醤油
たぬけ
醤油
目が覚めると、まだ薄暗い台所に居た。昨夜は確かに自分の部屋で布団に潜り込んで寝たはずなのに。夜中に寝ぼけて台所に来たのかしら?もう一度寝てみよう……。
再び目を覚ました。同じ景色が見える。さっきと同じ、台所の景色。でも、この景色はいつもと違う。確かに使い慣れた台所のはずであるが、何かが違う。今まで自分が見た事が無い角度から、台所を見ている様な気がするのだ。そう、もしかするとこの景色は、自分が「流し台の上に居る」から見える景色になるのではないか。自分の真横には、「酢の瓶」が「自分と等身大」で置いてあるのが見える。その向こうには蛇口、夕べの食事に使った山積みの洗っていない食器が、同じ高さで見える。何でそんな物がこんなに大きく見えるのだろう?頭でも打ったのかな?とりあえず顔を洗ったほうがいいかもしれない。しかしなぜだろう?さっきから体が動かない。声も出ない。声が出ない事が分かると、初めて不安になってきた。自分に何かが起こったようだ。
身動きの取れないまましばらくすると、恵美(エミ)が台所に入って来た。彼女は私のルームメイトで、同じ大学で勉強をしている。恵美はぼりぼり頭を掻きながら、私のほうへ来た。彼女は私を含めて「流し台の上」をしばらくの間じろじろと眺め回したが、何も云わずに蛇口をひねって夕べの食器を洗い始めた。その時、私は妙な事に気がついた。さっき恵美が私を見た時、まるで「物」を見るように私を見た様な気がしたのだ。いや、見たのではない、目に映った程度の視線を感じたのだ。恵美とけんかしたかしら?私を「物」扱いするほど、恵美の心が離れるような事をいつのまにか云ったのかしら?ちがう。何か、嫌われるよりもっともの悲しいような激しい孤独が私をとらえた。恵美は相変わらず食器を洗っている。何か話しかけてよ、恵美。
恵美は朝食の支度を始めているようだ。彼女の朝食はいつも白ご飯に納豆をかけたものだ。今朝もいつもと変わりなく、タイマーセットで炊けたばかりの白ご飯に納豆をかけていた。私の嫌いな納豆の臭いが、かすかに食卓から漂ってくる。その時、思いがけない事が起こった。椅子に座り込んで納豆を掻き回していた恵美は、ふと立ち上がったと思うと、私の居る流し台のほうへ近づいてきた。そして、相変わらず私の方を「物」を見るような目つきで見たかと思うと、私を持ち上げて、食卓のほうへ運んだのだ。どうした?何が起こるというのだ?私はまたたく間に「納豆の臭い」に包まれ、むせ返った。いや、実際むせ返ったのではなく、そういう気分になっただけなのだが。私は納豆の渦巻くどろ沼の上で上体を傾けられた。そしてその時、明らかに私の中から黒い液体……醤油が流れて出たのだ。ひとつの事実を確信した。私は醤油になったらしい。
自分が醤油になったと分かって数日後、偶然横に海苔の缶が置かれた。アルミで出来た銀色の缶である。そこで初めて醤油になってからの自分の姿を、湾曲した形ではあるが映し見る事が出来た。それは、私が醤油になる前の日、人間であった最後の夕暮れ時に、スーパーで買った醤油メーカー名が書いてある透明の瓶入り醤油だった。醤油の分量は八分目くらい入っている。恵美は醤油を使うのが好きらしい。一杯の茶碗に入った納豆ご飯に、ずいぶん私をかけた。もっと少しづつ使ってくれないと、困る様な気がした。
私はたいてい、恵美の毎朝の納豆と、一週間に四度程の彼女の夕食の調味料として使われた。私の分量が半分くらいになりかけた頃、来客があった。私が以前からあこがれていた同じ大学の先輩の剛(つよし)君だった。恵美と恋人だったのかしら?私は食卓で語り合う二人の間に置かれた。剛君は恵美と違って、あまり醤油は使わない様だ。醤油は嫌いでもいい。でも、私である醤油は使ってよ。
「あんまり醤油とか、かけすぎない方がいいんじゃないか?」
「だって好きなんだもん」
「ここのお惣菜の味付けって、もともとちょっと濃いだろ」
「剛君は薄味なの?」
「だいたい惣菜には下味がついてるもんじゃないか?そうだろ?」
「かけ醤油は別よ。」
「俺、醤油あんまり好きじゃないんだ。」
「ふーん」
「変?」
「うん。……だって醤油ってさ、おいしいのに」
私はうすうす感じていた。私の運命は、この醤油を使い切った時に終わりを迎えるらしい。自分の事というのは、何となく分かるものなのだ。だがせめて、一度でいいから剛君に私を味わってもらいたいと思った。それなのに、剛君は醤油が嫌いなのだ。
剛君に云われたからかどうかは分からないが、恵美は最近あまり私を使わなくなった。相変わらずの毎朝の納豆沼の悪臭には辟易するが、それでも一回の使用量がかなり減ったような気がする。その代わり、なんだか外食も多くなったようだ。剛君とデートだろうか?私はずっと残り三分の一くらいのまま、ここ数週間ひっそりとしている。このままでいけば、恵美に使い切られる事無く、剛君にもう一度逢えるかもしれない。何となく夢心地のような、穏やかな日々が続いた。
ところがある日、思いがけない事が起こった。地震が起こったのだ。私の居る台所は激しく揺れた。いろいろなものが落ちて壊れる音がした。私は遠い昔に聞いた事があるような、記憶の片隅にあったお祈りを思い出して必死に唱えた。棚の上から何種類もの調味料の瓶が一度に落ちて、私にぶつかった。遠くで恵美の叫び声が聞こえ、隣に置いてあったサラダ油の瓶が私に向かって倒れてきた頃、私も意識を失った。
朝も夜も分からない、混沌とした時間が流れた。ずいぶん長い間、何も動かず、誰も来なかった。どうしたんだろう?核戦争でも起こったのだろうか?恵美は死んでしまったのか?誰でもいい、来て欲しい。私はこのままこの静まり返った世界の中で、誰にも知られず、誰にも使われる事なしに、腐って消えていくのか?納豆でもいい、なんでもいいから、私は最後まで賞味される醤油として、この自分の存在をまっとうしたい。私の体を、少しづつ塵が包み込み始めていた。
久しぶりに人間を見た。ある日、知らない人間ばかりが数人、部屋を片づけに来たのだ。いろんな物がごみ袋に捨てられていった。私を倒したサラダ油も、どこかに持ち去られた。流し台を片づけていた中年女性の一人が私をつまみ上げ、じっと見た。捨てないで。私は倒れたけれど、まだ少し残っているのよ。賞味期限はまだあと半年はある。これが私のすべてなの。女性は私の蓋を開けてふんと匂いを嗅いだ後、手拭いを出して私を拭いた。どうやら救われたらしい。
私は小さな宴会場に居た。皆でご馳走を食べている。大きな片づけが終わったあとの打ち上げでもしているのだろう。目の前には透明のボールに入った海老が飛び跳ねていた。どうやら海老のおどりに使われるようだ。彼らの残り少ない生命は、この私と同じらしい。私も生きているのよ。海老に語りかける。いろいろなところに注がれて、私もいよいよ最後の時が来たみたいだ。テーブルの端から誰かがやって来て私をつまみ上げ、自分の席に持って来た。懐かしい感触がこみ上げ、見上げてみると、剛君だった。しばらく見ないうちに、髪とひげが少し伸びたみたい。なんだか妙に男臭さを感じて、ときめいてしまう。彼は私自身をしばらくの間見つめると、最後の私を自分の小皿にたらした。あぁ、剛君。私は何度も叫び、感動にむせび泣いた。醤油としての最高の終末。海老のおどりの刺し身醤油になるなんて。しかも剛君が賞味するとは。彼はボールから海老をつまみあげ、殻を剥いた。断末魔の叫び声を上げて、海老は踊り狂った。最後の私はまだ生きている海老の肢体にからみつき、剛君の口の中に入った。あぁ、最上の幸福!
完結
醤油 たぬけ @tanuke
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