コーヒーを、飲み終わる時に

@supernarcy

コーヒーを、飲み終わる時に

時間が巻き戻るんだ。


彼は目を見開きながら僕だけに聞こえる声で訴える。彼はたまに訳のわからないことを口走る。典型的な変わったやつだ。普通の人からしたら付き合いにくい奴だろう。僕は彼のそんなところが気に入っていたりする。


 どうして?こうして僕らはふつうにすごしてるじゃないか。


僕らは学校帰りに夕暮れ時の駅前にあるカフェで一人百円のコーヒーだけで一時間たむろしていた。特に話すこともないのに毎日百円で何時間も居座っている。田舎のカフェはこういった客にも寛容だ。


 よく見ろよ、まず一つに店の時計が4時に戻っているんだ。


僕らが学校を終えてカフェに来たのが四時頃だった。それから一時間は経過している。


 たしかに、でもあの時計が止まっているだけじゃないか?それを言うなら時間が巻き戻っているというより止まってるのほうが正しいよ。


彼は口角を上げて少し嘲笑うかのように、まだ真実の見えてないワトソンを諭すホームズ気取りで僕に囁く。


 まわりをよく見てみろよ。あそこのサラリーマンとあそこのパソコンを開いてる男も本を読んでいる女も俺たちが来たときの状態に戻っているんだ。


カフェの店内にはまばらに客が座っている。僕たちから離れたカウンター席に仕事帰りのサラリーマンが一人。窓際の僕らの席の真向かいにある壁際のテーブルにこちらに背を向けて座るパソコンをいじる男。その隣の隣にはコーヒーとケーキを注文し本を読んでいる女性がいた。たしかに来たときと客の並びは同じようにも見える。


 たしかに来たときのままだけれど、カフェの一時間なんてあっというまじゃないか。みんなただ居座っているだけさ。


常識人のワトソンはホームズの突飛な推理に反論をする。けれどホームズの自信は揺るがなかった。


 俺らが来てから新しく客が入ってきたの覚えてるか?


僕らの席は入口近くの窓際の席だった。ドアの開く鐘の音もよく聞こえた。


 さっき、一人入ってきたな。顔はよく見なかったけど若めの男だったな。


店内は厨房を囲うようにL字型になっており店の奥に行くには僕らの脇を通りカウンターにそってL字に曲がっていく必要がある。


 そう、そいつだ。ここからは見えないけど店の奥の席に座りに行ったはずなんだ。でもさっきトイレに行ったときに店の奥まで行ったけれど誰もいなかった。店に出入りはあったけれど奴は出てないから消えたんだよ、奴は。正確には時間が戻されたから来る前の場所に飛ばされたか。


馬鹿らしい想像だ。と思うだろう。でも僕は彼のこういう発想力にいつも惹かれる。前は町中で宇宙人を見たという話も聞いた。毎回突拍子もない発言と発想だが彼なりの根拠はある。僕は彼の人間観察能力の高さに毎回舌を巻くことになるので今回も付き合うことにした。


 トイレにもいなかったのか?店の中に裏口とかもないだろう。


 いなかったさ。もちろんやつが実は女かただの変態で女子トイレに隠れてるんだとしたら俺にも見つけられないけどな。


それは笑えるな、と彼は鼻で笑った。他にも、と彼は大発見を語る小学生かあるいはアメリカの先住民をインディアンと命名した冒険家かのように自信満々で続ける。


 あそこの女の人のケーキもコーヒーも減ってない。さっきから本も読んでるけれどページを逆向きに捲るんだ。今はもうきっとほとんど冒頭部分まで戻ってるぜ。


僕も言われて視線だけで女性を見る。確かに彼の言うとおり女性はケーキにもコーヒーにも手を付けていないようだった。


 それにあのパソコンを使ってる男、あいつ一回店を出たのにまた戻ってあそこに居座ってるんだ。短時間に2回も来店してるんだぜ。注文も聞いたら全くさっきとおんなじなんだよ。サンドウィッチにコーヒーだ。時間が巻き戻ったか、相当気に入ってしまったかのどっちかだよ!


その選択肢で前者を選ぶのはきっと彼だけに違いない。僕みたいな普通の人は勝手にもっともらしい理由をつけてそこにある真実を知った気になるだけだ。僕らに背を向けていて何を頼んでいるのかは見えないが彼が言うなら恐らくそれは事実なのだろう。確かに僕らが店に来てから一時間はたっているがその間にすぐ戻ってくるのは不自然だ。


 カウンター席のサラリーマンはなにかあるのかい?


僕は興味津々だった。彼の話を聞いていると普段気にも留めない出来事が神秘的なミステリーに変わる。


 サラリーマンは注文をしていないんだ。メニューを何回も開いては閉じるを繰り返してるんだよ。これはもう時間が巻き戻って繰り返されてるだよ!


彼はどうだと言わんばかりに目を輝かせた。時間が巻き戻っている、もしくは繰り返されているというような事象がこのカフェの中に溢れていた。まさか本当に時間が巻き戻って繰り返されているのかもしれないとこの閉ざされた空間の中で僕は感じた。

けれど僕たちのコーヒーカップは冷めきって、彼のカップにコーヒーはもはや残っていなかった。


 本当に時間が巻き戻っているのか?少し大袈裟な気がするけどな。僕らの時間だけは正常に流れてるっていうわけかい。


僕は彼の言い分を反駁したいわけではないが、純粋に時間が巻き戻っている理由を知りたかった。


 そうだな、俺らはきっと狭間にいるんだ。周りはさっきと少し先を行ったり来たりている。今を生きているのはどうやら俺ら二人だけなのかもしれないぜ?ちょっと待ってろ、確かめてくる。


彼はまるでタイムリープか何かの専門家のように自身有りげな顔で立ち上がり僕が止めるまもなく本を読む女性に大股に近づいていく。彼の大胆すぎる行動に唖然としながらも僕も慌てて立ち上がった。


 ちょっと待て、何する気だい?確かめるっていうのはどういうことなんだ。


彼は僕の言葉に足を止めることもなくついに女性の席に行ってしまった。僕は恥ずかしさと戸惑いで彼と知り合いだと思われたくなかった。一度席に座り直し彼の言動を離れて見守ることにした。

少しなにか話しかけたあと彼は女性と会話のキャッチボールを交わしゆっくりと戻ってきた。女性は少しこちらを見たが何もなかったかのようにまた本に目を落とし読書を始めた。

 

 どうだったんだ?なにかわかったのかい?


僕は彼の大胆な行動を咎めるよりも好奇心が勝ってしまった。しかし、不思議なことが起こった。意気揚々と出かけた彼に期待を寄せたが帰って来た答えは


 なにって、なにがだ?


というこちらが戸惑うような答えだった。


 どうしたんだい?やっぱり時間は巻き戻ってなかったのか?


彼が何を話したのか検討もつかないが彼の自信は失われていたなかった。


 何言ってんだよ、さっきから言ってるだろう。時間が巻き戻っているんだって。あそこの女の人もパソコンの男もサラリーマンも時間を繰り返してるんだ。


彼は理解の進まない小学生を助ける算数の担任のように語る。彼の主張はどうやら崩れていないようだった。


 時間が巻き戻っているならさっきのあそこの女性との会話で何が分かったんだい?


僕は謎の解明に躍起になる探偵助手そのものだった。


 それが話が通じなかった。俺の言ってることも向こうの言ってることも通じ合えなかった。まるで巻き戻しのテープみたいに何も聞き取れなかったよ。


彼は不思議なことを口走る。彼の突飛な発言はいつものことだが彼自身も本当に何も理解できていないようだった。


 本当に?僕たちのいるこの場所だけ時間の歪みでも生まれてしまったのかい?


彼はそうとしか考えられない、とこの現象を心から楽しんでいた。時間の巻き戻る経験は初めてだとかなんとか彼はもう完全にそう信じ切っていた。時間の巻戻り、時間の歪み。確かにそれが本当ならすべての不可解な現象が説明できてしまう。彼はもうこの謎の答えを見つけたことに満足しそれじゃぁそろそろ、ともう何も入っていないはずのコーヒーカップを飲み干すようにもう一度傾けた。


 ちょっと待ってくれ、僕はまだ腑に落ちてないんだ。もう少し観察しようよ。また新しい発見があるかもしれないし。


彼は帰りたそうだが僕の新しい発見という言葉に惹かれたのか、お前は変わってるなと言いながら席に深く座り直した。彼にだけは言われたくないが。


 もう一度整理しよう。時間の巻戻り、あるいは時間の流れが普通と違うところはまず、


僕は生徒を見る担任気取りの彼の前で復習をするように一つずつ確認した。

まずは店の時計。僕らが来た頃の時間に戻っている。正確には動いているのは確認していないから止まっているだけかもしれない。これはあり得る話だ。たまたま店の時計の電池が切れて時計が止まっている。本当は今の時間はもう5時を過ぎているのかもしれない。

次に、消えた来店者。彼いわく店の奥の席の客が消えていた。ここからは見えないが店の奥にはテーブル席が2つあるはずで店の奥に座るならそのどちらかである。あとはトイレがあるだけで客が消えてしまいそうなところはない。男子トイレは彼が確認したらしいので可能性は女子トイレか?でも確かに僕が見た最後に入ってきた客は男の客で店の中の女性はもともといた読書をしているテーブルのあの人だけだ。

あの女性は小説を右から左に捲る。まるで巻き戻るかのように。そしてコーヒーとケーキは手がつけられていなかった。

さらに短時間に再び来店したパソコンの男。メニューを何度も開く注文しないサラリーマン。


 こんな感じか。理屈をつけて説明できてしまうものもあるけれど不可解な点が多いね。君はこの店の客を見ていて時間が巻き戻っている他に何か気づいたことはないのかい?


僕は彼の人間観察能力の高さだけは信頼している。何か違和感があれば彼は見落とすはずがない。彼が違和感を感じていればだけれど。その点において彼の変人ぷりには信頼がない。


 気づいたことかぁ。気づいたことといえば時間が巻き戻っているのはこのカフェだけだな。


彼は当たり前のように言い切った。どうして?と一応義務を感じて聞いてみる。


 だってほら窓の外見ろよ。通行人はみんな前に向かって歩いてるだろ。時間が巻き戻っているならみんながみんなムーンウォークしてるはずだぜ。


それは笑えるなと彼は自分の想像に一人でしばらく笑っていた。確かに不可解な点はこの店のみだ。外の明るさから時間は分からないが時間は普通に進んでいる気がする。じゃぁどうしてこのカフェは時間が歪んでいるのだろうか。僕も不出来な頭と貧相な発想力をつかって思考を巡らせる。彼は新しい発見もないらしく完全に飽きていた。空っぽのカップのコーヒーの残り香を楽しんでいる。

僕はモヤモヤとした気持ちを抱えながらそろそろ帰るかと椅子を少し引いた。

そのとき急に不思議な時間は終わりを迎えた。


ガシャーン。厨房の方から大きな音が聞こえた。何かを盛大に落とした音。食器だろうか。続けざまに失礼しましたぁと店員らしき聞き慣れない人物の声が聞こえた。

その音が時間の壁を突き破ったかのように停滞していた時間が動き出した。何度もメニューを開いては閉じていたサラリーマンは立ち上がり店のドアから外へ消えた。通りを出て向かいの駅前の飲食街の明かりに消えていく。

次にパソコンの男は店員から袋を受け取り同じように店を出たあと駅の改札口へ消えていく。

そして入れ替わるかのように背の高い金髪の青い瞳をした外国人男性が入ってきた。店内を見渡し、奥の席に目を留めるとはや歩きで読書をする女性のもとへと進んでいく。どうやら知り合いらしい。女性の席につくと外国人男性は英語で何かを喋りその後に店員を呼んで注文をしようとする。気が付かなかったが女性が話しているのもどうやら日本語ではなかった。


流れ始めた時間に僕らも逆らわず、帰るかといつもの通りじゃんけんで会計係を決めたあと、勝った彼の分も僕が百円玉2枚をテーブルの上に起き顔見知りのマスターに挨拶をした。


時間が巻き戻るカフェ。彼はもうこのことを完全に受け入れていたからその日以降特に話をすることはなかった。

僕は時間が動き出したあと、客たちの行動から自分なりの答えを探した。きっとサラリーマンは飲食街で飲み屋が空くのを待っていだけなのかもしれない。注文をするか迷ってしなかったのはこのあと何かを食べる予定があったからか。何も注文しないで帰れるのは田舎でもこのマスターの店だけだろう。僕らが百円で居座るのも何も言われない。

パソコンの男はカフェで一度食事をしたあとまた戻ってきた。帰りに袋を渡されていたからなにかテイクアウトするために戻ってきたのかもしれない。同じメニューを2回も頼んでいたのは誰かに買って帰るのか、それとも自炊を面倒くさがったのだろうか。

読書の女性はきっと待ち合わせだ。気づかなかったけれど彼女も日本人ではないのかもしれない。彼が何を言っていたのか分からなかったのは単に英語が聞き取れなかったのだろう。きっと彼には日本語以外はテープの巻き戻しと同じなのだ。読んでいた本は英文だろうか。縦書き小説ではなかったのかもしれない。あるいはなかなか来ない男性に待ち疲れて読み終わった小説をページを戻りながら見ていたのだろうか。遅れて謝る男性のためのケーキと冷めてしまったコーヒー。

消えた男性はカフェの新しいバイトかもしれない。見慣れなかったのは新人で客ではなくバイトだからトイレの脇にある従業員スペースに消えてしまったのだろう。しかし彼はあの日以来カフェで見ることはなかった。失敗が続いて嫌になってしまったのだろうか。


時間が巻き戻る理由を僕は勝手に想像した。理屈を通しながら必死に推理する。ホームズよりもワトソンのほうが絶対頭は使っているだろう。僕たちのような普通の人間は彼みたいに時間の巻き戻りですべてを理由付けてしまうことはできない。様々な現象にそれぞれもっともらしい理由をつけて納得しようとするのだ。

時間の巻き戻りだけですべて解決してしまうホームズを僕は心から尊敬していた。きっと彼はいつだって正しいのだ。

理屈をこねる僕が正しく見えるのはそれこそ虚構に惑わされているのかもしれない。

昨日と明日の狭間の、今を生きているのがきっと彼なんだ。


僕が時間の巻戻りをあのカフェで体験したのはこれが最後だった。それ以来時間が巻き戻ることも止まることもなかった。停滞することのない時間は僕らを常に押し続けた。


百円2枚を、財布から取り出し、机においた僕の手の先。じゃんけんに勝って上機嫌で出ていった彼の席には一口だけ残されたコーヒーカップが置かれていた。


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