第十五話 後悔
ユイは全力で走った。
右へ左へと道に沿って闇雲に進んでいき、とにかく足を回していく。
どれだけ髪が乱れても、どれだけみっともない格好になっても、そんなこと気にしていられない程無我夢中だった。
とにかく速く・・・・・・もっと遠くに・・・・・・。
ただそれだけだった。
安定した呼吸ができず、あばらが痛い。
全身から汗が滲み出て、制服の内側に着ているシャツが肌を密着させる。
足も鉛をぶら下げているみたいで重い。
手に持っている学生鞄なんて手放したいくらいだ。
それでもユイは、そんな辛さを我慢して走り続けた。
それからどれくらいに時間が経っただろうか、遂に体力の限界が来てしまい、膝に手を付いて立ち止まってしまった。
もう足も震えて、これ以上走れそうにない。
今まで無視していた疲労が一気に全身に圧し掛かってしまう。
口から空気を大量に取り込み、不足している酸素を循環しようとしている。
その影響なのか、血管や心臓がドクンドクンと波打っており、頭痛が激しかった。
ユイは呼吸がある程度落ちついたところで、乱れた前髪を退かしながら、顔を上げた。
見ると、そこは薄気味悪い廃れた廃工場だった。
建物の外装は所々が錆びており、ボロボロになっている。
看板も外れており、文字も汚れているためまともに読むことができない。
そして何より埃っぽく、油臭い。
正直、立ち入り禁止の看板がなくても絶対入りたくないが、今回ばかりはそんな我が儘を言ってられなかった。
いくら遠くまで逃げ切ったからといって、いつ追い付かれるか分からない。
身を隠せられるような場所が目の前にあるのなら、隠れるに越したことはない。
まあ、もっともらしい理屈だが、ただ単にどこでもいいから休みたいだけである。
結果、ユイは敷地内に入ることにした。
大体3000坪くらい広さはあるだろうか。
周囲には鉄の柱がピラミッド型に山積みになっており、ブルーシートが被さっている。
重機はなく、人の気配は一切感じなかった。
本当に誰もいないのね。
不意にそう思いながら、建物の内部へ入った。
そこは外よりも殺風景な空間だった。
あるとすれば、入り口の左脇で束になっている鉄パイプが壁にもたれ掛かっているだけ。
窓が外された箇所からは、そよ風が突き抜けていた。
ユイは学生鞄を乱暴に置き、入り口付近に尻餅をついた。
両足に腕を回し、深々と顔を下に向けた。
そして、自分の無力さと臆病な性格に絶望し、後悔を吐露する。
「逃げてしまった・・・・・・あの時みたいに、また逃げてしまった」
何度も口にする度に、自分の中の罪悪感が膨れ上がっていく。
確かに女性は逃げろと言い、自分は言う通りにした。
その判断は決して間違いではない。
女性のように特殊な能力がある訳でもなく、抵抗するための武器を所持していない。
況してや、格闘体術といった技術なんて、何一つ持ち合わせていない。
言ってしまえば、丸腰で無抵抗な足手纏いだ。
そんな奴が取る行動なんて、能力を持った有力な人間の言うことを聞くことだけである。
仕方のないこと、と言って片付けてしまえばどれほど楽だろうか。
どうしても受け入れることが出来なかった。
「わたしに能力があったら、こんな思いしないで済んだのに・・・・・・」
ショッピングモールの一件の直後でも、全く同じことを言って悔いていた。
ユイは徐に学生鞄に手を伸ばし、チャックを開けると、中に手を突っ込んで漁りだした。
そして、中で目当ての物が指に触れると、それを掴んで引っ張り出す。
年季の入ったハンターケースの懐中時計だ。
外装はシルバーでコーティングされており、所々に小さい傷が入っている。
リューズの部分はスイッチになっており、そこを押すと蓋が開く仕組みとなっている。
ユイはその懐中時計を手の平に載せ、スイッチを押して蓋を開けた。
文字盤が露出されたが、時計の針は『11:36』で止まっている。
つまり、壊れているということだ。
裏蓋を見ると、アルファベットで『Hajime』と、名前が彫刻されている。
それが前の持ち主であり、ユイの父親の名前だ。
これを貰ったのは中学に入学した時だ。
壊れていたものだから、最初新手の嫌がらせかと思い拒んだのだが、
「これね、お父さんが持っていた物なの。本当は私の宝物なんだけど、今日からユイちゃんの物よ。きっとお父さんが守ってくれるわ」
と、笑顔で言われたものだから、断れずに受け取ってしまった。
正直、今時懐中時計を持ち歩いている人なんて滅多にいないので、基本人前で取り出したりしていない。
因みに最後に懐中時計を触ったのは、高校入学前に中学の鞄から荷物を高校の鞄に入れ替えた時だけである。
本当は引き出しの中にしまいたいのだが、それだと自分のために渡してくれた母に悪いと思い、律儀に今でも持ち歩いているのだ。
お守り、といってもそんな大層な物ではない。
それに最後に母が言った、父が自分を守ってくれるという言葉も、今となっては戯言に過ぎない。
よく分からない凶暴な怪物に遭遇し、つい先程そいつに殺されかけたのだから、お守り効果なんて信じられるはずがない。
ユイは怒りが込み上がったせいか、懐中時計を強く握り締めた。
「何が守ってくれるよ・・・・寧ろ散々な目に遭ってばかりじゃない!」
怒りの矛先を懐中時計に向け、そのまま遠くへ投げ飛ばした。
甲高い金属音が虚しく鳴り響く。
恐らく、新しい傷が付いたか、将又形が変形したかもしれない。
しかし、涙で満たしている瞳では、それを確認することなど、とうてい不可能である。
悔しい、本当に悔しい・・・・・・・・。
そう思った次の瞬間だった。
何かが千切れる音と、金属が擦れる音が聞こえたのだ。
振り向くと、鉄パイプの束を縛っていた紐が、今にも千切れそうになっていた。
「嘘でしょ!?」
ユイは咄嗟に立ち上がろうとするが、時すでに遅く紐が切れて、鉄パイプが倒れ始める。
もうダメ!?
無謀だが、咄嗟に頭を押さえて身を屈めた。
ガシャー―ンッ!
鉄パイプが地面に叩きつけられる音が、激しく鳴り響いた。
「・・・・・・・・?」
しばらくして、ユイは違和感を覚えた。
痛みを感じないのだ。
不思議に思い、恐る恐る顔を上げると、先程とは違う位置に座り込んでいた。
辺りを見回してみると、遠くの方で鉄パイプが無造作に散乱しているのが目に入った。
「え、あ・・・・・・え?」
突然の出来事に呆気に取られてしまう。
確かにあそこに自分がいた、そのはずなのに。
命は助かったものの、目の前の異常事態に恐怖を感じ始めてしまう。
状況を呑み込めず、散らばった鉄パイプをただ茫然と眺めるしかなかった。
「一体どうなってんの!?」
ふと自分の手元が光っているのに気が付いた。
何かを握っている感覚がし、視線を下に向けてみる。
それは自棄になって投げ捨てた懐中時計だった。
蓋が開かれており、裏には『Hajime』という名前ではなく、『Chronus』と刻まれていた。
「クロ・・・・・ノス?」
すると忽ち光が強くなり、視界が真っ白になった。
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