第14話 軍事訓練


 エルウィンが公都バルトラインへ到着したのは、十月十六日のことであった。この頃にはヴィルヘルミネも八歳の誕生日を迎え、宰相ヘルムートもプロイシェ、キーエフを歴訪する旅に出かけている。

 ヘルムートがキーエフに先立ちプロイシェへ赴いたのは深謀あってのことだが、これは彼と内務大臣ラインハルト=ハドラーのみが知るところであった。


 エルウィンが公宮へ赴くと、まずは内務大臣の執務室へと通された。このような情勢下で爵位持ちである貴族の子弟が訪ねてくるのは、ヴィルヘルミネ陣営にとって稀有なことだ。最大限の歓待をすべきだと、ハドラーは考えたのである。

 

 何しろ全体の五分の四がボートガンプ侯爵側に付いたからと言って、残りを全てこちらの陣営に取り込んだ訳ではない。どちらかといえば、残りは日和見である。

 そこにデッケン男爵家の子息が顔を見せたとなれば、内務大臣となったハドラーにとって初めての良い知らせだ。

 

 むろん、こうしたハドラーの反応は、まさにエルウィンの読み通りであった。


「デッケン殿におかれては、せっかくお訪ね下さったのに申し訳ないが――今、ヴィルヘルミネ様は練兵の視察に向かわれている。戻られるのは早くても夕方になるが――……」


 執務室の隅にあるソファーに腰を下ろし、エルウィンに紅茶を勧めながらハドラーが口を開く。と、同時に薄汚れた衣服の若者を見て、軽く眉を顰めている。

 エルウィンはランスから着の身着のまま、ついにここまでやってきてしまったのだ。


「練兵というと、近衛大隊でしょうか? それでしたら演習場も近くですし、こちらから伺いましょう」


 屈託のない微笑を浮かべて、エルウィンが模範的に答えた。これに対し、やや言いにくそうにハドラーは咳ばらいをして……「こほん」


「まず、貴殿の用向きを伺っておきたい。それから、その格好でヴィルヘルミネ様の前に立つのは、いささか……」


 ハドラーとて、衣服に気を使うほうではない。医師として幾日も病院に泊まり込んだことがあるし、その間は着替えだってしていないのだ。

 しかし、そのままの姿で彼が赤毛の令嬢に拝謁したことは無かった。いかに礼節を重んじないからといって、彼はヴィルヘルミネを軽視している訳ではないのだから。


 何よりヴィルヘルミネの安全を考えれば、エルウィン=フォン=デッケンの用向きははっきりさせておきたい。それと同時に、衣服の内に武器などがあるなら、それを携えたまま赤毛の令嬢と会わせてはならなかった。ボートガンプが病室へ武器を持ち入ったことも、まだ記憶に新しい。


「あ……、これは失礼しました、内務卿。本日、僕がこちらへ伺いましたのは、我がデッケン家を挙げてヴィルヘルミネ様にお味方する為でございます。その為にも、急ぎご挨拶をと考えた次第。

 ですが……ははは、確かにこの服では、失礼にあたりますね」


 この時になってエルウィンは、ようやく自らの状況に気が付いた。

 自慢のピンクブロンドの髪はそこかしこで撥ね、縛っている後頭部もむず痒い。士官学校の制服も所々が破れ、ズボンの白い部分など、ほぼ全てが黒ずんでいる。


 自分の全身を見回し、これでよく会ってくれたものだと目の前の内務卿に頭を下げるエルウィン。これに苦笑で応じ、紅茶を啜るハドラーだった。


「なに、夢中になれば衣服など頓着しないものだ。俺も医師だから、わからんでもない。ただ――……ヴィルヘルミネ様に拝謁なさるなら、それは如何なものかと思っただけです。

 ともかく、湯と新しい衣服を用意させましょう。身を清められたら、練兵場の方へご案内致します」

 

 こうしてエルウィンは身だしなみを整え、昼食を公宮でご馳走になった後、改めてハドラーと共にヴィルヘルミネの下へ向かったのである。


 ■■■■

 

 ハムをふんだんに使った美味しいお弁当を食べ、大満足したヴィルヘルミネは、壇上に立って近衛大隊を睥睨している。

 彼女は今、フェルディナント軍大佐の軍服に身を包んでいた。郷に入っては郷に従えというが、これは、ただの趣味である。

 そんな主に付き合ってゾフィーも曹長の軍服に身を包んでいるが、今のところ彼女は特に軍属でもなんでも無い。


 ヘルムートが旅立ってからというもの、赤毛の令嬢は退屈であった。ゾフィーという金髪の親友は常にいたが、イケメンが不足していたのだ。

 もちろんラインハルト=ハドラーがヘルムートの代わりに朝な夕なと彼女の下へお伺いに来るが、隣で暮らしているヘルムートとは比べるべくもない。


 そんな時ヴィルヘルミネは、ヘルムートが軍務大臣を探していることを思い出したのだ。

 彼女としては、少しでも彼の役に立とうという気持であった。色々と本末転倒だが、それはそれとして彼女は近衛大隊に顔を出し、適任者を探せ! とばかりに目を皿にしていたのである。

 

 が――もちろん、すぐに飽きた。

 そして始めたことが、兵隊ごっこである。


 もうこれは、実際の近衛大隊を使うのだから本物の練兵なのだが、八歳のヴィルヘルミネにしてみれば、あくまでも遊びであった。

 しかも元来がイケメン好きなヴィルヘルミネのこと。華美な近衛大隊の制服に身を包む若者達が、みなイケメンに見えてしまったのだ。軍隊って最高! となった。


 まして今の近衛大隊は貴族の士官達がボートガンプ侯爵に寝返り不在だから、ことさら若い平民の下士官達が目立つ。彼らは身長体重容姿に至るまで厳正に選ばれているから、そんな彼らに囲まれて赤毛の令嬢はご満悦。そりゃあ制服の一着くらい、作らせるってものである。


「三列横隊、攻撃準備」


 指揮杖を高々と掲げ、ヴィルヘルミネが言う。それを横に立つ先任軍曹が大声で復唱すると、六百の兵が迅速に動く。


 二百人が横に並び、それが縦に三列の横隊となった。


「射撃用意!」


 戦時には前列が発砲し、その後、後列が前進。後ろになった前列は再び弾を込め、味方の発砲後再び前列へ――という単純な戦法の訓練だ。最終的に敵の陣形が崩れたら、銃剣バヨネットを装着しての白兵戦へと移行する。

  

 なお、ゾフィーとは反対側に立つ先任軍曹だが、彼がまたイケメンだった。

 赤と白と紺を基調とした華美な軍装がよく似合う、二十四歳。百九十センチに近い長身にして右目が金、左目が緑色というオッドアイだ。

 彼は丈の高い軍帽を常に被っているが、その両脇からは褐色の髪がワイルドに伸びている。


 彼こそまさに精悍を絵にかいたような男だが、しかし緻密にして綿密な軍事行動にも定評があり、とにかく隙のない人物であった。

 その名はトリスタン=ケッセルリンク。彼こそヴィルヘルミネが近衛大隊に毎日通う大きな原因となった、九十四点の男なのである。


 今も全てヴィルヘルミネの用兵のようでいて、事前にトリスタンが決めたことを彼女が言っているだけのこと。それでも赤毛の令嬢としては自分の声で大勢の兵が動くから、とても面白いのだった。

 

「方陣」


 再び号令――横に伸びた兵士たちが一片を百人とした正方形を作る。その内側にいる二百人は本陣であり、予備兵力であった。これは、騎兵突撃や敵の総攻撃に備えた防御陣形である。

 これを見て満足気に頷くヴィルヘルミネの耳に、いきなり拍手の音が聞こえてきた。


「いや、お見事、流石はヴィルヘルミネ様。まさか――本当に軍事の天才でいらしたとは。素晴らしいです!」


 午後の陽光を背中に浴びて、ヴィルヘルミネがいる壇上へと続く階段を上るこの男。その様は、まるで処女受胎を告げる大天使のように美しい。


 いや待て、天使なら空から降ってくるはず。じゃあ、これ悪魔? などと首を傾げた赤毛の令嬢の小さな胸は、突如現れた新種のイケメンにより早鐘のように鳴っている。


 それ程までにピンクブロンドの髪色をした少年を、一目見ただけでヴィルヘルミネは気に入った。そして隣に立つゾフィーの手をギュッと握り、囁く。


「イケメン、ゲットである」

「は……?」


 ゾフィーは目を瞬いて、愛らしい主の横顔を見る。そこには凛とした無表情があり、「ああ、空耳か」と彼女は一人、納得をして。

 風雲急を告げる情勢の中で、ヴィルヘルミネにはまだ、一切の緊張感が無いのだった。

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