幻影の黒い少女は俺の守護霊なのかもしれない

乃木重獏久

幻影の黒い少女は俺の守護霊なのかもしれない

 私が今この瞬間ここにいるのは、ある一人の青年がいたからだ。もし彼が存在しなければ、歴史家は多くの出来事を書き直さねばならないだろう。

           ――アーロン・ワイズマン(理論天体物理学者)



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 有効求人倍率が、バブル期を超えたと報じられてから久しい。依然として高いその数字に淡い期待を寄せながら、五十社以上の面接試験を受けたものの、俺に届くのは不採用を意味する“お祈りメール”だけ。面接中に深い問答があるわけでもなく、受験者の上っ面を見ただけで不採用となる理不尽さにもめげずに、数多あまたの面接を受け続けてきた。そして先ほども、ある中小食品メーカーの面接試験を受けてきたばかりだ。


 冷房のよく効いた面接室で、学業以外に打ち込んできたことを尋ねられた俺は、ここぞとばかりに、趣味にしているネットゲームでの、オフ会の幹事を毎回務めていることを例示し、人間関係の構築力や忍耐力、企画力に優れる人間であることをアピールした。


 俺の話に好印象を抱いたのか、面接官は終始優しい目と微笑みを浮かべていたので、いつもの面接以上に、ゲームライフで培われたコミュニケーション力を会社の業務に活かすことができる、と強く主張したのだ。


「大変興味深いお話を聞かせていただき、ありがとうございました。あなたが、大変優れた人物であることは、今のお話からよく分かりました。そんな素晴らしいあなたが活躍できる場を、弊社のような弱小企業では、残念ながらご用意できそうにありません。あなたのような方は、世界を股に掛ける大企業がふさわしい。あなたにとっても世の中にとっても、その方がとてもいいことだと思いますよ」


 意味がよく分からなかった。面接官に問うと、笑顔でウチには勿体なさ過ぎると答えるばかり。明確な答えが欲しい俺は、そこまで褒めるということは採用ということかと聞くと、不採用だという答えが即座に返ってきた。


 面接即時不採用という、なかなか経験できない結果に打ちひしがれた俺は、一体どうやって駅まで来たのか分からなかった。ただ、面接室を出た俺の背中に、『今後のご活躍をお祈りいたします』という“リアルお祈り”が投げつけられたことだけは覚えている。


 キオスクにタケノコのように伸びた新聞の一面には、“終戦記念日”の文字が大きく刷られていた。それはあたかも、俺に宣告する言葉のようだ。そうか、俺の就職戦線は敗戦を迎えたのか。頭のどこかで玉音放送が流れているようだ。でも俺には、もうこれ以上、堪えることも忍ぶこともできそうにない。


 俺は無用の烙印を押されたような気がした。いや、不要か。どちらにせよ、俺には社会にとっての存在意義がないらしい。胸に大きな穴が開いた俺は、真昼のプラットホームの一番先頭にあるベンチに、だらしなく腰掛けた。


 昨日までの荒れた天気とは打って変わり、屋根のない空からは、夏の暴力的な日差しが容赦なく叩きつけてくる。脳天が灼かれて熱い。駅が海沿いにあるためか、熱気だけでなく異常な湿気に全身が汗だくだ。にもかかわらず、何もかも億劫になった俺は、リクルートスーツを脱ぐ気になれなかった。いっそのこと、このまま熱中症で死ぬのもいいかもしれない。


 突然、大きな警笛が左側から聞こえた。向かいのホームに入ってくる列車が鳴らしたようだ。そのホームのへりを、スマートフォンを見ながらふらふら歩く中年の男が、驚いたように顔を上げる。すぐにその姿は、減速しながら入線してくる列車に隠れて見えなくなったが、定位置に止まった車輌に乗り込んだその男の、こちら側のドアにもたれるようにして立つ姿が見えた。サラリーマンらしきその男は、相変わらずスマートフォンに見入っている。


 俺は何だか、妙に腹が立ってきた。あんなモラルに欠ける非常識な男でさえ、職に就いている。どうせ、くだらない会社に勤めているのだろうが、毎月給料を貰って生活していやがるのだ。なのに、この俺が就職できないなんて、世の中間違っている。あんな奴、さっき列車にはねられて、死ねばよかったのに。


 再び動き出した列車の中に立つスマホ男を見送る俺の目は、はたから見れば、強い憎しみのこもったものに見えたことだろう。でも、しょうがないじゃないか。社会に不要だと宣告された俺が、俺以上に不要で無能なくせに、のうのうと生きている奴らの姿に、腹を立てるなと言う方が無理な注文だ。


 向かいのホームを見ると、さっきまでそこにいた、多くの人間がいなくなっていた。くそっ、アイツら本当にこの世から消えてしまえばいいのに。たいした人生を送っているわけでもなく、社会に貢献しているわけでもなく、ただただ文句や不平を言うばかり。お前らなんか、生きていても全く意味がないじゃないか。


 右に目をやると、こちら側のホームにも多くの人間がいた。何も考えていなさそうな、厚化粧の中年女性。壁際でヤンキー座りをしている眉のない若い男。公共の場でギャアギャアと大声で騒ぐ、私服姿の少女達。俺はこいつらにさえ、劣るとでもいうのか。俺とこいつらと、どちらが社会に対して有益か、誰も分かっちゃいない。


 プラットホーム上の無能の人々。その中で俺の一番近くにいる、くたびれたワイシャツを着た壮年の男を見た時、不意にどす黒い感情が湧き上がるのを感じた。こいつを線路に突き落として列車に轢かせたら、どんなにスッキリすることだろう。十メートルほど右のホームべり近くに立つ、出っ腹の男。


 あんたは何が楽しくて生きているんだい。冴えない会社の冴えない仕事をして、何の意味があるんだ、あんたの人生。俺はあんたより優れた人間なのに、社会に“いらない”って言われたよ。だから、あんたもいらないよね。そうか、俺の使命って、社会のゴミを駆除することなのかもしれない。そう思った俺は、重い体をベンチから浮かそうとした。


「ホント、相変わらずバカね。アンタって」


 俺のすぐ左の頭上から、不意に声がした。見上げると、一つ挟んだ左の席の上に黒いエナメルの靴で立ちながら、指を組んだ両手を天に上げて背伸びする、黒いワンピース姿の少女がいた。直射日光が彼女の長い黒髪にきらめいている。しかし、アスファルト舗装のホームには、三つ連なるベンチと俺のくたびれた影しか落ちていない。


「なんだ、お前か」

「えらく素っ気ないわねえ。五年ぶりだっていうのに、少しは感激してくれてもいいじゃない」


 少女はふてくされたように、俺を見下ろしながら頬を膨らませる。


「また、アンタ、変なこと考えてたでしょ」

「何のことだよ。別に自殺しようだなんて思っちゃいねえよ」

「違うわよ。あのおじさんを、線路に突き落とそうとしてたってこと」


 なんでコイツ、それが分かったんだ。一瞬俺は驚いたが、すぐに腑に落ちる。そう言えば、コイツは俺の幻覚だった。俺の頭が生み出している以上、俺の考えることを知っていても当然だ。


 それは中学二年生の五月のことだった。別にいじめられていたわけではないが、周りの連中が妙に幼稚に思えた俺は、クラスからの疎外感を覚えていた。ある日の下校時、マンションのエレベーターで、自宅のある階ではない最上階のボタンを、ただなんとなく押した。


 着いた廊下に吹く穏やかな風が、妙に気持ちよかった。アルミ製の柵に手を掛けて身を乗り出すと、遙か下の駐車場に駐まっている色とりどりの自動車が、こっちへおいでと誘っていた。俺はそれに応えるように、柵を握る手に力を込めた。


「やめた方がいいと思うよ」


 その時突然、声が廊下に響いた。振り返ると、そこには黒い服を着た黒髪のお姉さんがいた。それがコイツとの初めての出会いだ。


 コイツは言った。アンタには重大な使命がある。こんなところで人生を終わらせてはいけない。アンタの人生は、世の中の多くの人間よりも重い価値がある、と。そして、いつもアンタを見守っている。何かあったら、また助けに来るから、と言い残して消えたのだ。


 その後も何度か人生に躓き、自暴自棄に陥って自殺を図ろうとするたびに、コイツは今と全く変わらない姿で現れた。そして毎回、俺の存在の重要性を説くコイツの言葉に救われてきたように思う。


 最初の頃は、幽霊か何かの超自然的な存在かと思っていたが、ネット等で調べてみると、どうやら極度のストレスに晒された意識が、自己防衛のために生み出した幻覚のようだった。少女の姿をしているのは、中学生の頃の俺が、こういったタイプの女性に憧れていたからなのだろう。そして、高校二年の春を最後に、コイツが現れることはなかったのだ。


 今回もコイツは、俺の人生は重要だ、などと言って説得するつもりだろう。自殺未遂以外でコイツが現れるのは初めてだが、もうその言葉には騙されない。今日は直接社会から、“お前はいらない”と宣告されたのだ。だから、このまま、コイツの言葉には耳を傾けずに、あの男を突き落とすことに決めた。


「なんで今日は自殺じゃなくて、よりによって殺人なのかなあ。わけ分かんない。そもそもどうして、あのおじさんを突き落とそうと考えたの? アンタ、今まで外面そとづらのモラルだけは守ってきたのにさ」

「何がモラルだ。靴のままベンチに立つ奴に言われたくないもんだな。何故あいつを落としたいかって? あんな社会に無用な人間を始末していくことが、俺の使命だと悟ったからさ」

「あのおじさんの、どこが社会に無用だっていうのよ」


 眉間にしわを寄せた少女は、ベンチから飛び降りて俺の前に仁王立ちになる。俺を見つめる黒く大きな瞳。


「だって見てみろよ。あんな冴えないおっさん、ろくな仕事をしていないさ。いや、平日のこんな時間にここにいるんだ。もしかしたら無職かもしれない。とにかくいらない人間が多すぎる。だから、これから俺が駆除してやるのさ」

「フン。アンタに何が分かるのよ。社会がどういうものかも知らないくせに」


 呆れたような声を上げた少女は、小太りの男の側まで行き、その顔をのぞき込んでから、すぐに戻ってきた。男は少女の存在に全く気付いていないようだ。それはそうだろう、彼女は俺の幻覚なのだから。


「アンタには、あの人が世の中にいらない人間に見えるんだ。全く節穴以下ね、アンタの目って」


 両手を腰に当てて、俺の考えとは全く異なることを偉そうに話す幻覚の少女。つまり、俺は無意識にそう考えているということなのか。


「あのおじさんはね、大手商社の海外駐在員。西アフリカ諸国の政府関係者と親密な関係を築いて、輸入食料の確保に奔走している人。発展途上国相手の取引は、単純に会社ではなく、個人同士の繋がりが重要なの。もし今ここで、あの人が亡くなれば、多くの取引が宙に浮いてしまう。もしかしたら、輸入がストップする食品も出てくるかもしれない。そうなれば消費者だけでなく、流通・小売業にも大きな影響があるわ。そして、そこに関わるいろんな人の人生を、大きく変えることになる。あの人は、そういう重要なおじさんよ。今日は久しぶりの帰国で、亡くなった奥さんのお墓参りのために、この近くに来ていたの。だって、今はお盆だし」


 俺はそんなことは知らないぞ。なのに何故、そんなことを知っているんだ。コイツ、本当は俺の意識とは全く無関係な存在なのか。


「それに、さっきアンタが軽蔑していたあの中年女性。あの人は高校生の息子と二人で暮らしているの。この近くの高校へ通う息子の学費を、日々のパートで稼いでる。今日は息子の進路についての面談だったの。お盆なのに先生も大変よね。それで、その息子は将来、難病の多発性硬化症の画期的な治療法を確立することになっているわ。その子の心の支えになっているあの人が、もしもいなくなってしまったら、結果的に大勢の難病患者が困ることになるの」


 少女の手に引かれて俺はベンチから立ち上がった。そしてそのまま、列車を待つ人の間を進んでゆく。やはり屋根の下は少しばかり涼しく感じる。


「あそこの女子高生達は、新しい宇宙ビジネスのベンチャー企業を立ち上げるの。そこで駄弁っているヤンキーは予備校講師になって、その教え子からは、数多くのノーベル賞学者が現れる。そして、あっちの――」


 少女は、ホームにいる様々な人物について、その価値を解説して回る。コイツ、なんでそんなことを知っているんだ。それも、未来の出来事まで。でたらめな話だと思い込もうとするものの、不思議なことに、何故か全て真実に思えた。


 不意に少女は立ち止まり、ホームに立つ鉄柱に目を向ける。視線の先には非常停止ボタンがあった。


「……アンタ、あのボタン、押してみる気ない?」

「え、そんな迷惑なこと、できるわけないだろ。意味が分からない」

「ふーん、他人を線路に突き落とそうと考えるくせに、妙なところでモラルに縛られるのね。アタシは別にいいけどさ。まあ、そんな未来もあるかなと思っただけ」


 妙なことを口走ったかと思うと、少女は再び俺の手を取り歩を進める。そして再び、そこにいる人々が、どんなに重要なキーパーソンであるかを語るのだ。


 気が付くと、俺はホームの最後尾にいた。太陽はいつの間にか雲に隠れており、屋根がなくても眩しくない。


 プラットフォームは内側へ緩やかにカーブを描いており、一番端のここからは、その全貌が見渡せた。ホームの上で、間もなく到着する快速列車を待つ、三十名弱の利用者達。少女によると、そのいずれもが、これからの歴史への影響力を、大なり小なり有する人々だという。そして俺にはその言葉が、決して嘘ではないということが、直感で分かっていた。


 そうか、そうなのか。この世の誰もが、歴史を作っていくのか。人と人が縁で繋がっている以上、無駄な人間などいないということなのか。なのに俺は、何の役にも立てていない。これからも立てそうにない。社会はこの俺を、俺だけを不要としたいのか。言いようのない情けなさと虚無感に全身を貫かれ、俺は思わず慟哭する。


「何泣いてるのよ。アンタは誤解しているわ。この世に無駄な人間なんていない。全ての命に、生まれてきた意味があるの。だから、悲しむことなんてない。確かにあそこにいる人たちは、とても重要な使命を担っているわ。でもね、今この瞬間、アンタはここにいるどの人よりも、価値が高いの。存在意義があるの。それは絶対間違いない。だからアタシは、アンタが自分の人生を台無しにしようとするたびに阻止してきたの。アタシが嘘をついていないことぐらい分かるでしょ」


 俺はホームのへりに立ち、少女を振り返る。涙で滲む黒服の少女。彼女の後ろでは、ホーム脇に咲く向日葵が、季節限りの命を誇るように揺れている。そしてその向こうには、国道を挟んだ砂浜で海水浴を楽しむ人々の姿が、いくらか見えた。たぶん、あそこにいる人々も、社会に必要とされているのだろう。


 しかし、少女曰く、俺にも大きな存在意義があるらしい。そうか、そうなのだ。よく考えると、さっきは、盆休みさえ取れないような中小企業の面接で、不採用と言われただけなのだ。次に受ける面接で合格するかもしれない。いや、就職といった小さな話ではなく、もっと大きな、それこそ人類史に一石を投じる存在になれるのかもしれない。


 そうか、コイツは幻覚なんかじゃない。俺の守護霊なのだ。だから、俺が自殺を図ろうとするたびに現れて、手を差し伸べてくれたのだろう。そして今日は、俺が殺人犯として収監され、人生を棒に振るところを救いに来てくれたのだ。しかし何故か、コイツとはもう会えないような気がした。それは、俺がこれからの人生を、二度と踏み外すことがないということなのだろうか。


「アンタはもう大丈夫。だから、アンタとはここでお別れ。だけどアンタが生まれた時から、ずっと見てきただけあって、何だか名残惜しいわ。だから、少しハグさせて」


 少女はそう言って俺を軽く抱きしめた。仄かな甘い香りが鼻腔をくすぐる。本当にこの守護霊とはもう会えないのか。もし、今後の人生に何か障害が立ちはだかった時、俺一人ではまた――。


「不安に思わなくていいの。これからは、アンタを邪魔するものなんて現れない。アンタを困らせることなんて起こらない。そしてアンタは歴史に名を残すわ。人類への偉大な貢献者として。少なくともここにいる人々は、アンタに感謝してもしきれないはず」


 俺の耳元で囁く少女の声は、何故か俺の心を落ち着かせる。そして、少女は身を離した。彼女の少し寂しげな表情。その白い胸元に光る、鎌の形をしたペンダントが印象的だった。


「じゃあね。サヨナラ」


 そう言うと、少女は俺の胸に手を添え、そっと押した。



 ******



『――現場からお伝えします。ご覧のように、曲がった線路と千切れた架線が、線路脇の国道まで押し流されています。この土砂災害発生時には、本来なら快速列車がこの現場を通過中で、大惨事になっていたところですが、その直前に発生した、一つ手前にある駅での自殺と思われる人身事故により、急遽運転を見合わせたため、難を逃れました。自殺した男性の身元は現在調査中ですが、鉄道会社によりますと、土砂災害による不通が避けられなかったことに加え、結果的に大勢の乗客乗員が救われたことから、男性の遺族に対しては、一切損害賠償請求をしないとのことで――』

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