第9話 そうだ、追放しよう


 ――ぱちこーん!


 ヴィルヘルミネの小さな手に打ち抜かれ、ボートガンプ侯爵のたるんだ頬がブルンと揺れた。後には紅葉のような赤みが頬に残り、カール叔父さんは屈辱に坊主頭を震わせている。

 息子のオットーは何が起きたのか分からず、しきりに首を左右へ傾げ、鼻水を垂らし指を咥えるだけであった。


「そのようなこと、余が許さぬ」


 ヴィルヘルミネが言った。燃えるような赤毛が逆立つ程の怒りを滾らせながらも、なお冷然とした紅の眼差しで、自分よりも遥かに年長の男を見つめている。異論、反論の一切を許さぬ――断固たる決意が彼女の全身には漲っていた。


 後世、悪女とも覇者とも英雄とも言われるヴィルヘルミネだが、どのように言う歴史家も彼女のことを絶世の美女と讃える。それは単に姿形が美しいからでだけではなく、彼女の放つ烈火のような雰囲気にも原因があるのではないか。その原型が今、この時にも見ることができた。


 そんな赤毛の令嬢を支えるヘルムートも、平民でありながらボートガンプ侯爵を見据えている。ともすれば無礼だと言われ、首を切られてもおかしくない状況で、だ。

 何しろ彼は主君の命令も無くヴィルヘルミネを持ち上げて、侯爵たるボートガンプを引っ叩く幇助をした。貴族社会においては立派な犯罪となろう。

 だが彼もまたヴィルヘルミネの熱気に当てられ、既に彼女の熱烈な信奉者となっていた。だから主君の為ならば、何でもするという覚悟が備わっているのだ。


 ボートガンプ侯爵は眼を血走らせて、まだ幼い姪を睨む。


「そのような我が儘を言うものでは無いよ、ヴィルヘルミネ。それが公国の為、ひいては父上の為なのだから」

「ならば、余が摂政となればよいであろう」


 ヘルムートに降ろして貰い、床を踏み鳴らして歩く。ヴィルヘルミネは、未だ憤懣やるかたならぬ――と言った様子であった。

 なぜ自分が十八点の男の妻になる必要があるのか。どうして二十五点の男を父と呼ばねばならぬのか――そんな事は絶対に嫌だと思っている。

 ただそれだけで、摂政の意味など少しも理解していない。何でもいいから理由を付けて、婚約を回避したいと考えているだけだ。


 一方ヘルムートはヴィルヘルミネが国家の行く末、政治を心配しているのだと思っていた。そしてそれも、いまヴィルヘルミネが言った言葉で解決出来るから、流石はヴィルヘルミネ様! 天才です! と内心、手放しで褒め称えているのだった。


 だがボートガンプ侯爵は口の片端を吊り上げ、「そんなことが出来るわけが無い。子供の戯言に付き合っている暇などないのだ」と吐き捨てている。


「兄上からも言って下さい。これは国家の命運に関わることなれば、早急に纏めた方が良い縁談なのですぞ」

「……ッ!」


 フリードリヒは心臓を抑え、苦し気な呻き声を漏らした。確かに現状では、弟の提案を拒むことが出来ない。何しろ今の自分では、公爵としての務めを果たせないことなど明白だ。

 しかしだからと言って甥を公爵にしても、結局のところ実権は弟が持つに違いない。となればフェルディナントは軍国プロイシェの尖兵となり、共和派との争いに巻き込まれることは必定だった。


 そうなったとき、軍国が勝てばまだ良い。もしも共和派が大陸を席巻したら、ヴィルヘルミネはどうなる――フリードリヒは、もう一度苦しそうに呻いた。

 

「ふ、ふはは、ふっははははッ!」


 その時、場違いな笑い声が黒髪の家庭教師から発せられた。思わずラインハルト=ハドラーさえ顔を顰め、「おい……」と窘める。


「いや、失礼……ふははッ」


 優雅に一礼しながらも、なお笑いを収める気配を見せない紫眼のイケメンは、側にいた金髪の少女に問いかけた。


「ゾフィー、一つ問います。なに、さして難しい問題ではありませんよ」

「何でしょうか、先生」


 不思議そうな顔で師を見上げる金髪の少女。彼女の紺碧のような瞳には、深い知性が宿っている。


「公室典範において、摂政の年齢は定められていたでしょうか?」

「……いいえ。公爵が公務に重大なる支障をきたす場合には、最も近しい親族が摂政となり、これを支える――とあるのみです、先生」

「よろしい、ゾフィー。正解です」

「では、もう一つ質問です。現在ヴィルヘルミネさまは七歳と十か月ですが――摂政となるのに問題はありますか?」

「いいえ、先生。年齢の下限が無い以上、現在もっとも公爵閣下と近しい間柄にあられるのはヴィルヘルミネ様です。であれば、何ら問題は無いかと」


 ここで後に「絶対零度の宝剣」と呼ばれ近隣諸国に恐れられるヘルムートの、その片鱗が顔を見せる。彼は端正な唇を大きく横に広げ、三日月のような笑みを作った。そして自身よりも遥かに身分の高い侯爵、ボートガンプの肩を叩いてみせたのだ。


「おわかりか、侯爵閣下――この場で最も摂政に相応しいのは、現在ヴィルヘルミネ様をおいて他に、おられないのです。――つまり我が儘を仰っておられるのは、あなたの方だッ!」

「なッ……貴様、平民の分際でッ! その口、封じてくれるわッ!」


 瞬間、とっさにボートガンプが懐から短剣を取り出した。煌めく白刃が、ヘルムートの腹部を狙う。だが、このような場所で刃物が出てくるとは、あって良いことでは無かった。

 恐らく、最悪の場合は兄を殺傷しようと考えていたのだろう。でなければ、公爵の寝室には寸鉄すら帯びることは許されないのだから。


 ヴィルヘルミネはこの時、全てがスローモーションに見えていた。人は危地に陥ると、そうした現象が起こる。それほどまでに彼女にとってヘルムートは、一心同体の存在なのだ。


 しかしだからといって、彼女はイケメンが好きなだけの凡人である。いくら周囲から神童と呼ばれていても、あくまでも呼ばれているだけのこと。現状に対処のしようもなかった。そこで苦し紛れに彼女は言ったのだ――「ゾフィー、ヘルムートを助けよッ!」と。


 もしも赤毛の令嬢に非凡な点があるとすれば、それはいかなる時も表情が変わらず、どんな時も威厳に溢れた声、ということだろう。

 この時も、本来ならばただの無茶ぶりであった。にも拘わらず金髪の親友はヴィルヘルミネの命令を、為さねばならぬ至上にして絶対のこと――と認識したのである。


「はい、ヴィルヘルミネ様ッ!」


 頷くが早いか、黒髪の師につき出された侯爵の腕を掴むと、ゾフィーはそのままブンと投げ飛ばす。相手の力を利用したとはいえ、七歳にしてすさまじい体術の冴えであった。


「あ……出来ちゃった」


 そう言ったゾフィーの声は聞こえない。だが、この時初めて彼女は自分の役割を決めたのだ。ヴィルヘルミネ様の剣に、盾になろう――と。


 東方産の柔らかな絨毯の上に華美な装飾の施された短剣が落ち、ゾフィーは事も無げにそれを拾い、主であるヴィルヘルミネへと渡す。

 この時にはもう、いつもの落ち着いたゾフィーの姿であった。


 短剣を受け取ったヴィルヘルミネは、それを叔父に向けて言う。「我が公宮より、出ていけ」と。


 侯爵は腰を擦りながら、息子を連れて病室を去る。その目は憤怒と憎悪に歪んでいたが、幸いというかヘルムートが隠したからというか、これをヴィルヘルミネが目にすることは無かった。


 そして数日後、家庭教師であるヘルムートの助けもあり、ヴィルヘルミネはフェルディナント公国の摂政となる。


 摂政となった彼女の最初の仕事は、ボートガンプ侯爵を公職より追放することであった。これに関して公式の理由を発表することは無かったが、公爵の寝室に武器を持ち込んだことを匂わせ、これを罪に問うたのである。

 重臣達にはヘルムートが根回しをし、これを説明することで彼の追放を実現したのだった。


 もっともヴィルヘルミネが叔父を追放した本当の理由は、また結婚とか婚約とか言われたらたまらないから――というものである。まさか自分が叔父を失脚させてしまったなどと、考えてもいない公爵令嬢なのであった。


 とはいえ、貴族主義の権威として既得権益にしがみ付いていたボートガンプの失脚に、平民達は拍手喝采を送っている。公立の病院を設立したことも含め、ヴィルヘルミネの評判が民衆のうちに高まっている矢先の出来事であった。


 こうして帝歴一七八四年夏――ついにヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントが歴史の表舞台に登場したのである。

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