ホーリーナイト

Ⅰ ホーリーナイト



国立極地研究所が派遣した第66次極地探検隊が掘削を専門にする民間会社アンドリル株式会社と共同して南極大陸の氷の下、地下5902mから汲み上げた地球温水の中にそれ(、、)は混じっていた。

人間が視認できない小さな小さなアメーバだったそれ(、、)は、運良く極地探検隊の検体材料となる事もアンドリル株式会社の掘削ドリルの餌食になる事も免(まぬが)れた。汲み上げた地球温水は、保管する器に移される前に揺れるローダーの運動で零(こぼ)れ落ちたからだ。巨大掘削機と自働ローダーを駆使して汲み上げられた5380ℓという膨大な水量にすれば僅(わず)かな零れだった。第66次極地探検隊とアンドリル株式会社の誰一人にも、零れた一部を気に留める者はいなかった。


第66次極地探検隊とアンドリル株式会社はみずほ基地にベースを張って地球の掘削を行っていた。みずほ基地は建造が古く、今では中継基地として利用されるだけの設備の不十分な基地だったけれど、設備の行き届いた昭和基地よりも内陸側にあるため、地球を掘るならなるべく大陸の中心でという国立極地研究所の指令でそこを拠点にした。

みずほ中継基地近くの、見渡す限り寂滅とした氷原に堕とされたそれ(、、)は、羊水(ようすい)の様な温かい地球の水の中から地表に放り出されて初めて剥(む)き出しの世界に曝(さら)された。

(自分は消えてなくなるかもしれない)

それ(、、)は思った。アメーバ状の身体のどこにも思考する器官は無かったけれど、生命(いのち)という体感覚で思った。

氷点下の空気と暴力の様な吹雪、それに頭上を行き交う巨大な動くものたちの脅威の中で、それ(、、)は初めて死というものを意識した。温かい地球の羊水に包まれていてはとても意識すらできないものだった。極限だった。

地球の羊水の中に死は概念さえも見つけられなかった。


南極の様な生命を維持する事が過酷な極地では、飢餓(きが)と逆境の極限がしばしば常識を覆(くつがえ)した。

有孔虫(ゆうこうちゅう)が自身よりも何倍も大きな甲殻類の肉を貪(むさぼ)り食っていたという報告例もあった。これは通常ではとても考えられない出来事だった。

有孔虫、例えば観光土産で有名な「星の砂」とは有孔虫であるホシズナの微化石の事だが、その星の砂が蟹の肉を食っていたなどの報告はオカルトと考える方が理に適うけれどそのオカルトは、南極大陸ではしばしば起こる事実だった。

加えてそれ(、、)は元より、地球内部5902mからやって来た常識の蚊帳(かや)の外にある生命だった。

人間が地球に空けた穴で最も深いものは、ロシアのザポリャルニというフィンランド国境に近い土地にある深度1万2000mの穴だった。だがそこからは地層以外には何も目新しいものは発見されなかった。

人間一人も入れないくらい小さな穴だったし、寒い地域だったが極地ではなかったからかもしれない。1万2000m掘っても地球の中にはびっくりする様な物はあまり無い、人間の観測だった。

第66次極地探検隊もアンドリル株式会社の作業員も誰一人、深淵からやって来た液体の散乱を気にも留めなかったのはだからなのかも知れない。

結果として第66次極地探検隊は目新しい成果は何も得られずに、2週間でみずほ中継基地を引き上げ、5380リットルの水を土産に3ヶ月で南極大陸から撤退した。5380リットルの地球の羊水の中には、それ(、、)に似た生命が幾つかいたけれど、南極の風に冷え切った水の中ですべてが死んでいた。


それ(、、)が地表に出て初めて食べた物は単細胞のバクテリアだった。

ただし、極限に曝されたバクテリアだった。極限に曝されたバクテリアは生命力に富んでいた。

生命力の強いバクテリアを摂り込んだそれ(、、)は、簡単に自身のアメーバ状の身体のサイズを増大させた。バクテリアを食べると生きる力が漲(みなぎ)ってくる事を、快感と共にそれ(、、)は体感した。

次に食べた物は、極地探検隊が零したカシューナッツの欠片だった。栄養があるのはわかった。だけどバクテリアを食べた時の様な快感は無かった。

バクテリアは動いていた。カシューナッツの欠片は動かなかった。

(動く物で無ければいけないのだ)

それ(、、)はそう直感した。


みずほ中継基地周辺で世界に零れたそれ(、、)は、辺りのバクテリアをあらかた食い尽くすと移動を始めた。変形体だったそれ(、、)は、自らの身体を連続して変形させる事で移動する事ができた。

移動する先々でバクテリアを食べた。サイズがどんどん大きくなっていった。

移動する距離が延び、時間が短縮された。けれど距離の概念も時間の概念も持っていなかったそれ(、、)は、その事には気付かなかった。ただ目の前を食べ尽くした。

視覚器官は有さなかったから目の前がどちらだかはわからなかったけれど、物質を認識する感覚と意識はあった。けれど感覚をひとつの束にして意味を与えることはできず、何のために摂食するのかもわからなかったけれど、動く物を食べると気持ちが良かった。


それ(、、)が最初の転換を迎えたのは、ノルウェー王室が王太子夫妻の結婚を記念して名付けた海岸近くだった。宇宙の星と同じで、未発見や未踏のものには発見者やその属する組織が氷の大地でも命名権を持った。

250㎞近くをバクテリアを食い尽くしながら移動して来たそれ(、、)は、すでに人間が視認できるサイズの個体になっていた。けれど、時間の概念を持たないそれ(、、)が海岸に着く頃にはすでに、アンドリル株式会社の作業員も第66次極地探検隊のクルーも引き上げた後だったから、まだ幼年体の弱小なそれ(、、)が人間に発見される事は無かった。


海岸には吹雪以外の音があった。聴覚器官を持たないそれ(、、)が実際に聞き分けた訳では無かったが、吹雪の音とは異なる、実体の無い何かが飛び交っている事は感覚でわかった。吹雪はぼうぼう、バクテリアはごそごそ、この音はぴーぴー、そういう風にそれ(、、)は分類した。

音はアデリーペンギンの鳴き声だった。ノルウェー王室の結婚を祝福した海岸には、海岸に寄り集まったアデリーペンギン達の鳴き声が谺(こだま)していた。

音の方に寄ると氷以外の土壌があった。氷の白青とは違う暗い色をした地表だった。

土壌にはバクテリアが豊富だった。初めて氷以外の地表に立ったそれ(、、)は土壌のバクテリアを貪(むさぼ)り食った。

その中に、一際美味しいものがあった。確かな肉の感触があってバクテリアには有し得ない肉体の動きがあった。

それはアデリーペンギンが落としたアンタークティカ・シルバーフィッシュの稚魚だった。個体のサイズはすでにそれ(、、)の方が稚魚よりも一回り以上大きかったから捕食は簡単だった。加えて陸に揚げられた稚魚はほとんど死にかけていて抵抗が無かった。

死体寸前のアンタークティカ・シルバーフィッシュの肉を摂り込んだそれ(、、)は、自身の中にエネルギーが生まれたのを感じた。死体寸前だったけれど、確かな肉体を持つ生命にはエネルギーが流れていた。

摂り込んだエネルギーは力に変換する事ができた。変換方法は食べた稚魚の細胞が知っていた。

エネルギーを使うと行く手の邪魔な小石を払い除ける事ができた。それまでは自身のアメーバ状の身体を、小石なら小石の形に合わせて変形させて進んできた。

意識は有っても自我の無かったそれ(、、)は、世界に沿うように生きることを当たり前の様に選択した。そうするしかなかったし、そうすることは特段難しい事では無かった。

けれど初めて小石を除けた時、相手に合わせて変形しなくても良いことをそれ(、、)は知った。

(自分を偽らなくて良いのだ)

それ(、、)は思った。世界に認められた気がした。それ(、、)に、自我と思考が芽生えた瞬間だった。

アンタークティカ・シルバーフィッシュは視力も与えてくれた。色覚を司(つかさど)る視覚オプシンが地球上の生命の中で最も多様な魚の眼を獲得したそれ(、、)は、生まれて初めて空を見た。

土壌に這いつくばって仰ぎ見る空は、碧(あお)く瑞々(みずみず)しかった。

霊長類よりも青型と緑型と紫外線型の視覚オプシンを多く持つ魚の眼には、空はあらゆるものの透き通った混合に見えた。誕生と崩壊が絶えず繰り返している様だった。


もう一度アンタークティカ・シルバーフィッシュを食べたいとそれ(、、)は思ったけれど、見つけ出せなかった。

それ(、、)が食べたアンタークティカ・シルバーフィッシュは水遊びをしたアデリーペンギンの体毛にくっついて陸に打ち揚げられたもので、たまたまの恩恵だった。

代わりに、氷じゃない黒い土壌に沢山いたナンキョクユスリカを食べた。

ナンキョクユスリカは、わかっているものの中で最も小さなゲノム配列を有す、南極に生息する唯一の昆虫だった。

ゲノムが小さいぶん能力も単純で、アンタークティカ・シルバーフィッシュを食べた時みたいな能力の向上は感じ得なかったけれど、とにかく数が豊富だったのと最大でも6mmと捕食に最適なサイズだったので食べまくった。

もうすでにアデリーペンギンには視認され異物だと認められるに十分なサイズになっていたけれど、鈍重な動きとアメーバ状の軟体のおかげで、それ(、、)は目下の脅威であるアデリーペンギン達に敵だとは認識されていなかった。

着々と、ナンキョクユスリカをくちゃくちゃと食い尽くしながら、それ(、、)は個体サイズを大きくしていった。


アデリーペンギン達は間抜けだった。

もう、彼らを捕食可能なまでにそれ(、、)は個体サイズを目の前で大きくしていったのに何も対処をしなかった。ただ、変なやつがいるなと傍観するばかりだった。

一匹のアデリーペンギンが興味を持ってそれ(、、)に近づいた時だった。それ(、、)はすぐにその一匹を捕食した。チャンスだと思った。数の多いアデリーペンギン達をあからさまに襲うと彼らはここからいなくなるだろうとそれ(、、)は思っていたから、群れを離れて近づいてくるのをじっと待っていた。

アデリーペンギンの興味を惹(ひ)きやすい様に、それ(、、)はアメーバ状の身体の色を鮮やかなアクアマリン色に変えていた。軟体の視覚器官を伸ばして探った氷の大地の下には所々に洞(うろ)があって、洞から見る氷は地表で見る色と違った。氷の大地に差し込んで透過した太陽の色だった。それ(、、)はその色をとても綺麗だと思った。

一匹のアデリーペンギンを捕食したそれ(、、)はアンタークティカ・シルバーフィッシュよりも美味を覚えた。愛らしい姿に反して、南極の極限で生きるアデリーペンギンの肉体はタフだった。多量のエネルギーが獲得できた。

アンタークティカ・シルバーフィッシュからはぼんやりとしか得られなかった聴覚も獲得した。感覚で感じていた通り、アデリーペンギン達はぴーぴーと鳴いていた。


遮蔽物の少ない南極で聞こえる音はクリアだった。

どこに何匹のアデリーペンギンがいるか、その距離は大体自分の身体のサイズの何倍分か、アデリーペンギンから獲得した聴覚とアンタークティカ・シルバーフィッシュから得た視覚を使って、それ(、、)は獲物を捕食するタイミングを計る様になった。

アデリーペンギンを食べれば食べるほど、遠くとの距離が縮まった。距離の縮小は、自身のサイズが大きくなったからだった。

どんどん捕食が簡単になっていった。ノルウェー王室を記念した海岸の間抜けなアデリーペンギン達は、自分達の全滅に最後まで気付かなかった。

アデリーペンギンを食い尽くしたそれ(、、)は、身体のサイズを一つの海岸と同じ位にまで巨大化させていた。

明らかな異物だった。けれどノルウェー王室の海岸を訪れる人間は第66次極地探検隊ら以降に未(いま)だ無かったから、異常なほどに膨れ上がったそれ(、、)が人間の眼に触れることはまだ無かった。アデリーペンギンの気を惹くために変態化したアクアマリン色の身体も、氷の大地に良く擬態した。


地球南緯40度線を境に、吠える40度、狂う50度、絶叫する60度などと言う強烈な名称が付けられた暴風が南極大陸をしばしば襲った。

それ(、、)にとって暴風は地表に出た時から当たり前の環境だった。加えてアメーバ状の身体は不凍タンパク質を有していたからあまり苦しみは無かった。

けれど、氷の大地が生んだ極高圧帯から吹き荒れる強く激しく冷たい南極の風は、自分を守ってくれる他者の絶無をそれ(、、)にひどく知らしめた。

それでも暴風が吹く時は、地上よりも温かな海水に逃げ込むとやり過ごす事ができた。

マイナス20℃だか40℃だかの地上に比べれば0℃以下にはならないから温かく感じる程度で、地球の羊水の中に比べれば極寒だったけれど、

(この水は味方かもしれない)

海はそれ(、、)にそう思わせた。海を海と呼ぶのだとはまだ知らなかった。

海の中は地上よりも栄養が豊富だった。アンタークティカ・シルバーフィッシュも沢山いたし、ヘモグロビンを持たないため血液が透明なコオリウオからは身体への酸素運搬の調整方法を学習した。

海の中は快適だった。巨大でアクアマリン色の身体を珍しがってか、食べ物は向こうから寄ってくるし、地上よりは温かく、暴風に孤独を知らしめられることも無かった。最初に食べたアンタークティカ・シルバーフィッシュから、すでに海の中での呼吸機能は獲得済みだった。


しかし、ある時に事件が起きた。暴風の音を聞こうとそれ(、、)が海面から聴覚器官だけを地上に出している時だった。

音だけを聞いていると暴風は賑(にぎ)やかだった。

その時に、暴風のものとは異なる奇怪な音が聞こえた。

その音は日本が所有する極地観測所、昭和基地から聞こえる音楽のメロディーだった。

日本人を中心に構成された第66次極地探検隊とニュージーランドの掘削会社アンドリルのメンバーが引き上げた後、日本の国立極地観測所はフランスから昭和基地の貸与使用を打診され、基地の燃料補給を行う事と追って同行者を日本から2名派遣し研究を共同で行う事を条件にこれを承諾した。

パリ第10大学のフランス人地質学者が昭和基地近くの地下を調査したいと申し出ての事だった。あるいはこのフランス人は、それ(、、)の存在にいち早く気付いていたのかもしれない。

フランス人学者が昭和基地に到着したのは12月24日だった。調査成果を共有したい日本からの邪魔者は、年明けを待って2週間後に合流する予定になっていた。2週間ぽっちでは何も得られないはず、日本サイドはそう考えていた。

探検調査の始まりと成果を祈念して、フランス人学者らはクリスマスを祝した簡素なパーティーを行った。

フランス人学者の他に助手が1名とコックが1名、母国から持ってきた正真正銘のシャンパン、つまりシャンパーニュ地方で作られたスパークリングワインで乾杯をした。

「音楽が必要だ」

フランス人学者がそう言って助手に音楽を催促した。

最新の携帯型スピーカーを持ってきていた助手はスマートフォンにダウンロードした音楽を流した。

スピーカーからは「サイレントナイト」が流れた。ジョン・フリーマン・ヤング英訳の公有バージョンだった。

クリスマスにはぴったりで、時折吹く暴風以外に音のない南極に良く似合っていると学者は思った。

「これ、元はドイツ語なんですよね」

助手がそう言った。

「そうなのか?聞いた事ないな」

コックがカセットコンロで豚の腸詰めを炙(あぶ)りながら言った。

「どっちにしろ、安らかに眠るにはもってこいだ。メリークリスマス」

学者はそう言って音楽を繰り返し再生するよう助手に命じた。

パーティーの前にすでに寝床を設(しつら)えていた3人は、主の恵みを受ける様に、シャンパンに満足した者から順番に横になった。

夜通し音楽が、風に上手く乗って南極大陸に流れた。

サイレントナイト、ホーリーナイト、サイレントナイト、ホーリーナイト。

静かな夜。聖なる夜。天の住人がハレルヤを歌うようだった。

何度も流れてくる音楽の、歌い出しの部分が気に入って、それ(、、)は真似て口ずさんでみた。

「ザイイレンンドナイドト、ボーオリイイーナイドト」

アデリーペンギンの声帯では上手く発音できず、単純で濁った高音が節を乗せて醜く響いた。それ(、、)が初めて発声した瞬間だった。


翌朝、7時間の十分な睡眠から目覚め基地周辺の探索を行ったフランス人学者は奇妙に思った。ぎゃーぎゃーと喧(やかま)しいくらいに居るはずのアデリーペンギンの姿が一匹も見えなかった。

それでも異常事態とは思わなかった。南極ではそういう事もあるのだろうと思い、そもそもアデリーペンギンに用は無かったから深く考えなかった。

海岸に近い海辺に、流氷とは異なるアクアマリン色の物体が浮かんでいた。

海に浮かんでいるのか海面から顔を出しているのか分からなかったけれど、確認できる限り結構な大きさだった。それでも、動きが無く色味も海と氷に馴染んでいたからか、脅威だとは思わなかった。

一度基地に戻りオペラグラスを手に取り、コックと共に朝食の準備をしていた助手を連れて海岸に戻ろうとしてコックに窘(たしな)められた。

「飯はきっちり食ってくれ。死にたいのか」

コックは強面でそう言った。

クリスマスの朝食はガスコンロでトーストしたライ麦パンと豚の腸詰めと分厚い豚の燻製とマッシュポテトとキャロットのグラッセとトマトビーンズだった。

普段朝食は摂らずコーヒー一杯だけで済ます学者は、見るだけで胃が少し締め付けられる感覚を覚えた。

クリスマスだとしても朝食にしては高カロリーなのは、極寒が体感以上にカロリーを奪うからで、1日に最低でも4000キロカロリーの摂取が必要な南極大陸では食事を管理するコックの存在は必要不可欠だった。

学者はコックの言う事に大人しく従って出された食事をすべて平らげ、オペラグラスを手に脇腹を押さえながら助手と共に海岸に向かった。


オペラグラスは必要なかった。アクアマリン色の物体は先ほどより岸に近付いていて、長手の棒でも有ればつついて感触くらいは確かめられそうだった。

アクアマリン色の物体は海面から顔を出している様子だった。物体の下の海が少し翳(かげ)っていて、物体の胴体が潜んでいる様に見えた。

けれど、意思のある生命には見えなかった。だから、フランス人学者も助手も油断した。

「なんだい、これは?」

「粘(ねん)菌(きん)の塊ですかね」

「君の見分には?」

「無いですね」

「私もだ。新種かな。いきなり大発見か、おい」

「幸先いいですね。新種発見だなんて、これだけでスポンサーは黙らせられそうだ。取り合えず少し、採取してみますか」

サバイバルナイフを抜いて、不用意に助手が近づいた瞬間だった。それ(、、)は一気呵(いっきか)成(せい)に助手をアクアマリン色の体内に取り込んだ。海中から飛び出した物体の胴体は、太陽が隠れるほどに巨大だった。

アクアマリン色のアメーバ状の透明な体内で助手の身体が細切れになって溶けていくのを学者は、先生と呼ばれるほど知能は高いはずなのに、アデリーペンギンと変わらない間抜けな立ち姿でただ傍観した。

何が起こっているのかわからなかったし、助手が細切れになったのは5秒にも満たない一瞬だった。

(助手が得体の知れない何かに食われている)

そう思考が完結する前に、学者もアクアマリン色の物体に食べられた。

学者は、一応は死を、そういう事もあるかもしれないと覚悟をして南極にやって来た。

けれどそれは、極限の状況下に迎えるもので、こんな大陸に到着したばかりの不意では無かったし、こんな得体の知れないものが相手でも無かった。

だから学者は、瞬間と言えど食われている助手を眺めながらただ間抜けに立ち尽くしてしまった。

青く澄み渡った南極の朝空の下で、人類の中でも上位の智慧(ちえ)を持った二人の死は、音も無く大陸の一現象に沈んだ。クリスマスの朝だった。


人間を食べたそれ(、、)は、得(え)も言われない美味を覚えた。魚類や鳥類とはまったく異なる味がした。

特に知識を蓄える脳という器官と味を感じる舌という器官が美味かった。それまでそれ(、、)は美味いという感覚はあっても味覚は持っていなかった。

魚類や鳥類という生物学的分類知識も、フランス人学者とその助手の脳を食べる事で獲得した。

学者も助手も通常の人間よりも信じられないくらい膨大な知識をその脳に有していた。70億を超え生息する人間の、たった二人を食べただけだったけれど、人類が累々と獲得してきた知識や知恵を得るのに、たった二人で十分だった。

それ(、、)はあらゆる事を理解した。

ここは南極という大陸だということ、そして地球という星の中で最も寒く過酷な土地だということ、他を摂り込む事は食事という行為だということ、この近くにコックというその食事の価値を押し上げるエキスパートがいること、自種の生存と成長のために他種を食べる事は間違いではないこと、昨夜に聞いた音は学者らが所属する人間という種が作り出した音楽というものであるということ、人間はこの星の頂点であること、昨夜聞いた音楽は「サイレントナイト」という題名の音曲なこと、サイレントとは静かなという意味であること、ナイトとは夜のこと、ホーリーとは聖なるということ、歌詞は主の誕生を祝福する言葉の列であること。

(今日を自らの誕生日にしよう。イエスキリストと一緒だ)

それらを以て、それ(、、)はそう思考し、決定した。初めての論理的意思を付与した決断に、それ(、、)はひどく興奮を覚えた。


昨夜のメロディーは思い出すまでも無く、食べた学者の脳にも助手の脳にも鮮明に記憶されていた。記憶が新鮮だからだろうとそれ(、、)は思った。学者と助手の脳は、それ(、、)がなぜかと思うことすべてに答えをくれた。

それ(、、)は曲の歌詞を口ずさんだ。人間から獲得した声帯は驚くほど思った通りの音を発音できた。


「サイレントナイト、ホーリーナイト、サイレントナイト、ホーリーナイト」


歌を歌うと、とても気分が良かった。


その歌は、史上最悪なる害悪の産声だった。星を滅ぼす災厄の誕生を祝う暗黒なるバースデーソングだった。悪魔への福音だった。天使へのレクイエムだった。歌は南極大陸に怨々(おんおん)と谺(こだま)した。

けれど、自由自在な声帯の調節から放たれる歌声はとてもよく伸び綺麗に澄んでいて、南極大陸の空と氷の大地はひどく清澄(せいちょう)な、主の誕生を祝福する歌でひとときとふたとき包まれ満たされていた。

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