第6話 父、倒れる!
帝歴一七八四年夏――あと数ヶ月で八歳の誕生日を迎える公爵令嬢ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントは湖畔に設けた避暑の地にあり、そこでイケメン過ぎる家庭教師から耳を疑う情報を聞いた。
「ヴィルヘルミネ様! 御父君、公爵閣下がお倒れになりましたぞ!」
その時ヴィルヘルミネは湖に臨む小さな砂浜に肘掛椅子を置き、その上でダラリと全身を伸ばし、くつろいでいた。しかも冷たい水にチェリーを浮かべ、苺の果汁と蜂蜜を入れた甘ったるい飲み物を飲んでいたのだ。
報告を聞いた彼女は、思わず飲み物を噴き出すところであった。それを裏付けるように、一瞬だけ紅玉の瞳が見開かれている。しかし彼女の変化はそれだけで、結局のところ声すら発さず、大人顔負けの胆力を示したのだ。
これに報告を齎した黒髪の家庭教師ヘルムートは目頭を押さえ、「流石はヴィルヘルミネ様。狼狽えるを良しとせず、このような報に接してさえ、なんと気丈なッ!」と肩を震わせている。
彼はヴィルヘルミネが五歳の頃から仕えているが、近頃は彼女の天才性を信じて疑わない、残念過ぎるイケメンと化していた。
何しろ実際のヴィルヘルミネは、驚きの余り飲み物の上に乗っていたチェリーを飲み込んでしまっただけ。お陰で目をちょっと見開き、そのまま表情が固まって眉間に皺を寄せている――という次第。
だというのにヘルムートときたら、この反応なのである……。
そんなイケメンを見て、ヴィルヘルミネの側に侍る金髪の少女が眉根を寄せた。
「先生――……本当ですか……?」
「このようなことで、嘘をついてどうするのですか」
「そうですね。先生が嘘を言うはず、無いですね」
こう言って俯く金髪少女の名は、ゾフィー。ヴィルヘルミネに親友として遇され、後に「猟犬」の異名で呼ばれる彼女の懐刀だ。
ゾフィーは今、ヴィルヘルミネの親友として白い水着を着用し、彼女の側に侍っていた。水着を着用させたのは令嬢の単なる趣味であったが、このようなバカンスなど初めてのゾフィーは感謝しきりで、さらにヴィルヘルミネへの忠誠心を厚くしている。
ちなみにヴィルヘルミネ自身は未だ女性らしいプロポーションになっていないことを気にして、白いサマードレス姿だ。大きなおっぱいとくびれた腰が羨ましい赤毛の公爵令嬢は、まだ七歳の少女なのである。
さてそのゾフィーだが、近ごろ厚くなり過ぎつつある忠誠心によって、ヴィルヘルミネの表情に僅かながら変化があったことに気付いていた。
もっとも、それがチェリーのせいだとは露ほども思わず、今はしゃがんで主の手を握っている。ヴィルヘルミネが父の不予に対し、心を痛めていると考えたのだ。
何しろヴィルヘルミネの父フリードリヒは、まだ三十代に差し掛かったばかり。昔から強健とは言い難い人物であったが、病に倒れるには早すぎる。
ゾフィーの両親も病弱であったから、ヴィルヘルミネの気持ちが分かるような気がした。であれば今、赤毛の令嬢に寄り添えるのは自分しかいない――と考えている。
もちろん、それは彼女の勘違いだったのだが……。
「ヴィルヘルミネ様」
気遣わし気な声を掛けてくれる忠誠心マックスな金髪の少女に、赤毛の令嬢は自らの手を重ねた。彼女の場合、単にゾフィーの白くてスベスベした手を触りたかっただけだ。幼いながら、変態の素養十分なヴィルヘルミネである。
だが流石に赤毛の令嬢も、父の件に関して考えない訳にはいかない。そして言った。
「大丈夫じゃ。とはいえ――……余暇は、これまでにする他あるまい。父上が倒れたとあらば、の」
ヴィルヘルミネは唇を真一文字に結び、立ち上がる。一陣の風が舞い、燃えるような赤毛を踊らせていた。小さいながらも、この令嬢には既にして覇者の風格が――何故かある。
だが、大丈夫じゃ――の一言は、「チェリー、ちゃんと飲み込んだから」という意味であった。
黒髪の家庭教師と金髪の親友は、そんな主の後ろ姿を見つめ頷き合う。公国の主が倒れたとなれば、何らかの政変が起こるかも知れない。
幼いながら彼等の主は、今の報告にその気配を察し、決然として自らの意思を表明したのだろう。
二人の従者は、こんな時こそお支えせねば――と決意も新たに力強く頷いている。チェリーの件は、まるで気づいていないのだ。
――しかも、当の令嬢が心配していたのは自身のお小遣いについてであった。父が倒れたとあらば、医療費が心配である。これが嵩めば、お小遣いの減額は免れない……と、不安に思っていた。だから、それを阻止する為にこそ帰ろうと決意したのである。
こうした金銭に関するとき、ヴィルヘルミネの思考は早い。すぐに名案を思い付くのだ。彼女は医師であるラインハルト=ハドラーに相談しようと考えた。
ハドラーの医療に賭ける情熱と八十七点の美貌を鑑みれば、きっとタダで診察してくれる――などと破綻した理論が、令嬢の脳裏を駆け巡っていた。
だけど最悪の場合、赤毛の令嬢は彼に対し土下座も辞さない覚悟である。それが彼女の双眸に、決然たる輝きを漲らせているのだった。
「お小遣い、死守」
しかし史書には、このようにある。
ヴィルヘルミネ=フォン=フェルディナントはこのとき、自らが辿るであろう波乱の運命を、まるで自覚しているかのようであった――と。
もちろん史書の原典が、紫眼の宰相ヘルムート=シュレーダ氏の手記によるものであることは、言うまでもないことだろう。
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