第184話 稀代の英雄


 帝歴一七八九年十二月一日。先月末に創設された国民衛兵ガルド・ナオシナルの反乱鎮圧軍総司令官となったマコーレ=ド=バルジャン中将は、幕僚としてオーギュスト=ランベール准将を迎え、セレス=ダントリク大尉を副官とする人事を十人委員会に要請した。


 むろんオーギュスト=ランベールは十人委員会に議席を占めるファーブル=ランベールの弟であったから、十人委員会はこれをバルジャンのおもねりと捉え、すぐに承認。したがって彼には危険性が無いと考え、セレス=ダンドリクの副官人事も同様に承認をしている。


 それから各地で徴兵された兵二万二千がグランヴィル郊外に駐屯するバルジャン師団の下へ集まり、数だけは三万五千という大軍に膨れ上がった。


 バルジャンは新兵たちに十日間ほど訓練を施すと、彼は自らの軍団を二つの師団と三つの旅団に分け、再編成を行っている。中でもオーギュストには熟練の砲兵を集中的に与え、五千の砲兵旅団を結成した。これこそがダントリク発案による、バルジャン軍団の決戦兵力となるのであった。


 一方キーエフ戦からバルジャンに着き従う八千も、主力となる。

 要するにバルジャンは一万三千の主力と二万二千の予備兵力で、王党派と戦うことになったのだ。


 しかしバルジャンは出撃する当日の早朝、天幕の中でゴロゴロと横になりながら、側に立つ副官のダントリクに、こんなことをボヤいている。

 

「あーあ。ダン坊が女の子だったらなぁー。一も二も無く副官じゃあなく、お嫁さんになって貰うのに」

「ちょっ! な、何を言うだか、閣下! 変なことを言っていないで、早く起きるだよッ!」


 ダントリクが腕をグイグイ引っ張るも、バルジャンはやる気が無さそうに天井を見つめたままだ。


「――いやぁ、ダン坊。数だけは揃ったけど、相手なんてリスガルド軍を加えて十万なんだろ? それを実質一万三千の兵力でどうにかするって、俺ぁヴィルヘルミネ様じゃねぇんだからよ……ちょっと無理なんじゃないかなぁ~~~今から退役出来ないかなぁ~~~」

「出来るわけないべ! わがまま言ってないで、早く起きるだ!」

「なら、ダン坊が女の子になってくれたら起きりゅ~~」


 ダントリクの黒縁眼鏡がズルリと落ちて、どうしたものかと美しい顔が引き攣っている。バルジャンのことは敬愛しているが、近頃は彼の愛情表現が本気とも冗談とも分からなくなってきた。しかも恐ろしいことに、自分も少し「あ、バルジャン閣下ならいいかも」と思い始めている。


 ――オラは男だッ! それを忘れちゃなんねぇだッ!


 自分に言い聞かせつつも女の子になってしまいそうで、ダントリクはとても不安だった。

 そんな少年の無垢な葛藤など知らず、バルジャンはゴロリゴロリと寝台の上を転がっている。


「だいたいだよ、ダン坊、考えてもみてくれ。俺の双肩にランスの未来が掛かっているなんて、あり得ないことだよ。俺なんてほら、道に生えているぺんぺん草さ。だというのに司令官だなんて――……こういうのこそ、ヴィルヘルミネ様の仕事だと思うんだがなぁ。ああ、なんかだんだん胃が痛くなってきた。ダン坊、お腹を擦って」

「か、閣下はオラに、一体何を求めているだかッ!?」

「強いて言うなら、無償の愛かな」


 あの時、ヴィルヘルミネに見せた不退転の決意はどこへやら。朝食の干し肉を齧りながら、「お腹痛い。ダン坊が擦ってくれなきゃ、外に出たくない」などと言うバルジャンは、もはや引き籠りの若者と何ら変わりない有様なのであった。


 ■■■■


「ともかく、新兵の訓練が全然足りん。あれで敵とぶつかったら、肉の壁になるだけだ」


 バルジャンは干し肉を噛みちぎり、不愉快そうに吐き捨てた。


「新兵に関しては、道中で訓練を繰り返すしかねぇべさ。あとは遭遇戦の無いよう、常に哨戒を怠らないことだべな」

「ま、それはそれとして、だ。なぁ、ダン坊――……そもそも、話が出来過ぎていると思わないか?」

「ん、何がだべ?」

「だって考えてもみろ、俺の要求が政府に通り過ぎなんだよ。兵が足りないと言えば徴兵をしてくれて、将が欲しいと言えば、あっさりランベールを将官に格上げだ。もちろん、ダン坊のこともな。ランベールに比べれば目立たないが、ダン坊が伍長から大尉に昇進したのなんて、とんでもない出世だろ? だからさ、ほら、政府の連中――俺の権限を抑えるどころか後押しをしているようで、どうにも気味が悪いんだよ」

「そりゃあ簡単なことだべ。今やバルジャン閣下の名声無しには、王党派とは戦えねぇってことだべさ」

「俺はそんなに大物じゃないって……だからさ、化けの皮が剥がれたら、アギュロンの野郎に断頭台へ送られねぇかなぁって……不安なんだよなぁ」


 こうした現状からバルジャンは、「こんなのおかしい、きっとどこかに落し穴があるに決まっている!」と思い消極的になってしまったのである。


 だがそれでもバルジャンの目的は、国王一家の助命とアデライードの助命に他ならない。それを達成する為には結局のところ、レグザンスカ家や国王を支援する外国勢力を駆逐しなければならなかった。だから、バルジャンはどうしたって前に進むしか無い。


 ダントリクは懐から銀の懐中時計を取り出し、「さ、中将。いつものボヤきはそのくらいにして、六時三十分だべ。進軍開始まで、あと三十分――そろそろ出て行かねぇとな」と強い口調で言った。


「ああ、ちくしょう。分かってるよ。ダン坊、最近優しくねぇぞ」


 寝台から上半身だけを起こすと、バルジャンが栗色の髪をガシガシと掻き回している。


「――んなことねぇだよ。もしもバルジャン中将が断頭台へ送られるようなことになったら、オラが全力で助けるだ。絶対に」

「おう。そいつは頼もしいな、ハハハ! なぁ、ダン坊。国王陛下をお救いし、レグザンスカ家の人々の命も救うなんて難事業が、俺なんかに本当に出来ると思うかい?」

「いまさら何を言うだか。閣下に出来なきゃ、他の誰にも出来ねぇことだべさ」


 バルジャンは暫しの間目を瞑り、膝に手を付き立ち上がる。


「――……おし! じゃあ進軍すっか! 超怖いけど!」


 ダントリクの黒髪をポンポンと叩き、それからバルジャンは颯爽と天幕を出た。そこには彼の愛馬が既にいて、幕僚達が整然と並び、彼に敬礼を向けている。

 

 このときバルジャンは訓示など、一切しなかった。ただ騎乗して、大きく右腕を掲げただけである。そしてそれを振り下ろし、西へ向けて進軍を開始した。


 もちろんバルジャンの内心は、ビビリまくりだ。怯えに怯えていたと言っても過言ではない。だから震える声で訓示など、出来なかっただけなのだが……。

 しかし彼の幕僚達は無言で進軍を開始した司令官の姿が、いつまでも目に焼き付いて離れなかったという。

 

「――ランスの英雄」


 誰もがバルジャンの背中に、そうした夢想を抱いていた。それはオーギュストとて例外ではなく、「彼ならば、きっと何とかしてくれる」と信じることが出来たのだ。

 事実バルジャンは、このあと破竹の快進撃を続けるのであった。

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