鳥かごの天使が求めた勇気の翼

長月瓦礫

1


『飛べない鳥に勇気は要るか?』


茶色のシミが点々とできたページに一文だけ書かれていた。

誰かが残しておいた日記帳をたまたま見つけ、暇つぶしに読んでいた。

誰も語ってくれない昔話を日記帳を遡ることで、クロヴィスは歴史を学ぶ。


他人の秘密を勝手に読んだことへの罰だろうか。

飛べない鳥という言葉が彼の心に深く突き刺さった。


彼は雲より高い山岳地帯に暮らしているにもかかわらず、翼の使い方すら知らなかったからだ。空を飛ぼうとも思わなかった。


山を降りなくても十分に生活はできていた。

背中に生えた翼を見て、山のふもとに住む人々から天使と呼ばれていた。

神の使いと思われていたようで、かつては人間を支配していたらしい。


彼の住む里にそんなものはいない。神様は人間が見ている幻だ。

人間と仲良くするために、神様がいると嘘をつかなければならない。


しかし、科学が発展するにつれて人間との関係は悪化していった。


神を信じる者は減り、天使の存在も語られなくなった。彼らは翼を必要としない。

蒸気船や機関車といった乗り物がどこにでも連れて行ってくれる。

身体的欠点を補うかのように、次々と不思議な道具を生み出した。


それでも、この山を訪れる者は後を絶たなかった。

山頂から見える美しい景観、あるいは山の環境がもたらす試練を求めて登るらしい。


山を登る人々のためにも、施設を建てたり、道を舗装したり、もっと使いやすくしてほしいと観光会社の社長が自ら族長に頼み込んだ。


しかし、族長はあまり気が乗らなかったようだ。

人間たちの手によって山が切り開かれるのを快く思っていなかった。

彼らが介入することで、美しい自然が破壊されていくのを何度も目にしていたからだ。我が物顔で土地を開き、都合のいいように改造していく。


また、背中に生えた翼を珍しがった悪意のある人間たちに何人も誘拐された。

その後は見世物小屋という場所に連れて行かれ、人間の相手をしなければならない。

生物を道具として扱うその姿は、さながら悪魔のようである。


好き勝手に過ごす横暴な人間たちに我慢できず、一族の大人たちは集まった。

会議を重ねた結果、霧と雨で結界を作り、世界を閉ざしてしまった。

それが数百年も前のことだ。


外の世界と交流がなくなってしまい、天使は人数を減らしていった。

元々、数は少なかった。世界を閉ざせばこうなることは分かっていたはずだ。

人間にいいようにされるくらいなら、自滅を選んだほうがマシだと思ったのだろうか。


屋根を打つ雨の音が響く。朝は霧に覆われ、昼間は雨が降り続ける。

太陽が顔をのぞかせるのは本当にごく稀だった。

野生動物がたまに入り込んでくるくらいで、人っ子一人来なかった。


この里を覚えている人々は幻の里と呼んでいるようだ。

子どもたちに聞かせるおとぎばなし、もしくは怪談として語られた。

このことを話してくれた祖父も数年前に亡くなった。


気づけば一人だけになっていた。

祖父の墓標の前で手を合わせ、空き家にある書物を読みふける日々だ。


「飛べない鳥か……」


日記帳の言葉を繰り返す。確かにその通りだ。

飛ぼうと思えばどこにでも行けるのに、翼の使い方もロクに知ろうとしない。

外の世界を知る勇気さえ、必要としていなかった。


だが、完全に否定することはできなかった。

その勇気もまったくいらないわけではないのだ。


勇気がなくなってしまえば、何もできなくなってしまう。

一人で生きることもできなくなる。

孤独に耐えきれず、死を選んでしまう気がする。


最も、天使に死があるのかどうかは分からない。

祖父が死ぬまでに何年かかったのかも分からない。


ただ、穏やかな表情で死んでいった。そのことは幸福だと思った。


「飛べない鳥」


何度も繰り返す。背中から少しずつ羽を伸ばし、感触を確かめる。

生まれた時からずっと使っていない体の一部だ。

しわを伸ばすように、丁寧に広げていく。


本を置いて、庭に出た。

幸い、霧雨が吹き付ける程度でほとんど支障はなかった。


助走をつけて、三回跳ぶ。

翼もそれに合わせて勢いよく動かす。


水たまりにダイブした。

地面のぬかるみに足を取られ、ひっくり返ったらしい。全身に泥をかぶった。


「……練習する場所は選ぶべきか」


せめて、里から出なければならないか。

それも人目につかず、自由に走り回れるような場所だ。


「そんな場所、本当にあるのか?」


クロヴィスは地図を取りに自宅へ戻った。

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