第2章 記録

2.1節 イベント

 岩壁に囲まれた小さな湾,否,島の内部に位置しているこの泉は天然のプール,そう呼ぶのが相応しいだろうか。直径は 200 mに満たない程で,僅かに水面が揺れている。今,黒髪の朴訥な外見の男がその浜辺に横たわっていた。

「だぁああ! マジで死ぬかと思った……溺死とかホント勘弁」

息を吹き返した男はまだ若く20代だ。しかし年相応に取り乱したのも一瞬のことで,すぐに思案顔になったことから,普段は落ち着いた性格なのだろう。

(ここ,どこだ……。朝起きたら知らない天井だった,なんて話は大学生になってテニスサークルに所属していればよく聞く話だ。……まぁ未だ童貞の僕はそんな経験ないけれど)


 回想。

 彼はサークルの合宿でオセアニア地域の端の方にある離島のさらに船を使って端の方に来たのだ。そこで,スイカ割りをして,BBQをして,ビーチテニスをして……その罰ゲームで宝探し−−なんかキレイなものを海中から探すという馬鹿な遊び−−をしていて……。

「急な流れに逆らえなくて横穴に流し込まれたんだ」

 彼は宝探しの途中で急激な流れに逆らえず,その先にあった横穴に流し込まれ,その横穴の先につながっているこの浜辺へと流れ着いたのだった。

 彼は回想が終わり状況が見えてきたところで少し落ち着いた。

「とりあえず皆のところに帰ろうか」

 大学生のサークル集団など,いい加減なものでいちいちメンバーの点呼をとったりしない。浜辺に流れ着いた男−−昇仙 峡しょうせん きょうの属するテニスサークル ”モナド” も例に漏れず,誰かがいないといったに気づくとしたら彼であり,その彼は今浜辺にいる。よって,もしこの無人島と本島を渡す船に乗り遅れることになれば,ちょっとものすごく困ったことになるのである。

(それにしても,なんでも良いからキレイなものを探すとか,ふざけた罰ゲームだ。要件定義をしっかりしてもらわないと動けないじゃないか。とりあえず雫と役割分担したけれど……)

ビーチに寝転びながら峡は益体のない思考に耽っていたところで気がついた。

 「雫はどこに行った?」


xxx


 雫−−月野雫つきの しずくは峡のペアだったサークルの後輩の女性だ。ビーチテニスのペアとなって負けて,彼と一緒に潜っていたのだから同じように近くに流された可能性は大いに考えられた。もしや,と不安に思ってあたりを見渡せば,幸い 10 m 程 離れた岩場の陰に意識を取り戻した彼女の姿を認め一安心する。

「よ。なんで体育座り?」

「先輩。最近テストだらけで疲れていた上に馬鹿な遊びをさせられたので,やっとできた休息を楽しんでいるんですよ」

 雫は,皆と遊んでいたときにはパーカで隠していた素肌を惜しみなく晒していた。その陶磁器のように白い肌と,艶のあるセミロングの黒髪のコントラスト,そして均整の取れたスタイルに峡は思わず美しいなと思ってしまう。

「先輩?」

「……あぁ,学部生はテスト大変だよな」

 峡は努めて平然と返答した。万が一にも,見惚れていたなどと看破されるという恥ずかしい思いはしたくない。

「です。で,現役JDの水着姿を視姦した対価や感想はないんですか?」

「視姦言うな」

「全くこれだから。一体,昇先輩は大学院で何を学んでいるんです?」

「タンパク質だよ」

「そういうことじゃないです。今のは反語的用法」

「……」

 結果として,峡は黙らされることとなった。これ以上会話を続ければ,容姿淡麗だが底意地の悪いこの後輩から,さらなる口撃を受けることが容易に想像できたからだ。峡は自分に戦略的撤退であると言い聞かせたようだ。一方で,自分の勝利を感じた雫は機嫌良さげに立ち上がり,膝にかけていたパーカをふわりと羽織りながら言う。

「昇先輩いじめたのでMP回復です。皆のところに帰りましょうか?」

「そうな。取り残されたら,それこそ洒落にならんし。後,雫。先輩をポーション代わりに使うのよしなさい」

「連絡はできるんじゃないですか? 後,そういうことは立派な男性になってから言ってはいかがです?」

「端末はカバン。後,俺は学士をもっているし,後数ヶ月で修士もとれる。立派だろう」

「うゎ,インターネット回線につながっていないなんて役立たずです。そしてその油断から昇仙峡は修士号取得に失敗するのであった」

「縁起でもないナレーション入れるな」

 じゃばじゃばと浅瀬を歩きながらの軽口の応酬。雫が,サークルでは活発ではないが,特段地味でもなく上手くやっている #傍点# のを峡はよく見ている。また,その見た目からよく周囲の男性に言い寄られるようだが,当たり障りのない対応で躱し続けていた。そんな彼女は峡だけに対しては,こうして軽口を叩いてくれることを非常に嬉しく思っていた。また,雫も同様に,隙あらば口説こうとする大学生連中に辟易としていたため,過度に距離を詰めようとしない昇に対して心地よい信頼感を抱いていた。顔見知り以上友達以下。親しい間柄でもないが互いに踏み込まないことで逆説的に安堵を得る,不思議な関係であった。


「あの。なんか想像以上に深くなっているんですが?」

 確かに,まだ横穴のあると思われる岩壁まで半分程度しか近づいていないのに,既に海面は腰程になっていた。都合が悪いのはそれだけでなく,

「それに,流れに逆らっている感じが否めない」

「どうしましょう? この深さと流れの中,穴の中を泳ぎ切る自身がありません」

「同意。僕は普通に気を失ってこの浜辺に流れ着いたし,もしかしてここから帰るのは無謀か?」

「うーん,かもしれませんね。とはいえ,一応壁までは行きましょうか」

 峡はその雫の提案に同意し,途中からは壁まで泳ぎ始めた。流れは強くないが,足がつかない深さであるようなので,先程までのように会話はない。黙々と泳ぎ続け,浜辺からは 50 m 程のところで,ようやく壁にたどりついた。そこから2人は二手に分かれて壁沿いに移動し,例の横穴の位置を探し始めた。

「雫!」

 峡が横穴を見つけたらしく声をかけた。雫はその声に反応し,峡のもとまで泳いでくる。その泳ぎはなめらかなことに峡は感心した。

「泳ぎ,うまいのな」

「そこそこです。それより?」

「あぁ,あったよ横穴。でも深い。5 m くらいあるかな?」

「なるほど……私,ちょっと潜ってみます」

「おい!」

 峡の静止を無視して,ためらいなく潜った雫。峡が水中を眺めると,あっという間に穴のもとまで到達し,こちらを振り返ると,穴の方を指差すジェスチャーをしている。峡はそのジェスチャーが穴を指し示しているだけだと解釈し,OKサインを返すと,雫は穴に入ろうとし始めた。それを見た峡は慌てて,潜り始めるようとするが,雫はすぐに穴から放り出され水面へと浮上してきた。

「なんださっきのは! 危ないだろう!」

「昇先輩だってOKサイン出したじゃないですか!」

「そんな危険なサインした覚えはない! ……それで,中はどうだった?」

「それが,流れが強すぎて簡単には進めそうにありませんでした」

「そうか……とりあえず,浜辺まで戻ろうか」

 無言で引き返す二人。足がつく浅瀬に戻って来たが,先ほどのような会話はない。おそらく2人とも同じことを考えているのだろう。浜辺に戻り,みんながいるだろう方向を見る。スタジアムのように目の前を覆う断崖絶壁,左右に切れ目はなく,左岸はそのまま海へ,右岸は険しい森に覆われている。背後を振り返っても鬱蒼とした林が茂るばかり。

 そう,この状況は誰がどう見たって,

「……詰んでる?」

 詰んでいた。


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