傷
市長選が近い。私設秘書である槇
「どうしたの? その顔」
姿を見せた実篤は、左の
「自転車で転んだ」
市長選前に地域周りをして支持者たちの票固めをしていると聞いていたが、自転車で回っていたとは知らなかった。
確かに市街地は車よりも自転車のほうが小回りは利く。またどうせ、愛想笑いでもしながら運転していて転倒したに決まっている。
「実篤、自転車乗れるの?」
「失敬だな。
「何年前の話してる?」
あきれる。慣れもしない自転車に乗ったという訳だ。手の包帯はかなり広範囲の傷に違ない。他に怪我はしなかったのだろうか。
「病院に行ったの?」
「いや。事務所のおばちゃんが応急処置してくれた。なんでもしてくれる人でお母ちゃんみたいなおばちゃん」
「それはいいけど。病院行かないと。他に怪我しているかも知れない」
実篤は眉間にしわを寄せて困った顔をした。
「もう結構な傷で、ひどい目にあった。今日は左手が使えない。おまえ、おれの身の回りのこと手伝ってくれる?」
神妙な表情の実篤に頷く。できることはしてあげる。
「わかった」
なんだかニヤニヤとしている様子も見て取れるが、頭でも打って少しねじがずれたのだろうと理解した。
実篤は昔からそうだ。お調子者で、すぐ怪我をして帰ってくる。怪我をすると数日は変なことを言い出す。またいつものことだろうと思った。
「あ、それからさ。口の中も切っちゃって。痛くて仕方がない。口の中って薬塗ることもままならないだろう? 困ったものだ」
——口の中だって?
「どれ、見せて」
「え? い、いや。いいよ」
床にあぐらをかいてすわっている実篤のところに行き、それから口内を確認しようと彼の顔を覗き込むが、言ったくせに嫌がる様子が見られた。
——よほどひどいのかも知れない。
「いや。違うんだ。そうじゃなくて。あの、その——キ……ス」
「そのままにしていては大事になるかも。診せて」
「いや、だからさ。診てもらたいわけじゃなくてね。そのキ——ス」
「ひどかったらどうするの。ちゃんと診せて」
いつまでも口をつぐんでいる実篤。なんだかじれったい。
「あーって開けて」
「わかったっよ。——あ~」
「実篤。声ばっかりでよく見えない。——この舌、邪魔だな」
「へ?」
視線を巡らせると、夕飯の準備をしていたダイニングセットのところにある箸が目についた。それを取ってきてから、再度、実篤に口を開くように指示すると、彼はかなり不満の声色を見せた。
「お、おおい。まさかそれを突っ込む気じゃないだろうな?」
「だって。ほら」
「お、おい? おい?」
抗議の声を上げる実篤を無視して、左第二指を彼の口角に無理矢理突っ込むと、強引にこじ開ける。
「や、やめろ」
——なんで嫌がるのか意味わからない。ちゃんと診てあげるのに。
強引に開いた口内から箸で舌をつまみ上げた。
「これでよく見える。どこ? 口の中? 舌? 切ったのどこ」
もがもがと両手をばたつかせている実篤は転がって自力で起き上がれずに足をばたつかせているダンゴムシみたいで憐れ——。
もう少しその情けない姿を見ていたい気持ちに駆られるが、あまりにも可哀そうなので箸を下ろした。
すると、彼は本気で怒ったようだ。顔を赤くした。
「は、箸はないだろう!? 雪」
なぜ彼が怒っているのか、正直言うとわからない。だけど、箸は嫌だったってことみたい。わかった。じゃあ、箸は使わない。
「わかった。指ならいいんでしょう?」
——それならそうと早く言って。
先ほどと同様に実篤の口角から指を入れ込み、舌をつまみ上げながら両手の指を使って彼の口の中の感触を確認する。
通常、口内は粘膜で構成されており、感触はなめらかであるはずなのだ。傷があればすぐにわかるはず——。
彼の口内を撫でる間、実篤の呼吸リズムが早くなるのがわかる。
——痛い? 苦しい?
そんなことを考えた瞬間。左頬内側に小さい凹凸を見つけた。
「あ、ここ。傷ある。痛い?」
傷に触れると、実篤の瞼が痙攣しているように震えている。これ以上触れるのはかわいそうだと判断し、口から指を引き抜いた。
「実篤。口の中の傷はそう深くないみたい。大丈夫。ごはん食べられるよ」
「あ……そっか。そうだな。ありがとう。って言うかね。あのねえ。雪。多分、お前がキスしてくれたらすぐに治ると思うんだけど!」
「え? 人間の細胞が修復するには約三週間かかる。そんなにすぐに治るなんてありえない。もしそうなら、なにかの新興宗教かなにかでしょう? 大丈夫? 実篤。やっぱり頭打ったみたい。今日は早く寝たほうがいいね」
よそよそしい態度の実篤は、やはり事故の後遺症で頭がおかしいようだ。耳まで真っ赤になって、熱でも上がってきたに違いない。優しくしてあげないと可哀そう。
今晩は早々に寝かせてあげよう。
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