☆20 デートには神剣を携えて


 それは、6月のはじめ。




 部活に向かう前に済まさなければならなかった、教室の掃除当番。行程をつつがなく終えた私が、膨らんだゴミ袋を片手にぶら下げ焼却場に向かっていた時のことだった。曇り空はそろそろ梅雨前線が近づいている予感をさせ、分厚い雲に覆われた太陽を仰いでいると。


 その瞬きの一瞬。なんだか近くに誰かの気配がした。


 視線を空から下ろし、はてさて何者かとそちらを見た私は目を見張った。




 5、6メートルほど先だろうか。


 ボロボロの着物をはだけさせ、痩せた上裸を見せつけるようにポージングをしている裸遊婆という春画の妖怪が、私の前でにっかり笑顔を浮かべていた。今年、3匹目のご登場である。




 霊感のある目撃者の精神を痛めつけるので110番が相次ぎ、我が家に駆除の依頼が警察から届いていた、あの妖怪である。このアヤカシ、嫌なことに見える人間の前にやたらと出没したがるのだ。




 ……私は、深呼吸をした。


 1、動揺しかけた心を落ち着け、用意してあったお札を取り出す。裸遊婆はまだ笑顔でアピールをしている。


 2、じりじり、と少しずつ近づいていく。裸遊婆は戸惑ったようにしている。


 3、全力ダッシュを開始。慌てふためいた裸遊婆は逃走した。




 後は、ひたすら走って裸遊婆を追い詰め、札を叩きつけるだけである。普段は簡単に捕まるのだが、今日の裸遊婆はかなりしぶとかった。私と妖怪が走っている最中、茶髪の男子生徒が驚いたように振り返ったが、霊感がそれなりに無けりゃ視認できやしないだろう。


 15分ほどの追いかけっこでようやく中に封じることができたお札を掴み、……ずっと握ったままだったゴミ袋を地面に転がして息を落ち着けていると、上方から愉快そうな声色が聞こえてきた。






「――もう裸遊婆の季節も終わりますね」


 東雲先輩がくつくつ、と笑いを堪えて2階の窓から手を振っていた。

 意表を突かれて私がびっくりしていると、彼は続けてこう言った。


「ああ。今そちらに行きますから、ちょっと待っててください」


 何か、白波さん関連で用でもあるのだろうか。……あれ。今、この狐。白昼堂々と裸遊婆って言わなかったか?


 彼は、爽やかな笑みを浮かべて窓枠に片足をかけた。片手には厚いファイルを持っている。階段を使って校舎から裏庭に下りてくるつもりかと予想していた私は、その突発的行動に仰天した。


「え、ちょ。ちょっとまっ」

 ……ここは学校なんだけど、ちょっと!


 私が声にならない静止をしているのも構わず、金髪の男子生徒は至極ナチュラルに二階の窓から外界に飛び下りた。さながら軽業師のようで、前より少し伸びた髪が風圧に舞った。

 ムダのない身のこなしで地面にとん、と着地した彼は、こちらを見やり口端を釣り上げる。地べたは固いアスファルトだというのに、その衝撃すら受け流したらしい。

幻覚だろうか、彼の足もとから火の粉が舞い散ったように見えた。


 私が口をパクパクさせていると、彼は肩を竦めた。


「そこまで、驚かなくってもいいじゃないですか」

 いやいや、いやいや!

 ぶんぶん、首を振って否定すると、笑われた。


「月之宮さんがあんまり白昼堂々と裸遊婆を追いかけているものですから、もう正体を隠しているのもバカらしくなりまして」


 そこは隠しててよ!? 思わず絶句していると、東雲先輩はさらりと言う。


「頂いたクッキーのお礼がしたくて、ずっと話す機会を探してたんですよ」

 ……クッキー?


その単語に、私はしばらく考える。そうして、ようやくロシアンルーレットクッキーをこの狐に渡したことを思い出した。


「……ああ、このお札は焼かなければいけないんでしたっけ」


 あの劇物クッキーを本当に食べてしまったらしい彼の様子に、ざあっと顔色が悪くなり私が戦慄していると。

その右手に握られたクシャクシャのお札に気が付き、東雲先輩は私の指先からもぎ取った。彼は、利き手で裸遊婆を封じた和紙をつまみ――物体は空中に放る。

 チリチリと、宙に舞う紙の端が茶色く変わっていく。

 そうして、私の瞳は、透明なブルーの狐火がゆらり、お札を包み込んで燃やしていく様を映した。銀のつむじ風が、キラキラと光りをまとわせる。


 ……思わずほうっと息をついてしまって。立場も忘れ、自分がその焔の美しさに魅入られたことを後から知った。


「月之宮さん、綺麗でしょう?」

「…………はい」


 彼の言葉に、私は呆然と頷く。


「こんな美しいものを見せてあげた優しい僕と、君は是非今週末にデートをしたくなったはずです」


「はい!?」


 いきなり訳のわからない発言をした狐に、私が叫ぶと。彼は満面の笑顔を浮かべた。


「今週の土曜日、この学校の校門に10時に待ち合わせです。……先輩との約束を破るなんてこと、できるはずないですよね? 月之宮さん」


 そう言い残して、めずらしく楽しそうに去っていく東雲先輩の背中を見て、私はようやくその思惑に気づいた。

……奴は、魔クッキーのお礼参りをするつもりに違いない。






 逃げ出すわけにもいくまい。

 東雲椿が、ああも優美に二階から飛び降りたところから考えるに、その身体能力は私の想定以上であると考えた方がいい。ノータイムで妖術を放つ技量も含めれば、真向勝負をすれば確実にあの悪夢と同じ敗北が待っているのだろう。

 ……だが、冷静になってみれば。……あの呼び出しを無視して背後から奇襲を受ける可能性だってゼロじゃないじゃないか。抵抗もできずにむざむざ殺められる自分の姿を思い浮かべ、私はぶるり、と身震いした。

 命乞いをすれば助かるのだろうか。戦った方が生存率は上がるだろうか。

 そもそも、私はちゃんとあのクッキーは不味いって伝えたのに、持っていったのは狐じゃないか。白波さんのことも、ちゃんと機嫌とってんじゃん!


 ……じゃあ本当に、東雲先輩が私をデートに誘ったっての? 狐と、月之宮が、デートを!?

 待ち合わせ前夜、混乱の極地に達した私は、クローゼットの中で絶望してしまった。

 ちら。太もも見せれば機嫌とれるかしら。

 いや、あの狐、あのきゃわいいキャロル先輩に無反応だったぞ。ミニスカで喜ぶほどちょろくない。

 ……もう、全部に対応できる恰好で行くしかない。私服っぽい戦闘に耐えうる服を吟味して、顔色を窺うしかあるまい。……許してもらえそうだったら、潔く土下座!ダメだったら、徹底抗戦だ。


 とりあえず、神剣、野分の持ち出し許可を警察に電話で申請しておこう。





 土曜日、

 散々悩んだ挙句、お出かけの服装が決まったのは今朝だった。

 クラシカルな雰囲気の藍色ノースリーブワンピースに黒いシンプルなブラウスだ。

たとえ戦闘となった場合、事後に出血しても目立たない色調で統一してみた。このワンピはフランスで生地から仕立てたものなので、地味になりすぎないし体型に合わせてあるので動きやすい。

タイツはかなりこだわって、某国で開発された特殊繊維で編み上げれたものを選んだ。筋肉の動きをサポートし、恐ろしく破れにくいこのタイツは軍事研究の一環として秘密裏に試作されたもので、それを父が私の為にまとめて買い上げたのだ。原価に札束が必要になるので一般にはまだ流通されていない。


ネックレスは喉を絞めないようにあえて付けず、化粧はしない。崩れても困るからだ。

 それにベージュのトレンチジャケットを羽織ると、私は野分を入れたスポーツバッグを肩にかけた。この神剣、そこまで長い代物じゃあないので、ちょこっと柄の先がジッパーからはみ出る程度である。

一応警察から許可されているとはいえ、人目を気にしてはみ出た部分に白いマスキングテープをぐるぐる巻いてみた。……余計、怪しくなったよーな気がしなくもない。


 そうして、履きなれた革靴を身に着けて待ち合わせ場所の校門にやって来た私を見て、東雲椿は何とも言えない表情をした。


「……おはようございます。東雲先輩」


 臨戦態勢でそう挨拶をした私に、彼は遠い目をして言った。


「……月之宮さん、とりあえずその重そうな荷物は僕が預かりましょうか」

 私は狐にとられてなるものかと、スポーツバッグをきつく抱えた。


「結構です」

 ぴしゃりと言った私に、東雲先輩は片手で眉間を押さえた。


 今日の彼の恰好は、ブルーストライプのワイシャツと薄手のVネックセーター。ブラックのチノパンに鮮やかな青いジャケットという出で立ちだった。瞳のカラーに合わせたのだろう。


「君にそこまで武装されると、地味に腹立たしくなってくるんですよねえ」


「ええ!?」


 かなり苛立ったような狐の口調に私は叫んだ。


「月之宮さんが怯えるのは分かりますが、ねえ?

僕の忍耐もこの頃、あの駄天狗を見ていると限界に達しつつありまして。自分が仕向けたこととはいえ、ここまで扱いの差がありますと……」


 今日の狐はいつになく鬱々としている。


「……いっそ、まとめてぶち殺したくなりますねえ」

「どうぞ、好きなだけお持ちください」


 虚ろな目に殺意が浮かび始めた男に、私は反射的に神剣入りスポーツバッグを手渡した。うっかり手放した後に、自分の最後のよすがを失ったことに泣きたくなった。

 さっそく生かすも殺すも狐次第になった私に、はあ、とため息をついて東雲先輩はスポーツバッグを左肩に引っ掛けた。

 どうして左なのか、と思えば彼は右手にビニール袋をぶら下げていた。


「……どうして、私を休日に呼び出したんですか。東雲先輩」

 私の問いかけに、彼は応えた。


「だから、デートですよ」


 全然、答えになっちゃいない。私は、駅の方へ歩き始めた東雲先輩の背中を追いかける。


「……あの、クッキーの件は本当にすみませんでした」

 だから命だけは助けてください。そう続けようとした私に彼は言った。


「月之宮さん、僕は別に怒ってやいませんよ。あのクッキーが凄まじい味がすることぐらい、はじめから知っていたことですから……むしろ、なんだか懐かしくて嬉しかったですねえ」


 あれが懐かしい?

首を捻りながらも、私は東雲先輩に一番聞きたかったことを尋ねた。


「あの! 今日は私たち、どこに行くんですか」

 彼は、足を止めた。私の方へと振り返って口端を上げる。




「僕の昔馴染みに、君と会いに行こうと思いまして」




 私は、その言葉を聞いて逃げ出したくなった。




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