(2)化け物
その異変に気づいたときにはすでに時遅く、身体の変化に目をうたがった。
髪や爪は一夜にしてぼうぼうと伸びほうけ、雨水にあたるだけで皮膚はウロコ状の模様にひび割れ、指と指の間にはぷるぷるとした寒天質な水かきが。
『ヴぁぁーーーーーーーッ』
("俺は化け物じゃない!")
髪の毛をかきむしり伸び放題の爪で何度も何度も地表を引き裂いた。
爪は割れ、止めどなく流れる液体が指先をつたい、深く刻まれた溝へ鮮血がそそぎこまれた。
『…………』
("これは血? 血って何だ?")
痛い。爪も身体も。痛くてたまらない。
("痛い? 痛い、って何だ?")
やがて紅いこの液体を恍惚としてながめる。
それを愛でたのち香りを楽しむ。
滑りけをおびた指先に舌をそわせて、そのとろけるような舌触り、味を、心ゆくまで堪能。舌上を転がす。
至福が口中に満ち、あとを引く鉄味をおびたその味がたまらない。
ふと、甘い香りに誘われようにしてつっと下方に目をとめた。
吸い寄せられるようにしてうずくまり、鼻面を近づける。
猩々緋色に染まる溝を、くん、とひと嗅ぎすれば、それと同じ香りが口中に満ちている。
もっと、もっと欲しい。もっと。
本能的にもとめた。
土ごと手にとって口にふくもうとした瞬間。焼けつくような激しい咽の渇きに襲われ咽をかきむしる。
酸いものがこみあげ今しがた口にしたそれを吐き出した。
『ーーグハッ…………!?』
吐き出した黄水には赤いものがいりまじる。
それでもまだ吐きたりなくてもう一度吐く。
だが不快感はいっこうにきえず指先を咽に突き立てる。
ひたすら吐いて、吐いて、吐きまくった。
("俺は誰だ? 俺って何だ? ーーさ、く。そうだ、俺の名前だ")
土塊に指で【朔】と綴る。
("朔、なんだそれは?")
文字をためつすがめつして首をかしげる。
("……俺は人なのか? 人ではないのか? 俺はーーーー化け物なのか?")
人でなく仙でなし。世を震撼させるような妖怪ですらもない。
("では、何だ?")
『…………』
もういつ発狂するともしれない。
もしすべてを忘れ化け物になってしまったら一服もった奴らの思う壺。
俺をぞんざいに扱う奴らを喜ばせるだけだ。
死んでなんかやらない。
消えてなんかやらない。
化け物になんて絶対になってやらない。
力の限り生きてやる。
今日も明日も明後日も。天寿の限りを生きてやる。
生きて生きて生き抜いてやる。
朔は溝へ指先をひたし、呪詛をかけるがごとく軒下の柱という柱、床板や天板すべてに【朔】と刻んだ。
この怨み、晴らさずしてなるものかと。
そうしたある日のこと。
『…………?』
ふと、ヒタヒタと不規則な跫音がして手をとめる。目を細めた。
『ソナタ、人デハナイナ。ナゼコノヨウナ所ニオル』
そこに立っていたのは旅人らしき笠をかぶった老人。
わずかな手荷物と釣竿をたずさえ吟味するかのように朔を見下ろしていた。
『吾ノ名ハ伯陽。俗世ヲタチキッタ仙人デアル。吾トトモニ来ルカ?』
運がよかったとしかたとえようがない。
朔にとって仙籍を賜ることは願ってもなかった。
女仙の長、王母娘々がすまう玉山には異形の姿をした多くの怪が徘徊しているときく。
そこに朔がくわわったところでさして珍しくもなかった。
『ーーーーウゥーッーーーー』
行く、そう告げようとしてはじめて気がついた。
朔のなかで言葉が失われていたことに。
何度も腹に力をこめたが咽の奥がヒューと音をたてただけだった。
まるで獣の咆哮のよう。
それでも朔はあきらめずに丹田に力をこめ咽頭をふるわせる。
『ヨイ、ソノウチニ言葉ヲトリモドスハズダ。案ズルコトハナイ』
朔はこの時、この人に一生ついていくと決意した。
『ソナタ名ハ? アァ、告ゲラレヌノハ解ッテオル。読ミ書キハデキルカ?』
朔は小さく頷く。
足もとの砂利石にかろうじて覚えていた名を一文字綴った。
『朔、カ、良イ名ダ。ソナタ、モハヤ人にアラズ、ココニハイラレマイ。ユエニ今一度問ウ。吾ガ弟子トナリ、ココヲ去ルカ?』
伯陽の足にまとわりついた。
ここから連れ出してくれる人が現れた。
何があっても離れてはいけないこの場所を。
("絶対に逃しはしない。離すものか!")
言葉にならない咆哮をあげ朔は必死にしがみつく。
『行クノダナ? 分カッタ。ナラバ行クゾ、ツイテマイレ』
助かった。これで生きられる。
そう思うだけで目頭が熱くなった。
感謝を告げようにも言葉を失ない、喜びの表現のしかたまでも忘れてしまった。
ありがとう、のかわりに、クゥンと鼻を鳴らす。
立ち上がろうとすると膝がくずれ前のめりに倒れてしまった。
『…………』
長らく酷使することがなかった足はなえ、立つこともままならなかった。
軒下を這いつくばってばかりいたためだろう。
そんなことは今どうだっていい。
朔は髪を振り乱して四つん這いになって伯陽のあとを懸命に追う。
ーーーーふと、足を止めた。
『…………』
だが振り返ることまではしなかった。
振り返るほどの未練がそこにはなかったから。
一片の心残りすら抱くことなく朔は生家をあとにした。
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