2.3節 状況整理
「とりあえず,状況確認しよう」
隣にいる雫をチラリと見ながら,峡は提案した。半ば独り言に近いが,雫が小さく頷いたのを確認する。
「まず,この島までは本島から小型のフェリーで……2時間くらいかかったか?」
「そうですね。ビーチでBBQの準備を始めた頃に太陽がだいたい南中していたように見えて,出発していたのは10時ですから2時間程度であっていると思います」
「そうなると,船の時速が……わからんな」
「よく30ノットとか聞きますよね」
「聞くな。ノット……結び目か。全く手がかりにならないな。まぁ良いや,だいたい時速50kmくらいだろう,船なんて」
「そうなると,大雑把には100 kmオーダーですか,本島からここまで」
「うん。泳いで渡れる距離でも,水平線までの距離にないこともわかった」
「城くん,ここは普段は無人島で,オンデマンドで送迎のフェリー出してるって言ってましたよね」
「言ってたな。つまり,最早でも捜索?みたいのが始まるのは明日以降か」
「というか,その前にフェリーに乗るときに点呼し……」
「点呼するか?」
「しないですね。そういうのは昇先輩,あなたの仕事ですよ? 何やっているんですか」
「全く,何やってるんだろうな」
「やっぱり救助的なものは明日以降だろうな。まぁこんな小さな島だし,言うて1日もあれば見つけてくれるだろう。幸い,今は夏で凍え死ぬことはないし,天候も安定している上に,食材は豊富そうだ。水の調達だけが問題だが,それもなんとかなるだろう。日本に帰ったらたらふく焼肉が食べたいな」
「今,猛烈な勢いでフラグ立った気がしますが?」
「……安心させようと思ったんだけど,自分でもそう思う。やばいかな」
「この一級フラグ建築職人が」
「すみません」
会話が途切れる。聞こえるのは目の前の波の音と,岸壁の方から微かに波が岩にぶつかる音がするのみ。
「特に声とか聞こえないな」
「日も暮れてきましたね」
「何はともあれ,water・shelter・food・fire の確保だ」
「おや,そのナレッジのソースは?」
「ディス◯バリーチャンネル」
「付け焼き刃!」
「2泊3日,とりあえずそれだけ生き残ることを考えよう」
峡は,そう言うと具体的なプランを思案し始める。まず水が欲しいが,そのためにはやはり火が必要となるだろう。森に入れば淡水が見つかるかもしれないが,濾過,煮沸が必要になるだろうし,最悪海水を蒸留するとしてもやはり火が必要だ。でも,森に入ってそんなに簡単に水が見つかるのか?そもそも火が起こせるのか?あるいは,どちらかが怪我をしたら?2泊3日,48〜72時間も生き延びることができるのか?
些細な疑念がどんどん大きくなる。これまでは突然すぎていまいち現状のヤバさを理解できてなかったが,冷静になるほど,すぐ目の前には“死“が広がっていて,手が震える,膝が震える,呼吸が早くなって,頭が真っ白に,死ぬ,ここで,もう日本にはもどれn
「先輩!」
不意に雫に肩を叩かれ,正気に戻った。
「……とりあえずなんでも有機物・無機物問わず収集しよう」
峡は努めて平静に普段の自分が言いそうな語彙を選択して,発声した。声は震えていなかったはずだ,膝の震えは隠せているだろうか,ほおはひきつってないだろうか。峡が精一杯の虚勢を張ることができたのは。目の前の後輩が,これまで恐怖など少しも見せなかった後輩が,今にも気を失ってしまいそうなほど不安な顔をしていたからだ。
(雫まで不安にさせてどうするっ!馬鹿か!)
峡は,密かに自分を叱責する。不安でないはずなどないのだ。でも2人で恐怖に押しつぶされて動けなくなっては終わりだろう。だから。
「……救われた」
「お互い様ですね」
このあざとくも賢い後輩がいてくれて良かったと,彼は思ったのだった。
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「2泊3日,とりあえずそれだけ生き残ることを考えよう」
峡が急に黙った時,その様子を雫は黙ってみていた。雫から見て,峡が黙るのを見るのは実際のところ珍しくない。決して頭の回転が速いタイプではないが,非常に思慮深くロジカルで,正直な人。それが雫から見た昇仙峡という人間だった。だから,落ち着いて彼が何らかの方針を提案するだろうと考え,大人しく待っていたのだった。
ところが,雫の方に視線を向けることもなく黙り続け,目に見えて様子がおかしくなっていく。数年の付き合いになる雫も見たことのない様子。それもそうだ,この状況は明らかに異常である。異国の地,周囲は海に囲われ,自分たちはさらにその一部に囚われて身動きが取れない。もちろん,インターネット回線から孤立している。そこまで考えて,ようやく雫は峡のその様子に解を得た。恐怖だ。その瞬間,雫も平静ではいられなくなった。よく考えれば当たり前のことなのに,想定していなかった急展開に正常な判断能力を奪われていたことに,雫も今更に気づく。
二人を襲っていた正常性バイアス。緊急事態と言ってもなんとかなるだろう。そんな甘いことを考えていた。何かと言って頼りになる先輩がいたから安心していた?先輩がこんなに取り乱すほど自分は負担をかけていたのではないか?この人は思慮深く想像力も鍛えられているから,あらゆる不安を想定しているに違いない。雫も自分のネガティブな思考に飲み込まれていく。今まで当たり前のように待ち構えていた”明日”が,あんなに来てほしくないと普段思っている明日がとても遠くに思えて,日常が暗闇に閉ざされて。雫の孤独感がピークに到達したとき,思わず彼女は呼んでいた。
「先輩!」
雫の呼びかけに対して,峡は即座に答えてきた。それも,極めていつも通りの彼の振る舞いを再現して。そんな彼を見て,雫は思ったのだった。ああ,やっぱりこの人は頼りになるなぁと。
素っ気なくも,申し訳なさそうに峡がいう。
「……救われた」
「お互い様ですね」
そう,お互い様なのだ。
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二人からは先ほどの賑やかさが失われてしまったが,黙々と浜辺に集まっている物資を探すことに集中できていた。ある意味,先程までのそれは空回りだったのだろう。
「先輩!ペットボトル見つけました!」
「やったぜ!水をためてすぐ火起こし挑むぞ」
サバイバルの火起こしには大きく分けて2通りある,そう峡は語る。
「真っ先に思いつくのは木の棒を木の板にこすりつけるあれだろうけど,特殊部隊出身のおっさんがめちゃくちゃ苦労しているのを,俺は数え切れないくらい見てきた。ここは乾燥している気候ではないし,俺には無理だろう……一応きいてみるが,雫の火起こしのレベルは?」
「私はレベルNullです」
「そうか,試すのも体力を消費するだけ無駄だろうから2つ目を採用しよう。2つ目は,こすらない方法だ」
「そうでしょうね」
「……凸レンズ的なものを使って太陽光で火をつけようって作戦だ」
「あー,それは見たことありますね。ペットボトルとか,ビンとかのこう丸くなっているところでやるやつですよね」
「そうそれだ,しかし懸念事項が一つ」
「昇先輩,キレイな夕日ですね」
「そうだな,雫。真っ赤に燃えてやがるぜ」
陽はすでに傾いている。この日光の強さだと,凸レンズで集光したとしても火を起こすには至らないだろう。
「陽はすでにサンセット,私らのサバイバルもゲームセット♪」
「雫,ここでおかしくなったらおしまいぞ?」
「普段はがまんできるのに……」
「テンションのおかしさが完全に進捗発表の前日の深夜のそれだな」
峡は,いつも親の仇(両親ともに元気である)のように憎んでいた進捗発表を恋しく思う。そんな無駄口を叩いている間にも陽はどんどん落ち続けていく。日没まで1−2時間と言ったところだろうか。
「峡先輩,マジでやばいです」
「そうな,とりあえず次だ。水・シェルター・食料。どれいく?」
「私見つけました。ココナツです」
「でかした後輩」
「日頃,可愛い先輩を可愛がっている善行が報われましたね」
「可愛い先輩を尊敬して敬っていれば今頃ホテルでのんびりしていたな」
「絶対ウソです」
そう軽口を叩きながらココナツを収穫しに向かう。2人で3つ。一晩越すことを考えれば,十分ではないが大きく不足はしていないだろう。
「よし,次だ。シェルター」
「洞窟とかですか?即席だと」
「それはありだろうなぁ,あれば」
「森の中は論外ですか」
「探しに行くのはリスクが高すぎるだろうな。あ,思いついた」
「聞こうじゃないですか」
「ハンモックを作ろう。さっき漁網拾ったよな。あれを,こう,木の間に吊るせば,はいハンモック。問題は1組しかないことだ」
そう言って2人で適当な太めの木を1組探し,網をひっかけて念入りに結んでいく。体重をかけてみても,軋みこそするが折れたりする様子は見られない。その様子を見て峡は少し安心する。何とか完全な暗闇になる前にしなければならないことは済んだ。問題は,
「良かったですね先輩。かわいい後輩と同衾できますよ」
「……しょうがないな」
あっさり一緒にくるまることを許容した峡に,雫は思わず驚きの顔を向けた。峡はとにかくそういったことを全力で避ける傾向にあるのだ。大学生のサークルなのだから,飲み会での回しのみは当たり前,酔い潰れれば異性の部屋に複数人で押しかけてそのまま泊まることだってザラにある。最初は抵抗を示す--もちろん望んでそうなるものもいる--も,一年経たずにそんな感覚は忘れていくものだ。その中で,峡と同じ部屋で寝たことは雫はなかった。同じグループに属しており比較的絡みも多かったが,峡が他人の部屋にいくときは必ず夜通しゲームするか,勉強するか。少なくとも異性がいたら寝ずに帰っていたのだ。
雫は,峡のこの振る舞いは,彼の異性関係における極端に低い自己評価と強い自意識にあると思っていた。つまり,潔癖だったりするわけではなく「自分なんかが異性と同じ部屋で寝たりして,気があると思われたりしたらキモいと思われるだろうから嫌だ」ということだ。
本人の深いパーソナリティに関わりそうだったため,さすがの雫もこれまでからかったりしてこなかったが,今回は突いてみることにした。
「あんなにも異性と同衾することを回避していたのに,どうしたんですか?もしかして本当に私と一緒に寝たくてそれを隠す余裕もないんですかぁ?」
「オタク特有の早口で煽らないで。今回それで良いと思ったのは,ただ……」
「ただ?」
「……雫ならそういうことをしても俺が勘違いしてるって勘違いしないだろうから」
ああ,この人は自分の思った通りなのだなとこの時雫は思った。思慮深く,誠実で自分の嫌なところも優れているところも客観的に判断できてしまえる。それゆえに自信がなく,異性関係について踏み込めてこなかったのだろう。雫は,峡の人格に少し詳しくなったのを嬉しく思いながらも,本人はきっと気まずだろうと思い,精一杯気を利かせてこう言った。
「安心してください。私,モテるので勘違いなんてしないですよ?」
峡は後輩の気遣いか事実か判断の難しい返事に,苦笑いを浮かべることしかできなかった。
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