第95話 キーエフ方面軍
ランス国民議会によりキーエフ方面軍最高司令官となったガスパール=ド=シチリエは、その任をもって大将へと昇進した。
つい一月前までは無役の予備役中将であり、グランヴィル郊外にある邸で革命の恐怖に身を縮め震えていただけの男が、思いがけない出世をしたものである。
シチリエは伯爵位にあり、黒髪で中肉中背の一般的な人物だ。元より彼は伯爵家の長男として生まれていたから爵位の相続も順当なものであり、特に苦労をしたわけでもない。
また父が軍の高官であったことから、息子である彼は「必ず勝てる」場所へと送られていた。その結果、大佐に至るまで大過なく過ごし三十五歳の時、准将をもって退役したのである。
それから五年の間に父を失い爵位を相続し、結婚をした。一男一女に恵まれ、良き父であり良き夫となったガスパール=ド=シチリエは、領民にも公正公平なことで知られている。
だからこそ革命の嵐が吹き荒れるランスにあって暴徒に襲われるでもなく、いまだに領民たちからお館様と呼ばれ、愛されているのだろう。しかしながら「不敗」の戦績に示されるような軍事的才能とは、無縁の存在なのであった。
国民議会の議長であるデルボアに招聘されると、当初シチリエは戸惑いを見せている。彼自身にもキーエフ軍を討伐する司令官など、出来るわけが無いと考えたのだ。
しかしデルボアに自身の戦績を見せられ諭されると、勝てるような気がしてきたらしい。何より敵軍が三万に過ぎず、自軍は五万という話が決め手になった。この時にはもう、革命騒ぎに際して怯え部屋から一歩も出ることの出来なかった自分の怯懦する姿など、記憶の彼方に追いやっている。
――つまり彼は、そういう男なのだ。
「よろしい。ヴァレンシュタインめを討伐し、名将の誉れを手に入れることとしましょうか」
こうして四個師団五万の軍勢を引き連れ、ガスパール=ド=シチリエ大将は南征の途に就くのであった。
■■■■
八月中旬、シチリエ大将が麾下五万の将兵を率いてトゥール州に入ると、早々に近隣の村々から代表団が訪れた。彼等が口を揃えて言うのは、「キーエフの無法者共が、物資や食料を税だとぬかして徴発した」ということであった。
むろん代表団が来た目的は、キーエフ軍の苦情を言う為だけではない。このままでは収穫まで食料が持たない、そこを助けてくれという話であった。
「そんな訳ですからランスの軍人さん方、どうか食料を分けてくれませんかね?」
指揮官用の大天幕で、住民の代表者がシチリエ大将に頭を下げている。
居並んだシチリエの幕僚達は口々に「キーエフ討つべし」と叫び声を上げたが、だからと言って食料を放出するよう司令官に意見する者はいなかった。
万が一食料が不足すれば、軍隊などというものは野盗も同然に成り下がる。そのことはシチリエも理解していたから瞼を閉じて鷹揚に頷き、一先ず代表団を下がらせてから会議を開くことにした。
代表団が退出すると、すぐに会議は始まった。
「近隣の住民に物資を行き渡らせた場合、我が軍に残る糧食はいかほどか?」
根本的には他国軍の侵攻に対する民衆の救済こそ、国軍の務め。だからシチリエの方針は物資の放出にあるのだが、どれだけ出せば良いのかが分からない。そこで物資の専門家である兵站部長に問いかけた。
「はっ、幸い我が軍の物資は潤沢であり、近隣の住民に放出したとしても、五日分程度の糧食は確保できるでしょう」
「待て待て、兵站部長。その五日の内に、王都からの補給物資は届くのか?」
シチリエ麾下の師団長が、野戦用の長机を挟んで兵站部長の顔を睨みつけている。
「……すぐに伝令を出しますが、五日では無理です。そもそも我々の補給計画には、物資を放出する予定などありませんからな。とはいえ後方の街や村から買い付け、ある程度の物資を調達することは可能かと」
「それで賄えるのか?」
「足りない、と申さざるを得ませんな。そもそも近隣住民の生活を維持することも考えれば、奪われた物資は余りに多い」
「逆に言えば、敵の物資は潤沢な訳か」
「ええ。ですから一戦して勝利を収め、敵から物資を奪って頂けたら、私としても楽なんですがね」
「しかし飯に不安がある状態では、兵の士気が上がらん……そこを何とかして欲しいのだ、兵站部長」
「まったく、卵が先か鶏が先か――そんな議論になってきましたよ、師団長」
「ああ。困ったことに、不毛だな」
顎を撫でる師団長の横で、一人の人物が勢いよく立ち上がった。彼はデルボア率いる共和党の政治将校で、今回は目付け役のような立場にある。要するに彼が戦場におけるシチリエほか幕僚の働きを記録し、戦後、政府が評価しようという話であった。
「皆様、何を弱気なことを言っているのです。敵は三万で我が方は五万、しかも敵はニームの防衛にも兵力を割いている上、アルザスの正面に布陣しているではありませんか。となれば敵の実数は二万五千にも届かず、挟撃の機会ですらあるのですぞ!
ならば民衆を救い我等の食糧が尽きる前に一戦し、敵を叩き潰してアルザスを開放すれば良いだけの話ではありませんかッ! それをしてこそ、民の為の軍隊というものですッ!」
拳を握り締めて力説する政治将校の目には、狂信的な炎が宿っていた。しかし彼の言う事にも一理あると、この時シチリエは思ってしまう。何より彼はヴァレンシュタインを倒し、自分は名将になれるのだと信じ切っていた。
「うむ――確かにヴァレンシュタインは名将だなどと言われているが、存外と用兵を知らぬな。あのような場所に布陣したままなど、挟撃してくれと言わんばかりではないか」
結果としてシチリエ大将は物資を近隣の村々へ放出し、全軍には五日分の糧食しか残さなかった。五万の軍勢で一戦してヴァレンシュタイン軍を撃破し、アルザスへ入城すれば、全てが解決すると考えたからである。
――だが、そのように思考を誘導することこそヴァレンシュタインの作戦であり、準備なのであった。
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