もそうだ。彼のおかげで工作員の銃は使い物にならなくなり、新たな危険にさらされる心配はなくなったのだ。それに、道の両側に立ち並ぶ妖怪達。彼らも誰一人手を出すものはいなかった。最後にこの家。いたせり尽くせりの大歓迎! これって、何?

 罠かもしれない。

 その思いを全く持って抱かなかった訳でもない。でも何故か、家の敷居をまたいだ時から、そんな警戒心や恐怖感はかき消すように消えていた。

 何かしらの思考操作が行われている。

 そうとってもおかしくないような感じがする。

 もし罠だとしたら、既に何らかの動きがあるはず。食事に毒を盛るとか、畳や天井からいきなり槍が突き出るとか。

 俺達が寝静まるまで待つつもりか...でも、それはないだろう。

 根拠がないにもかかわらず、ないと感じるような妙な安心感と安息の時が、彼の意識を無条件で虜にしていた。

 ふと耳を澄ませると、キルン達の笑い声が聞こえる。二人で女子会でもやっているのか。

 不思議なことに、あの工作員、なんだかだんだんフレンドリーになってきている。

 やはりこの家、何かある。

 茂利が風呂から上がると、女子二人は何やら棒状の白いものを口にくわえていた。

 アイスキャンディーだ。

「どうしたんだそれ...」

 茂利が呆気に取られていると、キルンが炊事場の奥を指さした。

「おまえの分もあるぞ」

「あるぞって、どこに? 」

「冷蔵庫。食器棚の横の引き戸を開けたらあった」

「え? 」

 半信半疑のままに炊事場に向かうと、さっき洗った食器を片付けていた棚の横に引き戸があるのに気付く。

「ここか? 」

 茂利が恐る恐る開けると、あずき色の巨大な冷蔵庫が申し訳なさそうに鎮座していた。

「トイレといい、冷蔵庫といい、どうなってんだこの家...」

 ぶつぶつと訝し気に呟きながら、茂利は冷蔵庫の扉を開けた。するとあるわあるわ、肉やら魚やら野菜やら、あるとあらゆる食材がぎっしり詰まっている。フリーザーも同様で、肉や魚は勿論、それ以外にも冷食やアイスキャンディーがぎっしりと詰まっている。

 茂利はアイスキャンディーを1本手に取ると、そっとドアを閉めた。引き戸を閉め、冷蔵庫を後にしようとした瞬間、彼の脳裏にある記憶が蘇る。少し前に食器を洗っていた時、片付ける場所は何処だろうとあの辺りの戸棚や引き戸をを片っ端から開けたのだ。勿論、先程の引き戸も開けてみたはずなのだが、その際には確か何もなかったような気がしたのだ。

(あの時は見間違えたか...)

 茂利は身を翻すと再び引き戸を開けた。

 何もない。

(さっき、ここに巨大冷蔵冷凍庫があったはず)

 茂利は再び引き戸を閉め、離れようとする素振りを見せた直後、再び引き戸を開けた。すると、さっき目撃した巨大冷蔵冷凍庫が当然のように鎮座している。

(まさか、狐か狸に化かされている――いや、変な詮索はもうやめよう)

 茂利は吐息をつくと、ゆっくりと引き戸を閉め、アイスを咥えた。冷たい触感が口内に広がる。バニラかと思いきや、何となくヨーグルトっぽい酸味が甘味の中に潜んでいる。

 紛れもなく本物のアイス。幻でも牛の糞でもない。 

「疲れたので先に寝るぞ」

 工作員は大あくびをすると、隣の部屋に消えた。

「私も」

 ほどなくしてキルンも工作員の後に続く。

 気が付くと、シーンと静まりかえった居間に、茂利だけがただ一人取り残されていた。

 ふと囲炉裏端を見ると、そこにいつの間にか木目調のコーヒーカップが置かれ、これまたいつの間にか注がれた珈琲から白い湯気が立ち上っている。

(いったい誰が入れてくれたんだろう。さっきまではなかったはず)

 茂利は伝播する不思議な現象に戸惑いながらもカップを手に取り、珈琲を口に含んだ。香ばしい香りと共に深みのあるに苦みと酸味がじわっと口内に広がる。

 茂利は思わず唸った。

(インスタントじゃない。ちゃんと豆からひいたやつじゃねえか...)

 それは普段家で飲むフリーズドライの珈琲とは比べ物にならない、贅沢の極みともいえる味わい深いものであった。

 茂利はゆっくり時間をかけて飲み終えると、カップを囲炉裏端に置き、囲炉裏に向かって手を合わせた。

(ごちそうさまでした)

 不意に、和室の襖が少し開いた。キルンが心配そうな表情で茂利も見ている。

「何か妙な焦げ臭い匂いがしたんだが」

「ああ、多分珈琲だな」

「知識としては知っている。植物の種子を焦がして砕いた粉を飲むやつだな」

「まあ、当たっているような当たっていないようなだな。でもその答え、珈琲好きの地球人が聞いたら間違いなく激怒するぜ」

「そうか? 」

「そうだ」

「記憶しておく」

 襖が静かに閉じられ、キルンの腑に落ちたような落ちないような顔が闇にフェイドアウトしていく。

 茂利は苦笑を浮かべながら何気に先程の珈琲カップに視線を向ける。

 カップがない。

 彼はわが目を疑い、慌てて周囲を見渡す。が、カップの痕跡一つ残っていない。勿論、囲炉裏の灰の中に転げ落ちているわけでもない。ほんの一一瞬の間に、それは音一つ立てることなく消え失せたのだ。

 誰かが――否、何かがいる。

 間違いなく。

 茂利は意識を研ぎ澄ませると、鋭い視線を部屋の隅々に放つ。しんと静まり返った夜更けの澄み切った空気が、部屋の隅々にまで彼の意識をの妨げも無く誘う。

 何の隠し立てもしない――この家の何かが、そう彼に語り掛けているかのようにも感じられる。

(深く考えないでおこう)

 茂利は吐息をついた。それが、無条件に彼らをもてなしてくれているこの家の主に対する誠意ではないのか――家が占有する空間を探っていた彼の意識が導き出したのは、言わば聖なる存在への禁足的見解だった。全ての事象に答えがあるとは限らない。決してあるべき回答を隠ぺいするのではなく、あくまでも素直に正しい答えを暗喩するだけなのだ。

 彼はゆっくりと立ち上がると、トイレに向かい、その後隣の和室の襖に手を掛けた。なるべく音をたてないように、襖をゆっくりと開く。

 部屋は静まり返っていた。薄暗い常夜灯がくすんだオレンジ色の光が優勢を誇る濃紺色の闇にささやかな抵抗を試みている。

(まるで夜這いを掛けているみたいだな)

 茂利はごくりと生唾を飲み込んだ。エロオヤジ的な台詞の割には、彼は少しも笑ってはいない。うら若き女性に挟まれて眠れるとはいえ、双方とも彼にとっては敵対する立場にあるのだ。鼻の下伸ばして喜んでなんかいられやしない。

 工作員はよほど疲れていたのか静かな寝息をすうすうと立てている。茂利に背を向けてているので寝顔までは伺えないが、どうやら熟睡しているらしい。キルンも茂利に背を向けているが、もぞもぞ動いているところを見るとまだ寝つけずにいるようだ。

 茂利はそっと自分にあてがわれた真ん中の布団に潜り込む。

 結構もこもこした厚手の布団なのだが、まるで掛けていないかと錯覚するくらい超軽量の心地よい掛布団だった。恐らくは羽根布団らしく、ふわふわ感がすこぶる心地よい。

「寝れないのか? 」

 茂利はキルンにそっと声を掛けた。キルンは寝返りを打つと、横向きに茂利を見つめた。

「どうやって元の世界に戻るつもりだ? 」

「そうだな...まずは、今日この異界に迷い込む直前にやっていたことの再現かな。あの時、俺達の力がぶつかりあってこちらの世界への扉が開いちまったんだから、多分また同じことをすれば扉は開くんじゃあないかな」

「そうか...」

「でも、心配事が一つある」

「何だ? 」

「再現して扉が開いても、工作員が通れるかどうか」

「どういう事だ?」

「いくら異能のスペック保有者でも、防御力はどう見ても低そうだ。多分普通の生身の人間より多少ましなくらいだろ。それなのに、時空に亀裂を開ける程の爆裂的なエネルギーが弾け合っている俺達の剣戟を避けて、奴は時空の裂け目を通過出来るのかなって」

「難しそうだな」

「んで、ここから相談なんだけど」

「んだ? 」

「彼女が逃げ切るまで、少し力をセーブしようと思う。少しでも時空に亀裂が入れば、彼女なら逃げられるだろ」

「民間人は戦いに巻き込めないからな... 」

 キルンは腑に落ちたらしく、茂利の提案に頷いた

「まあ、そうだ」

 キルンが納得して同意した事に、茂利も嬉しそうに頷いた

「前から聞きたいと思っていたことがある」

 不意に、キルンが話を切り出した。

「何だ?」

「何故、あの時とどめをささなかった? 」

 キルンは瞳を大きく開いて茂利を見つめた。

「あの、市街戦の時か? 」

 茂利は遠くを見つめる様に眉間に皺を寄せた。

「そうだ。あの時私は死を自覚した」

「時間切れだったからな」

「まだ終わってはいなかった。私を仕留めるのに十分な時間があったはずだ」

 キルンの澄んだ目が、探るように茂利を見つめている。

 彼女の容赦の無い追及に、茂利は一瞬困ったような表情を浮かべた。そして、躊躇いながらも、彼はゆっくり唇を開いた。

「娘と被って見えたんだ」

「娘? 」

「ああ。君と同じ位か、ちょっと上か...ああ、地球人とは歳のとりかたが違うか」

「地球人の外観からの推定年齢基準と比較しても、茂利には娘がいるようには見えない」

「チューンアップされて見た目は若返っているけど、中身はただのおっさんだ」

「そうなのか...これがシンクロ率百パーセントのなせる業なのか」

 キルンが何故か感慨深げに呟いた。

「まさか、キルンもなのか? 」

 茂利は驚きの声を上げると、まじまじとキルンの顔を凝視した。

「私は違う。容姿も年齢もイコールだ」

「そうかあ...」

 何となくほっとした茂利の脳裏を、初日に遭遇したキルンのパンチラシーンがチラっと過ぎる。実は彼と同年代だなんて言われたら、ちょっとショックな記憶になりそうだった。今のご時世、セクハラになりかねんのでこれ以上の言及は避けておく。

「茂利、どうするつもりだ」

「何が? 」

「そんな迷いがあれば、私を倒せんぞ」

 思わぬ追及だった。キルンが綴った台詞はピンポイントで茂利の思考に憑依した苦悩の根源を貫いていた。それは初日の終盤にチャンスを自ら放棄した己の行動に纏わりつく、深層心理の闇の囁きそのものだった。茂利自身十分過ぎる程自覚しており、その後の戦闘態勢に身を置く中でも、常に意思を妨げるかのように思考に囁き続けていた。

(答えを出す時だ)

 茂利は大きく息を吸い、そして吐き出した。

 吐息ではない。心身に蟠る迷いの蟲毒を強引に嘔吐したのだ。自分自身で自分を戒め、攻め続けていた呪詛の全てを、彼は肺の奥から絞り出した呼気と共に一気に排出したのだ。

 彼にとって、それは解放の儀式だった。本音と建前が、公と私が混沌としたしがらみの淵から、彼は純粋な己だけを抽出しようと試みていた。

 茂利は、貼りついた唇をゆっくり引きはがした。

「倒すつもりはない。でも、負けるつもりもない」

 茂利は、一言一言を噛み締めるように意思を言葉に刻んだ。

「何? 」

 キルンは眉間に皺を寄せると、食い入るように茂利を凝視した。

「二人とも勝てばいいんだろ?」

「そんなこと出来るのか! どうするんだ?」

「それを考えているところだ」

 突然、キルンは声を押し殺しながら笑い始めた。

「面白い奴だな。今まで戦った相手の中に、お前みたいな者はいなかった。隙あらば私の首を狙う者ばかりだった。なのに何故お前は…」

 笑声が消えた。キルンは言葉を詰まらせた。瞳が大きく揺らぎ煌めく。それが何を意味するのか、茂利には察する事が出来なかった。ただ彼女の頭脳に刷り込まれた地球人の情報に、何かしら未知のシナプスを撃ち番ったのは確かだった。

「悲劇の連鎖を断ち切りたいんだ」

「悲劇の、連鎖? 」

 茂利の言葉に、キルンは思案顔で目線を中空に泳がせた。

「どちらかが勝てば、負けた側に訪れるのは悲劇。それを解消しようとしたら、またあらたな悲劇が起きるかもしれない」

 茂利は淡々と言葉を紡いだ。

「私には、同胞達を助ける義務がある。だから――」

 キルンは表情を歪めながら駄々っ子のように口をへの字に曲げた。

「気にするな。君の考えや行動は当然のこと。間違っちゃいない」

 茂利は宥める様にキルンに語り掛けた。

「茂利の言ってること、おかしい。どっちが正しいんだ? 」

 キルンは怪訝な目付きで茂利を凝視した。

「どっちも正しい」

「どっちも? ありえない」

「否、ありえるんだ」

「分からない...私は戦いの前に、この惑星の『日本』という国についての全てを頭に叩き込んだはずなのに」

「人の思考までは全て理解はできんだろ? でもな、日本には日本人独特の可でもなく否でもないって考え方があるんだ」

「何だ、それは? 」

「中庸さ」

「チュウヨウ? 」

「元々は日本で始まった考え方じゃないんだけどな。極端に偏ることのないバランスのとれた考え方ってやつだ」

「バランスのとれた考え方...難しいな」

「まあな。右か左か、前か後か...はっきりと方向性を目指す方が簡単かもしれないけどな。それでも求めなきゃならねえ時ってのがある」

「そうか...」

 キルンは言葉短に呟くと、考え込むように目を閉じた。しばらくすると静かな寝息が聞こえ始める。彼女にとっては理解しがたい難解な問題だったのだろう。困難極まりない思考は極度の睡魔を誘う。難しい数学の問題を解こうとすると眠くなる本能的な逃避行動と同じものだ。

(そうだよな。そう簡単にはいかねえような)

 茂利はキルンの寝顔を見つめた。彼女は決して野卑で戦闘的な思考の持ち主じゃない。むしろ極めて知性的で優れた頭脳の持ち主だ。その彼女が託された力をもって解決の道を探ろうとも、選択肢の中に存在したのは自分達が負うた不幸を他の惑星の住民達にも負わせることしかなかったのだ。あれだけの力を得たのだから、無謀とはいえ反撃に出るのも一つの選択肢として存在していてもおかしくないはずだ。

(何か、反撃出来ない理由でもあるのだろうか。まさか、チェーンナップされた際に何らかの細工がされていて、反乱を起こそうとしたら自爆してしまうとか)

 余りにも周到過ぎるとはいえ、無いとは言えない事案だ。

 茂利はゆっくりと目を閉じた。

 





 けたたましい鳥のさえずりに、茂利は目を覚ました。

 襖の隙間から差し込む白い光が、朝の訪れを伝えている。今何時頃だろうか。工作員もキルンもまだ身動き一つせずに寝息を立てている。

 茂利は布団を出ると着替えを持って忍び足で風呂場に向かった。不思議なことに、枕元に置いてあった衣服はきれいに洗濯されており、昨日工作員に撃たれてべっとり付着していた血痕は綺麗に漂白され、おまけにシャツに空いた弾痕もきれいに無くなっている。

(いたせり尽くせりだな。ありがたい。となれば、お風呂も期待できるな)

 彼の期待通りだった。

澄んだお湯が湛えられ、白い湯気が立ち上る湯船を見て、茂利は満足げな笑みを浮かべた。ひょっとしたら早朝から湯船に湯が満たされているかもしれない――期待通りの展開に、彼は迷わず浴衣を脱ぐと湯船に身を沈めた。

 湯船のそばの窓からは、うっそうと生い茂る広葉樹の森林がどこまでも続く風景が見える。木の最初に目の当たりにした街の風景は、怪異が生んだ幻だったのだ。

(今いる所が温泉旅館で、この後土産を選んで家路に向かうってんだったらいいんだけどな)

 茂利はしみじみと空想に浸っていた。昨日の中庸の話を自分の言葉でキルンにカミングアウトしたせいか、彼の中で戦闘意欲が急速に低下していた。この状態で戦闘再開となったら、間違いなく自分が敗れる――そんな、負の自信が、彼の意識をどんと暗い無気力の深淵へと突き落としていた。

「戦闘前の朝風呂もいいもんだな」

「そうだろ、気分がリラックスできて――えっ? 」

 茂利は慌てて声のした右隣りをガン見した。

 キルンがちゃっかり湯船に肩まで浸かっている。

「キルン、おい、なんで? 」

「たまには朝風呂もいいかなっと思って」

「いや、そうじゃなくて。男の俺が入ってんのに入ってくる奴がいるか? それもいつの間に? 」

「前にも言ったと思うが、私の星では混浴は普通だ」

「んなこと言ってもなあ」

 そう言いながらも茂利はキルンをチラ見すると、彼女はタオルで体を隠しておらず、光の屈折はあるものの裸体がモロ彼の目に飛び込んでくる。

「うあっ! タオルで隠してないのか?」

「入浴のエチケットに反するだろ」

 慌てふためく茂利とは対照的に、キルンはいたって冷静に答えた。

 茂利は気持ちを落ち着かせようと窓の外の風景に目を向けた。

 不意に、風呂の戸がガラリと開いた。反射的に振り向いた茂利の目に、素っ裸で仁王立ちの工作員の姿が映っていた。

「キルン、やっぱり私も入る――きゃああああああっ!」

 絶叫と共に工作員は掛湯もせずに湯船に飛び込んだ。

「なんでお前がいるんだあっ!」

 工作員は胸を両手で隠しながら顔を真っ赤にして叫んだ。

「俺が最初にいたとこにキルンが入ってきたんだよ。それより何故にお前も湯船に入るんだ?」

「こっちの方が確実に隠せるだろっ! こらっ、湯船の中を見るなっ!」

 工作員は手で湯面を跳ね上げて茂利の顔にしぶきを掛けた。

 茂利は慌てて再び窓の外の森に目を向けた。

「いいか、キルンは平気みたいだけど、私が出るまで絶対にこっちを見るなよっ! 」

「ああ、分かった分かった。分かったから大人しく入っててくれ」

 今だしぶきを飛ばし続ける工作員に、茂利が迷惑そうにひとくさり呟いた。

(信じられん。この工作員、ここまで俺達に気を許していいのかよ)

 思いもよらぬ神展開に、至福の喜びに浸りつつも動揺を隠しきれない茂利だった。

 十数分後、キルンと工作員が連れ立って風呂から出た後に、漸く茂利も湯船から身を上げた。結構長風呂だったにもかかわらず、意外にものぼせてはいない。ある意味緊張感に満ちた入浴だっただけに、反対にリラックス感は少しも無かった。

 戦闘用のコスチュームに着替え、居間に向かうと囲炉裏の周りには朝食のお膳が用意されていた。新たに炭がくべられた囲炉裏には、わかめと豆腐のみそ汁の入った鍋が掛けられている。お膳には鮭の塩焼きに納豆、だし巻き卵、ジャガイモと人参と大根の煮物、梅干にたくあんといった純日本の朝的な献立だった。二人はすでに座布団に座ってスタンバっており、どうやら茂利が来るのを待っていてくれたらしい。

「私達が来た時には、既に食事は用意されていたんだ。人の気配は全くなかったのにな」

 工作員が首を傾げた。

「茂利、隣の部屋を見てみろ」

 キルンに言われるままに、茂利は襖を開き、隣の部屋を覗いた。

 布団が消えている。俺達が風呂に入っている間に、何者かが布団を片付け、朝ごはんの支度までしてくれたのだ。

 何者なんだ。誰かがいるのは確かだ。何者かが俺達の行動を盗み見ながら、顔を合わさぬように色々と面倒を見てくれているのだ。恐らく、この家のどこかで息をひそめているに違いない。

 ふと気が付くと、キルンと工作員がじっと茂利を見つめている。

「どうした?」

 茂利は訝しげに二人に声を掛けた。

「まだ食べないのか」

 キルンがじっと茂利を見つめた。と、そこで茂利もようやく彼女のアイコンタクトに気付く。

 (毒見をしろって事か)

 茂利は二人の思惑に気付くと、お膳に向って手を合わせる。キルンは昨晩なんの警戒心も無く率先して食していたのだが、さては工作員に何か吹き込まれたか。

「いただきます」

 茂利はご飯の盛られた茶碗を手に取ると、次々におかずを口に放り込む。

 それを見て安心したのか、キルンと工作員も茶碗に手を伸ばした。中でもキルンは圧巻だった。迷わずに納豆を手に取ると、徐に箸でぐりぐり掻きまわし、ご飯の上にドバっとかけてわしわしと一気にかっ込んだ。

 その様子を茂利も工作員も呆気にとられて見つめている。

「異星人が納豆食うのか...」

 茂利は計り知れない異星人の嗜好に驚愕と感嘆を受けていた。地球人、いや日本人でも食べれない者がいるというのに、このシーンはとんでもなくエキセントリックだった。

「キルン、私のもやるよ。こいつばかりは苦手でさ」

 工作員がキルンのお膳に納豆の入った小鉢を置いた」

「いいのか? 」

 キルンが探るような目つきで工作員の心情に問いかける。

「どうぞ」

 工作員が勧めると、キルンはほわっとうれしそうに笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 キルンは至福の喜びを満面の笑みで表しながら、お茶碗に本日二杯目のご飯をお茶碗に盛り付け、再び楽しそうに小鉢の納豆をぐりぐりかき混ぜた。

「キルンの星にも納豆みたいな食べ物があるのか? 」

 茂利が上機嫌のキルンにそっと声を掛けえた。

「いや、無いな。未知の食べ物だ。でもこの独特の風味と味わいは癖になる」

 茂利の問い掛けに答えると、キルンは二杯目のご飯もあっという間に胃袋に収めてしまった。驚いたことに、昨晩もそうだったが彼女はお膳の上に所狭しと並べらたおかずを次々に平らげてしまった。おまけに最後に梅干しとたくあんをかじりながら緑茶をすするという見事な完食振りに、工作員は少しひいていた。かえって地球人でありながら、工作員の方があれはやだこれは苦手だとちょこちょこ食べ残している。文化の違いがあるから仕方がないのだが、根本から異なる食文化のキルンが、異星の食文化に共鳴しているのは興味深い話だった。

 茂利はお膳に手を合わせると、軽く目を閉じた。それを見ていたキルンと工作員も慌てて手を合わせ、目を閉じる。

「御馳走様でした」

 合掌後、再び目を開けた時、彼らの目の前からお膳は消えていた。

「洗い物はいいから早くいけという事か」

 茂利が何気にぽつりと呟くと、それに呼応するかのようにキルンが黙って二度頷いた。目前で起きた怪異を追求するものは誰一人といなかった。彼らの中でそれはもはや当たり前の事であり、暗黙の了承でもあった。それに、互に言葉にださないにせよ、この現象をこれ以上言及するのはやめようという意思が働いていた。余り深くは踏み込んではならないような気がしたのだ。それは不文律の秘文のように三人の深層に息づく意識に互いに囁き合っていた。全ては無意識のうちに共感の縦糸と横糸が糾われ、ごく自然な振る舞いとなって三人の所作に現れたのだ。

「茂利、行くぞ。そろそろ時間だ」

 キルンが土間に腰かけると足袋を模した白いブーツを履き始めた。

「時間って?」

 工作員がキルンの背に話しかける。

「戦闘開始の時間だ」

 キルンはブーツを履き終えると工作員の方に振り向いた。

「そうか、時間が決まっているんだったな...異世界でもそうなのか?」

「ここではやらん。ただ、元の世界に戻るのにひと騒ぎしないとな」

 茂利はキルンの横に腰を下ろすと靴を履いた。泥だらけだったはずのトレッキングシューズはしみ一つない新品同様にまで汚れが落としてあった。

 茂利は家を出ると引き戸の前で深々と頭を下げた。キルン達も彼を真似て

「ありがとうございました。お世話になりました」

 感謝の言葉を述べると、茂利はゆっくりと顔を上げた。

「おお...」

 茂利の喉から嘆息がこぼれる。

 家が、消えていた。彼の目の前には、ただ緑葉生い茂る広葉樹の森が広がっているだけだった。趣のある雛の家は、まるで最初から何もなかったかのように痕跡一つ残さず消え失せていた。

「消えてしまった...」

 キルンがぼそっと呟いた。

「あの家、いったい何だったんだ? 」

 工作員が震える声で茂利に問いかけた。

「迷い家だ。何となくそんな気がしていたんだけど。間違いないな」

「迷い家?」

「ああ。とんでもない山奥にポツンと家が建っていて、道に迷った旅人を止めてくれるんだ。家には誰もいないんだけど、食事が用意してあったり、蒲団が敷いてあったりする――しまった!」

「どうした? 」

「迷い家を出る時、何か一つ持ち出せば幸せになれるって言い伝えがあるんだ! すっかり忘れてた...」

「ほれ」

 頭を抱えて悔しがる茂利の前に、キルンがひょいと手を突き出した。

「ん? 」

 茂利は目を丸くした。アイスキャンディーだ。

「家を出る前に冷蔵庫から持ってきた。これは茂利の分」

 見ると、工作員もキルンもいつの間にかアイスキャンディーをれろれろなめている。

「あ、ありがとう」

 茂利は素直にそれを受け取るとひょいと口にくわえた。昨日とは違って爽やかな柑橘系の味と香りが茂利の口腔内に広がる。

「森を出て、戦闘にふさわしい場所を探そう。お世話になった迷い家に敬意を払ってなるべく周囲の環境にダメージを与えない所がいいな」

 茂利の提案に二人はアイスを口に突っ込みながら無言のまま頷いた。

 落ち葉が降り積もった里山の小径を進んで三十分程たっただろうか。不意に木立が途切れ、視野が広く広がった。牧草のような背丈の低い草だけが繁茂するサバンナのような広大な草原がどこまでも広がっている。

「ここならよさげだな」

 茂利は満足げに辺りを見渡した。

「そうだな。ここなら暴れても壊れるものはなさそうだ」

「おいおい、本気で暴れるのは元の世界に戻ってからだ」

 淡々と語るキルンを茂利が慌てて制する。

「これから何を? 」

 工作員が茂利に問い掛ける。

「そだな、やるとすればこの世界に迷い込んだ時の再現だな」

「茂利、そろそろいけるぞ」

 キルンの右手が蒼紫色の光を放つ。光は瞬時に収束し、一振りの太刀を造形した。

 草薙剣だ。

「工作員、危ないからちょっと離れてろ」

「あ、ああ」

 キルンの手に突如像を結んだ真剣に度肝を抜かれたのか、工作員は茂利にうわの空で返事した。

 茂利は工作員が自分から間合いを取ったのを確認しつつも、自信で更に間をとると、キルンと対峙した。彼の右手が紅蓮の光に包まれ、やがてそれ自身が形状を造形していく。巨大な西洋の剣、神々の最終兵器とも呼ばれる最強の剣、ラグナログだ。

「この前は剣が組み合わさった時に空間に裂け目が生じたんだ。これからそれを再現する。少しでも裂け目が確認出来たら飛び込むんだ」

「お前達は?」

「裂け目が大きく開いてから飛び込むよ。俺達が剣戟してるさなかに近寄るのは生身の人間では危険だからな。剣の斬気が周囲を満たす前に行くんだ」

「お前達は大丈夫なのか? 例え時空に裂け目が生じても、元の世界に戻れるとは限らないんだぞ」

「そうなのか? 」

「そうさ。お前達には想像もつかないだろうが、時空を跳んで移動するときには、必ず『道』を辿っていかなきゃならない。同じ時空をショートカットする時はそうでもないけどな、今回みたく異世界に迷い込んじまったら時空の裂け目をただ潜るんじゃ駄目なんだ。場合によっちゃ裂け目の側面を跳んで自分の『道』を探さないと、とんでもない世界に迷い込んじまうことがある。現に、訓練中に異世界に迷い込んで戻ってこれなくなった者が何人もいた。戻ってこれたのは、唯一私だけだ」

 工作員はアドレナリンが過剰分泌しているのか、顔を真っ赤にしながら興奮状態で捲し立てた。

「うーん、まあ、何とかなるさ...すまなかったな」

「え? 何故謝る...の? 」

 茂利の間延びしたお気軽な返事に、工作員は拍子抜けしたのか、八の字眉毛のままぽかんと口を開けている。

「俺達の戦いに巻き込んじまった」

「まったく。謝るこれで二回目だぞ! 私が勝手についてきただけだし。これ、私任務だし」

 何故か不満げに口をとがらかせている工作員を茂利は優しいまなざしで見つめた。

「冷酷無比で非情な輩かと思っていけど、お前、根はいい奴だな」

「な、なんだよ。何馬鹿なこと言ってやがる! 」

 思いもよらぬ茂利の台詞に、工作員は慌てて目線を逸らしてしてうろたえた。

「生きろ、絶対にな」

 茂利の顔が、不意に真顔に戻る。

 工作員は茂利の顔を凝視すると黙って頷いた。自分のとった態度に、彼女は驚きを隠せなかった。

 常に死と隣り合わせの日々を送る彼女にとって、死への恐怖心は、薄っぺらな薬包紙のように気にも留めない程にまで麻痺していた。

 同時に、国家に命を捧げ、忠誠を誓って以来、長年の過酷な訓練でマインドコントロールされた彼女にとって、生への執着も驚く程に希薄なものになっていたのだ。

 だが、これから地球をかけた戦いに挑もうとしているいるにもかかわらず、彼女の心配ばかりしている男の顔を真っ向から見据えたた時、彼女の中に無理矢理隠匿され続けていた生への思いが、熱い感情の噴流となって胸の中を激しく渦巻いた。

(彼は自分を生かそうとしている)

(明らかに誤った情報に従い、しつこく付き纏う自分を)

 工作員は頭を激しく振った。にわかに息吹始めた生への執着心が、超絶厳しい訓練で意識に深く刻まれた冷酷無比な残虐性を激しくシェイクしていた。

「茂利、小話はそれくらいにしておっぱじめるぞ」

 少々変な言い回しだが、キルンは淡々とした口調で戦闘開始を告げた。

「よっしゃあっ! 」

 茂利は答えるといきなり剣を真っ向からキルン目掛け振り下ろす。

 だがキルンは少しも慌てることなく、落ち着いた仕草で右手に携えた刀で受け止める。

 二人の刀剣から立ち上る気炎が激しく渦巻きながら、天空を、大地を焦がす。だがまだ時空の壁をぶち破るまでには及んでいない。

 キルンは茂利の剣を押し返すと、矢継ぎ早に刀を振った。

 今度は茂利が受けに回る。

 二人は更に激しく剣戟を繰り返す。

 刃に宿る闘気が激しくうねりながら二人を呑み込む。

「凄い...」

 工作員は固唾を呑んで二人の激戦を凝視していた。

 かなりの間合いを確保しているにも係わらず、剣を交わすたびにはじけ散る気の破片が彼女の頬をちくちく刺激する。

 キルンと茂利が同時に後方に飛び、大きく間合いを取った。残像すら軌跡を留めない超高速の攻防にも関わらず、二人は全く息が上がっていない。

 茂利が地を蹴る。同時に、キルンも動く。

 深紅の燃え滾る闘気を纏った茂利のラグナロクが空を薙ぎ、精錬された蒼白食の神気を宿したキルンの草薙剣が風を斬る。  

 二人の刃が接触。刹那、雲一つ無い空に夥しい稲妻と耳をつんざく雷鳴が立て続けに駆け巡る。二人の周囲の空間が微妙に歪み始める。

 時空に歪が生じ始めたのだ。

 何もない蒼天が激しく波打ちながら不思議な波動を伴い、風景に波紋状の歪を描き始めた。

「工作員、今のうちに行けっ! 俺達がこれ以上力を開放したら、お前は気の渦にあてられて何も残らず消えてしまうっ! 」

 茂利が工作員に叫ぶ。

 絶叫だった。キルンをかっと見据えながらも、茂利はたかぶる意識を隠そうともせず、工作員に激しく指示した。

「工作員、納豆のお礼はここを出たら必ずやさせてもらう」

 渾身の力で茂利の攻撃に対峙しながら、キルンは抑揚のない声で工作員に告げた。

 工作員はふっと口元に笑みを浮かべた。お互いに故郷の命運を掛けた戦いを繰り広げている最中なのに、二人は工作員が無事元の世界に帰れることを最優先にしている。

(全くもって不思議な奴らだ)

 工作員は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。彼女は腹式呼吸を繰り返しながら、己に宿る気力の臨界点を見極めていく。

「行くぞっ! 」

 工作員が叫ぶ。同時に、彼女の姿が掻き消すように消えた。

「行ったか...わっ!」

 茂利は大きく仰け反った。消えたはずの工作員の顔が目と鼻の先にあったのだ。

「命の恩人を異界に放り出すわけには行かないだろ? さあ脱出だ!」

 彼女は茂利とキルンの肩をがっちり掴むと、にやりと口元に笑みを浮かべた。

 同時に、周囲の風景が大きく歪み、全ての創造物が三原色に分解され、混沌とした光の渦となって三人を飲み込んでいく。

「今いるのが次元の境目だ。嫌なら目を閉じてろ。やわな精神の持ち主だったら、まずはもたないだろうな」

「大丈夫だ...凄いな」

 茂利は興味深く周囲を見渡した。人、人外、建造物――デフォルメされた幾種類もの像が、次から次へと現れては消えていった。

「道は、見つかったのか?」

 キルンが心配そうに工作員を一瞥した。

「ああ、大丈夫だ」

 工作員は凄まじい光の洪水に目を細めながらも確実にターゲットを捉えていた。

「道らしいものが一つもない」

 不安気に呟く茂利に工作員は苦笑した。

「残念だけど、これは私以外には見えないからな。一応、白い光の線がまっすぐ伸びているんだけど、これって私の残留思念だから」

「これが異次元なのか」

 茂利が目まぐるしく移り変わる映像の洪水に目をしばたたかせた。

「正確には次元の狭間だ。私でも滅多にこんな所は跳ばない」

「テレポーテーションの時は? 」

「点から点への移動だから、ほんの一瞬だ。こんな長居はしない。稀に目的地がイメージしきれずに曖昧になった時に彷徨うことがあるけど、その場合は大抵引き返すか過去の記憶を辿っている」

「成程」

 茂利は納得したのかふんふんと頷いた。能力者の生々しい体験談だけに説得力があった。

「今の話、国家機密ではないのか? 」

 キルンが怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「国家秘密だよ。お前達も世界機密的な話をしてくれたから、情報取引って事にしておくよ」

 工作員は白い歯を見せて笑った。が、不意に真顔に戻る。

「そろそろ到着だ」

 工作員の台詞と共に、視界が白一色に染まる。が、ほんの一刹那後、無残になぎ倒された原生林の痕跡が広がる風景に取って代わった。

「無事戻ってこれたようだな。時刻は14時か...数時間しかたっていない。向こうでの時間の進み方とは多少ギャップがあるけど、まあいい方だな」

 工作員は腕時計を確認しながら満足げに頷いた。

「ありがとう、助かった」

 キルンがは工作員に深々と頭を下げた。

「よしてくれよ。エイリアンの連中、この光景を隠し撮りして観ているんだろ? 」

「多分、今は観ていない」

「どうして? 」

「次元の壁を斬った衝撃で偵察機が壊れたようだ。あそこに落ちている」

 キルンが指さす方向を見ると、薙ぎ倒された木々の下敷きになってサッカーボール位の銀色の球体が転がっているのが見える。見るとボデイが大きく凹んでおり、受けた衝撃の凄まじさを物語っていた。

「普段は不可視機能で、本来あの本体は肉眼じゃ見えない。多分相当致命的なダメージを受けている」

「この平和的雑談もとりあえずは極秘裏に行われているって事か」

 茂利が安堵の吐息をつく。

「じゃあ、私はこれで退散する」

 工作員は踵を返すと後ろ手に手を振った。

 消えた。

 ほんの一瞬のうちの出来事だった。まるで会話していたのが幻であったかのように、茂利は不思議な喪失感を覚えていた。

(まるで昼寝の時に見る夢のような感じだな)

 茂利は現実味のない現実を噛みしめながら、さっきまで工作員がいた空間をぼんやりと眺めていた。

「何か寂しいな」

 キルンが表情を曇らせながらぽつりと呟いた。

「ああ」

 茂利もそれに同意する。不思議な感覚だった。敵対する関係であったにもかかわらず、不意にいなくなった今、妙な寂寥感に憑りつかれていた。迷い家で一晩共にしただけなのに、何とも言えない不可解な感情が茂利の意識に纏わりついていた。

(あの家には、人を結びつける不思議な力があるのだろうか)

 茂利はキルンを見つめた。寂しそうに工作員が立ち去った後見つめる彼女との関係もそうだ。いつの間にやら妙な仲間意識めいた感情が芽生えている。

「どうする、茂利」

「ん? 」

「残り1時間あるけど、何だか戦闘する気分になれない」

 キルンの手から、草薙の剣が消えていた。気が付けば茂利の手からもラグナロクが消えている。イメージで生み出す武器は、本人の心情に大きく影響を受けるようだ。

「そだな」

 茂利は頷くとそばの倒木に腰を下ろした。

「でも奴らはそのうち代わりの偵察機をよこすはず」

 キルンはぶっ壊れた球体型偵察機をじっと見据えた。

「こんなとこ見られたらまずいよな。被害者同士が結託して何か企んでいるように思われる」

「被害者?」

「ああ、君らは奴らに故郷を支配され、俺達は奴らに故郷を支配されようとしている。どちらも奴らの被害者さ」

「そうか...」

 キルンは空を見上げた。奴らの偵察部隊が訪れるのを警戒していのかと思ったがそうではないようだ。茂利が言った被害者同士という考え方に何か引っかかるものでもあるのか、何となく物思いにふけっているようにも見える。自分を油断させる罠だと警戒しているのか、それとも純粋に同調しているのか。

「どうせなら時間ぎりぎりに戻って来れたら良かったのに――わっ!」

 悲鳴と共に茂利の姿が消えた。

「どうした茂利! また次元の裂け目にはまったのか? 」

 キルンが取り乱したように叫ぶ。

「おーい! ここだここだあっ! 」

 茂利の声が足元から聞こえる。

 キルンは茂利が消えた辺りの地面に折り重なる倒木を蹴っ飛ばして一掃した。と、現れた溶岩の地面に人が一人優に通れるサイズの竪穴が顔を出す。茂利はどうやらこの穴に落ちたらしい。

「大丈夫か? 」

 キルンは心配そうに穴を覗き込んだ。

「大丈夫だ。暗くてよく見えないけど、中は結構広そうだ。ちょっと明かりをつけてみる...おおっ! 」

 突然、茂利が唸り声をあげた。

「何があった? 」

 キルンが穴の中に顔を突っ込んで覗き込む。が、茂利が出した思われる青白い光は見えるが、それ以外はよく見えない。ゆらゆら蠢く影は恐らく茂利のものだろう。

「キルン、来てみろ! すげーぞっ!」

 茂利が興奮気味の声で地上のキルンを呼んだ。茂利の声にキルンは何の躊躇いもなくふわりと穴に身を投じた。

 竪穴は意外と深く、およそ十メートルはあるだろう。キルンが降り立った穴の底は木の枝や枯葉が積もり、穴の側面も日の当たる辺りまでは苔むしている所から、決して二人が大暴れした際に生じた産物ではなく、かなり前から開いていたもののようだ。

「来たな」

 キルンの目の前には、宝物でも見つけたかのような、嬉しそうに満面に笑みをたたえた茂利が立っていた。

 さっきまで灯されていた青白い光は消え、彼の背後には濃厚で緻密な闇が広がっている。横穴は他にも地上と繋がっている箇所があるらしく、仄かに空気の動きが感じられる。

 又、何処かに地下を流れる川があるらしく、微かに水の流れる音が聞こえてくる。

「ちょっと明かりを灯すよ」

 茂利がそういうと同時に、彼の周囲に青白い光を放つ数個の球体が像を結んだ。

「人魂かよ」

 キルンが呆れた口調で茂利に返す。

「人魂知ってんだ。凄いな、こんなことまで勉強したのか」

「まあな、この星の民族に係る情報は大体頭に叩き込んだからな」

「ちょっと明かりのパワー上げるから、奥を見てみ!」

 茂利の言葉に呼応し、人魂の照度が一気にアップする。すると、今まで朧気でしかなかった洞窟の内部に十分過ぎる程光で満たされていく。

「これは...」

 キルンは息を呑んだ。天井から氷柱の様に伸びる無数の鍾乳石。地面の岩盤には無数の石筍が並び、見る者を圧倒していた。

「凄いな...」

「だろ? 恐らくはまだ未発見の鍾乳洞だな。洞窟はまだ奥まで続いている。もう少し行ってみるか? 」

茂利は少年のようなキラキラした目でキルンを見つめた。

キルンは黙って頷くと、彼女の返事を待たずに歩き始めた茂利の後を追った。

 石筍の間を抜けて進むうちに、今まで微かだった水のせせらぎが次第に大きくなって近づいてくる。

「川が近くにあるな」

 茂利は足早に進み始める。キルンも遅れまいと彼の後を追いかけた。起伏の激しい不安定な道なき道を進んでいくと、不意に圧迫感の無い闇に包まれた空間に出くわした。茂利の生み出した人魂照明では全貌を照らし切れないほどの空洞が広がっている。水源がすぐそばにあるらしく、はぜる様に飛び散る水しぶきが茂利達にそっと降りかかていた。

「一気に明るく」

 茂利が人魂を凝視しながら呟いた刹那、数個の人魂は更に分散し、空間を蒼い光で満たしていく。

「これは・・・」

 キルンは言葉を失っていた。真っ青な水を湛えたお風呂くらいのサイズの岩のプールが棚田のように斜面に広がり、神秘的な光沢を放っている。さらに天井からは無数の鍾乳石がシャンデリアのように何本も垂れ下がり、茂利の人魂照明の明かりを受けて黄金色に輝いている。

「すげえな・・・こんな鍾乳洞、そうそうあるもんじゃない」

 茂利は感極まったのか、瞳を潤ませながら目の前に広がる人外未踏の超神秘的光景に見とれていた。

「地球って、凄いな」

 キルンは静かに嘆息をついた。彼女は目を皿のように見開くと、鍾乳石と多段式の池のおりなす不思議な美の調和に見入っていた。よほど感激したのか、時折母国語と思われる言語を口走っている。茂利には彼女が何を言っているかさっぱり分からなかったが、微かに笑みを浮かべた穏やかなその表情からは、決して罵詈雑言ではなくて感動の台詞が綴られていと推測された。

 気が付けば、二人は沈黙の時に浸っていた。時の移ろいすら忘却の彼方へと追いやる程の大自然の造形に、二人はすっかり心を奪われていたのだ。自分達の住む惑星の運命を背負い、敵対する者同士とは思えない静かで安閑とした空間の中にゆったりと浸っていた。

 茂利は、静かに目を閉じた。絶え間無く透明感のある澄んだせせらぎを刻む湧水の調べに、彼は、心に潜む殺伐とした修羅の意識が深層部へと追いやられ、穏やかな魂の芯部がゆっくりと浮上するのを感じていた。

 二人が背負い込んだ運命の重圧も、神々しくもひっそりと息づく大地の芸術作品を前にして、緩やかにフラットな存在に延伸されていく。時の流れすら歩みを刻むのを忘れてしまうのではないかと錯覚するほど、流れ水以外は全てが停止しているかのように思える不思議な感覚が、二人の魂をすっぽり包んでいた。

「そろそろタイムアップだな」

 キルンが押し殺した声で呟いた。

「ああ」

 茂利は名残惜しそうに視界いっぱいに乱舞する鍾乳石群を見つめた。

「私が先に出よう。今までのパターンなら、私の迎えの方が早く到着するはずだ」

「そだな」

 茂利はキルンの提案に同意した。

「茂利」

「なんだ? 」

「これだけ戦いが長引くと、今までのパターンだと、次の舞台は...」

 キルンがそっと上を指さす。

「えっ! 」

 茂利は目を見開いた。キルンが指で示した方向の意味を、茂利は瞬時にして理解していた。驚きの度が過ぎたのか、言葉が喉元で凍てつき、硬直したままで発する事が出来ず、口だけがパクパクとアイドリングしている。

「キルン、ひょっとして...」

「そう」

 茂利が漸く絞り出した声に、キルンは即答で頷く。

「詳しく聞きたい。場所はどこだ? 」

「保証は出来ないけど、多分...」

「なにい! それまじかよっ! 」

 キルンの回答を聞いた刹那、茂利は落雷に撃たれたかのような衝撃を受けた。脳細胞が目まぐるしく活性化し、今までにない思考が開眼する。

「キルン、ちょっと相談だけど」

「何? 」

「戦いに勝ちたいか? 勝ちたいよな!」

「勿論」

「俺も勝ちたい」

「そりゃそうだろ」

「じゃあ、どうしたらいいかと思ってさ」

 茂利は色めき立ちながら矢継ぎ早にキルンに言葉を紡ぎだした。

 呆気に取られて茂利を静観していたキルンだったが、最後に二、三言葉を交わすと意味深な笑みを浮かべた。

「面白い奴だな...そろそろ迎えが来るので行くぞ」

 キルンは徐に踵を返すと、軽快なフットワークで石筍を避けながら颯爽と来た道を舞い戻っていく。

「さて、どうなるか」

 見る見る間に遠ざかっていくキルンの後姿を見送りながら、茂利は昂ぶる気持ちを静かに噛みしめ、咀嚼した。

 彼が洞窟の外に辿り着いた時には、既にキルンの姿はなかった。上空にはタイミングよろしく次第に近づいて来るヘリの姿が見える。

 茂利が大きく手を振ると、ヘリのパイロットも気づいたのか、まっすぐに彼の元へと飛行してくる。

 ヘリが頭上にまで来たのを確認すると、茂利は上空に向かって大きく跳躍した。急激な加速と共に、地面が急速に遠ざかっていく。樹海の風景と間近に聳える霊峰富士を眺望したいところだが、よそ見をするとヘリを撃墜しかねないので、そこはぐっと我慢する。

 開放されたヘリの扉の向こうでは、暮亜が笑顔で手を振っていた。

「お疲れ様です。今日も戦い抜きましたね」

 笑顔で出迎える暮亜にVサインで答えると、茂利はシートに腰を下ろし、体を沈めた。実際には戦闘らしい戦闘はしていないのだが、彼は涼しい顔で疲れ切った表情を取り繕うと、わざとらしい位に大きく伸びをした。

「戦闘開始早々、空間に異常な磁場が発生したんだが、異世界のへの扉でも開いてしまったのかい? 多分この辺りだと思うんだが」

 ヘリをホバリングさせながら、行き同様に操縦桿を握る御嵩が茂利に尋ねた。地球側は一切戦闘の光景は見れないとは言うものの、ルールに抵触しないぎりぎりのレベルでの監視は実施しているようだ。

「はい、相手と剣戟を交わした時、やっちゃって」

 茂利は言葉を選びながらシンプルに回答した。異世界での一部始終については余り触れられない要素を多々含むため、茂利としては本音を言うとシークレットにしたい案件だった。

「じゃあ、あっちの世界へ? 」

 眞流が好奇の目で茂利を見つめる。流石オカルトチャンネルの編集者だけあり、仕事への熱意が見え隠れしている。

「ええ」

「どんな感じ?」

「妖怪がいっぱいいました。隠れ里って感じ」

 茂利は状況報告を兼ねて異界での出来事をかいつまんで説明した。一瞬工作員については迷ったものの、結局は隠しておけずに巻き込んでしまったことを告げる。勿論、彼女のおかげでこちらの世界に戻ってこれらことも付け加えておく。流石にキルンも交え工作員と布団を並べて一夜を共にした――滅茶苦茶語弊はあるが――事は伏せておいた。

「へええ、あの工作員、女だったんだ」

 俺の報告を聞き、眞流と暮亜が驚きの声を上げた。

(やっぱりみんな男だと思っていたんだ)

 自分やキルンだけが間違えていなかったことを改めて認識する。

「ま、かの国にも多少は正しい情報を流しておけば、変な気は起こさなくはなるだろう。信じるか信じないかは彼女の上司次第だがな」

 御嵩は冷静に話の肝を押さえると、何度も頷いた。彼の対応に茂利は思わず舌を巻いた。彼が工作員の事を話すのに一瞬躊躇したのは、必ず情報漏洩に触れられるかもしれないと危惧したからだ。だがそこは御嵩、さりげなくフォローを入れつつ、彼の対応を正当化してくれたのだ。おかげで眞流と暮亜からはその事例についての追及は無く、何とか事なきを得ていた。

「もう一つ発見がありました。ファイティングの最中、前人未到の鍾乳洞を発見したんですが、素晴らしい光景でした」

 茂利はとりあえず、さり気なく話題を変えた。実際には戦いどころか敵と一緒にその光景を楽しんでいたなんて口が裂けても言えない。

「県の観光課に情報を流して改めて調査を依頼するか。新たな観光資源だ」

 御嵩が呟くと、眞流が苦笑を浮かべた。

「あれだけ原生林が薙ぎ倒されているのを見せるのはまずくない? 何があったのか勘繰られても困るでしょ」

「そうだな。しばらくは国の極秘調査にとどめておこう」

 眞流の最もな忠告に御嵩は残念そうに呟いた。

 茂利は二人の打算的な会話にさりげなく車窓に目線を投げ掛けた。

(仕掛けは済んだ。後はタイミング次第だな)

 茂利は腕を組むとゆっくりと目を閉じた。





「ここは...」

 ヘリから降りた茂利は周囲を見回した。コンクリートで護岸された小さな島。灯台の電源確保のためだろうか、島の中央部にソーラーパネルがびっしりと並んでいる。

「東京湾第二海堡です。東京都と横須賀の海軍基地を守るために明治から大正にかけて作られた海の要塞です。昔は第一から第三まであったんですが、第三海堡は震災で崩壊したので除去され、今はありません。現在、第二海堡だけが一般公開されています」

 暮亜が抑揚のない声で淡々とこの場所の説明をする。

「へえ・・・あ、ちょっと待って。ここが今日のステージになるの? ここ、人工島だろ? 多分第一海堡も巻き込んで沈没してしまうぜ」

 茂利は困惑しながら辺りを見渡した。今日の戦闘用コスチュームは白いつなぎだった。ここに来る途中で着替えを済ませ、やる気満々の絶好調だったのだが、昨日キルンが予期したステージとは程遠い設定に、彼は顔には出さないもののすっかり気落ちしていた。

「茂利さん、ここはステージじゃないですよ」

「え? 」

 暮亜の一言で、茂利の表情がぱっと明るくなる。

「おーい、二人ともこっちだ」

 灯台のそばで御嵩と眞流がおいでおいでをしている。

「これからどこに行くんだ? 」

 茂利が尋ねると、暮亜はにやりと笑って空を指さした。

「まさか」

「まさかです」

 その瞬間、茂利には暮亜が女神に見えた。

 小走りで先を進む暮亜の後を、茂利は逸る気持ちを抑えながら速足で追いかける。

「ここから入る。工作員達もここはかぎつけてはいないようだな」

 御嵩は注意深く周囲を見渡す。が、とりあえず怪しい影や人の動きは感じられない。昨夜もそうだが今朝も何故か工作員達の追跡はぴたりとやんでいた。あの工作員が組織の上役に何かしらの報告をしたのだろう。恐らくは地球の運命を掛けて茂利が戦っている事実を素直に報告したのかもしれない。彼女の上位者も茂利の扱いについては不可侵であることが重要だと判断した可能性がある。 

 御嵩は徐に灯台がそびえたつ岩盤に手をかざした。と、岩盤が大きく横にスライドし下へと続く階段が現れる。照明はついているものの、らせん状に続くそれは先が全く見えない。

「足元を注意してください。結構急ですから」

 暮亜が茂利にそっと囁く。が、いきなり足を踏み外して転倒しかけたのは何を隠そう彼女だった。

 途中三回のセキュリティーチェックを経て漸く辿り着いたのは全面コンクリートの壁で囲われた六畳程の小さな部屋。砂を噛んだ時のような無機質な石灰の匂いが口腔を満たしていく。

 御嵩は壁の端の方を注意深く目で追いながら、表面に生じた何か所かの僅かな窪みをリズムカルにタッチした。

 エアーの噴出音と共に、コンクリートの壁が大きく右にずれる。

 同時に、凄まじい白銀色の光の洪水が茂利の視界を埋めつくした。

 茂利は手で目を覆いながら、薄眼を開けて光源を見つめた。

「・・・・・・」

 茂利の思考から言語が消失していた。

 何をどう言えばいいのか、と言うより、視界にとらえられている光景がいったい何を意味しているのか、彼には全くもって理解出来なかった。

 白い光で満たされた東京ドームよりもはるかに広いドーム型空間。そこには、漆黒のボデイカラーをした紡錘形の物体が3機定着していた。一見、潜水艦のようにも見えるが、スクリューはなく、又、ジェット機のような翼もジェットエンジンもなければ窓やコックピットも無い。全長で50メートル程のゴロンとした塊。黒曜石でできた石器時代の矢じりを研磨して角を取ったもののような形状をしている。

「茂利さん、これ、何だと思う? 」 

 眞流が悪戯っぽく茂利を見つめた。

 茂利の中では、既に一つの答えに行きついていた。だがそれは、余りにも非現実的で、ありえない空想物語に過ぎないようで、とは言うものの他にふさわしい名称は思い浮かばない。でも、これらは間違いなく...。

「UFO・・・?」

「ピンポーン、正解! 」

 暮亜がお道化乍らぱちぱちと拍手した。

「マジかよ」

 茂利はごくりと生唾を飲み込んだ。

「マジだ」

 御嵩は徐にサングラスを外した。普段の不愛想で重い雰囲気を覆すような優しい目で、目前に並ぶ3機のオーパーツ的テクノロジーの終結作品をまじまじと堪能する。

「これ、ジャクサで開発した国産UFO『霹靂』。飛行テストも終了しているし、いつでもスクランブルOKよ」

 眞流が腰に手を添え、ヘヘンと大威張りのポーズ。

「茂利さん、我々が乗り込むのは中央の参号機だ。初号機と弐号機の長所を兼ね備えた、言わばハイブリッド」

「我々がってことは、まさか操縦は」

「私だ。テスト飛行でちょろっとしか操縦したことはないけどな。まあコンピューター制御だから何とかなるだろ」

 再びサングラスの人になっていた御嵩が、控えめに親指を立てる。

(この人、いったいどれだけライセンスを持っているんだ? )

 茂利は尊敬と羨望の入り混じった視線を御嵩に注ぐ。

「我々以外には誰もいないんですか? 」

 茂利は静まり返った格納庫を見渡した。彼が見る限り、国産UFOの周りには人の姿はなく、あたかも切り取られた静止画像を垣間見ているようにさえ思えた。

「スタッフは別室で作業している。技術的なフォローは終わっているから心配ご無用」

 淡々と御嵩の声が、エコーがかかったように響く。

 まるで開催前のショールームの様に静寂と沈黙に支配された構内を、四人は黙々と進んだ。登場する参号機の前まで来ると、機体の中央が自動開放し、茂利達の前に階段が下りて来る。

「行きましょう」

 先を行く御嵩の後を、きょろきょろと周囲を見回していた茂利が慌てて追いかける。

 茂利は搭乗するとその広さに驚く。無数の計器類がひしめき合うコクピットを想像していたのだが、意外とシンプルな作りで、操縦席と副操縦席の前には二〇〇インチはあるかと思われる超でかいモニターが設置されているものの、操縦桿以外にはキーボードといくつかのスイッチ類があるだけにとどまっている。操縦席の後ろに他の乗務員用シートが八席。登場人員は十名まで可能の様だ。

 操縦席には御嵩が、副操縦席には眞流が座り、慌ただしく出発準備を開始。その様子からだと御嵩だけでなく眞流もこれを操縦出来るようだ。計り知れない二人のスキルに、茂利は知られざる公の力の裏面を垣間見たような気がした。

「思ったよりごちゃごちゃしていないんですね」

 茂利は後部シートに腰を下ろすとまじまじと機内を見渡した。

「シンプルが一番です」

 彼の隣に座った暮亜がシートベルトを装着しながら答えた。

「宇宙服とかそれっぽいの着なくていいの?」

 茂利はやや不安げに暮亜の顔を覗き込む。

「大丈夫ですよ。いらないです。ただ戦闘のコスチュームに着替えて下さい」

 暮亜はそう言うと茂利に黒いツナギを手渡した。

 茂利はそれを受け取ると、黙ってその場で着替える。

「あ、出発するみたいですね」

 着替え終えた茂利に、暮亜がそっと囁く。

 茂利はそっとモニターを覗き込むと、風景がゆっくり上昇しているのに気付く。

 だが不思議と上昇している感覚はなかった。

「妙だな、飛んでいる感じはしない」

「反重力システムで飛行するからね。慣性の法則がまんま当てはまらないからこうなっちゃうのよ」

 眞流の説明に、茂利は半信半疑のまま頷いた。学生時代に物理学が最も苦手な教科だった彼にとって、簡潔ながらも彼女の説明は攻略困難なダンジョンのマニュアルを口伝で教授されるに等しかった。

(日本の技術ってすげえんだな。いつの間にこんなもん作っちまったんだ? )

 不意に画像を過ぎる空間が狭まったかと思うと、一気に開放的な光景に転じた。真っ青な海面と青空がモニターいっぱいに映し出される。

「海上に出た・・・水の中は通ってないよな」

「発車口は離着陸時に貝の水管の様に海面まで伸びるんです」

 茂利の疑問に暮亜が答える。

「じゃあ、そこを通ってきたのか? 」

「ええ。ほら、モニターの端っこに発車口が映ってますよ」

 暮亜の示す先を見ると、確かに海面にぽっかりと穴が開いている。が、それ間みる見る間に口を閉じると海底へと消えた。

「でもこんなに大っぴらに飛び立って目立たない? 目撃者がいたらまずいんじゃないの? それに一般公開されている海堡をわざわざ秘密基地にするのはリスクがたかくないの? 」

「大丈夫ですよ。周囲はプロジェクションマッピングでフェイクされていますから、見た目は普通の海面ですし、この機も表面はカメレオン機能と言って周囲の風景に溶け込む特殊な処理がなされていますので。それと、わざわざ一般公開している施設を選んだのは、その方が人が出入りをしても不自然じゃないからです」

「ふうん、成程。じゃあ、今の話だと、あれなの? 機体の色が変わるのか?」

「簡単に言えばそうですね。機体の保護層の下に光を選択して反射する構造があって――」

 暮亜が超難しい訳の分からない専門用語をずずいと並べて涼しい顔で説明してくれるものの、茂利にはさっぱり理解が出来ず、ただただとりあえず頷くだけであった。

「暮亜、肝心なことを聞いていなかったよ」

「はい? 」

「今日の戦いの場所さ。まさか、宇宙空間にほうりだされはしないんだろ? 」

「あ、言って無かったんでしたっけ? ごめんなさい。今日のステージは・・・あれです! 」

 暮亜がそっとモニターを指さす。と、画面は真っ黒。

「えっ、モニター死んでんじゃん」

「ちゃんと生きてますし、ど真ん中に映ってますよ」

 茂利は暮亜に促されて慌てて目を凝らすと、明るく輝く点がいくつも映っているのに気付く。

「え? まさか星? もう宇宙空間? 」

「大気圏を抜けるのに一分かからないからな」

 驚きの事実に声を震わせる茂利とは対照的に、御嵩は当たり前の事のように落ち着き払っていた。

(この人、飛行経験はちょろっとじゃないな。少なくとも宇宙に何回か飛び出している)

 茂利は会うたびに明らかになる御嵩の謎めいた引き出しの存在に感嘆と驚愕を覚えながら、あらためて彼に尊敬のまなざしを向けた。

「茂利さん、画面の中央部に違和感を感じませんか? 」

 茂利は暮亜に言われるままにモニターの中央部を食い入るように見つめた。確かに、妙な違和感がある。星が点在する宇宙の映像の中で、何故か中央部のみ闇が濃厚な影を落としているのだ。

「明るさと光度を調整してみようか。少しは分かりやすくなるはずだ」

 御嵩がキーを叩くと、画面がほんのりと白み掛かり、その様相がはっきりと画面に浮かび上がる。巨大な黒っぽい球体。大きさは月位はあるだろうか。表面が滑らかな曲線を描いているところを見ると、小惑星ではなく、人工物であるのは確かだ。

「あれは...? 」

「敵の宇宙船だ」

 御嵩は更に画像を鮮明化していく。球体には継ぎ目がなく、又、光を吸収する素材で出来ているのか、太陽の光も反射しないようで、宇宙空間に暗い影を落としている。

「今回のステージはあそこです」

「敵の宇宙船の中で戦えって? 」

「詳しくは分からないんですが、あの宇宙船は三つの殻で仕切られていて三番目の殻の表面には地球のとある地域と同じような風景が広がっているそうです。空気の組成や酸素濃度は、地球とほぼ同じとの情報を得てますので、中での活動に問題はありません」

「でもどこから入るんだろ」

「相手が誘導してくれる手筈になっている」

 御嵩は眉間に皺を寄せながらモニターを凝視した。画像調整を繰り返し行っているのか、滑らかな指の動きでキーを叩き続けている。

「きたぜ。信号をキャッチした。格納庫の入り口が開くぞ」

 御嵩の言葉通り、球体の一角がオレンジ色に輝き、格納部分と思われる下方の壁がゆっくりと開いた。半楕円形の開口部の奥が、一定間隔でオレンジ色に点滅している。

 霹靂は誘蛾灯に誘われる羽虫のように、静かに敵の機内に滑り込んでいく。

 オレンジ色の光が進行方向の壁を明るく照らす。

 光は進行する先々を先行し、飛行路を示してくれているように見える。ライトとか照明がついているのではない。進行方向の壁自体が一定のブロック毎に発光し、彼らを誘導しているのだ。

 不意に、オレンジ色の光が途切れ、視界が白色に染まる。がらんとした空間の中に、金属光沢を放つミラーボールのような球体が浮かんでいる。いったいどのような技術が使われているのだろう。中空に浮かぶ核のような存在は、特に支柱などで外殻に固定されているようにも見えないのだ。

 霹靂が接近すると、球体の一部に機体がすり抜けられる位の円形の入り口が生じた。機体が、静かに球体内へと進行していく。トンネル状の飛行路はそれ自体青白い光を湛え、目的地へと誘っていく。モニター正面に映る薄い煤けた黄色黄っぽい風景。あそこが、今日の戦闘ステージ。

「茂利さん」

 暮亜が思いつめたような沈痛な表情で茂利を見つめた。彼女の唇は固く閉ざされ、紡ぎだされるはずの次の言葉が凍てついたまま音を刻むのを拒否している。

「どうした? 」

 茂利は彼女の態度に妙な違和感を覚えた。今までなら不安がる茂利を、暮亜がポジティヴな一言で彼は送り出してきたのだ。

 今日の彼女はおかしい。今日というより、今の彼女。少し前まででは茂利の質問にいつもと変わらずの淀みのない饒舌で答えていたのだが、何故か次の一言を紡ぎ出すのを躊躇っている。

「多分ですけど、これが最後のステージです」

「最後? 」

「ええ。今回の取引を持ち掛けられた時、こう告げられています。お互いの戦闘能力が五分五分で勝敗がつき辛く硬直してしまった場合、時間制限無しで勝負がつくまで戦闘を続けると。その場合のステージとして彼らが提示してきたのが、彼らの母船なんです」

「そうなのか・・・」

 茂利は静かに答えると、モニターをじっと見つめた。

 霹靂は二つ目の外殻を通過すると、前方に見えていた世界へと突入した。

 視界いっぱいに広がる薄い黄色の世界。その正体は砂漠だった。岩も何も無い。砂だけが広がる荒野だ。地球上のとある地域というのは、砂漠の事だったのだ。

「成程な、これなら逃げも隠れも出来無い」

 茂利は渋面を作ると、眼下に広がる荒涼とした風景を見据えた。

 霹靂は静かに砂上に着地した。ジェットエンジンと違い、風の流れが起きないためか、荒野を覆う砂塵が舞い散ることはなく、視界はクリアーな状態を維持していた。

「外気の状態は問題無しだ。いつでも出れるぞ」

 御嵩の声が、最後のステージへの幕開けを告げる。いつも冷静で感情を顔に出さない彼だが、今日に限っては表情が重く、緊張しているのが見て取れる。

「私達は母船の外で待機しています。戦いが終わったら迎えに来ます」

 眞流が伏目気味に茂利に声を掛けた。彼女が胸の内に抱く不安を茂利に悟らせないためなのだろうか。

「必ず、生きて帰って来てくださいね」

 暮亜が両手でぎゅっと茂利の右手を包み込むように握りしめた。彼女の潤んだ目が、茂利をじっと見つめている。

(これは、ひょっとして激励のキスとかあるのかも? )

 茂利の脳裏を妄想が駆け巡る。が、現実はそうそうドラマチックなものじゃない。    

 まるで彼の妄想の暴走を却下するかのように、ハッチが静かに開き、下船を催促した。

「行ってきます」

 茂利はシートから立ち上がると、そそくさと外へと降り立った。霹靂のハッチが静かにしまる。霹靂は名残惜しそうにゆっくり上昇すると、一瞬にして彼の視界から消えた。

 茂利は地面を何度も踏みしめた。砂漠の砂の割には固く締まっており、踏み込み時の力が分散する恐れは無さそうだった。

(キルンはもう来ているのか? )

 茂利は周囲を見渡した。光源は不明だが頭上には青空が広がり、地表を覆う砂漠には、影を落とすものは何もない。

(何故、宇宙船の中にこんなもの作ったんだろう)

 食料を自給自足するために植物を植えるのならまだ分かる。

 何も無いのだ。何も無いだけに、例え何者かが侵入しても分かりやすいかもしれないが、地球を遥かに凌ぐ科学力がある訳だから、こんなものこしらえなくても他に手立てがあったのではと思う。

(球体型の監視UFOがきっとその辺で俺の様子を伺ってんだろうな)

 茂利はぼんやりと周囲を見回した。彼の目には何も見えないが、間違いなく球体の小型偵察機が徘徊しているはずだ。ここなら障害物も何もないから、戦闘の巻き添えを食らって壊れる心配はないし、確実に映像を追えるだろう。

(そうか、そういうことか・・・)

 茂利はあることに気付いた。

 障害物も何も無い――つまり、戦っても壊れるものが無いし、カメラには戦いの全てがおさめられる。

 それってのは、恐らくこのエリア全体が競技場みたいな感じなのだろう。

 キルンが以前こう語っていた。エイリアン達は戦いの様子を娯楽として観戦していると。それを肯定する証拠ともいうべきステージがここなのだ。しかも、奴らの母船で繰り広げられるわけだから、臨場感も半端ない訳で大いに盛り上がるに違いない。  

 だがそれは母船の乗組員達の安全性が確保されてのことだ。

 超人化したキルンと茂利の破壊力を想定済だとすれば、相当の強度を誇る構造になっているのだろう。

 自分達の星の命運を掛けて命がけで激戦する彼らを、エイリアン達は安全なエリアでくつろぎながら観戦しているのだ。

(それが事実としたら、ふざけ過ぎている)

 茂利の中で、抑えようのない憤怒の情が、めらめらと紅蓮の炎となって彼の身を焦がしていく。

 不意に、透明な球体に包まれたキルンが砂表から現れる。袖をぶった切ったピンク色の着物のような上着に黒いハーフパンツ、そして膝までの黒いブーツを履いている。誰が見たって分かる。くのいちの定番コスチュームだ。

 球体は大きく二つに割れると、掻き消すように消え失せた。

「待たせたな」

 キルンの抑揚の無い声が響く。

「早速始めるか? 」

「御意」

 茂利が、キルンが、ほぼ同時に動く。

 茂利の右手に現れたナイフがキルンの喉元を襲う。

 が、キルンは両手に生み出した苦無でそれを挟み込むように受ける。

 弾ける金属音。

 瞬時に二人は後方に跳ぶ。と同時に手中の武器を投げる。ナイフと苦無が空中で接触し、弾け飛ぶ。だが、もう一本の苦無は茂利の元へ。

 茂利は即座に剣を生み出すと苦無を撃ち返した。弾き飛ばされ、舞い戻った苦無をキルンは軽々と受け止める。そのすぐ後を、剣を構え、空を駆る茂利の姿があった。

 キルンの手の中で、苦無が大きく伸長する。

 巨大な槍だ。全長三メートルは優に超えている。

 キルンは長槍を軽々振り回すと、刃先を茂利に向けた。

 茂利はそれを払うと大きく宙天し、後方に退く。

「その槍、ひょっとして日本号か! 」

「いかにも。貴様の獲物はなんだ? 」

「勇者の剣、エクスカリバーだ」

「べたな選択」

「お互い様だ」

 キルンはにやりと口元に笑みを浮かべると、砂煙を巻きながら一気に間合いを詰めた。

 彼女の槍先が茂利の足元を狙う。

 茂利は大きく跳躍し、中空に逃れた。リミッターが外れた全身の筋肉が生み出す強烈な推進力に身を委ねながら、彼は遥か上空にまで舞い上がる。

 茂利を討ち損じたキルンの一突きは、砂を大きく巻き上げて大地を大きくえぐると巨大な峡谷を作り上げていた。深さにして数十メートルはあるだろうか。底の方には金属光沢を放つ壁が見える。

(すげえ威力だ。でも、あの壁までは破壊出来なかったか)

 眼下を見下ろしながら、茂利は背後に迫る圧迫感に反転する。足に固い感触。空の果てまで来てしまったようだ。

 茂利は両足を空の壁に据え、キルンの姿を追う。

 いた!

 目と鼻の先!

 再び迫るキルンの槍。皮一枚でこれを交わす。と、後頭部近くでカツンと言う金属音が響いた。槍先が天井を撃ったのだ。が、地の底の壁同様、天井にも傷一つついていない。まあ、それは想定内の範疇だ。宇宙空間を航行するわけだから、強度は半端じゃないのは推測できる。そうでなきゃわざわざ自分達の母船内で戦闘なんかやらせる訳がない。

 茂利は空の壁を蹴ると、キルンに向かって剣を降り下ろした。キルンは槍の柄で受けると力任せに押し返した。

 体制を崩した茂利は真っ逆さまに落下し、地表に叩きつけられた。砂塵が舞い、キルンの視界を遮る。

 キルンは中空を漂いながら、地表の様子を伺った。今の攻撃で茂利が戦闘不能になる可能性が無い事位、彼女は今までの戦闘経験から十分熟知していた。下手に地上に降りれば、砂塵に紛れて茂利が彼女に奇襲をかける恐れがある。

 地球上の砂漠とは砂の比重が違うのか、砂の煙幕はすぐに沈静化し、元のクリアーな風景に戻った。

 地表には誰もいない。

(潜ったな)

 キルンは気配を伺いながら、じっと地表を凝視した。奇襲狙いで潜んでいるならば、そんなに深くは潜っていないはずだ。だとすれば、少しでも動きがあれば地表の砂の動きに顕著に表れるはずなのだ。

 不意に、キルンは獲物を捕捉した大型猛禽類のように地表目掛けて急降下。

 迷うことなく長槍を砂面に突き刺す。

 同時に、砂塵が舞い、弾ける様に茂利が砂の中から飛び出すと、キルンの槍の柄を駆け上がった。

 慌てて槍を抜こうとするキルン。だが柄の上を駆け上がる茂利の脚力に抑えられ、彼女の計り知れない強力な腕力を持ってしてでも槍はびくともしない。

「仕留めたっ!」

 茂利は勝機を確信した叫びと共に剣をキルンに降り下ろした。

 刹那、キルンの手から長槍が消える。

 足場を無くした茂利が体制を崩して地上に落下。が、間髪を入れずに跳躍し、キルンに襲い掛かる。

 キルンも着地すると、同時に再び槍を実体化。

 茂利の動きが止まった。

 彼は憎悪に顔を歪めながら、食い入るようにキルンを見据えた。

 キルンの槍は、茂利の左胸を貫いていた。槍先は背中を貫通し、鮮血に汚れた刃が天を突き上げていた。

 傷口から夥しい血液がしたたり落ち、黄色い砂面をどす黒い赤に染めている。

 キルンは槍を降ろした。茂利の体が、力無く地に横たわる。

 彼女は吐息をつくと、長槍を消去した。

 終わったのだ。それも、戦闘開始からたいして経過していない。

 あっけない幕切れだった。

 彼女の前に、登場時に搭乗してきた透明の球体が砂の中から現れる。球体の側面に楕円形の開口部が生じる。

 キルンは茂利を肩に担ぎ上げると、砂面を踏みしめながら球体に乗り込んだ。

 開口部が消滅し、球体はゆっくり砂の中へと消えていく。砂を押し分けて進行しているのではない。砂自体が流動し、球体を砂の中へと引き込んでいるのだ。

 球体はやがて砂の下にある外殻部に到達。すると、外殻の一部が円形に開き、球体を静かに飲み込んだ。

 不思議な事に、砂は一粒たりとも流れ込む事無く、球体だけが外殻を通過していく。

 漆黒の闇に包まれたトンネルだった。黒一色の壁からは時折低い駆動音の様なノイズが無機質な旋律を刻む。

 だがキルンにとっては聞きなれているのか、動じるどころか関心すら示していない。

 ほんの十数秒経過後、球体は鈍い白銀色の光に満たされた円形のフロアーで停止した。この球体の格納庫なのだろう。車のショールームクラスのそのスペースには、キルンが乗っている球体と同じものが十数台理路整然と並んでいる。外観と構造からして、宇宙空間に出るのではなく、母船内の移動用で使われているようだ。

 人影は全く見えない。セキュリティーから運用に至るまで、恐らくは別室で集中管理されているようだ。

 キルンは球体を降りると、格納庫の壁の一部に手を翳した。すると、壁の一部に人一人通れるくらいの開口部が生じた。隠し扉の様だ。生体識別のセンサーが仕込まれているらしく、未登録者の侵入をここでシャットアウト出来る仕組みになっている。

 扉の向こうは通路がまっすぐ伸びており、突き当りは行き止まりになっていた。距離にして百メートルくらいか。壁、床、天井ともに真珠光沢に満たされており、通路の両端には見た目上ドアはないものの、恐らくは関係者しか立ち入れない部屋が隠されているに違いなかった。

 キルンは躊躇することなく通路を進み、突き当りまで訪れた。と、タイミングを見計らったように壁が消失した。

 キルンは特に驚くわけでも無く、表情一つ変えずに次のエリアへと足を踏み入れた。

 彼女にとっては見慣れた光景だった。むしろ戦いが終結する都度に繰り返されたルーティーンと言っても過言ではない。ただいつもと違うのは、彼女にとって今日は記念すべき100回目のセレモニーだという事だろう。契約では彼女がここを訪れるのは今日が最後になる。

 彼女が足を踏み入れた空間――そこは、いくつものコンソールと無数の巨大なモニターが設置されていた。コンソールの前には二十名程のグレイと呼ばれている宇宙人が静かにモニターを確認しながら何かしらのやり取りをしており、そのモニターには同様のグレイや爬虫類のような顔つきの宇宙人達やその他諸々宇宙人達がの犇めき合う姿が映し出されいた。その表情は明らかに二分されており、ある者は歓喜に酔いしれ、またある者は深い悲しみに沈んでいるようにも見えた。

 キルンは吐息をつき、露骨なまでに嫌悪の表情を浮かべた。

「ようこそ司令室へ。百勝目おめでとう」

 彼女の前に、一人の異星人が現れた。背丈は彼女の腰ほどまでしかなく、毛髪も眉毛も無い。白目の無い真っ黒な瞳だけの目が、キルンを見据えていた。容姿はグレイタイプなのだが、何故か体色はくすんだ黄金色に近い。体色というより衣服を身に着けていると考えれば、色の違いはそう不思議ではないことなのだろう。

 キルンは息絶えた茂利の体を静かに床に下した。

「君はいつもここに来ると不機嫌になるな。勝利の喜びに歓喜してよいものを」

 異星人は眉間に皺を寄せた。

「喜べるものか。命懸けの戦いを賭け事の対象にし、余興や娯楽としかとらえていない輩を見ると反吐が出そうだ」

「相変わらず話す言葉に可愛げがないな。容姿はヒューマノイドじゃトップクラスの美形なのに、もったいない話だよ」

 異星人は口元を歪めると皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「総督、約束だ。私の故郷をお前達の隷属から解け」

 キルンが異星人――総督を見据えた。彼に浴びせた台詞同様、その瞳には奴に恩赦を乞い媚び諂う素振りは微塵も宿っていない。

「勿論だとも。だがその前に君に施術した『魔法』を解こう。普通の生活に戻った時には必要の無いスキルだからな」

「解放が先だ。今すぐ私の故郷に駐在している全ての席捲部隊を退却させ、この場で今後二度と我々に干渉しないと書状を書け」

 キルンが強い口調で総督に詰め寄った。

「君は懸命だ。何を言いたいのかはよく分かる。『魔法』を解除したら私が君を消し去り、約束を破棄しようと企んでいるとでも思っているのだろうが、それはない。これでも私はいくつもの惑星を束ねる統治者だ。力だけでなく、それなりに常識をわきまえた人徳者だと自負している。利害関係はあったとはいえ、君と共に歩んでここまで来たのだ。今まで構築した信頼関係を破棄するような無慈悲で愚かな事案は望まない」

「・・・」

「むしろ、恐怖に震え警戒しているのは我々の方だ。君とそこの地球人に施術した『魔法』は我々にとって脅威でしかない。しかも、君達は想定レベルを超え、百パーセントどころか、それを上回る覚醒を発現している。もし強靭化した君が我々に反旗を翻したらどうなるか。惑星返還調停の場で殺されるのではないか――そんな不安があるのでね。どうかその辺りは理解してほしい」

 総督の横に、バスケットボール位の虹色に輝く球体が現れた。

「断る。お前の話はどうも腑に落ちない」

 キルンは表情一つ変えず、静かに彼の申し出を拒否した。が、次の瞬間、忌々し気にかっと目を見開くと顔を憎悪に歪めた。

 彼女の腕が、足が、小刻みに震える。

 それは決して恐怖からではない。動かそうとする彼女の意思に反し、体が硬直しま動かないのだ。

「拒否しても無駄だよ。この医療システムは既に君を捕捉している。時空の位置を固定したから逃げ出すことは出来ない。あと一分で解除の施術を開始する」

 総督は肩を揺すりながら笑声を上げた。

 刹那、鈍い破壊音と共に医療システムは床に転がった。

「な?、な?、な? 」

 総統は呆然と瞬時にして我楽多と化した最新医療機器を見つめた。

 医療システムに剣が突き刺さり、まるで食べかけの串団子のようなみっともないさまで床で息絶えている。

「解除されては困るな。まだ戦いは終わってないんで」

 間延びした声がフロアーに響き渡る。

 茂利だった。

 彼はゆっくりと床から立ち上がるとキルンと対峙した。

「貴様、何故・・・? 」

 総統が黒目を目いっぱい見開きながら呟く。

「フェイクだ。キルンが槍を消去させ、再び生み出した時に俺の体を突き抜けたように見せかけたのさ。流血は俺がイメージして作り上げた」

「そんな馬鹿な、移送中に念の為遠隔でお前の身体を調査したが、心肺停止を確認していたのだぞ? 」

「ああ、間違いなく止まっていたけど、心臓が止まっても血液が循環できるようにイメージした。呼吸もそうだ。肺の収縮膨張はさせずに空気が自ら出入りするように仕組んだ」

「信じられん...『魔法』でそんな事が出来るなんて」

 総督は狐につままれた様な腑に落ちぬ表情でぶつぶつ呟いた。

 が、茂利はそれには答えず、両手いっぱいに長剣を生み出した。エクスカリバーの大量生産だ。

「キルン、続きをやろうぜ。まだタイムリミットは過ぎていないし、ステージもここだったら同じ母船内だから問題無いだろ? 」

 茂利がにやりと笑う。

「だな」

 キルンは頷くと茂利同様両手いっぱいに斧を生み出した。相変わらず独特の獲物を手にする彼女だが、器用に両手指の間に1本ずつ柄を挟み、その手を無造作にだらりと下げている。

 思いもよらぬ展開に、コンソールに張り付いていたグレイ達は慌てて銃のような武器を手にすると茂利達に狙いを定めた。

「そりゃああっ‼ 」

 茂利は両手に持った剣を思いっきり放り投げた。キルンにではない。宇宙船のコンソールに向けてだ。剣は綺麗にばらけながら閃光の如くコンソールやモニターに突き刺ささった。キルンも負けじと斧をぶちまけると、グレイ達の手から次々に凶器を弾き飛ばす。

「手が滑っちまった」

「私もだ」

 申し訳なさそうに顔を顰める茂利の横で、キルンがてへぺろ。

「貴様らっ! やめろっ! 」

 総督がわなわなと唇を震わせながら激高した。

「うるせえっ! 」

 茂利は叫びながら厚みのある長刀を生み出すと容赦無く振り回し、中央のコンソールごと巨大モニターを真っ二つにぶった切った。キルンは自分の身長の倍はある薙刀を握りしめ、壁やら操作パネルやらかたっぱしから切り裂いていく。余りにもの圧倒的な破壊力を前に、最後までコンソールを死守しようと睨みを利かしていたグレイ達も、顔色を変えて我先にと逃げ出した。

「こらっ! 逃げずに反撃しろっ! 」

 総督が青筋立てながら激高するものの、その非常冷酷な指令に従う者は誰一人といなかった。あっという間に部下達が消えた司令室を、総督は呆然と見つめた。

「外殻は頑丈だが、内装は脆いな。予算ケチったか? 部下達も安月給でこき使ってっから逃げたんじゃねえの? 」 」

 茂利が皮肉たっぷりに総督を嘲笑した。憤怒に震える彼の顔は黄金色から色褪せた黄土色に変貌していく。

「ところで茂利」

 キルンが茂利に声を掛ける。

「いつの間に異星の言葉を覚えたんだ? 」

「同時翻訳のアプリを自分の脳内にイメージしてインスト―ルしたんだ」

「成程な」

「キルンが前に惑星情報を頭にシンクロさせたって言ってたろ。あれがヒントになった。この『魔法』、武器や防具しか実体化できないみたいだけど、理由付けさえできれば何にでも応用出来るな。これも、敵の文化を知り戦いに反映させるってイメージしたら簡単に出来た」

「ばれたか。でも私は多少は勉強したぞ」

 キルンは恥ずかしそうに目を細めた。

 突然、両側面の壁の一部に楕円形の開口部が生じ、司令室に長身の無数の人影が雪崩れ込んで来る。同時に、正面のメイン通路からも一斉にぞろぞろと現れた。まるで正月の初売りに駆け付けた買い物客の様な混みようだ。

 凹凸の無いぬっぺりとした顔。目は巨大で、二つで顔の半分は占めているものの、顔と同色のせいか一見ぬっぺらぼうに見える。背は茂利達よりも高く、二メートル近くはあるだろう。体躯は槍のように細く、防具は何もつけていないが手にアサルトライフル位のサイズの銃らしきものを携えている。また何故か全身磨き上げた鏡の様なメタリックな光沢を放っていた。兵士の様だが一見無防備で目立ち過ぎる。常識的に見ても戦闘には不向きな風貌だ。

「我々が誇る二足歩行型無人戦闘傀儡『銀麗兵団』だ。彼らの武器は光電導型分子分解波銃。この銃に撃たれた者は組織の分子間の結合力が解除され、一瞬にして粒子になる。君達が生み出す原始的な武器とは比較にならない威力なのだよ。生身の者が持つにはリスクは多いので、彼らしか装備出来ないのが難点だがな」

 総督は黒目を大きく見開くと口をぴくぴく痙攣させながらひきつったような笑みを浮かべた。

 が、一瞬にしてその表情が凍り付く。

 茂利の刃が総督の喉元に添えられていたのだ。彼が饒舌になって自慢の持ち駒を語りは秘めたほんの一瞬の隙を突き、茂利は巧みに彼の背後をとったのだ。

「これ以上奴らを近づけてみろ、お前の喉を掻っ捌いて三枚におろすぞ」

「ふん、好きにすればいい」

 総督は茂利の忠告をせせら笑うと、ふてぶてしく彼を挑発した。

「茂利。そいつはホログラムだ。実体は別室に居る」

 キルンが残念そうに薙刀を総督に突き立てると、その刃は何の抵抗も無く総督の体を突き抜けた。

「何て奴。きったねー! 」

 一瞬ひるんで見せたのは総督の演技だったのだ。茂利達を油断させた上で攻撃しようと思ったのか。だが今までに何度も彼と接触しているキルンはその点ちゃんと見抜いている。

 茂利は愉快そうに哄笑する総督の態度にむかついたのか、憮然とした面相で奴のホログラムを蹴り上げた。が、残念ながら彼の足は総督の体をするりとすり抜けるだけで、何のダメージも与えられない。

「降伏しろ。君達の『魔法』の恩恵は個人戦には圧倒的に強いが、対団体戦となれば勝率は相手部隊の規模に反比例する。それも我が軍の精鋭部隊相手だからな」

 総督は勝ち誇った表情で腕を組んだ。

「キルン、あいつらそんなに強いのか? 」

 茂利がそっとキルンに確かめる。

「ああ。私の星も最後に奴らを投入されて戦に敗れた」

 キルンは露骨なまでに嫌悪の表情で銀麗兵団を見据えた。彼女にとってはトラウマになりかねない嫌な記憶であることは間違いない。

「とは言っても、要は機械仕掛けの兵士――精密機械の塊だろ? 」

 茂利は動揺する素振りを全く見せずに、涼しげな顔で兵士達を見据えた。

「キルン、一瞬動くな! 目を閉じて耳を塞げっ! 」

 茂利が叫ぶ。

 慌てて目を閉じ、耳を塞ぐキルン。

 刹那、轟音と共に茂利の体から夥しい鮮黄色の閃光が迸る。

 閃光は不規則な軌跡を中空に刻みながら、一瞬のうちに騎士達のメタリックボディを貫いた。

「キルン、もういいぞ」

 茂利の声に、キルンは恐る恐る目を開けた。

「えっ...!? 」

 キルンは言葉を失った。想像を絶するあり得ない光景を目の当たりにして、空前絶後の驚愕が本来抱くべき歓喜の感情をすっぽりと呑み込んでいた。

 銀麗兵団は全滅していた。全員床に倒れており、体の節々から黒い煙が立ち上り、金臭い匂いがフロアー一帯に充満している。

「雷をぶっ放して奴らの電気系統をショートさせたんだ。二足歩行の精密機器みたいなものだろうから、高電圧の過電流を流せば倒せるんじゃねえかってな」

 茂利は満足げに周囲を見回した。

 総督はと言えば、かっと目を見開き、口をだらしなく開いたまま蝋人形のように硬直していた。

「茂利、油断するな! 残党がいるっ! 」

 キルンが険しい表情で叫ぶ。

 茂利の目に、正面の通路最後方で俯せのままこちらに銃口を向ける五人の兵士の姿が映る。

 兵士達は照準を茂利に合わせるとゆっくり引き金を引いた。

 銃口から迸る鮮蒼色の光は一瞬放射状に膨らむと渦巻きながら収束し、まっすぐターゲット目掛けて軌跡を中空に刻んでいく。

 光線がターゲットに到達する寸前、茂利達の周囲を畳一畳分はある巨大な鏡が取り囲んだ。

 光線は鏡に命中するが反射され、中空に刻んだ軌跡を再び上塗りしながら折り返していく。

 光線が銃口に帰還した刹那、銃は粒子となってぐすぐすと崩れ落ちた。五人の兵士達は瞬時に分子化した銃の痕跡をまじまじと見つめたまま動かない。

 キルンはすかさず白銀色に輝く天使の輪の様な物を生み出した。

 円月輪――昔、忍者が使ったと言われている武器の一種で、輪の外側に刃が仕込まれており、これを投げて敵を負傷させるのだ。キルンは円月輪を左右の手に五つずつ創成すると、腕を大きく回転させ、一気に投げつけた。

 円月輪は彼女の手を離れると、まっすぐに残党の元へと飛行し、抵抗する間も無いままに次々相手の首と腕を切断した。

「すげえ」

 思わず息を呑む茂利。

「あの銃が無くても奴らは強いからな。念には念を入れておく」

 キルンの落ち着き払った冷静沈着な態度に、茂利は思わず言葉を失った。

 以前、元々戦闘訓練を受けたことはないと答えていたが、十分過ぎる実践経験がそれを十分に補い、彼女のスキルアップに繋がっているのだ。

「鏡であの光線を弾き返すなんてよく思いついたな」

 キルンが感心した表情で茂利を見た。

「光線だから、光だから鏡で反射出来ないかって単純に思っただけさ」

 茂利は特に得意げに語る訳でもなく、あっさりと答えた。

 不意に、二人の後方で拍手が起こった。総督だ。二人が振り向くと、彼はひきつった表情に無理矢理笑みを浮かべて力無い拍手をし続けていた。

「素晴らしい! 君達の力は全宇宙レベルで見ても稀な逸材だ。私の完敗だよ」

 総督は両手を前に掲げながら、オーバーアクションで二人を賛美した。

「おいおい、今度は褒め殺しかよ」

 茂利は苦笑いを浮かべた。総督のとってつけたような態度の変貌に、茂利は心底呆れかえっていた。茂利だけではない。キルンも彼同様、呆れた表情で総督の茶番に冷ややかな目線を注いでいる。

「どうだ、私と手を組まないか? 君達の戦闘能力に私の叡智が加われば、宇宙最強の国士無双だ。勿論、取り分はきっちり三等分でどうかな。決して悪い話ではないと思うんだが――」

「断るっ! 」

 茂利とキルンは同時に叫ぶと総督に背を向けた。

「おい、待てっ! 貴様ら――じゃない、二人ともどこに行くつもりだ? 」

 総督は立ち去ろうとする二人を慌てて呼び止めた。

「どこへって? お前の所だよ。お前を探し出してぶん殴らねえと気が済まねえ」

 茂利は一度立ち止まったものの、振り返ろうとはせず肩越しに総督にそう告げるとと再びメイン通路に向かって歩き始めた。

「待てっ! いいのか? この交渉を断れば貴様の帰る場所は無くなるぞっ! 」

 総督は口から泡を飛ばして叫んだ。

「どういう意味だ? 」

 茂利は立ち止まると訝し気な面持ちで総督を凝視した。

「この母船には地球位の惑星なら一瞬で破壊出来る最終兵器が搭載されている」

「この場に及んではったりかましてんじゃねえよっ! 」

 茂利は忌々し気に吐き捨てた。

「嘘ではない。我々も滅多に使用しない、とんでもない破壊力の高エネルギー砲だ。最近では航路を遮る大量の宇宙塵を除去するのに使用した。キルンをその現場は見ているはずだ」

 総督はにやりと笑みを浮かべながらキルンを見た。

「キルン、本当にそんなやばい兵器を搭載しているのか? 」

 茂利が驚きの表情でキルンを尋ねた。

「ああ、確かにあった。でもあの時、砲自体が威力に耐え切れずにぶっ壊れて使い物にならなくなったって聞いたけど」

「修復し、改良を加えたのだよ。砲の威力は勿論だが、砲の耐久性も数段アップしている」

「でもそれってさあ、司令室が滅茶苦茶になってんのに起動なんか出来無いだろ」

 茂利が呆れながら総督に突っ込みを入れた。

「その心配には及ばんよ。私の部屋がメインの司令室だからな。こちらでも操作可能だ。それに、制御は君達がイメージしている配線なんてものは一切ないから、司令室をいくら破壊されても何ら影響はない。私が制御を起動させれば、五分後にはエネルギーの充填が終了し発射可能となる」

「まじかよ...」

 茂利は総督の発言に落胆した表情で呟いた

「嘘は言わんよ。言ったところで賢明な君達には簡単に見破られるだろうからな」

 総督は彼の発言に困惑を隠しきれない二人の表情を嬉しそうに見た。

「少し考えさせてくれ」

「いいだろう」

 意外にも総督は茂利の申し出を躊躇い無く受け入れた。彼は自分のテーブルに二人を引き戻す事に成功したと実感したのだ。彼の顔には先程までとは打って変わって安堵に似た余裕の表情が浮かんでいる。

 茂利は総督と距離をとると、床にドカッと腰を下ろした。キルンもそれに倣い、茂利の横に腰を下ろす。

「茂利、どうする気だ? 」

 キルンが心配そうに表情を曇らせながら茂利の顔を覗き込んだ。

 彼女自身、総督の語った兵器の威力は目の当たりにしており、地球を一瞬のうちに宇宙塵に変えるのも可能なのは十分周知している。

 それ故に、彼女は茂利が背負った責任の重圧に耐えかね、最悪のシナリオを選択するのではないか心配しているのだ。

 総督は恐らく同様の要件をキルンにも突き付けてくるだろう。

 彼女の故郷の惑星までは少し距離があるから、多少の時間稼ぎは出来る。だが茂利の場合、目と鼻の先だ。彼の答え次第では、地球は彼の目前で消滅しかねないのだ。

「キルン、その何とか砲ってどの辺りにあるんだ?」

「詳しくは分からないが、大体なら...」

 キルンは思案顔で眉間を人差し指でノックした。

「設置場所のイメージをここに投影できないか? 船内での戦闘を有利に運ぶ為って

理由付けすれば出来ると思うんだけど」

 茂利はキルンに小声で言うと、右手で床を軽く叩いた。

「やってみる。でもこの通路も監視カメラや盗聴器やらいろいろ仕込んであるぞ」

「大丈夫。そう思って俺達の周りにシールドはってるから」

 茂利は親指を立ててにやりと笑みを浮かべた。

 キルンは用意周到な茂利に尊敬のまなざしを向けた。地球人が全てではないとは思うが、彼の『魔法』の使い方はすこぶる興味深く、思考をイメージする想像力の裕さには脱帽だった。『魔法』は決して万能ではない。暴走し、反撃されないように施術時に色々な制約を掛けているのは彼女自身自覚しているし、知識としても知っている。例えば、総督を暗殺するイメージとか、この母船を自分の手を汚さずに爆破するといった直接的破壊行動のイメージにはロックが掛かっている。茂利があえてその動きをとらないのは、そういった制約を無意識に感じ取っているからなのか。

「こんな感じでいいか? 私では侵入できない場所は白紙になっている」

 キルンは茂利に尋ねた。床には三十センチ四方の管内見取り図が転写されている。

「ばっちり! ありがとう。んで、その何とか砲の鎮座位置は? 」

「この辺り。ちょうど司令室のメインモニターの下辺りだ。残念だけど私は入室許可されていないので、大まかな場所しか分からない」

「いいさ。この真下をぶっ潰してしまえばいいんだな」

「潰す? 破壊するつもりなのか? 」

「ああ。奴の提案はどちらもノーだ。奴のテーブルにのってしまうと答えは選択肢の中しかないみたいに錯覚するけど、一歩離れて考えれば答えは其れだけじゃない事に気付く。そうだろ? 」

「成程。お前って凄いな...」

 キルンの喉から感嘆の吐息が溢れ出る。

「でも難しいよ。ここにあるとは思うのだけど、外殻と同じ様な素材のカバーでがっちり囲まれていたから。ここだけでなく、重要な場所ってのは同じようなもので造られてんじゃない? 外殻の壁って、キルンちゃんの槍でも傷一つ付かなかったでしょ? 」

「え、まじかよ。そう言えば、ここの階も床は全然破壊されていない――えっ!」

 茂利は驚きの声を上げた。額が着く程の目と鼻の先に、眞流の顔があったのだ。

「眞流さん、どうやって? あ、この人俺の味方だから大丈夫」

 呆気に取られて両目が皿になっているキルンに、茂利は慌てて説明した。

「幽体離脱してきたんよ。戦闘の様子とか、この宇宙船の内部とかの情報を集めにね」

「よく見つかりませんでしたね」

「あ、その点は大丈夫! 私カメラには映んないように出来るから。映る時にはギャラ取るから」

 おちゃらけて得意げにVサインをする眞流だが、茂利にはとてつもなく頼もしく感じられた。

「眞流さん、その何とか砲ってどんな形してました? 」

「巨大なちくわ」

「ちくわ?」

「太くて短いけど、ちくわっぽい造りだったな。直径は百メートル、長さ二百メートルはあったと思う。発射すると凄いのがいっぱい出そう」

「例えがちくわで良かった...」

「え、何? 」

「あ、気にせんでください。その本体とかは? エネルギーの供給配線とか、この宇宙船のメインの動力との連絡部分とか」

「あったな、そこから壁をぬけた隣が動力部分で、そこに繋がっていたわよ。ちなみに動力部分はそこまで装甲は厳重じゃなかった」

「ここから見て、その連結部分の位置ってどこなのか分かりますか? 」

「ええ。ちょうどエイリアンのおっさんが立っている場所の真下。でもそこに辿り着くのにいくつもの階層をぶち破らないと辿り着けないのよ」

 眞流は悔しそうに唇を噛み締めた。

「大丈夫。あれを使います」

 茂利は目線で倒れている兵士の手に握られた銃を示した。

「全てを分子化してしまうとんでもない代物だから、床ぐらい抜けるはず」

「大丈夫なのか? 」

 キルンが心配そうに目を細めた。

「ああ。奴らが俺達を制圧しようと入室してきた時、最初誰一人として引き金を引く者がいなかったろ、何故だと思う? 」

「そう言えば...」

 茂利の問い掛けに、キルンは目を見開いた。

「下手にぶっ放すとあっちこっち穴だらけになるから総督が止めていたんだろう。制圧目的なら有無を言わさず引き金を引けば終わった話だからな。あの後、落雷の生き残りが撃ってきたのは自己防衛機能が総督の指示を無視する選択をとったか、あるいは壊れたかだ」

 茂利の解説にキルンは納得したらしく、無言のまま頷いた。

「じゃあキルン、やっちまっていいか? 」

「ああ、茂利の考えに同意する」

「よし。じゃあちょっくら済ましてくる。キルンはここで眞流さんと待ってな」

 茂利は徐に立ち上がるとキルンにそう告げた。

「いや、私も一緒に行く。それが同意の条件だ」

 キルンは立ち上がるとむすっとした不満そうな顔で茂利を見つめた。

「分かった、一緒に行こう」

 キルンは笑みを浮かべると満足げに頷いた。

「私もいくわ。案内人が必要でしょ!」

「ありがとうございます」

 眞流の申し出に茂利は感謝の言葉を述べた。

「そろそろ結論が出たのかね? 」

 背後から総督の声が響く。

 三人は目配せするとメイン通路を進んだ。

 茂利は途中床に転がっていた兵士の銃を一丁拾い上げた。

 三人は総督の二メートル程手前で立ち止まった。但し眞流は姿は自分の姿を総督には見えなくしているらしいので、彼の目には二人しか映っていない。

「早速だが答えを聞かせてもらおう」

 総督はいやらしい笑みを口元に湛えながら二人を見た。弱者と見れば執拗に苛め抜き、その苦悶する姿に快楽を求める典型的なドSタイプの様だ。

「答えは、これさ」

 茂利は銃を構えると、総督の足元に狙いを定めた。

「馬鹿なっ! やめろおおおっ! 」

 総督が絶叫を上げる。

 彼は引き金を引いた。同時に、銃口から鮮蒼色の光が迸り、総督の足元を貫く。

 茂利達の攻撃を受けても傷一つ付かなかった床に、人一人楽に通れる位の穴が生じた。

「貴様、何を企んでいる? まさか...そんな! 」

 ホログラム故に落ちないのか、ぽっかり空いた穴の上で総督は地団駄を踏んだ。

 茂利は総督には答えず、更に穴を広げると周囲に転がっている銃を持てるだけ肩にかけた。キルンも彼に倣い、両肩にありったけの銃を掛ける。

「行くぜっ! 」

「了解!」

 茂利とキルンは顔を見合すと穴に飛び込んだ。落下しながら、二人は銃を撃ちまくり、次の壁を破壊する。

「正面の壁をそのまま打ち抜いて! 」

「次は二メートル右寄り!」

「左端から五メートル付近は装甲が薄くなってる」

 眞流の的確な指示の下、茂利とキルンは次々に壁を破壊していく。ただ、並の攻撃ではでは歯が立たないだけの壁故に、光電導型分子分解波銃をもってしてでも大量のエネルギーを使うのか、壁一枚突破するのに一人当たり一、二丁の銃の消費を余儀なくされていた。

 漸く最後の一枚をぶち破り、最終兵器の動力系統に辿り着いた時、手持ちの銃はキルンと茂利でそれぞれ一丁ずつとなっていた。

「よくもやってくれたな。最終兵器を起動させた。あと二分三十二秒ででエネルギーの充填作業が終わる。そうなれば地球は太陽系から消滅するのだ」

 茂利達のそばに現れた総督のモログラムが、腹を抱えて哄笑した。

 茂利とキルンは兵器と動力部を繋ぐ一点に集中して引き金を引くが、数秒後にはエネルギーが空になってしまった。

「くそう! エネ切れだ! 」

「私もだ!」

 茂利とキルンが慟哭の叫びをあげる。

「大丈夫よ!」

 眞流の声に振り向くと、不意に無数の銃が床面に出現していた。

「これは? 」

「御嵩にテレパシーで画像を送って、彼のサイコキネシスでここに運んでもらったのよ。さ、早く! 時間が無い! 」

 驚きの声を上げる茂利に、眞流が悲痛な面持ちで叫んだ。

「こうなったら、一気に片を付ける」

 茂利は銃の山に手を掛けた。同時に全ての銃が融合し、一つの巨大な銃として変貌を遂げる。茂利の想像力は既存の物質にでも影響を及ぼすまでに進化を遂げていた。

「行くぞっ! 」

 茂利は銃を抱えると、トリガーに腕を掛けた。

「これで終わりだ! 」

 茂利はトリガーを引いた。銃口から放出された鮮蒼色の光が周囲を蒼一色に染め、激しく渦巻きながら動力に命中。動力部分は一気に溶解し、完全に本体と分断された。

「よっしゃあっ! 」

 小踊りして喜びの絶叫を上げる茂利にキルンは抱き着くと、彼の頬にキスをした。

「えっ! 」

「地球人は喜び合う時こうするのではなかったのか? 」

 一瞬、固まった茂利だったか、照れ笑いを浮かべながらもしっかりキルンを抱きしめた。

「なんか地球人の文化を間違って覚えてない? 」

 眞流はにやにや苦笑を浮かべながら二人の抱擁を見守った。

「やってくれたな・・・」

 総督は唇をぶるぶる震わせながら二人を睨みつけた。

「貴様ら、このまま無事ここを出られると思うなよ。この船はもう終わりだ。今から自爆プログラムを遂行する。この船ともども貴様ら宇宙の塵となれ」

「そんなことしてみろ、おまえも死ぬことになるんだぞ」

 茂利は総督に罵声を飛ばした。

「私? 私は死なんよ。ここを脱出して支配下の惑星を統治している部下と船を集め、今度こそ地球を破壊する。その後にキルン、お前の惑星もだ」

 総督はそう言い残すと姿を消した。

「くそう、一難去ってまた一難かよ」

 茂利は悔しそうに怒りを噛み殺した。

 不意に、融合していた銃がばらばらになり、鏡の盾も音も無く消え失せた。 

「茂利、まずい。時間切れだ」

 キルンが苦悶の表情で茂利を見つめた。『魔法』の効力が切れたのだ。となれば、ジャンプして元のフロアーに戻ることは不可能。自力で逃げ道を探すのは至難の業だ。

「眞流さん、御嵩さんに奴が逃げ出して報復を考えている事と、ここが爆発する事を伝えて下さい」

「大丈夫、伝えたわ」

 眞流が表情を硬く強張らせながら頷いた。

「キルン、君のUFOを探そう。場所、分かるか」

「だいたい・・・でも、ここからだと凄く遠い」

 キルンは潤んだ瞳で茂利を見つめた。

「諦めるな。大丈夫だ」

 茂利は優しく微笑みながらキルンを見つめた。

「さあ、こんなとこさっさとおさらばしようぜ」

「えっ! 」

 聞き覚えのある声に茂利とキルンは慌てて振り向いた。

 工作員が、にやにや笑いながら二人の背後に立っている。

「おまえ、どうしてここに? 」

「亡命したんだ、日本にな。詳しい話は後で」

「私は少し寄る所があるから先に行ってて! 」

 眞流は手を振ると、すうっと姿を消した。

「さあ、帰ろっ! 」

 工作員が二人の肩に手をまわす。






「ただいまっ! 」

 工作員の陽気な声に御高と暮亜が振り向いた。

 ここは霹靂の操縦席。異世界から脱出とは勝手が違うのか、一瞬にして風景が様変わりしており、茂利は帰還した実感を掴めずにただぼんやりと突っ立っていた。

「お疲れ様! 」

 御高が親指を立ててグッジョブのポーズ。隣の眞流はまだ肉体に帰還していないのか、半眼のまま動かない。

 暮亜は涙を流しながらシートから立ち上がるとキルンをぎゅっと抱きしめた。キルンも涙を流しながら暮亜に抱き着く。二人が聞いたことのない言語を交わしながら親しく会話するのを、茂利は訳が分からずに呆然と見守っていた。

「茂利さん、黙っててごめんなさい。私達親子なんです」

 暮亜が涙を拭いながら茂利に頭を下げた。

「親子って、まさかキルンは君の母親? 」

 茂利は思わず自分と同じパターンを想定した。キルン自身は以前チューンナップ後も容姿に変わりはないとは言っていたが。

「違いますよう、キルンは私の娘なんです。つまりは私も異星人。今、正体見せますね」

 暮亜は右耳のピアスにそっと触れた。刹那、彼女の髪は紫に、肌は水色に変貌を遂げていく。

「マジかよ」

 茂利は拍子抜けした表情で暮亜を見つめた。

「びっくりしましたあ? ピアスに仕掛けがあって、地球人にフェイク出来るようになっているんです」

「びっくりするも何も、別の意味で驚いたよ」

 茂利はまじまじと暮亜を見た。確かに髪の毛や肌はキルンと同じ風貌に変化している。でも、肌の張りや皺、その他は元のそのまんまだった。下手すりゃあキルンと姉妹だと言っても違和感がない。実はお父さんですという落ちも想定していた茂利だったが、そちらは見事に裏切られた。

「私達の種族は年齢の割には若く見られちゃうんですよね。地球の年齢に換算すれば、これでも私、茂利さんとタメなんですよう」

「えーっ‼ 」

 と、驚きの声を上げたのは茂利だけではなかった。御高はサングラスを外して暮亜をガン見し、工作員は口を押えて羨望の眼差しを浮かべている。

「御高さんも暮亜さんが異星人って知らなかったんですか? 」

 茂利が御高に尋ねると、首をぶんぶん横に振った。

「それは知ってたけど、年齢までは知らなかったなあ」

 不意に、眞流の体がびくっと痙攣する。

「ただいまあっ! 帰ってきたよ」

 眞流は大きく伸びをすると、抱擁している暮亜とキルンを見てうれしそうに微笑んだ。

「良かったね、無事親子の再開が出来て」

 暮亜の姿を見ても驚かないばかりか、キルンと親子関係にあることも眞流には分かっているようで、どうやら茂利の知らない所でいろんな事情が動いているようだった。

「眞流さん、どこに行ってたんですか? 早くここを離れないと爆発に巻き込まれますよ!」

 慌てて茂利が問い掛けると、眞流はにまにま笑みを浮かべた。

「茂利さんに替わって総督をぶっ飛ばしてきた。あ、あの母船も爆発しないよ。自爆プログラムを解除させたんで」

「でも、どうやって? 」

 茂利は首を傾げた。ぶっ飛ばすのは、前に工作員が素っ飛んだのを目の当たりにしているから分からないでもないのだが、あの短時間で奴を従えるなんていったい何をしたのだろう。

「知りたい? 」

「ええ」

「金縛りにしてやったの。隠れ部屋から動けないようにね。逃げだせないって分かったらすぐに解除したわ」

「そのあと奴は? 」

「そのまま金縛り状態で放置しておいた。だって酷いのよ。あいつ、仲間を見殺しにして自分だけ逃げ出そうとしてたんだから」

 その状況によほど怒り心頭したらしく、眞流は激しく総督をののしり続けた。

「お、役者がそろったな」

 モニターを見ていた御嵩が呟く。

「どうしたんですか? 」

 御嵩の一言が気になった茂利は、身を乗り出してモニターを覗き込んだ。

「これって・・・」

 茂利は言葉を失った。画面には葉巻型やら球体、三角錐など様々な形態のUFOが総督の母船を取り囲んでいた。

「銀河系の連邦宇宙軍ってとこか」

 御嵩の答えに、茂利は武者震いを覚えた。自分の知らないうちに、これだけの異星人が近くにいたのだ。

「今、朗報が入った。奴らの支配下にあった惑星が一斉蜂起して主権の奪還に成功したそうだ。本拠地の崩壊と総督がやられたってのが奴らに混乱を招いたようだな」

 御嵩の顔に笑みが浮かぶ。ちなみにサングラスは復活済だ。

「工作員さん、君もジャクサか俺達の所に来ないか? 亡命してきたんだろ? 」

「んーまあ、考えとく」

 御嵩の誘いに工作員は思案顔で答えた。

「彼女はどうしてここに?」

「たまたま俺達を見かけて後をつけて来たらしい。存在には気付いていたけど、まあいいだろって」

 御嵩がひょうひょうと答えた。信じられないような回答だが、その場で誰も紛糾しにないのも恐ろしいといやあ恐ろしい。

「眞流さんは知ってました? 暮亜さんのが歳がいくつなのか 」

 茂利は思い立ったかのように眞流に尋ねた。

「あれえ、いくつだっけ。聞いちゃ悪いなって思って聞いたことなかったな。二十五はいってないよね。もっと若く見えるもんね。あ、でもそうしたらキルンちゃん生んだの何歳?」

「実は・・・」

 茂利が眞流の耳元でそっと囁く。一秒後、機内に彼女の絶叫が迸ったのは言うまでもない。

  





 あれから一年。この間に世界――否、宇宙の情勢は大きく変わった。あの戦闘後、地球は宇宙連邦の仲間入りを果たし、異星人との外交が大っぴらに行われるようになったのだ。

 事の発端となったあの総督率いるグレイ集団だが、独立国家ではなく、犯罪者集団の様な組織だった。支配下に落ちた国家が奪還を試みようにも、守りの堅いあの球型母船相手で歯が立たず、只管機会を狙っていたのだ。

 今回のターゲットが地球で、選ばれた代表者の茂利が『魔法』のシンクロ率百パーセントと判明した時、宇宙は動いた。キルンの母親で星間外交に携わっていた暮亜がジャクサと公安に働きかけ、更にキルンとも隠密に連絡を取りながら作戦を練っていたのだ。幸いにも茂利が彼らの想像以上の活躍をし、キルンと協調路線取ったことで全宇宙を巻き込む戦いに終止符を打ったのだ。

「ここにいたんですか」

 茂利は振り向き、微笑んだ。パンツスーツ姿の暮亜が、ゆっくりとした足取りで近づいて来る。

「この風景もしばらく見れそうもないからね」

 茂利はびっしり建ち並ぶ高層ビル群の向こうに沈む夕日を、目を細めて眺めた。茂利がキルンとの最初の戦いで破壊された後、復興した新市街だった。当時の不発弾の暴発という理由にかみつく週刊誌もあったが、翌日のムー大陸再浮上のニュースが大きかったのと、爆発事故については被害者への補償も厚かったせいか、自然と触れられることも少なくなった。日本の新たな領土となったムー大陸は『夢大陸』と名称を変え、主に宇宙交易の拠点となっている。茂利と暮亜のいるジャクサの組織の一つ、宇宙貿易センターも近々そちらに移転する予定だ。

「奥様に感謝です。旦那様が地球を離れるとなるとなると、不安もあったでしょうに」

 暮亜は表情を曇らせながら伏せ目がちに言った。

「好きなことをやって来いってさ。その一言で救われたよ」

 茂利は白い歯を見せて笑った。

「最初のステージの時、何故妻が花屋の近くにいたのか分かったよ」

「あ、あの時・・・」

 暮亜が遠くを見つめるような目線を中空に向けた。

「結婚記念日を祝うために、薔薇の花を買いに行ったらしい。でも規制線に気付かずに足を踏み入れてしまったんだと。すぐに私服の刑事さんに車に乗せられて送って貰ったって。もしあのままいたら、不発弾の爆発に巻き込まれてたかもって感謝してたよ」

 俺はしみじみ言葉を紡いだ。

「有難う。面倒かけちゃったね。記憶も不自然じゃない感じで整理されているみたいだし」

 茂利はそう答えると暮亜に頭を下げた。

「いえ、そんな。大丈夫ですよ。でも、奥様は何故、わざわざあんな所まで来られたのかしら」

 暮亜が首を傾げた。

 茂利には分かっていた。

 彼女がわざわざあの花屋にこだわった訳を。

 茂利が彼女にプロポーズした時に買った、一凛の赤い薔薇。

 彼女も、それをどこで用立てたのかは知っている。

 だから、彼女はあの店で購入しようとしたのだ。

 戦いの初日――二人の結婚記念日の為に。

 赤い薔薇のプレゼントは遅れはしたが、今朝の食卓を彩っていた。

 茂利の転職を祝い、彼の妻が用意したのだ。

 奇跡的に損壊を免れたあの花屋で購入して来たらしい。

 あの戦いの後、茂利は正式にジャクサへ移籍し、主に宇宙外交の仕事に携わるようになった。

 元の職場に挨拶に行くと、支店長の芦田は大歓迎で迎えてくれ、茂利の前代未聞の大抜擢を自分の事のように喜んでくれた。芦田に課の方にも顔を出していけと言われ、あまり気が進まなかったのだが、せっかくだから少しだけと覗いてみたら、雰囲気ががらりと変わっていた。

 カバオがいなくなり、その代わりに同僚の長澤が課長に昇進していたのだ。長澤は『やっぱりヘッドハンティングだったな』とにやにや笑った。彼の人間性のせいなのだろう、職場は明るく、若手は伸び伸びと業務に取り組んでおり、以前の様なぎすぎすした感じは全く無かった。

 カバオについて聞いてみると、なんでも本社の人事部にパワハラのタレコミがあり、しかも録音された音声が送られてきたらしく、急遽異動を命じられ、今は某地方の支店に勤務している。でもまあその勤務地というのが、彼の妻子の住む持ち家からの通勤圏内だったらしく、理由はどうであれ単身赴任生活が解消されたのだから良かったのかもしれない。ひょっとしたら、茂利に対して辛く当たっていたのは、単身赴任が解消され、家族と生活出来るようになった彼への嫉妬心もあったのかもしれない。

 さて、現在の茂利についてだが、『魔法』の覚醒は今のところ完全には封印できておらず、と言っても若返ったり超人的な力を宿したりはしないという状況だった。ただありがたいことに、記憶力、特に語学については神的な能力を発揮し、宇宙言語のほとんどを通訳無しで会話できたのだ。

 その能力が見込まれ、指導者として若手と共に暮亜の故郷の惑星に向かうことになったのだ。暮亜もオブザーバーとして同行し、彼を手助けする事になっている。

 ちなみに、彼の勤務先は地球で言う大学の様な教育機関で、地球言語や文化についても講義の依頼を受けていた。

 暮亜の夫はその教育機関で働く学者だそうだ。キルンは以前、茂利に両親は死んだと語っていたが、あれはどうやら総督の目を誤魔化すためのフェイクだったらしい。政府関係の仕事に係る親に被害が及ばないよう、天涯孤独という設定にしたのだ。機転の利く彼女らしい対応だった。

 更に嬉しい事に、茂利の娘は父親の躍進に感化され、一念発起して再度大学進学を目指して猛勉強中だった。宇宙語学を専攻し、彼の様に地球人と異星人との友好の懸け橋になりたいそうだ。あわよくば彼が勤務する大学への留学も視野に入れているらしい。

「キルンも茂利さんが行く学校に通ってますから、再会できますね」

「でも分からんだろうな。彼女は若い頃の俺しか知らないものな。暮亜さんは、これでやっと家族で暮らせるんだね」

「統治されているときは身動きできませんでしたからね。あ、でも今は通いですよ」

「通い?」

 茂利は驚きの声を上げて暮亜を見た。

「ええ。ジャクサの宇宙船『黎明』に乘れば、20分もあれば行けるんで。茂利さんも確か通勤のはずです」

「単身赴任かと思った」

「違いますよ。あ、もしかして単身赴任したいんですか? 」

「いやいや、遠慮しておく」

 慌てて顔を左右に振る茂利を見て、暮亜はくすくすと笑った。

                                   〈完〉









 










 












 




 


 





 



 



 



 

 

 






 


 






 





 



 

 


 

 

 


 



 


 



















 










 



 


 




 




 










 

 

 


 

 

 

 





 




 

 




 



 

  



 





 

 

    

 



 


 

 


  









 

 


  

 

 









  


 





 





  


  

 

 

 


 

 





 


 

 


 






 










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おっさんの俺に地球を救えったって、そりゃ無理だろ。 しろめしめじ @shiromeshimeji

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