第138話 ヴィルヘルミネにはお仕置きを


 十月二十一日、アルザスの司令部へ戻ったヴァレンシュタインは机の上に地図を広げ、じっと眺めていた。秋の穏やかな午後の陽光が窓から入り、床の上に長方形の日だまりを作っている。

 

 近くには椅子の上で静かに本を読むルイーズが、床に届かない足をブラブラさせていた。一見すると遠征先の将軍父子とは思えない、平和な光景が広がっている。


 だがヴァレンシュタインの脳内では、すでにヴィルヘルミネとの駆け引きが始まっていた。たとえ赤毛の令嬢が全く意図していないとしても、彼女は既に先手を打っている。受けて立たねばならなかった。


 ――ニームを奪われれば海路による補給が断たれ、陸路も寸断される。となればアルザスに孤立した我等は、干上がるしかなくなるわけだ。

 すると我等の選択肢は、自ずと二つに絞られる。一つは撤兵。もう一つは、ニームを奪還することだが……。

 

「どちらにしろ主導権を奪われた状態と言うのは、面白く無い。私がどちらを選択するにせよ、ヴィルヘルミネは容易く対処が出来るのだからな」


 近くのルイーズにさえ聞こえない程度の声で、ヴァレンシュタインは一人ごちた。


 一方で、ヴィルヘルミネは『特使』という役割を持っている。ならば一定の優位を確保した今こそ、交渉を持ちかけて来る可能性もあった。

 どちらにせよキーエフ軍による今までの圧倒的優位が、ヴィルヘルミネの登場によって崩されたことは確かである。


「イシュトバーン少佐が戻りました」


 副官の報告に短く「入れ」と応じて、ヴァレンシュタインは従卒にコーヒーを二杯分、用意するように命じた。血を分けた弟を特別扱いするつもりは無かったが、それでも強行偵察は危険な任務だ。労いの気持ちを、少しでも形で示したかった。


 執務室の端にある応接用のソファーに、ヴァレンシュタインとイシュトバーンが向かい合い座っている。目の前のテーブルには供されたばかりのコーヒーが置かれ、湯気を立ててた。

 イシュトバーンは兄の気遣いを感じて、小さく微笑んでいる。


「ご苦労だったな、イシュトバーン少佐。で、結果はどうだ?」


 ヴァレンシュタインはスプーン一杯分の砂糖をコーヒーに入れ、混ぜながら問うた。


「はい。閣下の読み通りランス艦隊はヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントの指揮下にあり、ウィーザー提督は敗れ、捕虜となっておりました。

 とはいえ虐待などとは無縁で国際法に則った捕虜の待遇を受けており、この点に関する限りご心配には及びません」


 コーヒーを混ぜる手を止め三秒ほど沈黙をした後、ヴァレンシュタインはやっと声を出して。


「そうか……ではヴィルヘルミネの親書に嘘は無かったわけだな」

「はい。確かに彼女は、交渉も望んでいるのでしょう」


 ヴァレンシュタインは苦笑を浮かべ、歳の離れた弟の言わんとする意味を察した。


「なるほど、交渉も――か」

「はい。彼女は我々に交渉を求める一方で、ニームの北に防衛線を築きつつあります。詳細な地図を作りましたので、ご覧ください」


 イシュトバーンは懐から二十枚に近い紙片を取り出し、テーブルの上に広げて見せた。そこには複雑な地形のみならず、塹壕や大砲の位置までもが正確に描き込まれている。


「なるほど。彼女は戦略上の要衝であるニームを私が捨て置かぬと考え、それを餌に要塞へ誘き出すつもりらしい。あるいは要塞攻略の不利を察した私に捕虜をチラつかせ、優位な立場で交渉を行い停戦に持ち込もう――という目論見もあるのかも知れんが」

「小官も、そのように考えました」

「やれやれ、どちらにせよ悪辣なことだ。とても十三歳とは思えんぞ」


 ヴァレンシュタインは溜息を吐き、残り少なくなったコーヒーを飲み干した。


 そこへトコトコとやってきたルイーズが、腰に手を当て怒っている。


「イシュトバーン! あなたが重要な情報を持ち帰ったのは分かったから、早くわたくしのお守り、返して下さらないかしらッ!?」

「あ、ああ……ルイーズ、助かったよ。これのお陰で命拾いをした」


 イシュトバーンは腰から気持ちの悪いウサギのお守りを外すと、立ち上がってルイーズに手渡した。


「命拾い? 何か危ない目に遭ったのですの?」

「ああ、ちょっとヴィルヘルミネに目を付けられてね。相打ち覚悟で撃ち殺そうかと思ったけれど、彼女がコレに目を止めてくれたお陰で、九死に一生を得た。公衆の面前で銃を撃たなくて済んだよ」


 イシュトバーンは緊迫した場面を回想している割に、恍惚とした表情を浮かべている。赤毛の令嬢の美しさを思い出すと、つい胸に熱いものが込み上げてくるのだ。


「え……ヴィルヘルミネに会いましたの?」

「会った――……というより、沿道で彼女を見ていたら、あっちから近づいてきてね。恐らくは正体も見破られて、メッセージを託されたんだ」

「どういうメッセージですの?」

「もうすぐ、この戦も終わる――だ、そうだ」

「そりゃあ、戦は終わるのでしょうけれど……」


 ルイーズはウサギのお守りをギュッと胸に抱き、かつての思い出を振り返る。そもそも呪術師シャーマンのお守りを知ったのは、フェルディナントの公宮にある図書館であった。

 そこでヴィルヘルミネと二人、幼いルイーズは呪術師シャーマン魔術師ソーサラーについて色々と調べていたのだ。それが切っ掛けでルイーズは、オカルトに興味を持ったのである。


「ミーネ、あなたのすぐに飽きる癖は、良くありませんわ。だいたい何ですの、このわたくしが九十五点というのは! どうせなら百点になさい、百点に! そもそも遍く世界と言うものは――……」


 という話をした翌日、ルイーズば落し穴に落とされたのであった。


 ルイーズの追憶を他所に、ヴァレンシュタインは顎を手で撫でている。ヴィルヘルミネの言葉の意味を、吟味していたのだ。


「なるほど。それは戦場で私を倒すと、宣言したようなものだ。この要塞には、それだけの自信があるのだろう」

「はい。確かに突貫工事とは言え、この要塞に攻め込むのは危険です。ですからここは誘いに乗る必要などなく、いったん本国まで退き、春を待って再侵攻なされば宜しいかと存じます、閣下」


 イシュトバーンは緊張を孕んだ視線をヴァレンシュタインの双眸に向けて、諫言をした。


「そうもいかないさ。それでは遠路はるばるランスまで遠征をして、ただヴィルヘルミネに名を成さしめただけ、ということになる。皇帝陛下に申し開きも出来ないだろうね。つまり私には、彼女の挑発に乗る以外の選択肢が無い――という話さ」

「し、しかし! いや、でしたらせめて、会談をお受けになれば宜しいのでは!?」

「それでは夏からの成果を全て手放し、帰国の途につくというだけの話。到底、受け入れられるものではないさ。どうあれ私は彼女と戦い、勝たねばならないのだよ」


 肩を竦めるヴァレンシュタインは、さらに言葉を続けていく。


「けれど、それが即ち私の敗北を意味するものではない。イシュトバーン、よく、この地図を持ち帰ってくれた。確かに彼女は堅牢な要塞を築こうとしているが――……しかし残念ながら、これには弱点があるのだよ」


 それまで複雑なパズルを前にした時のように、顔を顰めて地図を眺めていたルイーズが、パッと表情を明るくした。


「――ここですわね、お父様! この高地さえ獲れば、敵の陣営を一望に見渡せますもの! そして全ての戦線を維持しようと思えば、敵はここに過大な兵力を置くことが出来ないのだわッ!」

「その通りだ、ルイーズ。ヴィルヘルミネがここを守り切るには、兵力が少なすぎる。相手が私でなければ、それで十分だったかも知れないが――……」


 ヴァレンシュタインは立ち上がり、副官に出撃の準備を命じた。けれどルイーズが、震える声で父を呼び止め……。


「お、お父様! で、でもでも――……勝つからと言ってヴィルヘルミネのアンポンタンを、こ、ここ殺したりは、なさりませんわよね!?」

「さあ?」

「さあって、お父様! ミーネはお父様のお友達の娘ですのよッ!?」

「分かっているよ、ルイーズ。もちろん私だって彼女とは、交渉しようと思っているさ。けれど、その前に立場の違いを分からせてやる必要があってね。何より悪戯好きの悪い子は、一度しっかり叱ってやる必要があるのさ」


 オールバックの朱色髪を撫でつけ、ヴァレンシュタインは琥珀色の瞳に不敵な色を滲ませる。

 ルイーズは「いたずら……」と一言呟き、よろけて窓辺に手を付いた。考えてみれば自分自身ヴィルヘルミネの悪戯で、いったい幾度、煮え湯を飲んだことであろう。


「ですわね、お父様! 悪戯好きのヴィルヘルミネには、キッツイキッツイお仕置きが必要なのですわ! さあ、出撃しましょう! えいえいおー!」


 ついつい拳を天高く掲げ、勝利を祈願するルイーズなのであった。

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